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90章  妖館

 白い霧に包まれたような視界と、地鳴りのような轟音。

 一人の女と一人の少年。崖の上でたたずむ二人の影が見えた。

 二人の奥には轟音を撒き散らす水の壁――巨大な滝が在る。

 流れ落ちる大量の水は二人の立つ場所の遥か下で渦を巻き、全てを呑み込もうとしているかのようだ。

(これは夢だ……)

 意識の隅で分かってはいても、崖の上でたたずむ二人から目を離すことが出来ない。

 少年が女を見上げた。が、その少年には顔が無かった。

 まるで切り抜いたかのように、本来顔のある部分が漆黒の虚空となっている。

 もちろんのこと、表情というものを見取ることは出来ない。

 しかし知っている――少年が満面の笑みを女に向けていることを知っている。

 女も少年と同じように顔が無いが、その表情も手に取るように分かる。

 何の感情も見せない虚ろな表情。それこそが、その女のいつもの表情なのだということも知っている。

 そして、これから起こることも……。

 少年がはしゃぎながら崖下を覗き込む。

 初めて連れてきてもらった場所に浮かれているのだ。

 少年は女の方へ振り返るが、その直後に少年の身体が固まる。

 魂が抜かれたような女の顔。振り上げられた腕。手にしているのは――

(やめろおぉ!)

 必死に声を張り上げるが、その声は二人には届かない。

 次の瞬間、虚空だったはずの女の顔がはっきりと浮かび上がる。

 強張った頬。眉間に深いシワを刻み、吊り上がった両目を見開いている恐ろしい形相。

 女の腕が振り下ろされた――と、同時にその光景から目を逸らすことが出来た。

 そこで身体が浮くような感覚に見舞われ、突如として視界が歪んだ。

 蒼い世界。無数の白く小さな気泡が視界に広がり、全身を針で刺したような凍てつく痛みが襲う。

 それでいて、顔の右側だけが焼けるように熱い。

 歪む蒼い視界の中、女の顔だけがはっきりと見える。

 虚ろな目。血の気の引いた口許には薄い笑みが浮かんでいる。

 その女の顔を見ながら底知れぬ闇に落ちていく。そう思われたとき、一筋の光のように白い手が伸びてきた――

 

 

 

(うう……)

