87章 挑戦状
暗い森の中、焚き火の灯かりだけが周囲を照らす。
バチバチと音を上げる炎に向かい、ネイが足許の小枝を一つ投げ入れた。
「――それだけか?」
揺れる炎を見つめながらネイが訊ねると、ルートリッジが開かれた書物を丁寧に閉じながら頷く。
小さく漏れるタメ息。ネイの表情には、落胆の色が滲んでいた。
始まりの王。表紙にそう銘打たれた書物。
その中身は、すでに使われることのない古代文字の羅列。
限られた一部の学者にしか読み取れぬその文字を、ルートリッジはネイに読んで聞かせた。
もちろん、その『全てを』というわけではない。
ネイが知りたがっていた『聖女』と『復活際』に関連があるであろう部分だけだ。
――約千年ほど前、始まりの王がバルト大陸を統一するまでの道のりは、女神の御告げによるところが大きかったという。
夢の中に現れた銀髪の女神が、統一への道筋を始まりの王に告げたのだと。
そのため、始まりの王は統一後に女神信仰を作り、それが現在の教会に至る。
復活際に関して言えば、始まりの王が崇めた女神が、穢れを知らぬ乙女の肉体を借り、再び地上に舞い戻るというのだ。
しかし、この話は以前にセティからも聞かされていた。
目新しい点と言えば、復活際が模様されるであろう日付に関して――五十六度の同じ夜、不浄なる地に女神は再び舞い戻らん――そう記されていた程度だ。
「期待外れ、そういった顔だな」
ルートリッジが眼鏡を指先で下げ、上目遣いにネイを見る。
「まあな……」
気の無い返事をし、ネイは小さくタメ息をついた。
期待していた『聖女が二人いる』理由に関して、それらしい情報は何一つ無かった。
聖女が二人いること――ましてやその二人が全く同じ容姿だということを知らないルートリッジは、ネイの落胆ぶりを見て訝しげに目を細めた。
「ネイよ、そう落ち込むな。復活祭の日付に関していえば分かったではないか」
ルートリッジが励ますように言うと、ネイは緩慢な動きでルートリッジに顔を向ける。
「日付について? 何が分かったんだよ。五十六度の同じ夜だなんて言われてもさっぱりだ」
ネイが両手をヒラヒラと振って見せると、ルートッリジは苦笑しながら頭を掻いた。
「五十六度の同じ夜とは、おそらく日蝕のことだ」
「にっしょく? 太陽が黒くなる……あれのことか?」
ネイが人差し指を空に向けながら訊くと、ルートリッジが確信に満ちた顔で頷く。
「なんで日蝕のことなんだよ」
「いいか、日蝕は数年に一度起こる。だが、『同じ日蝕』は約十八年に一度起こるのだ」
「同じ日蝕? 日蝕に種類なんて在るのか?」
「在る。ここで詳しく言っても仕方が無いが、確かに種類があるのだ。――そこでだ。十八年に一度の日蝕を五十六回繰り返すと、一体どれくらいの時間が過ぎると思う?」
「……」
ルートリッジが顔を近づけ問いただすと、ネイは眉間にシワを寄せ、地面に指先で数字を書き始めた。
それを見たルートリッジが咳払いをし、その行動を止める。
「約千と八年だ」
「千と八年?」
ルートッリジが頷く。
「どうだ? 始まりの王が統一した時代と今の時代、計算が合うではないか」
嬉しそうに目を輝かせるルートリッジに、ネイは首を捻って低く唸った。
その態度にルートリッジの表情も曇る。
発見の喜びに、水を差されたようで気に入らない。
「そうかもしれないが……。その『同じ日蝕』ってやつが、次に起こるのがいつなのか分かるのか? 十八年に一度って言ってもなあ……」
「おおよそなら分かる」
自信に満ちた表情で断言するルートッリジに、ネイが目を丸くする。
「本当かよ」
「ただし、ある男なら、という条件付きだがな」
「ある男?」
ネイが眉を寄せると、ルートリッジはゆっくりと頷いて見せた。
「聖都にて日蝕を記録している学者がいる。教会の協力を得て、立派な図書館を与えられているよ」
「教会の協力か……」
「おそらく、教会は復活際の関係から協力しているのだろう」
「……」
ネイは考え込むようにうつむいた。
聖都と聞き、嫌が上にも『聖女』の姿が思い浮かぶ。
