80章 特殊任務
「こんな所で何をしている!」
「そりゃあ、こっちの台詞だ」
口許に笑みを浮かべたネイの頬、一筋の汗が顎へと伝う。
二人は背中合わせに構えを取り、周囲を囲む帝国兵に切先を向け威嚇した。
「とにかく、今は逃げるぞ」
ネイの言葉にアティスが小さく首を振り、拒否の姿勢を示す。
その否定の意思表示が、背中越しにネイにも伝わり舌を打つ。
「この状況は『引き時』ってやつだろ!」
「ダメだ、ヤツが近くにいる。ヤツさえ倒せれば……」
自分の身など構わない。そう言葉が続くことは、アティスが言わずともその気配でネイにも分かった。
「狙いはあの『黒騎士』か?」
アティスが小さく頷いて応えた。
「貴様ら、何をゴチャゴチャ言っておるか! おまえ――」
帝国兵の一人が、サーベルの切先でネイを指し示す。
「どういうつもりかっ! その女は賊であるぞ!」
怒りを露にする帝国兵に向かい、ネイの口許に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「入隊したばかりの新兵でね。つい、うっかりってやつさ。もっとも、さっそく除隊させてもらうがね」
「ききき、貴様ぁ!」
怒りの声と同時に、呆気に取られていた他の者もサーベルを構える。
それに合わせ、ネイはもう一本のナイフを素早く抜いて両手で構えた。
一斉に襲い来る帝国兵を、ネイとアティスは互いに背を預けて迎え撃つ。
ネイは突き出されるサーベルを左手用短剣で受け流し、サーベルを持った腕を剣折短剣で斬りつける。
一方、アティスは相手の踏み込みに合わせ、それよりも先に突きを繰り出した。
第一の攻撃をやり過ごし、二人が再び背を合わせて構え直すと、帝国兵が踏み込むことに躊躇いを見せる。
「バカがっ! 腕など斬らずに一撃で仕留めろ!」
アティスの叱責に、ネイは小さく肩をすくめた。
「とにかく一度引くぞ」
「好きにしろ! 私は残る!」
意見の食い違う二人に、再び迫る第二の攻撃。
「っ!」
ネイはその攻撃を避けつつ、相手の鼻先にソードブレイカーの柄を叩き込む。
帝国兵が思わずうずくまると、鼻を抑えた手からドロリとした鮮血が零れる。
「仕留めろと言っただろ!」
その間に二人を始末したアティスが再び叱責の声を上げる。
その声にネイはタメ息を漏らした。
「ったく……なんて女だ」
言い終えると同時にアティスに素早く向き直り、その引き締まった細い腰に腕を回す。
「なっ! 何を……」
「好きにしろって言ったろ!」
突然のネイの行動にアティスが絶句するが、ネイは構うこと無くその身体を肩に担ぎ上げ、左腕を振り抜いた。
小さく風を切る音を上げ、ネイの左腕からワイヤーが放たれる。
ワイヤーは四階へ伸びる階段の手すりに絡みつき、ネイは背後の手すりに足をかけて宙を舞った。
帝国兵の無数の視線がネイの姿を呆然と追う。
ネイはその視線の中、ワイヤーにぶら下がりながら下の踊り場へ着地すると、素早く腕を引いてワイヤーを収めた。
「……っ! 追えっ! 追えぇ! 逃がすなあ!」
二呼吸ほど遅れて上がった声を無視し、ネイはアティスを担いだまま手すりに尻を乗せる。と、そのまま一気に二階まで滑り下りた。
あっと言う間に下の階に逃げてしまったネイに、帝国兵が喉を嗄らすほどの叫び声を上げる。
「逃がすなあ!」
頭上か降り注ぐ絶叫と、肩越しで怒鳴るアティスの声を受けながら、ネイは止まることなく一階への階段を駆け下りた。
「いたぞ、上だ!」
「くそっ!」
二階から一階へ下る階段、踊り場を折り返したところで階下に帝国兵が姿を見せる。
ネイは慌てて二階へ駆け戻り、通路を東に向かって走った。
「ネイ、下ろせ! 下ろせぇ!」