 身体を揺すられるような感覚。

 その感覚を自覚した瞬間、考えるよりも先に身体を跳ね起こした。

 同時に、傍らに置いたナイフに手が伸びる。が、その手はナイフを掴むことなく宙で止まった。

 ベッドの横、紅い瞳の少女がたたずむ。

 己のいる場所が、宿のベッドだと思い出すのに時間は掛からない。

「おまえか……。驚かせるなよ」

 ネイは安堵の息をつき、緩くかぶりを振った。

 服をまとわぬ上半身を濡らした汗。その不快感に顔をしかめる。

「もう夜か」

 ネイは訊くでもなく呟くと、ベッドから身を降ろして窓際に歩み寄った。

 外はすっかり陽が落ち、代わって眩しいくらいの蒼い月が浮かんでいる。

 ネイは吐息を一つ漏らして服を着ると、開け放たれた扉へと向かう。

 隣の部屋にはビエリとルートリッジ、それにトゥルーたち二人がいた。

 ルートリッジが寝室から出てきたネイに気付き、椅子に腰掛けたまま顔を向けてくる。

「お! 起きたようだな。どうだ、よく眠れたか?」

「ああ、まあ……」

 ネイは曖昧に答えると、テーブルの上に置かれたティーポットに手を伸ばした。

 すでに冷たくなった紅茶をカップに注ぎ、それを一気に飲み干す。汗をかいたせいか、ひどく喉が乾いていた。

「行くのか?」

 ルートッリジが訊くと、ネイは口を袖で拭って頷いた。

「ああ。あまりグズグズしていられないからな」

 ギーがギルドに報告する前に、ラビを助け出してこの街を出たかった。

 ここは帝国軍の真っ只中。そんな場所でアサシンに襲われてはたまったものではない。

「本当に一人で大丈夫なの?」

 リムピッドが身を案じて心配げに言うが、ネイに何かあってはギルドに紹介してもらえないと思ってのことだ。

 そのことが分かるからこそネイは苦笑した。

「大丈夫だ。今すぐ忍び込もうってわけじゃない。それに、こんな時刻にぞろぞろと歩いていたら目立ってしょうがない」

 そう言ってもう一杯だけ紅茶を飲み干し、部屋を出ようとしたところで一度足を止めてルーナに目をやった。

 うつむき加減にたたずむルーナ。そのル―ナに人差し指を向ける。

「おい、サボるなよ。――じゃあルー、頼んだぞ」

 念を押すように言うと、それに応えてルートリッジが肩をすくめる。

「ネイよ、他の方法を考えてはどうだ?」

「他の方法があったら教えて欲しいよ」

 そう言い返して部屋を出て行くネイに、ルートリッジとビエリが顔を合わせてタメ息をつく。

 ネイが部屋を出ると、ルーナはルーリッジの向かいの椅子にそっと腰を下ろす。

 始まりの王の書物をルートリッジが読んで訊かせた夜、あの後でネイはあることを思いつき、その日からルーナにやらせていることがあった。

 それは勉強だ。ルーナが文字の読み書きが出来ないことを確かめると、早速文字を教えることを実行した。

 理由は至って単純なもので、文字さえ書ければ意思の疎通が可能だ、と考えたからだ。

 そんな単純なことに今まで気付かなかった。そんな自分にネイは自己嫌悪を感じたようではあったが、本当の問題はそこからだった。

 ルーナに学ぼうという気が有るのかどうか、それが分からないのだ。

 いくらネイが教えても何の反応も示さず、文字を書こうとする素振りさえ見せない。

 そこでルートッリジに白羽の矢が立った。

 学者であることを理由に、無理矢理にルーナの教師役を押し付けられたというわけだ――

 テーブルに視線を落としたままジッとするルーナ。

 その姿に、ルートリッジはもう一度タメ息をついて肩を落とした。

 

 

 

