94章 潜む者たち
「アサシン……」
灰色の部屋の中、ネイが独りごちるように呟くと、レイルズは苦笑を浮かべてエマはそっと目を伏せた。
「どうして働き蜂とギルドのアサシンが一緒にいるんだ?」
どちらに言うでもなくネイが疑問を口にするが、その問いに二人が答えることはなかった。
「それで? 私たちをどうするつもりなのかしら?」
答えるつもりはない、と拒絶するように、エマが別の言葉を口にする。
胸の前で組まれた両腕は、その胸の内を隠そうとするための防護壁のようにも見える。
「どうするこうするも、俺は情報が欲しかっただけだ。それを、いきなりおかしな薬を噴きかけやがって。――あれは何だ?」
ネイが吐き捨てるように言うと、エマはうつむきクスクスと笑った。
「別に命を奪うような代物じゃないわ。もっとも、摂取した量にもよるでしょうけど」
笑みを含めて平然と言ってのけたエマに、ネイは顔をしかめて口許を歪めた。
「白髪の野郎は俺に何かを手伝わせるつもりだったろ? 何をさせようとした?」
興味を持ったような口ぶりが意外なものだったのか、エマは一瞬言葉を詰まらせてわずかに顔を離した。
どういうつもりでそんなことを訊いてきたのか、その胸中を暴こうとネイの身体に視線を這わす。
もちろん、ネイとしても本当に興味を持ってそんなことを訊いたわけではない。
自分の知りたいことを口にする前に、相手のことを知っておく――足許を見たかっただけだ。
「素直に答えろよ。さすがにあんた一人じゃ、この状況をどうにか出来るとは思ってないだろ?」
黙り込むエマに、口の端を上げて意識的に意地の悪い笑みを見せる。
「素直に答えないと、白髪野郎が痛い目を見るぜ」
「残念だが――」
レイルズが横から口を挟んで来る。
「私は痛みというものを感じない」
「なに?」
レイルズが言ったことをどう解釈したものか、ネイは眉を寄せて首を傾けた。
「勘違いしないで欲しいが、これは比喩的な表現で言ってるのではない。私の身体は痛覚というものがないんだ」
「痛覚がない?」
ネイが答えを求めるようにエマを見ると、エマは顔を逸らしてわずかにうつむく。
「先ほど君が吸い込んだ薬、あれは身体を麻痺させる成分がある。その薬を、私は幼少の頃から微量に投与され続けた。その結果、触覚が鈍くなり、痛覚に至っては完全に消え失せたんだよ」
投与され続けた、という言葉にネイが顔をしかめた。
「何のためにそんなことを?」
「アサシンだったからだよ。人の動きというものは、傷を負えば必ず鈍る。例え意識しなくとも無意識に傷を庇おうとするんだ。だが、それでは暗殺に支障をきたす場合があるだろ」
ネイの脳裏に先刻のレイルズの行動が甦る。
潰れた左拳を引き、顔色一つ変えることなくその拳で再び殴りつけてきた――
「暗殺っていうのは、そんな身体になってまでやる価値があるのか?」
「少なくとも、ギルドにはその価値があったのだろう」
「何でも言いなりかよ」
侮蔑を含ませるように吐き捨てると、レイルズは気にした様子もなく緩くかぶりを振った。
「同じギルドでも君は盗賊ギルドだ、アサシンギルドのことは分からない。盗賊ギルドの人間が『陰に潜む者』なら、アサシンギルドの人間は『闇に潜む者』なんだよ。陰の中から見える物も、闇の中では見ることは出来ない」
レイルズの言葉にネイは鼻を鳴らして唾を吐く。
「暗殺者が気取った言い方しやがって。自分じゃ何も考えられないってだけの話だろ」
「もう止めなさい!」
エマの甲高い声が寒々とした空気を震わせ、二人の対話を遮る。ヴェール越しにもネイを睨みつけているのがはっきりと分かった。
「余計な話は無しにしましょう、時間の無駄だわ」
打って変わって冷やかな口調となったエマに、ネイが軽く両手を上げて見せる。
「鷹の眼、あなたは此処にいることをギルドに知られたくはないでしょ? でもそれは私も同じ、お互い様よ。こちらとしては、貴方は突然現れた望まぬ客ということよ」
「それで?」
ネイが先を勧めると、エマは深く吐息を漏らした。
「あなたの欲しい情報は無償で提供するわ。だから黙って出て行ってちょうだい。その方がお互いのためには良いでしょ?」
ネイは真意を探ろうと、即答はせずにジッとエマを見据えた。
働き蜂が簡単に情報を提供するとは思えない。しかし、そんなネイの心中を察し、エマが右手を翳してくる。
「止めてちょうだい。不毛な探り合いは無しよ」
エマが辟易したように言うと、ネイは肩をすくめて笑みを浮かべた。
