92章 鉄人
目の前に立ち塞がる扉。それは、来る者を拒絶しているかのように重々しく見えた――と言っても、実際はそれほど大した代物ではない。今、その扉の前に立っている男にとってはそう見える、というだけだけのことだ。
男は低く唸りながら扉を叩くかどうか頭を悩ませたが、結局は頼りなさげな声を漏らして踵を返す――が、数歩進むと思い止まり、再び扉の前に立つ。
男は先刻から幾度となくその行動を繰り返していた。
何度目になるか、男が忙しなく周囲に視線を走らせながら扉に近づくと、扉に付いた覗き窓が不意に開いた。
「アウッ!」
扉の前に立った男――ビエリは驚きのあまりに小さく飛び上がり、口からかは短い悲鳴を漏らした。
覗き窓から窺える冷やかな視線。その視線の主が、覗き窓からこれまた冷やかな言葉を投げかける。
「あんた、さっきから何をウロウロしてるんだい。隣の窓から丸見えなんだよ」
酒焼けしたような嗄れた女の声。覗き窓に浮かぶ瞳が目配せをし、その方向には出窓が一つあった。そこからビエリの様子は丸見えだったようだ。
「そんなデカい図体でうろつかれちゃあ迷惑だよ。冷やかしならお断り! それとも営業を妨害するつもりかい?」
苛立ちを隠さぬ口調。その気迫に気圧され、ビエリは慌てて両手を振って見せた。
覗き窓の目が細くなり、横目にビエリを睨みつける。
しばらくすると鼻を鳴らす音が微かに聞こえ、覗き窓が乱暴に閉められる。
その音でビエリが背筋を伸ばした直後、今度は扉が自体が開かれた。
目の前に姿を見せた、横幅のある中年女。覗き窓が閉まると同時に逃げようとしたビエリも、その機を逃して狼狽する。
逃げる代わりにビエリが取った行動は、鼻を摘まむことだった。女から発せられているであろう香水の匂いがビエリには強すぎる。
鼻を摘みながら引きつった笑みを浮かべるビエリに、女は不愉快そうに顔をしかめた。
「こういう店は初めてかい?」
オドオドと目を泳がせるビエリの様子に、女が下卑た笑みを浮かべる。
「情けない男だね。――まあいい。ほら、入んな」
女はそう言うと重そうな身体を震わせながら歩み寄り、ビエリの太い腕に肉厚の指を絡ませる。
「アウウ……」
強引に腕を引かれ、ビエリは泣き出しそうな呻き声を漏らした。
館に足を踏み入れる直前、足許の床が軋みを上げ、その音にビエリが大袈裟なほど身体を震わせた。
「ったく、本当に情けないね。でもあんたみたいなヤツの方が、一度覚えると案外ハマったりするもんだよ」
顔を伏せてヒヒヒと不気味に笑う中年女に、ビエリは顔を蒼ざめながら激しく首を振った。
「オカネ、ナイ! ワスレタ……」
「何だって? 金が無い?」
女が眉を寄せると、ビエリが何度も首を縦に振る。
それを見た女は目尻を吊り上げ、掴んでいたビエリの腕を投げ棄てるように離した。
「あんた、金が無いクセに何しに来たんだ! 忘れたんなら店先をウロウロしてないで、さっさと取りに帰ったらどうだい!」
ビエリは顔にかかる飛沫に顔をしかめつつ、ペコペコと頭を下げると踵を返して逃げ出そうとした。しかし――
「お客さん、ちょっとお待ちになって」
涼やかな声がホールに響き、無情にも逃亡しようとするビエリを呼び止めた。
「ソーヤさん、今度は何事かしら?」
「エマ様……。それが、またおかしな客が来ましてね。今度の客は金を忘れたって言うんですよ」
ソーヤと呼ばれた中年女は腕を組み、鼻を鳴らしながらビエリを睨む。その視線にビエリは身を縮め、両手の指を絡ませながらモジモジと身を捻る。
エマは二人の様子に苦笑すると、手にしていた一輪の花を花瓶に差し込み二人に歩み寄った。
