91章 圧倒
床に倒れたネイを見下ろしながら、エマが顔を覆ったヴェールをそっと持ち上げた。
ヴェールの下から覗く涼しげな目。その目には無感情な観察者の光が宿る。
「レイ――レイルズ、来てちょうだい」
エマのその呼びかけに応じ、吹き抜けとなった二階から一人の男が舞い降りる。
まるで羽毛が地に着くように静かに、影のように静かにたたずむ。
中背で細身の体躯。背中まで伸びた長髪を、一本の三つ編みにまとめている。
充分に大人びた顔ではあるが、まだ中年という年齢ではないだろう。が、その髪の色はまるで老人の
ように白かった。
レイルズは軽く頭を下げると、エマの隣に並びネイを見下ろす。
「この男は?」
「ギルドが探している鷹の眼よ」
エマの言葉に男がわずかに目を大きくする。
「この男が……ですか?」
「足の運び方は盗賊の類だったわ。それと聞いていた特長を考えると間違いないわね」
「なるほど。しかし、なぜそんな男がここに?」
「どうやら、この街の情報を集めようとしていたみたいね」
「エマ様を働き蜂と知ってですか?」
レイルズの問いにエマは小さく首を振る。
「違うわ。偶然よ」
エマはそう言いながらレイルズに目をやると、その様子に首を傾げた。
レイルズが眉を寄せ、何かを考え込むような表情を見せていたからだ。
「レイ、どうかしたの?」
「お言葉ですが、アサシンを三人退けた男にしては呆気ないかと……」
解せぬといったようにレイルズが呟くと、エマが苦笑する。
「とにかく、他の客に見られる前に納屋に運んでちょうだい」
エマの要求にレイルズは小さく頷き、倒れるネイに歩み寄った。
ネイを担ぎ上げようと腰を落とし、手を伸ばす。
しかし、そこでレイルズは動きを止め、表情に緊張感を走らせた。
ネイの左太股、その部分に湿り気を帯びた染みのようなものが見える。
その染みが血だと気付き、いつ傷を負ったのか? と疑問が浮かぶと同時に、レイルズは素早く立ち上がった。
その直後、倒れていたネイが突然に両腕を立て、身体をコマのように回転させる。
ネイの足がレイルズの足を払おうとする寸前、レイルズはそれを飛び退きながら躱し、後方のエマに向かって声を上げた。
「下がってください!」
レイルズは着地すると、すぐさま何かに反応して上半身を思い切り反らせる。
身体を反らせたレイルズの眼前を通過する小さな楔。と、同時にネイの口から舌打ちが漏れた。
レイルズはさらに身体を反らせて後方に手を着くと、そのまま何度か身体を回転させて距離を取る。
充分に距離を取って片膝を突くレイルズ。そのレイルズに向かい、ネイが冷笑を浮かべる。
「やるじゃないか」
ネイが強がるように言うと、レイルズはゆっくりと立ち上がり一度だけ軽く頭を振った。
前に垂れていた三つ編みの白髪。その髪が軽く踊りながら背後に流れる。
「暗器……。それを使って己の脚を穿ったのか?」
「暗器なんて大そうな物じゃないが、身体検査はちゃんとするべきだな」
ネイは言いながら、ブレスレットを見せつけるように軽く左腕を振った。
(まずいな……)
口許に笑みを浮かべたネイの背中を、冷たい汗が一筋流れる。
吸い込んだ霧状の液体。その正体は分からなかったが、視界は今だにかすみ足許が揺れていた。
その影響からわずかに狂った手許。
相手の見せた動きと自分の状態を考えれば、一撃で仕留められなかったことは致命的だ。
ネイは一度喉を鳴らし、レイルズに警戒を向けたままエマに目をやる。
エマの顔は再びヴェールで隠されていたが、口許には明らかな余裕が現れていた。
「まったく、働き蜂が女だとは知らなかったぜ」
「あら、働き蜂は全て雌なのよ。知らなかったかしら?」
クスクスと笑うエマに、ネイは顔をしかめた。
「残念ながら、昆虫には興味が無いんでね」
ネイは言葉を交わしながら背後の扉にそっと視線を向けた。