「いいだろう、情報をもらえるなら大人しく出て行くよ。こっちとしてもその方がありがたい」
ネイの返答に、エマが顎を引くようにして小さく頷く。
「それで? 貴方はどんなことが知りたかったの?」
「俺が知りたいのは――」
静かに切り出したネイに呼応するかのように、手にしたランプの灯りが一度小さく揺れた。
「馬鹿め、すぐに戻って来いと言ったものを……」
窓際で暗澹とした街並みを見下ろし、ルートリッジが毒づいた。
しかし、相手が目の前にいないのであれば、いくら文句を言ったところで無意味だ。
ルートリッジは苛立ちを抑えるように深く息を吐き出すと、緩くかぶりを振って窓際を離れた。
「遅いね」
ルートリッジが椅子に腰掛けると、床に胡座をかいていたリムピッドが口を開いた。
遅い――ネイばかりでなく、後から様子を見に行ったビエリさえ戻って来ない。
「あの人、大きいだけトロそうだったしさ、一人で行かせたのはやっぱり失敗だったんじゃない?」
今度はトゥルーだ。ルートリッジの向かいに腰掛けたトゥルーが、冷やかすような笑みを浮かべて言った。
ルートリッジは顔をしかめて低く唸る。一人で行かせた張本人として、失敗という言葉に反論することが出来ない。
その鬱憤を晴らすように、再びビエリに毒づく。
「まったく、ビエリのヤツめ」
「アウウ……」
返事をするような低い呻き声が聞こえた。
突然聞こえた呻き声に三人はビクリと身体を震わせ、弾かれたように声のした方向へと顔を向ける。
廊下へ通じる扉の前、ビエリが申し訳なさそうに身を縮めて立っていた。
所在なさげに髪の無い頭を撫でながら、上目遣いを向けてくるビエリにルートリッジが目を剥く。
「ビエリ! おまえ、いつからいたんだ」
「スコシ、マエ……」
「呆れた。そんな大きな身体なのに、全く存在感が無いのね」
リムピッドが笑いを噛み殺すと、ビエリは腹の前で両手を組み合わせてさらに身を縮めた。
「そんなことよりもネイはどうした?」
「ネイ、イッタ。ニモツマトメテ、ミンナ、ツレテコイ」
「荷物をまとめて連れて来い?」
ルートリッジが小首を傾げると、ビエリが一度コクリと頷く。
「何だか分からんが、全員で来るように言ったんだな?」
再びビエリが頷く、ルートリッジは肩をすくめた。
「まったく勝手なヤツだ。帰りが遅いと思ったら、今度は説明もなく『来い』か。――トゥルー、ルーナを呼んで来い」
ルートリッジの指示に間延びした返事をし、トゥルーが隣の部屋へ向かう。
「それで、どこへ向えばいいんだ?」
「アッチ」
短く答えて壁の方向を指差したビエリに、ルートリッジは肩を落としたタメ息をついた。
ビエリに手を引かれてルーナが、続いて興味深げなルートリッジ、不機嫌そうなリムピッド、緊張気味のトゥルーが娼婦館のホールに足を踏み入れた。
五人がキョロキョロと周囲に目を配っていると、ネイの声が頭上から降ってくる。
「よお、急に呼び出して悪かったな」
吹き抜けとなった二階から顔を出し、軽く手を上げるネイをルートリッジが睨みつける。
「一体どういうことだ? あまり子供向きの場所とは思えんが」
『子供』というのが自分たちを指していると気付き、リムピッドは頬を膨らませた。トゥルーはそんなことには気付かず、そわそわと落ち着かぬ様子で視線を巡らせている。
「ちょっとした社会勉強さ。――いいから上がって来いよ」
兄妹の対照的な様子に笑みを見せつつ、ネイが手招きをする。
呆れ気味に二階へ上がったルートリッジは、まずネイの顔を見て目を丸くした。
「おまえ、酷い顔をしているな」
その言いようにネイが苦笑を浮かべた。
ルートリッジが言うとおり、ネイの顔は酷いものだった。
目の下には疲れ果てたかのようなクマが浮かび、右の頬は赤く腫れ上がっている。
目の下に出来たクマは疲労と薬のせい、右頬はレイルズに殴られたためだ。
「そんなことより入れよ」
ネイが背後の扉を親指で示す。
縁に金の装飾が施された紅色の扉――ちょうど一階正面口の真上に位置する。
ルートリッジが胡散臭げに扉を見ると、ネイが言葉を続ける。
「この館の主人――エマって女の部屋だ。客として持て成してくれるとよ」
「おまえの顔を見るかぎり、客として歓迎されたようには見えないがな」
「これは些細な誤解が原因さ、気にしなくて良い」
そう言って部屋に入るように顎先を動かすネイに、ルートリッジが緩くかぶりを振った。