「ソーヤさん、お金は明日でもよろしいんじゃなくて? せっかく初めてお越しになられたお客様に失礼ですよ」
「そんなことを言われましてもねえ、見たところ帝国兵でもないんですよ。この街に明日まで滞在するかどうかも分かったものじゃない」
ソーヤに疑いの言葉と視線を同時に投げつけられ、ビエリがさらに身を縮める。
「まあソーヤさん、そう言わないで。これからご贔屓にしてくださるお客様かもしれないでしょ。それに――」
エマはビエリに一瞥をくれた。
「誰かをお探しかもしれないわ」
エマの口許に妖艶な笑みが浮く。ソーヤもエマの言わんとせんとしていることをようやく察し、合点がいったように小さく縦に揺らした。
「あ、そういうことですか。でしたら、武器も持っていないようなので私は関係ございませんね」
「娼婦館では、武器を所持している方は先にお預かりすることになっているんですよ」
エマが取り繕うように説明すると、ビエリは困ったように頭を掻いた。
「カネ、ナイ……カエル」
ビエリが所在無さげにソワソワし、エマは口許を手で隠しながらクスクスと笑う。
「ですから、ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。――遅れましたが、わたくしはこの館の主、エマといいます。貴方は、先ほどいらしたお客様のお連れの方ではございませんか? 右頬に傷のある」
エマが自身の右頬のあたりを指差して線を引く真似をして見せると、ビエリがパッと表情を明るくさせた。
「ネイ、イル?」
「ネイ? ええ、ネイ様はいらしゃいます。他の部屋でお待ちですよ。お連れの方が見えたらお通しするようにと」
首を傾けて微笑んで見せると、ビエリはぎこちない安堵の笑みを浮かべた。
「どうぞこちらに」
エマがビエリの横に一歩退き、ホール中央にある踊り場、その階段に向かって軽く腕を上げて指し示した。
そこで再び微笑みかけて歩き出すと、ビエリは小さく頭を下げてエマの後に続いた。
「イイヒト。ヨカッタ……」
エマの細い背中を見ながら、ビエリはそっと胸を撫で下ろした。
薄暗い部屋に、微かに鉄の擦れ合う音が届いた。扉の開かれる音だ。
その音はもう一度鳴り、ガチャリと重々しい音を最後に鳴り止む。
開いた扉を閉めた音。誰かが地下室に下りて来る――そう悟ると、ネイは階段に繋がる扉へ目を向けた。
「二人だな……。一人はあの女主人だろ? 今日の営業はもう終わりか?」
ネイが訊ねると、レイルズが首を横に振った。
「いや、まだ早い」
そう答え、怪訝そうに眉を寄せる。微かに聞こえてくる足音の数が気に掛かる。
「だったら何しに来るのかねえ。――さては、俺の顔が早く見たくなったな」
軽口を叩いたネイに、レイルズが苦笑を漏らす。
「この状況でも余裕だな」
四方が分厚い石壁という寒々とした部屋の中、ネイは一脚の椅子に座らされていた。
後ろ手に縛られた両手、椅子の脚に括り付けられた両足――要は、椅子に縛り付けられ全く動くことが出来ないでいる。
「まあ、今さら焦っても仕方がないからな」
飄々(ひょうひょう)とネイが答える最中も、扉の向こうから聞こて来る足音は、徐々に階段を下りて近づいていた。
その足音が扉の前まで下りて来ると、二人の視線が同時に扉へと注がれる。
まるでそれを合図にしたように扉が静かに開かれ、燭台に乗った灯りが微かに身をよじりながら二人の陰影を変化させる。
「どんな具合かしら?」
扉の向こう、姿を見せたのはランプを手にしたエマだ。ヴェールで目許は隠されていたが、その口調から笑みが浮かんでいることが想像出来た。
もう一人の人物は確認出来ない。
扉の向こうはすぐに左に折れた階段になっており、エマが入り口に立っているため、もう一人はまだ階段を下りきれていないからだ。