「ゴルドランでラビを救出したら、その後で聖都にでも行ってみるか」
「ああ……」
ネイがうつむきながら上の空といった具合に返事をすると、ルートリッジは訝しげに眉を寄せた。
「何かあるのか?」
ルートリッジが訊ねると、ネイがチラリと目線だけを上げる。
ルーナが聖女なのだろうと皆が思っている。それはルートリッジもだ。
聖女であるからこそ、教会に追われていたのであろうと……。
ネイはルートリッジの目を見据えながら考えを巡らせた。
目の前に座る、学者を名乗った年齢不詳の小柄な女が、果たして信用出来るかどうかをだ。
ルートリッジが何かを企んだりするとは到底思えない。が、その好奇心の強さが心配だった。
おそらく、話を聞けばルートリッジは首を突っ込みたがる。
しかし、かと言って他の誰かに相談する気にもなれない。
単純に、好奇心のみが優先されるルートリッジだからこそ、相談相手として都合が良いとも言える。
しばらくルートリッジの目を見据え、ネイは不意に自虐的な笑みをこぼした。
自分が、相談できる相手を欲していたことを自覚したからだ。
そのことが無性に可笑しく、同時に情けなかった。
「どうした?」
ネイの様子にルートリッジが小首を傾げる。
ネイは緩くかぶりを振ると深い吐息を漏らし、一度周囲に視線を巡らせた。
トゥルーとリムピッドは肩を寄せ合い、樹に凭れながら頭を垂れ、ビエリは焚き火の傍で小ぢんまりと膝を抱え、頭をコクリコクリと揺らしている。
そのビエリの隣、ルーナは背筋を伸ばしたまま目を閉じていた。
その姿は、相変わらず寝ているのかどうか判断出来ない。
ネイはルーナの姿に苦笑すると、決意を固めてルートリッジに向き直り、そこで一呼吸置いた。
ネイが重要な何かを語ろうとしているのを悟り、ルートリッジも黙ってその視線を受ける。
「実は……」
ネイはキューエルのこと、教会の屋上にいた聖女のこと、そして聖女が自分の名を呼んだことを語り始めた。
乾いた唇を舌で濡らし、ルートリッジがボソリと呟く。
「聖女が二人……」
その声は興奮のためか、微かに震えていた。
ネイは何も答えず、次のルートリッジの言葉を待つ。
ルートリッジは顎に手を当て、ネイの話を呪文のようにブツブツと口の中で繰り返す。
「ルーナとは別に、ちゃんと聖女が存在していたんだな? それもルーナと全く同じ容姿で」
念を押すルートリッジに、ネイが首肯した。
「ああ。ただ、聖女は蒼い瞳だったがな」
私と同じ、蒼い瞳だ――耳の奥、そう言った聖女の声が鮮明に甦る。
「常識的に考えれば、双子というのが妥当だろうな。しかし、おまえの名を呼んだということは、聖女の方は喋れるのか……。どんな声だった?」
「そんなこと、説明なんか出来ない」
ネイが口を尖らせると、ルートリッジが『もっともだ』というように笑いを漏らす。
「聖女が双子だと考えても、教会はどうしてそのことを隠すのだろうな。それに、一つ気になったんだが――」
眼鏡を外し、それを手許で遊ばせながら、ルートリッジが躊躇いがちに口を開く。
「キューエルという男が、おまえの『師』のような存在だというのは分かった。だが、その男はどうしておまえを仲間に引き込もうとしたのだろう?」
「どうしてって……」
ネイが答えを言いよどむ。
「そのキューエルという男を、おまえはよく知っているのだろ?」
「昔のキューエルを知っているだけだ」
即座に否定し、語気が思わず強くなる。
どうしても、変わってしまったキューエルを受け入れることが出来ない。が、それと同時に『変わった』ということに、引っかかりを感じていたのも事実だった。
胸に引っかかる元――それは、キューエルの最期の顔だ。
変わってしまったと思うには、あまりにもその顔が穏やかだった。
最近になり、キューエルは初めから死ぬ気だったのではないか? そう思い始めていた。
理由は分からない。分からないが、そう思わせるほどに穏やかな顔だった。
しかし、そう考えた場合、ルーナに対して『利用価値がある』と言った、キューエルの言葉の意味が分からない。