部屋の中、足を踏み入れた一行を、ホールと同じように色とりどりの花が迎え入れる。
室内に溢れる花の香り。その匂いに思わずむせ返りそうになり、ルートリッジは顔を歪めた。
部屋の隅、飾り立てられた花に埋もれるように、背を向けながら手入れをする女の姿――エマだ。
エマはネイたちが部屋に入って来たのに気付くと、ゆっくりと振り返り口許に笑みを浮かべた。
「ようこそいらっしゃいませ。私はこの館の主、エマと申します」
エマが会釈をすると、その傍らに立ったレイルズも小さく頭を下げる。
顔を上げ、わずかに首を傾けながら微笑むエマに、ルートリッジが顎を前にだすように会釈を返した。
その後ろに立ったリムピッドは値踏みするように横目で睨み、トゥルーは頬を赤らめ視線を泳がせる。
「ネイ、一体どういうことだ?」
耳打ちするようにルートリッジが言うと、それを聞いたエマがクスリと笑った。
「私の方からご説明いたします。――何でもネイさんのお話では、この街にいらしたのはご友人を収容所からお救いするためとかで……」
確認を取るように言葉を切ってルートリッジを見ると、ルートリッジはジロリと横目でネイを睨んだ。
この街に来た目的を、娼婦館の主人にあっさりと話したことがどうにも解せない。
「そこで誠に不躾ながら、ネイさんに私の願いを聞いて頂くことになったのです」
「願い?」
そこで再びネイを睨んだが、ネイはまるで他人事のように澄ました顔を作り、ルートリッジと目を合わせなかった。
「心配には及びません。願いを聞いていただくとは言っても、ほんのついでのようなことです」
変わらず口許に笑みを浮かべるエマに、ルートリッジが小首を傾げながら片眉を上げた。
「ネイさんがご友人をお救いする際、一緒に救っていただきたい人間がいるのです」
「一緒に?」
ルートリッジが反芻すると、エマがゆっくりと頷く。
「そちらのお手を煩わせるばかりでは申し訳ないので、微力ではありますがこちらはレイルズを遣わせたいと思います」
エマがレイルズに顔を向けると、レイルズは片手を腹に当てて小さく頭を下げた。
「もちろん、事が済むまで出来る限りの持て成しはさせていただくつもりです。―――突然のことで大変申し訳ないのですが、どうかご理解をいただきたいのです」
穏やかな口調のエマに、ルートリッジは答えあぐねて頭を掻いた。
「私に言われてもな……。実行するのはネイなのだから、ネイが決めれば良い。私としては、持て成してくれるというのなら文句はないよ」
「よし、なら決まりだ」
ネイがすぐさま決断すると、ルートリッジが不満げに鼻を鳴らす。考えが変わらぬ内に、といったような素早さがどうにも胡散臭い。
隠そうともしない不信の眼差し。その眼差しを受け、ネイはわざとらしく満面の笑みを浮かべた。
「どうやら訝しんでいるようだな。ろくな説明もせずに良かったのか?」
朝一番の陽の光を浴び、眩しそうに目を細めたネイにレイルズが言葉を投げかけた。
ネイは一度両手を上げて伸びをすると、ゆっくりと館を仰ぎ見る。
二階の窓、腕を組むルートリッジの影が見えた。
窓越しで表情までは分からないが、ジットリとした目でこちらを睨んでいるのは確かだろう。
ネイは素知らぬふりをすると館に背を向けて歩き出し、レイルズがその後に続いた。
「なんて説明するんだ? ――俺たちは、たまたま収容所に侵入するという目的が一致したので協力し合います。ただ、念のために人質としてここで軟禁されてください、とでも言うのか?」
顔を向けずに言ったネイにレイルズが苦笑を浮かべる。
「だいたい、働き蜂ということは黙ってろって言ったのそっちだろ。それを説明しなくちゃ、どちらにせよ納得なんてさせられないさ」
「こちらにも都合があるんだ」
反論するレイルズに、ネイが背を向けたまま両手をヒラヒラと振って見せる。
「だったら余計な説明はしない方が良いんだよ。勝手に人質にされて、気分の良いヤツなんていないからな。世の中には知らない方が幸せなこともある」
「ずいぶん勝手な男だ」
「何とでも言えよ。――そんなことより、陽が高くなる前にさっさと下見を済ませて戻ろうぜ」
ネイが足を早めると、レイルズも距離を保ったまま足を早める。
二人の進む先、収容所と化した古の塔が、白む空に突き刺さるように建っていた……。
つづく
今回、ちょっとしたハプニングで更新が遅れてしまいました……
次回こそは、早く更新……出来たら良いな、と思います。(08/05/10)