95章 思い馳せ
「見張りの位置は調べてあるのか?」
「印が付いているだろ。それが見張りの位置だ、頭に入れてくれ」
レイルズが丸めた羊皮紙を差し出し、ネイはそれを受け取ると手許で丁寧に広げた。
広げた羊皮紙には無数の『×印』が付いている。ネイはそれを確認すると一度頷き、首を伸ばして眼下の様子を窺った。
二人は古塔が見渡される崖の上、木々の間に身を潜めていた。
塔周辺の地理が描かれている羊皮紙と、実際に視界に広がる光景を丹念に見比べる。
「塔を目にするのは初めてか?」
レイルズが訊くと、ネイは羊皮紙に視線を落としたまま首を振った。
「この街に来て、遠巻きにだが様子を窺った」
「なかなかの代物だったろ?」
「なにせ塔だからな、侵入経路が少なくて苦労しそうだった」
「それは私に任せてくれていい。――問題は脱出だ。投獄された人間が、逃げ出す体力が残っているかどうか……」
二人は揃って塔へと視線を向けた。
土色の塔、帝国兵特有の黒塗りの装備、その二つの組み合わせが、砂造りの巣に群がる蟻を連想させた。
「ネイ、ちょっといいか」
遅い昼食を終えた後、ルートリッジがネイを部屋から連れ出す。
娼婦館内は外界と時間が逆になる。陽の光は暗幕により遮られ、娘たちも夜へ向けて休みを取っていた。
暗幕の隙間から覗く光の世界との差異は、館内の時間だけを置き去りにしたような寂しさを感じさせた。
昼間に使われることのない適当な部屋を見つけ、ルートリッジがネイを手招きする。
「ネイ、あのエマという女は何者だ」
部屋に足を踏み入れるなり問いただすが、ネイはその質問が耳に入らなかったのように室内を見回していた。
目に映える紅いサテンの垂れ幕、まるで宮殿を思わせるような大きなベッド、夜間に焚かれていた香の名残が鼻をくすぐる。
ネイは悪趣味とまで言える派手なクッションを手に取り顔をしかめると、それを放り投げてベッドの端に腰を下ろした。
「おい、聞いているのか」
ベッドの柔らかさを確認するように、身体を上下に揺らしているネイにルートリッジが業を煮やす。
「ああ、聞いてるよ」
「だったら質問に答えろ」
ネイは低く唸ると、返答に困ったように頭を掻いた。
「何者って訊かれてもな……。本人も言ってたろ、この娼婦館の主人さ」
ネイが下から覗き込むように見ると、ルートリッジは腕を組んで見下ろすように顎先を上げた。
「ただの娼婦館の主人なら、おまえが簡単にこの街に来た目的を話すとは思えないな。ましてや協力し合うなどと」
ネイがはぐらかすように肩をすくめる。
「ルー、あの女が何者なのかはどうだって良いことなんだよ。大事なのは役に立つかどうかだ」
「役に立つ、か……」
ルートリッジが鼻白んだように呟くと、ネイが頭を上下に揺らす。
「特にあの白髪男――レイルズってヤツは使える」
そう言ったネイに、ルートリッジはうな垂れ短い吐息を漏らした。
「隠し事をされているようで気に入らんが、仕方がないな。おまえがそこまで言うのだから、あの二人はラビを救い出すのに必要なんだろうよ」
かぶりを振るルートリッジに、ネイが笑みを浮べて小さく頷く。
「ところで、あいつはどれくらい文字を書けるようになった?」
「ルーナのことか?」
ネイが首を縦に振ると、ルートリッジは顎に手を当て黙り込んだ。
「どうした? 何か問題があったのか?」
「問題というかな、今だ文字は一つしか書けんぞ」
「どういうことだよ?」
ネイが眉をひそめると、ルートリッジはすぐには答えずにネイの隣に腰を下ろした。
何かを考えるように十分な間を置き、静かに口を開く。
「ネイよ、なぜルーナに文字を教えたいんだ?」
「今さら何を言ってるんだよ。文字が書ければ意思の疎通を図れるだろ」