 ゴルドランの夜は静かだ。

 並んだ鍛冶屋の窓からぼんやりとした紅の灯りが漏れる。

 消されることのない鍛冶屋の火。それが街灯代わりだ。

 ネイはその静かな通りを抜け、街の外れへと歩を進めた。

 目指すは収容所を見たときに見かけた一軒の館。ゴルドランでは珍しい木造のために目を引いた。

 街の外れで隠れるように静かにたたずんでいたその館が、今は派手な看板が掲げられ、淡い桃色の灯りに照らされている。いわゆる娼婦館だ。

「やっぱりな」

 予想の的中にネイは口の端を上げた。

 兵士ばかりの街に欠かせない娯楽といったところだろう。

 ネイは扉の前に立つと、目の高さについた鉄製の輪を摘み、それを扉に軽く打ち付けた。

 待つことわずか、扉に付いた覗き窓が開き、そこから三日月を横にしたような両目が覗く。

 しかし、ネイの姿を認めると、その三日月型の両目が途端に真っ直ぐに細く伸びた。

 ジットリとした警戒するような視線。それが上から下、下から上へとネイの身体に絡みつく。

「あんた、兵隊さんじゃないね。余所者だろ?」

 多少酒焼けした声。その声の具合で、それなりに年のいった女だというのが分かった。

「友人がこの街にいてね、ちょっとした届け物を持って来たんだ。それでこの店を訊いたんだが……トムってヤツを知らないか?」

 ネイはそう言うと笑顔を向け、軽く両腕を開いて見せた。トムと呼ばれる人間なら、必ずどの街にも一人はいる。

 女は訝しげな眼差しを向けていたが、しばらくすると一度鼻を鳴らして覗き窓を閉めた。

 直後にガチャガチャと音が鳴り、扉が内側に開かれる。

 姿を見せたのは、厚い化粧に強い香水の匂いを撒き散らす中年――しかも、横幅がネイの三倍はありそうな女だ。

「今、兵隊さんも来ているからね。おかしな真似はしないでおくれよ」

 中年女が愛想の無い口調で短く言うと、ネイは引きつった笑顔で館の中へ足を踏み入れた。

 そのとき、中年女はネイの足許にチラリと視線を向けた。が、すぐに何事も無いかのように顔を上げる。

 館の中は紅と黒の二色で統一され、そこら中に花が飾られていた。

 入ってすぐのホールは吹き抜けになっており、一階と二階を繋ぐ踊り場の左右からは曲線を描きながら階段が伸びて来ている。

 その踊り場から見下ろしてくる人影。その人物にネイは目を留めた。

 肩を露出させ、身体のラインを強調するよう黒いサテンドレス。

 肘まで伸びた、同じく黒いサテンの手袋。

 顔の上半分を黒いヴェールで隠し、真っ赤な唇だけが妖しく浮かび上がる。

「……よこしな」

 隣で中年女が何かを言ったが、ネイはそれを聞き逃して首を傾けた。

「なに?」

 ネイが訊き返すと中年女はわざとらしいタメ息をつき、もう一度同じことを繰り返す。

「腰のナイフものをこっちによこしな。ここではそういうルールなんだ。『お友達』には訊いていないのかい?」

 そう言って肉付きの良い頬を揺らしながら意味有りげに笑うと、中年女は両手を差し出してくる。

「あ、ああ……」

 ネイは慌てて腰のベルトを外し、二本のナイフを差した状態でベルトごと手渡した。

 それを受け取ると中年女はもう一度頬の肉を揺らしながら低く笑い、ホールの奥へと消えていく。

 その姿が見えなくなると、ネイは所在なげにもう一度踊り場に視線を向けた。

 ちょうど、踊り場にいたサテンドレスの女が腰をクネらせながら階段を下りてくる。

 女はそのままネイの前まで来ると、紅い唇の両端を嫌味なく上げて見せた。

 妖艶さと上品さ、その二つを合わせ持つような微笑み。

 顔を隠した黒いヴェールには、小さな蜂の模様が浮かんでいる。

「黒猫さんはどんな娘を御希望かしら?」

「黒猫?」

 ネイが眉を寄せると、女は口許を手で隠しながらクスクスと妖しげに笑う。

「扉の外の床は底が空いていて、入って来るときに足音が鳴るの。でも、貴方の足音は一切無かったわ」

「そうだったかい」

 ネイは肩をすくめて笑って見せながら、内心で舌を打った。

 足音を消すのは身体に染み付いた自然な歩き方だ。盗賊同士ならいざ知らず、娼婦館の女がそんなことに気を止めるとは思ってもいなかった。

「私はエマ、この館の主です」

「あ……ああ、よろしく」

 上擦る返事をしたネイに、ヴェールから透ける女の目許が緩い弧を描く。

「娼婦館で主なんて気取った言い方は可笑しいかしら?」

「いや、そんなことはない」

 苦笑しながら首を横に振ると、エマは再びクスクスと声を潜めて笑う。

「それで、どんな娘がお好み?」

「ああ、そうだな……経験が豊富な女で頼むよ。年配の女が好みなんだ」

 ネイが肩をすくめると、エマは口許に笑みを浮かべたままヴェール越しに目を細めた。

 艶やか視線。しかし、それとは別の何かを感じさせる。

 ただの娼婦館の主人ではない――ネイの直感がそう告げた。

 艶やかさ、上品さ、その中から隠しがたいとげが見え隠れする。

「……回りくどいのは止めだ」

 ネイがそう言って苦笑を浮かべると、エマは顎に指を当て首を小さく傾ける。

「要は、この街を良く知っている女を頼みたい」

 ネイが単刀直入に言うと、その潔さにエマが愉快そうに声を上げて笑う。

「正直な男は好きよ」

 口許に妖しい笑みが浮かんだ瞬間、ネイの中で激しい警告音が鳴り響く。

「っ!」

 頭上から突然に降り落ちてくる強烈な殺意に、ネイは反射的に顔を跳ね上げた。

 吹き抜けとなった天井。二階通路の手すりに足をかけ、真下のネイを見下ろしてくる男の姿。

 今しもその男が舞い降りようとしている。

「さすがに勘が鋭いのね」

 エマの言葉でハッとし、ネイは再び顔を戻したが遅かった。

 左手に持たれたハンカチで自身の口を覆うエマ。右手には小ビンのような物が握られ、それがネイに向けられている。

 小ビンから噴き出した霧状の液体。その霧がネイの顔にかけられた。

「な……っ!」

 声を発しようとし、すぐに身体の変化に気付く。

 頭が痺れるような感覚。視界が歪み足許が揺れる。

 ネイは咄嗟に腰に手を伸ばしたが、そこにナイフは無い。

「おやすみなさい、黒猫さん。それとも、鷹の眼ホーク・アイと呼んだ方が良いかしら?」

「おまえは……」

「エマよ。――もっとも、働き蜂ワーカー・ビーと言った方が貴方には分かるかしらね」

 そう言ったエマの声がひどく遠くから聞こえる。

「くそ……」

 ネイは薄れる意識で微かに左手を動かしたが、揺れる足許にバランスを崩して力無く片膝を突く。

 ぼやける視界。エマの紅い唇だけが鮮明に見えた……

 

 

 

 つづく

 

 

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