担ぎ上げられたアティスが足をバタつかせ、ネイがバランスを崩しそうになる。
「少しは大人しくしてろ!」
暴れるアティスの尻を思い切り叩くと、直後にネイの後頭部に強烈な肘打ちが入った。
「痛っ! このっ!」
舌打ちすると近くの扉を開け、アティスを肩から投げ捨てる。
やっと地に足を着けることが出来たアティスが、目尻を吊り上げて怒鳴ろうとするが、その口をネイがの手が慌てて塞いだ。
「どこだ!」
「こっちへ行ったぞ」
扉の向こうから聞こえる怒声と足音。
ネイに緊張が走る。
「東の棟にいるヤツらと合流する気かっ!」
「将軍殿を御守りしろ!」
ズカズカと慌しい足音が扉へと近付いて来る。
アティスの鋭い視線を受けながら、ネイは呼吸すら止めた。
…
……
………
無数の足音が扉の前横切り、徐々にその音が遠ざかっていく。
そこでネイはやっと安堵の息をついた。
「離せっ!」
目を吊り上げたアティスがネイの手を払い除けると、ネイがムッと口を尖らせる。
「おまえなあ、ちょっとは感謝しろっ!」
極力声を抑えながら怒鳴りつけると、アティスは憎々しげにネイを睨んだ。
その様子に、ネイは大きくタメ息をついて肩を落とす。
「落ち着けよ。おまえらしくないぜ?」
ネイが苦笑して首を傾けると、アティスは険しい表情のまま顔を背けた。
「おまえに何が分かる!」
「聞いてもいなのに分かるはずないだろ。俺は心を読めるわけじゃない」
茶化すように小首を傾げて肩をすくめるネイ。
そんなネイを、再びアティスの視線が鋭く射抜く。
アティスは歩み寄ると、顔を近づけてネイを見上げた。
付きそうになるほど近づいたアティスの顔。
整った顔立ちに、今は激しい怒りの色が浮かぶ。
その剣幕に、ネイは背を反らすと両手を小さく上げた。
「ヤツを倒すことが出来れば、指揮系統と精神的な両面で帝国軍の戦力は落ちる。良くも悪くも、漆黒の鎧というのはそれほどの影響力を与える」
「……」
必死に訴える様子のアティスに、ネイは哀れむような視線を向けた。
「漆黒の鎧を身に着ける者は、ヴァイセン帝国の力の象徴だ! そんな重要人物が目と鼻の先にいる。こんな機会は他に無い!」
「……それで一人で乗り込むなんて無茶をしたのか?」
「そうだ。ルーたちは足手まといになる。一人の方が動き易い」
「冷静な判断とは言えないんじゃないか? ……死ぬぜ?」
ネイが言うと、アティスは低く笑った。
「おまえは馬鹿か! 一私兵団の団長と、帝国軍将軍の命だぞ? どう差し引いてもツリがくる」
「……それだけか?」
アティスの眉がピクリと動く。
「どういう意味だ?」
「そんな戦況うんぬんの問題だけなのか、と訊いたんだ。それにしてはずいぶん冷静さを失っているじゃないか?」
「なっ……」
「それに、おまえがそんなことをしたら、エインセ将軍の立場もまずいんじゃないのか?」
「私は……」
アティスは一度言葉を飲み込み、顔を背けた。
「私は正規軍じゃない。尚かつ帝国出身者だ。どうとでも言い訳はつくさ」
「ふ〜ん……。まあ、俺は別に良いけどな」
「おまえは、どうしてそんな格好でこんな所にいるんだ?」
「いや、てっとり早く街に入ろうと帝国兵の装備を拝借したんだが――」
ネイは自身が身に着けた装備を擦った。
「街に入るなり、黒騎士殿の出迎えに参列させれられてな。成り行きでここまで来ちまったよ」
ネイが照れ隠しに笑うと、アティスは呆れたような目を向けて緩くかぶりを振った。
そんなアティスにネイが咳払いを一つ。
「まあ、おまえの言いたいことは分かった。だが、あの黒騎士は東の棟だろ? さっきのヤツらも東に向かって、兵士が東の棟に集まっちまった。もう一人じゃ無理だぜ?」
ネイが言うと、アティスが小さく舌を鳴らす。