「意志の疎通、か……」
ルートリッジがタメ息を漏らす。
「ネイ、私は古い書物を手に入れたとき、まず目を閉じて表紙にそっと指を這わせる。そうして充分に肌触りを感じたら、今度は手に取って顔を近づけ匂いを嗅ぐ」
身振り手振りを交えて語るルートリッジに、ネイは首を捻った。なぜそんな話を始めたのかが分からない。
「一種の儀式のようなものだが、なぜそんなことをすると思う?」
「そんなこと分かるわけないだろ」
ネイの返答にルートリッジが静かに笑った。
「手触り、香り、その一つひとつから歴史を感じ取り、記した者の姿を夢想するためだ」
「一体何の話をしているんだ?」
口を挟んだネイを手で制し、ルートリッジは淡々と言葉を続けた。
「夢想し、思いを馳せるんだよ。その書物を記した者の意志を、想いを、ほんの少しでも多く感じ取りたいからさ。――おまえの言う、意志の疎通というやつを図りたいんだ」
ルートリッジがネイを見つめる。ごまかすことを許さぬ濁りのない眼差しだった。
「ネイ、おまえはルーナと意志の疎通を図りたいのか? それとも、自分に役立つ情報を引き出したいだけなのか?」
静かで、それでいて鋭く突き刺すような問いにネイは言葉を詰まらせた。
「意志の疎通を図りたいのなら、まずはその相手に思いを馳せろ。そうでなければどんな言葉も、文字も、それは無意味なものだ」
「なにを……」
反論しようとするが、言葉が続かない。
「文字を書かせたいのは、おまえだけの都合だろう?」
「……」
「意志を伝えるのは言葉だけではないし、文字だけでもないぞ。まずはルーナ自身に気持ちを向けてやれ。その上で文字が必要だと感じたなら、そのときにおまえが自分で教えてやればいい」
ルートリッジは微笑んで見せると、ベッドからひょいっと飛び降りた。
「目だけで見ようとするな、耳だけで聞こうとするな。ルーナはおまえが思う以上に、おまえに何かを伝えようとしているかもしれんぞ」
そう言い残して部屋を出ていくルートリッジの背を、ネイは黙って見送った。
「何だっていうんだよ……」
一人取り残された部屋の中、頭を抱えるようにして呟くと、道化師の格好をした人形が不意に目に留まる。
微笑を浮かべたその顔は、『愚かなヤツだ』と嘲笑っているようだった。
部屋に戻ったルートリッジに、ビエリが小首を傾げた。
「ネイハ?」
まるで親猫とはぐれた子猫のような眼差しをルートリッジ向ける。
「ネイは違う部屋に残してきた。きっと今頃、不機嫌そうな顔をしているさ」
そう言って肩を揺らしながら白い歯を見せると、ビエリが批難の視線を向ける。
「ネイ、イジメタ?」
「ああ、少しな。あいつが馬鹿だからだ」
笑いながら言ったルートリッジを、ビエリは唇をすぼめながら恨めしげに見やった。
「ネイ、バカチガウ。ナンデモデキル」
「何でも出来る、か……。まったく、おまえの心酔ぶりにも呆れるな」
ルートリッジが笑みを浮かべながら人差し指を立てる。
「いいかビエリ、何でも出来るからこそ何も分からない、そういうこともあるんだ」
難解な謎かけを与えられたかのように、ビエリが神妙な面持ちで首を捻る。
低く唸るビエリに、ルートリッジは声を上げて笑った。
二階の一室から出ると、ホールで花を見上げているルーナの姿が目に留まる。
ネイは手摺りに肘を突き、その後ろ姿をしばし見つめた。
『目だけで見ようとするな』
そう言ったルートリッジの声が耳元に甦ると、ネイは顔をしかめて振り払うようにかぶりを振る。
「おい、何してるんだ?」
声をかけるとルーナは一呼吸遅れて振り返り、二階から見下ろすネイに顔を向けた。
ネイは手摺りを軽々と飛び越え、そのまま階下にヒラリと着地する。