大した距離ではない。通常の状態ならば楽に逃げ切れそうだが、現状ではなかなか難しそうに思える。
正面に立つレイルズは自然体で何の構えも取っていないように見える。しかし、それが上辺だけだというのはその気配がはっきりと物語っていた。
背を向けたと同時に殺られる――そう感じさせる静かな威圧。
「レイ、彼は無駄話で回復する時間を稼ごうとしてるわ。他のお客様に迷惑がかかる前に始末なさい」
穏やか口調でレイルズをけしかける。
(なんて嫌な女だ)
ネイは声には出さずに毒づきながら、顔には薄い笑みを浮かべた。
時間の流れが遅くなったような刹那の錯覚。ゆらりとレイルズが動くのと同時に、それを迎え撃つべくネイも腰を落とし身構えた。
(武器は何だ? 何かを隠し持っていやがるのか)
視線を忙しなく動かし、レイルズの腕の動きに全神経を集中させる。
しかし、レイルズの次の動きはネイの予想に反するものだった。
レイルズはネイに向かってくるのではなく、その場でエマの方向にゆっくりと身体を向けたのだ。
その動きに意表を突かれたのはネイだけではなかった。
「レイ、どうしたの?」
レイルズの予想外の行動に、エマの声がわずかに震えた。
「エマ様、この者に手伝わせてはいかがでしょうか」
「どういうこと?」
「己の意識を保つために脚を穿った判断、この状況でも笑って見せる度胸はなかなかのものかと。それに、彼は盗賊です。手伝わせる人間としては打ってつけかと」
「……なるほどね」
レイルズの進言にエマがうつむき逡巡して見せる。
その二人の様子を見ながら、ネイは逃げるべきか判断に迷った。今なら踵を返して扉に向かえば逃げ切れそうな気もするが――
「おい、なにを勝手に人の査定をしてやがる」
ネイは逃げ出すことはしなかった。
身体の状態が回復していない状態で背を向けることは危険でもある。しかし、理由はそれだけではない。
それよりも、働き蜂という人間への興味の方が勝っていた。
働き蜂――ギルドの情報収集能力を凌駕する情報網を持ちながら、一切が謎とされた情報屋。その人物像ですら知る者は少ない――その人物が目の前にいる。
「いきなりおかしな薬を噴きかけておいて、何を手伝わせようっていうんだよ。化粧のせいで、面の皮が厚くなっているんじゃないか?」
ネイの言葉に二人が顔を向ける。
「……分かったわ、レイ。でもどちらにしてもこれ以上騒がれては厄介よ。早く黙らせてちょうだい」
エマの言葉にレイルズは小さく頷くと、静から動へ、突如としてネイに向かい駆け出した。
「っ!」
虚を突かれたネイの反応がわずかに遅れる。
レイルズは身を低くしてネイとの距離を一気に詰めると、左足で大きく踏み込み宙を舞った。
軽やかに舞った身体は背を向けるように一回転し、その勢いのままに右足が振り出される。
側頭部を狙って襲いかかるレイルズの踵。
ネイは咄嗟に両腕を立て、唸りを上げるレイルズの足を寸でのところで受け止めた。しかし――
「ぐっ!」
全体重の乗せたレイルズの蹴りは、受け止めた両腕の上からでも充分な衝撃がある。
ネイは真横に吹き飛ばされ、転がるようにして片膝を突いた。
顔を上げたネイの眼前、レイルズはすでに体勢を整え次の動きに移っている。
腕の動きを見る限り、武器を隠し持った気配はない。
「体術使いか」
立ち上がろうとしたネイの視界がグニャリと歪む。
薬の効果に加え、レイルズの蹴りで頭が激しく揺らされたためだ。
それでも何とか立ち上がると、向かって来るレイルズに右拳を突き出す。
しかし、腰の入っていないネイの拳は軽々と躱され、懐に潜り込むことを易々と許してしまう。
後退する間もなく腹部を襲う突き抜けるような衝撃。まるで全身の機能が麻痺したように、呼吸を含めた身体の自由が一瞬奪われる。
レイルズの肘が的確にネイの鳩尾を捉えたためだ。
