89章 忘れぬ顔
一陣の風が砂埃を舞い上げる。
舞い上がった砂にルートリッジは目をしばたかせ、数回咳き込んだ。
「砂埃が酷いな。噂には訊いていたが、これほどに荒涼とした場所だとは……」
丘の上から眼下に見えるゴルドランの外壁。
高い外壁の周辺には草木も無く、踏み固められた剥き出しの大地が広がる。
「仕方がないよ。ゴルドランはさ、元々が帝国軍の進攻を阻止するための砦だったんだから。永い戦いのせいで草木が無くなったって話だよ」
リムピッドが得意げに説明をすると、ビエリの巨体を風除け代わりにして身を隠したルートリッジが顔をしかめる。
「街中に入るにはあの門を通るしかないのか?」
言ながらネイが指差した先、外壁沿いに掘られている溝と、そこに掛かった大きな跳ね橋が見える。
その先には、橋の大きさに見合った立派な門がその口を開けていた。
「そうだよ。あとは帝国本土に抜ける反対側の門が一つあるだけだ」
トゥルーの返答に、ネイが顎に手を当てながら鹿爪らしく頭を上下に揺らす。
門の前、番兵が十人以上はいるのが見える。
それだけでも十分に多いが、現在は帝国本土の『境界』となっている街だけに、目に見える兵だけがその全てではない、というのが容易に想像出来た。
本当に証明書を持っているくらいで中に入れるのだろうか?――それが、ゴルドランの外観を見たネイの率直な感想だ。
「案ずるな。コソコソせずに堂々と行けば良いのだ」
ルートリッジはネイの心中を察したように言うと、手にした筒を振って見せた。
「あ? 学者?」
番兵は顔を離して値踏みするようにルートリッジを眺めると、手渡された証明書に胡散臭げな視線を落とす。
それに倣い、左右の番兵も頭をつき合わせるように証明書を覗き込んだ。
三人で食い入るように目を通す様は、何としてでも不正を見つけようとする底意地の悪さが窺える。
しかし、その努力も虚しく、三人が同時に低い唸り声を上げた。
それは、手にした証明書が本物だと認める敗北の唸りだ。
「確かに証明書は本物のようだな。しかし――」
番兵は目を細めながら、証明書とルートリッジを交互に見やる。
証明書には小さな肖像画と、簡単なプロフィールが添付してあった。
番兵は、そのプロフィールの部分に不審を抱いているようだ。
「これは本当におまえの物か?」
番兵が横柄な態度で言うと、ルートリッジは小柄な身体で思い切りふんぞり返り、番兵に負けじと横柄な態度を取る。
「そうだ。紛れもなく私の物だ」
「この年齢、本当に合っているのか?」
番兵が言うと、ネイは思わず『幾つなんだ?』と訊き返しそうになり、その言葉を慌てて飲み込んだ。
ネイたちの立場は『生徒と従者』ということにしてある。
そういう立場を謳っていながら、年齢を知らないとは言えない。余計な不審を買うだけだ。
「どうだ、若く見えるだろ?」
胸を張ったままで上機嫌なルートリッジを、番兵は不気味な生き物でも見るような目で眺めていた。
訝しがる番兵たちを背に、リムピッドがルートリッジの耳に顔を近づける。
「凄いね。本当にすんなり入れるんだ」
そう言って愉快そうに笑って見せたリムピッドに、ルートリッジが得意げに鼻を鳴らす。
「当然だな。これが学問の力だ。兵士の格好をしたり、ワイン樽に入る――そんな苦労をせずとも侵入出来るのだ」
笑いを含みながら皮肉ったルートリッジに、ネイは顔をしかめて肩をすくめた。
「おまえたち……牙の団だったか? その本拠もこの街に在るのか?」
ネイが声を潜めながら言うと、トゥルーが小さく首を振って返す。
「まさか。街中にそんなのが在ったらすぐに見つかっちゃうだろ」
小馬鹿にするように鼻で笑うトゥルー。
その顔が気に入らず、トゥルーの頭を一度平手で叩く。
「罪人が収容される場所に案内しろ。明るいうちに様子を見ておきたい。――それでおまえたちの役目は終わりだ」