「貴様のせいだ! あそこで突破出来れば、兵士が分散してる内に東の棟へ行けたものを」
アティスが苛立たしげに毒づくが、ネイは反論せずに苦笑した。
「だったら協力してやっても良い」
「なんだと?」
ネイの申し出に、アティスが怪訝そうに眉を寄せる。
「ただし、条件が一つ有る」
「……なんだ?」
「俺に従ってもらう」
「なに?」
ネイの条件に、アティスはあからさまに顔を歪めて拒否の反応を見せる。
「今回は、進軍ラッパを吹いた戦闘ってわけじゃない。言わば潜入ってやつさ。だったら盗賊の専門分野だ。専門家に従うのは当然だろ? それとも……一人で無駄死にするか?」
今度はネイが顔を寄せ、アティスが背を反らす。
「……い、良いだろう」
渋々と頷くアティスに、ネイは笑みを浮かべた。
「なぜ西の棟へ向かう?」
身を低くし、先の通路を覗き込むネイの背に、アティスの不機嫌な声が投げられた。
「慌てるなよ。東の棟へ向かっても、今はどうせ蜂の巣を突いたような有様さ。だったらその前にやっておきたい事がある。……行くぞ」
ネイが走り出すと、アティスもタメ息をついて後を追った。
二人は途中、東の棟へ向かう兵士と何度か出くわしそうになったが、それを身を隠してやり過ごすと、地下へ通じる鉄製の扉の前に立った。
「なかなか良い筋してるぜ。盗賊に転職出来るんじゃないのか?」
ネイが笑うと、アティスは白い目を向けてそれを無視する。
「ここは何だ?」
「食料庫さ」
「食料庫? まさか……『腹ごしらえ』などと、くだらないことを言うつもりじゃないだろうな?」
真顔で言ったアティスに、ネイが低く笑った。
「そんなことは言わない。まあ待てって……」
ネイがそう言って扉の前に屈み錠前を手にすると、その様子にアティスが小さく鼻を鳴らす。
「ずいぶん頑丈そうな錠前だ。鍵は持って……」
アティスの言葉の途中、それを制するようにネイが振り返えった。
「もう済んだ」
そう短く言ったネイの手許で、解除した錠前と針金が軽く揺れる。
口を開けたままのアティスに、ネイは愉快そうに低く笑った。
「本当にただの食料庫か……」
扉を開けて短い階段を下りると、半地下となった食料庫にアティスが視線を巡らせた。
ワイン樽が幾つも並んで積み重ねられ、戸棚には肉や野菜、様々な食料が置いてある。
ネイは迷うことなくワイン樽に近づくと、それを一つ一つ調べ始めた。
「ところで、騒ぎを起こしている連中は何者だ?」
ネイがワイン樽に視線を落としながら訊くと、壁に寄りかかり腕を組んでいたアティスが答える。
「おそらく反乱組織だ」
「レジスタンス?」
「ああ。最近、小規模だが反乱活動を起こしている一団があると聞いた。おそらく連中のことだろう。永く力の支配が続けば、そういった反乱分子は必ず生まれてくる」
「レジスタンスねえ……。レジスタンスっていうのは、たいがいが元軍人とか傭兵とか、何らかの戦闘訓練を受けたヤツじゃないのか?」
納得のいかぬ様子のネイに、アティスが目を細めた。
「そうとは限らんが、多少は精通した人間が必要だろうな。そうじゃなきゃ話にならん。……何か気になることでもあるのか?」
「いや、ヤツら入って来たときにその姿を目にしたんだが、移動の仕方が素人丸出しだったんでね」
「素人集団か……」
アティスは顎に手を当て顔を伏せた。
門番を装っていた者たちの顔が思い出される。
その顔は幼さを残し、戦闘経験が豊富なようにはとても思えなかった。
「あった! これだ」
ネイの声に、思案に耽っていたアティスが顔を上げて壁から身を離す。
見ると、ネイがワイン樽の一つを手前に引いていた。
「なんだ?」