「エマ様、いかがなされました?」
レイルズが静かに訊ねると、エマはチラリと後方に視線を送った。
「黒猫さん――いえ、ネイさんのお知り合いをお連れしたのよ」
エマの言葉に、ネイが鋭く目を細めた。
「どうぞお入りになって」
エマが扉の前から退くと、のっそりと大きな影が部屋に踏み込む。その人物にネイが目を剥き、レイルズは眉を寄せた。
「ビエリ!」
ネイが名を呼ぶと、ビエリは照れ臭そうな笑みを浮かべ、毛の無い頭を撫で擦する。
その間に、エマがビエリの脇をするりと抜けて部屋の外へ身を出す。
「じゃあレイルズ、後はお願いするわね」
エマは言い終えると同時に素早く扉を閉め、ガチャリと音を鳴らして鍵を掛けてしまった。
「アウ?」
ビエリが閉ざされた扉に向かって小首を傾げると、ネイが大きくタメ息をついてうな垂れる。
「おまえ、何しに来たわけ?」
「ネイ、サガシニ。アンナイシテクレタ」
「こういうのは案内とは言わない」
ネイが苦笑すると、状況を理解していないビエリも呑気な笑みを返す。
「ネイ、ナニシテル?」
「何してるかって? この状況を見て、捕らわれている以外に何をしているように見えるのか、逆にこっちが訊きたいよ」
二人のやり取りにレイルズが低い笑い声を漏らす。
「君たちはなかなか愉快な組み合わせだな。――だが、どうする? 味方が来ても形勢はあまり変わっていないように思うが」
「さあて、それはどうかな」
余裕を感じさせる笑みを見せたネイに、レイルズがわずかに表情を固めた。
「彼が私に勝てると?」
レイルズの問いかけにネイは何も答えず、ただ笑みを浮かべたまま肩をすくめる。
「面白い。では試させてもらおう」
レイルズはビエリに向き直り、何の構えも取らずに無造作に歩を進める。
状況が理解出来ないビエリは近付いて来るレイルズに困惑の表情を見せ、答えを求めるようにネイに視線を送った。
しかし、ネイが応えるよりも早く、レイルズは大きく一歩踏み込んで右脚を鞭のようにしならせた。
ビエリの側頭部を目掛けて弧を描くレイルズの蹴りは、恐るべき速度でビエリに襲い掛かる。
ビエリは咄嗟に顎を引くように歯を食いしばったが、それが精一杯の反応だった。
側頭部を捉えたレイルズの蹴りが、部屋に鈍い音を響かせる。その衝撃に、弾かれたようにバランスを崩す者と、たたずむ者。
弾かれた者は――
「信じられん。首の筋力だけで……」
レイルズの方だった。
レイルズの蹴りを、ビエリは首の筋力のみで受けきり、弾き返したのだ。
半ば呆然とするレイルズの後方、ネイの笑いが高らかに響く。
「この白髪野郎! 素手でビエリに勝てるかよ! ――ビエリ、安心しろ! その白髪の兄ちゃんは武器を持ってないぞ。やっちまえ!」
レイルズが、今だ信じられぬ、といった様子でビエリを見上げると、ビエリは蹴られた左側頭部を痛そうに撫でていた。
「くっ!」
レイルズは再び踏み込み、無防備となったビエリの左脇腹に蹴りを見舞う――が、結果は同じ。
ビエリは微動だにせず、哀しげにレイルズを見下ろしていた……
つづく
ええ、基本的に私は明確なプロットたる物をあまり考えません。
連載当初、『こんなことを伝えられる話を入れよう』というのは幾つか在りましたが、それはあくまでイメージのみです。
明確なプロットがないせいか、当初の予想よりもかなり話が長くなっている感じです……百話くらいで終わると思っていた(涙)
現在決まっているのが物語の終わり方と、『こんな感じの話』というのが二つほどです。
それを消化するにはもう少しかかりそうですが、今後も読んでくだされば幸いです(4/27)