何かを企ていたなら、死ぬ気だったというのもおかしい。その矛盾がグルグルと頭の中を回る。
そもそも、死ぬ気だったと考えるのは、キューエルが変わったことを認めたくないという、自分の逃避手段なのかもしれない。
――と、そこまで考え、不意にルートリッジの声が耳に届く。
「ネイ、聞いているのか?」
訝しげな視線をルートリッジが向けているのに気付き、ネイはかぶりを振った。
「すまない。何だ?」
ルートリッジは一度顔をしかめたが、気を悪くした風でもなく、再び言葉を続けた。
「キューエルが師だというのなら、おまえの盗賊としての観念は、少なからずその男に影響を受けているのだろ?」
「そうだと思う」
「だとしたらその男は、おまえが誘いに乗るとでも思ったのだろうか?」
「……どういう意味だ?」
「キューエルという男をおまえはよく知っている。同時に、その男もおまえをよく知ってるのではないか? キューエル自身は変わったのかもしれない。しかし、おまえはどうだ? キューエルというヤツは、おまえも変わっているとでも思ったのだろうか?」
「それは……」
ネイが答えられずにいると、ルートリッジが低く唸った。
「なぜ仲間に誘ったのだろう? 断られることを考えもしなかったのだろうか? それとも、自分の言うことなら何でも聞くとでも思ったか?」
「……」
ネイはうつむいた。
ルートリッジが今しがた口にした疑問、それがネイの胸を締め付ける。
自分も小悪党と『同類』――そう言われたときの虚しさが甦る。
小悪党のようなことをしていても、言うことを聞く――そう見くびられていた悔しさが甦る。
他の誰に思われようと、キューエルにだけは『クズ』だとは思われたくなかった。
キューエルにだけは侮られたくはなかった……。
どんよりと暗い影がネイの胸に広がる中、ルートリッジが口にした言葉。
その言葉にネイが顔を跳ね上げた。
「今、なんて言ったんだ?」
「ん? また聞いてなかったのか?」
ルートリッジが呆れたように苦笑する。
「分からんことばかりだ、そう言ったんだ」
「その後だ!」
ネイの剣幕に驚き、ルートリッジが背を反らす。
「その後? ……難解な方が挑戦し甲斐がある、と言ったんだよ」
「挑戦……?」
ネイは再びうつむき、挑戦という言葉を口の中でブツブツと繰り返す。
そんな様子に、ルートリッジが心配げに眉を寄せた。
「ネイ、あまり思いつめると、頭がおかしく――」
そこまで言ったとき、ネイが低い笑い声を漏らし始め、ルートリッジがギョっとする。
「ネイ、大丈夫か?」
心配げに顔を覗き込むルートリッジに、ネイは憑き物が落ちたような笑顔を向けた。
「挑戦か……。そうだ、これは挑戦だ」
どんよりとした暗い胸の内、徐々に明かりが射し始め、見ることの叶わなかった輪郭が浮かび上がる。
――やはり、キューエルは始めから死ぬ気だったのではないか?
ルートリッジが言ったように、キューエルもネイのことをよく知っている。
キューエルが言ったルーナの利用価値。それは、何かの計画のためではなく、自分を引き込むための利用価値だったのではないか?
では、一体何に、どうして引き込もうとしたのか?
姿を消してからの六年、キューエルは何かに辿り着き、そこで何かを知った。
自分で言ったではないか。それを知る『鍵』がルーナだと。
キューエルはその鍵を寄越し、最期のメッセージを突き付けたのではないか?
『俺が辿り着いた場所に、おまえも辿り着けるか?』
それは、キューエルが最期に寄越した挑戦状――
その考えが、自分に都合の良い思い込みだというのも良く分かっていた。
キューエルがいない今、それを確認する術は無い。
しかし、そういったやり方が、ネイの知っているキューエルという男に似合っていた。
確信に近い手応えを感じ、ネイがルーナにそっと視線を移す。
「っ!」
ドキリとし、ネイは目を大きくした。
閉じていたはずのルーナが目がいつの間にか開かれ、ネイを見つめていたのだ。
少しも揺れることなく、真っ直ぐに向けられる紅い瞳。
その瞳が
「やっと気付いた」
そう言っているように見えた……
つづく