「そんなに花が珍しいのかよ」
「……」
ルーナは答えることなく背を向けると、再び先刻と同じように花を見上げた。
その反応にがっくりと肩を落とした後に、ルーナの隣に並んで同じように飾られた花々に目をやる。
手入れの行き届いた色とりどりの花――確かに美しく感じられるが、ルーナもそのように感じて見上げているのかは疑問だ。
「おい、ちっとも字を書けるようになっていないらしいな」
「……」
もちろん答えるはずもない。
「おまえ、もしかして馬鹿なのか?」
そう言って横顔をそっと覗き見るが、ルーナはまるでネイの声など聞こえていないかのように、変わらずに真っ直ぐ花を見上げていた。
ネイは意志の疎通が図れないことに疲れが増し、タメ息と共に目頭を指で強く押す。
「ああそうかい、そんなに花が好きかよ――」
不機嫌そうに呟き、飾られた花に手を伸ばした。
「だったら一本くらい貰っても文句は言われないだろうさ」
そう言って一輪の花を手に取ると、ルーナの小さな耳に差しかけた。
毒々しいまでの真紅の花は、白い肌と銀色の髪によく映えていた。
「まあまあ似合うぜ」
そう言って口の端を上げて見せると、ルーナはようやく顔向けてネイを見上げる。
真っ直ぐに向けられる紅い瞳に、ネイは片眉を上げながら口許を歪めた。
「なんだよ。欲しくなかったのか?」
「――どうでもいいけど、それ毒花よ。肌が荒れるわ」
不意に背後から投げかけられた忠告に、ネイはギクリとして振り返った。
二人の様子を窺うように、エマが腰に手を当てて立っている。
「え? 毒花?」
ネイが引きつった笑みを浮かべながらそっとルーナに目をやると、エマが口許を隠しながらクスクスと笑った。
「冗談よ。でも、大事に手入れしている物を勝手に取らないでちょうだい。――それとも、最近の盗賊は活花も盗むのかしら?」
口許に笑みを浮かべるエマに、ネイが苦笑を返す。
「レイルズが探してるわ。今後の予定を決めたいそうよ」
「分かった」
「それと――」
エマが何か言いたげに、チラリとルーナに視線を向ける。それに気付き、ネイが首を振った。
「こいつは気にしなくていい。どうせ分から……」
思い止まったように言葉を切り、ネイはルーナに目を向けた。そこで取り繕うように小さく咳払いを一つ。
「ああ……こいつはとんでもなく口が堅い。信用していい」
うつむき加減でたたずむルーナを見据え、エマが逡巡する。
「それもそうね……」
かすかに聞き取れる程度の呟きに、ネイの目がわずかに光った。
やはり、エマはルーナについても情報を掴んでいる、と感じた。しかし、それを問いただすことはしない。
確信が持てないうちに問いただすことは、手持ちの札を晒すだけで何の利益も生まない可能性がある。
収容所に救うべき人間がいる――その目的が一致しただけで、信用し合っているわけではない。
「それで、まだ何かあるんだろ?」
「ディアドとヴァイセン帝国についてよ」
ネイが茶化すように口笛を吹く。
「半日で調べがつくなんてさすがだな」
「大きな軍隊は動向を隠しようがないから、調べることは容易いわ」
エマが言うと、ネイはわずかに眉を動かし表情を険しくさせた。
『大きな軍隊』という表現に嫌な予感を抱く。
表情の変化からネイが察したことに気付き、エマはゆっくりと首を縦に動かし、ネイの予感を肯定した。
「帝国本土から、多くの兵がディアドへ向けて発ったそうよ」
「いつディアドに着く?」
エマはすぐには答えず無言のままネイを見据えた。その瞳が、時間の無いことを前もって告げている。
「おそらく明日にでも」
「明日……」
ネイはそれ以上に返す言葉も無く、きつく目を閉じながら天を仰いだ……
つづく