ネイが正面を見据えたまま言うと、トゥルーとリムピッドが同時に目を丸くし、すぐさまネイを見上げるよう睨みつけた。
「ギルドの人間を紹介してよ! この街にだってギルドの情報屋はいるでしょ」
「リムの言う通りだ。あんた、本当はギルドとは関係ないんじゃないのか?」
口を尖らせる二人を、ネイがジロリと白い目で見下ろす。
そもそも、宿舎で助けた『貸し』があるから案内役をやらせたはずだ。にも関わらず、ギルドの人間を紹介しろなどと、さらに条件を付加する図々しさが腹立たしい。
「……分かったよ。ただし、捕らわれているラビを上手く助け出してからの話だ」
「えっ! 失敗したらどうするのさ」
「そうよ、どうせ失敗するわよ! 先に紹介してよ」
ブーブーと不満を漏らす二人に、ネイはげんなりとした様子で肩を落とし、その隣ではビエリが苦笑を漏らす。
「騒ぐな。用事が済んだらちゃんと紹介してやるって言ってるんだ」
ネイが言うと、二人はまだ不満げな顔を見せていたが、最終的に渋々と頷いた。
その二人の様子を見て、ネイは内心で舌を出す。
ギルドの人間を紹介するつもりは毛頭無い――と言うより、ギルドに追われる身で紹介など出来るはずがない。
「まあ、せいぜい期待してろ」
その呟きを耳にし、ルートリッジが呆れたように吐息を漏らした。
ゴルドランは『元は砦』ということもあり、アーセン地方の街の中ではその気配が若干異なる。
その主な要因は三つ。
一つ目の要因は、路行く者がヴァイセン帝国軍の関係者ばかりだということ。それも本土の人間だ。
ゴルドランは、終戦後に砦を拡張して建てられた街のために元からの住民なども無く、アーセン地方の監視を兼ね、帝国本土の人間が移り住んだことがその理由だ。
二つ目は、住民の大半が兵士のため、必然的に建ち並ぶ店は『鍛冶屋が多い』ということ。
街中に展示されている武具の数が他の街の比ではない。
昼間は街のそこかしこで鉄を叩く音が響き渡り、その騒々しさには多少の慣れを要する。
そして、三つ目の要因――それは、色彩の欠如だ。
鍛冶屋が多いということもあり、建ち並ぶ店の色彩は非常に乏しい。
その上、鍛冶屋以外で目に付く建物も、石造の無骨な物ばかりだ。
戦地となった際、火が回らぬようにと考慮しての造りか、それとも兵士ばかりの無頓着さゆえか、その理由は判断しかねたが、色彩の欠如が街全体を、暗く重々しいものにしているのは間違いなかった。
怪しまれぬように通りを横切り、横目に収容所となっている『塔』を確認する。
その外観を目の当たりにし、ルートリッジが恍惚とした吐息を漏らす。
「素晴らしい……。本当に素晴らしい」
目を潤ませて立ち止まりそうなルートリッジの腕を掴み、ネイが無理矢理に引っ張る。
「おいおい、あんな目の前で立ち止まるなよ。ただでさえ目立つんだからな」
ネイが言う通り、ゴルドランでは女子供を連れているのは珍しく、通りを行く者が時折好奇の目を向けて来る。
「それに、収容所にウットリするなんて悪趣味だ。薄気味悪いぞ」
ネイが毒づくと、ルートリッジが現実に戻った表情で鼻を鳴らした。
「何を言う。この塔は歴史古き建造物なのだぞ。それを収容所などと無粋な物に利用しただけの話だ。見ろ――」
ルートリッジが肩越しに振り返り、その視線を追うようにネイもチラリと塔を見やる。
「永き時間の果て、素晴らしき色合いと風情をかもし出している」
まるで自分の作品のように自慢げに言うが、ネイはその感想に全く共感出来なかった。
ネイの目から見れば、やたらと外周の大きい古ぼけた石造りの塔――それ以外の何物にも見えない。
どういう意図で建てられた塔なのかは学者の間でも意見が分かれるらしいが、アーセンの地がヴァイセン帝国に奪われた後に収容所となった、ということだけは確かだ。
正確には塔自体が収容所というわけではなく、塔の真下に掘られた地下が収容所となっているのだが。
「とりあえず戻ろう。外の様子は分かっただろ?」