ネイが動きを止めたのはわずかな間だったが、レイルズにはそれで十分だった。
ネイの左手首を掴むと脇の下をすり抜けるようにして背後に回り込み、膝の裏に蹴りを入れて腰を落とさせる。
ネイがガクリと膝を突くように崩れると、レイルズは背後から素早く組み敷いた。
「くっ!」
捻じり上げられた腕と、吐き気を催すような鳩尾の痛みにネイの顔が歪む。
レイルズが捕り押さえたのを見て取ると、エマはゆっくりと近づきネイの目の前で膝を折った。
「気分はいかが、黒猫さん」
笑みをたたえるエマの口許から漏れた言葉に、ネイは額に汗を滲ませながらも口の端を上げて見せた。
「あんたが相手なら文句はないが、男を乗せる趣味はないんでね」
ネイが皮肉るとエマが声を潜めて笑う。
「こんな状態でもそんな皮肉を言えるなんて、呆れるのを通り越して立派にさえ感じるわ」
「そりゃどうも。だったら敬意を払って、白髪男に降りるように言ってくれないか」
「本当に口が減らないわねえ」
エマが苦笑して目配せをすると、レイルズが腕を捻り上げながら無理矢理にネイを立たせる。
「無駄な抵抗はしない方が良い」
レイルズに押されるような形で歩くネイ。二人の姿が踊り場から伸びた階段の陰、目立たぬ扉の奥へと消えていく。
エマは残って二人の姿を見送ると、何事もなかったのように花の手入れを始めた。
「どうした、ビエリ?」
「アウウ」
そわそわとするビエリ。その様子にルートリッジが片眉を上げる。
「ネイか? ――確かに遅い。何かあったのかもしれんな」
ビエリの落ち着かぬ様子からその心情を察し、ルートリッジが代弁するとビエリの肩がビクリと震えた。
「ネイの行き場所は聞いているのだろ? ビエリ、様子を見てきたらどうだ?」
ルートリッジのその提案に、ビエリが頼りなさげに眉尻が下がる。
「ヒトリ?」
「そう、一人でだ。こんな時刻にぞろぞろと歩いていたら目立って仕方がないだろ。――なあに心配するな、おまえの容貌ならそうそう絡まれたりはしないよ」
「アウウ……」
それでもビエリは決心がつかぬ様子で、チラチラとトゥルーたちに視線を送る。
その視線を知ってか知らずか、トゥルーとリムピッドは目を合わせることはない。
「ビエリっ! こんな時刻に女子供を行かせるつもりか」
ルートリッジの叱責にビエリは身を小さくし、しょんぼりと顔を伏せる。
上目遣いに視線を向けて来るビエリ。その弱々しい視線に、ルートリッジは肩を落として吐息を漏らした。
「ビエリよ、おまえは並みの人間よりも優れた肉体を持っている。何をそんなに恐れることがある?」
「身体が大きいヤツって、案外に気弱なのが多いよね」
リムピッドが横から茶々を入れると、それを窘めるようにルートリッジがジロリと睨んだ。
「とにかくだ、おまえが一人で様子を見て来い」
言いながらビエリの腕を引くと、ビエリは低く唸って渋々と腰を上げた。
ルートリッジの小さな手に太い腕を引かれ、扉の前まで行くと無理矢理に部屋の外に押し出される。
「いいか、目的の館に着いたら客を装って覗いてくればいいんだ。もし、館の人間に話かけられたら金を忘れたフリをして帰ってこい。分かったな?」
人差し指を立てながら確認を取ると、ビエリが嫌そうな顔で目を逸らす。
そのビエリの様子に、ルートリッジが目尻を吊り上げた。
「分かったな?」
語気を強めて繰り返すと、ビエリもその勢いに気圧されて今度は小さく首を縦に振った。
「よし、では行け!」
ルートリッジがビエリの身体を反転させて大きな背中を叩と、ビエリは肩を落として歩き出す。
「まるで子供が初めてお遣いに行くみたいね。で、ルー先生がお母さん」
愉快そうに笑うリムピッドにルートリッジが顔をしかめる。
ビエリは何度も振り返りながら、救いを求めるような目を向けていた……
つづく