問いかけながら歩み寄るが、ネイは答えることなく蓋の合わせ目にナイフを入れる。
アティスが小さくタメ息をつきながら様子を伺っていると、気になるものが目に留まった。
ワイン樽の側面、黒い文字が書かれた場所に小さな穴が空いている。
ワイン樽に穴――その不自然さにアティスが疑問を持ったところで、軋んだ音を上げながら樽の蓋が開いた。
ネイが樽の中を覗き、ホッとした表情を浮かべる。
それを見て、アティスも近づき樽を覗き込んだ。
次の瞬間、アティスの表情が固まり、口許が小刻み震える。
「ネイ……おまえ……正気か?」
樽を覗き込んだままアティスが静かに言うと、ネイは苦笑しながら頭を掻く。
樽の中には、アティスをジッと見上げる人物――ルーナが膝を抱えて座っていた。
「ネイ、おまえは何を考えているんだ! おまえたちは、その娘が帝国軍に追われているからこそ、エインセ将軍に保護されたのではないか!」
アティスが怒鳴りつけると、ネイはそれを無視してルーナを樽から引き出した。
「エインセ将軍はこのことを知っているのかっ!」
尚も続くアティスの怒鳴り声に、ネイは顔をしかめて小指で耳を塞ぐ。
その態度が、アティスの怒りに火を点けた。
「その娘を連れて、一体これからどうするつもりだっ!」
「あの黒騎士殿を殺るんだろ? だったら、こいつを食料庫に置いてはいけない。殺った後に迎えに来る余裕があるとは思えないからな」
ネイが白々しく言うと、アティスのこめかみに筋が浮く。
「なぜ連れて来た!」
ブンディ・ダガーを引き抜きそうな剣幕でアティスが問うと、ネイは眉間に指を当てて低く唸った。
「石の意思……って言ったらどうする?」
「死にたいか?」
予想通りのアティスの冷たい返答に、ネイが乾いた笑い声を上げる。
「だよな……。他人が同じことを言ったら、俺もそいつの頭を疑うぜ」
「……」
諦めたのか、アティスはそれ以上怒鳴ることは無く、気持ちを落ち着けるように大きく息を吐き出した。
「それで? その娘を連れてどうする?」
「だから、あの黒騎士を殺るんだろ?」
当然のようにネイが答えると、アティスは絶句し目を見開いた。
そこでネイが表情を消し、真っ直ぐにアティスを見据える。
「おまえは討ち死にも厭わない覚悟なんだろ? だったら付き合ってやるよ。こいつは――」
そう言って、傍らに立ったルーナの肩に手を置く。
「運が無かったと思って諦めてもらうしかない。仮に死んでも、二人の命で帝国軍の戦力が落ちるなら安いものなんじゃないのか。おまえはそう考えるんだろ?」
ネイの言葉にアティスの眉がピクリと動く。
「二人の命?」
「ああ。俺一人なら逃げ切る自信があるからな」
「……っ! 貴様っ!」
アティスがネイに掴み掛かろうとするが、それをネイが右手で制す。
「自分の命すら捨て駒に使うヤツが、他人の心配なんかするなよ。それに、俺に従うんじゃなかったのか?」
ネイが『条件』を突き付けると、アティスは親の敵を見るようにネイを睨んだ。
その視線には、怒りと共に確かな殺意が込められている。
「勝手にしろ!」
怒りを無理矢理に抑えたかのように静かに言うと、アティスはそのまま背を向け歩き出した。
一度だけ、肩越しからネイに軽蔑の視線を向けて。
外の様子を探るアティスの背に、ネイは苦笑しながら小さくタメ息をつくと、ルーナの耳元にそっと顔を近づける。
「いいか、おまえに一つ指示を出すぞ」
ネイが囁くと、ルーナはゆっくりと顔を向けた。
「アティスの傍から絶対に離れるな。……分かったか?」
その指示にルーナが頷くことはない。
しかし、再び前を向くと、ルーナはアティスに向かって歩き出した……
つづく
次回は4日ぐらいを目標にがんばります!
どうぞよろしく(2/26)