ネイの隣、トゥルーが顔を伏せがちにして囁くように言う。
その表情は、さすがに幾分かの緊張感を漂わせていた。
収容所の様子を窺いに来たのは、ネイ、トゥルー、ルートリッジの三人だ。
残りの三人は、先に宿を取って部屋に残してあった。
「サイホンで仲間が何人か捕まったろ? やはり収容所に連れて来られるのか?」
宿に足を向けながらネイが訊ねると、トゥルーは下唇を噛んで首を小さく縦に振った。
トゥルーが初めて見せた暗い翳り。
一体、今まで何人の仲間が捕まり、そして死んでいったのか? その疑問がネイの頭をよぎる。
「ここに来たら助け出してやるのか?」
「収容所に入れられたらもう無理だよ。収容所からは一人を救い出すのも難しい。それなのに、何人も救い出すなんてことは……」
真っ直ぐなトゥルーの眼差し。それが今はひどく澱んで見える。
その眼を見て、ネイの記憶の隅で一つの顔が浮かんだ。
トゥルーの見せた澱んだ眼。それと同じ眼を以前にも見た憶えがある。
水辺に映った顔。それは――
(俺の眼だ)
もう痛みの無いはずの右目尻の傷痕。その部分がズキリと痛み、ネイは緩くかぶりを振った。
精神が未熟で『自覚』がない――トゥルーたちのことをそう思っていたが、それは犠牲を払うことに麻痺してしまったからかもしれない。
侵略された大地。その地で生を受けた者は、何かを犠牲にすることに関し、生まれながらに諦めのようなものを持っているのではないか。自分の命にさえ、価値が見出せなくなるほどに……。
そう感じさせるのに充分な澱みがその眼にはある。
「反乱活動は……」
自分の存在価値が欲しいからか? そう言いかけてネイは口を閉ざす。
自分には関係ない。深入りする気も無い。その想いが、口から漏れかけた言葉を飲み込ませる。
「なんだい?」
すでにいつもの表情に戻っていたトゥルーが小首を傾げた。
ネイはその顔を見て小さく吐息を漏らし、首を左右に振る。
ネイの様子にトゥルーはもう一度首を傾げると、少しずつ遠ざかる塔へと視線を移した。
「牙の団にはさ、あそこに両親を入れられたってヤツが多いんだけど、その中の一人が街の外から毎晩あの塔に向かって祈りを捧げるんだよ。母親が中にいるらしくてね」
「……ああ、そうかい」
「俺とリムは親を知らない。だから分からないけど、きっと母親って良いものなんだろうな。助けてやりたいよな……」
トゥルーの言葉にネイの鼓動が微かに速まり、指先に痺れるような感覚が走った。
その感覚を振り払うようにネイは意識的に大きく鼻を鳴らし、口許に薄い笑みを浮かべる。
「とんだレジスタンスだな。まだママのオッパイが恋しいとは」
静かに言ったネイに向かい、トゥルーは目を吊り上げて立ち止まった。
「バカにするなっ! それに、母親が恋しくて何が悪いっ! あんたにだって母親が居たんだぞ。一人で生まれて来たヤツなんていないんだから」
その言葉にネイが足を止め、ゆっくりと振り返る。
トゥルーを射抜くような視線。その視線はひどく冷たく、殺意さえ感じさせる。
ネイの視線にトゥルーが一瞬たじろぐ。
「ネイ」
それまで黙っていたルートリッジが窘めるように名を呼ぶと、ネイは視線を外して再び背を向けた。
「……」
一人、先に歩き出そうとするネイの背に、トゥルーの上擦った声が投げかけられる。
「な、なんだよ。あんたも親を知らないのか? そんなの珍しくはないぞ」
強がるように言ったトゥルーに、ネイは顔を向けることなかった。
しかし、その口からは感情の無い声が漏れる。
「親は知らないが――」
チカチカと閃光が走るような目眩。その光に紛れ、恐ろしい形相をした女の顔が浮かぶ。
「俺を殺そうとした女なら知っている」
そう吐き捨て、再び一人歩き出す。
手足が痺れ、右目尻の傷痕が焼けるように激しく痛み出す。それと同時に込み上げて来る吐き気。
押し寄せる不快感と苦痛に、ネイは顔を歪めた……
つづく