78章 取引
畏怖。絶対的な畏怖を撒き散らしながら、その者はやって来た。
眼前を通過する瞬間、ルートリッジの身体は硬直し、背中に冷たいものが走る。
漆黒の鎧で全身を覆ったその姿は、見る者を萎縮させるに充分な気配を持っていた。
姿が見えなくなり、壁を造るように立ち並んだ兵士も散ったところで、呼吸法をやっと思い出せたかのように大きく息を吐き出した。
そのルートリッジの背後、花屋の店内から娘が恐々と近付いて来る。
「大丈夫ですか?」
心配げに娘が訊ねると、ルートリッジは肩をすくめた。
「とんでもない威圧感だな」
「あのお……お身体、何ともありませんか?」
娘が様子を伺うように、しげしげとルートリッジを眺める。
その視線にルートリッジは眉をひそめた。
「何ともないが……どうしてだ?」
「死んだ祖父が言ってたんですよ。血路の騎士の姿を見たら魂を抜かれるって……」
眉間にシワを寄せ、真剣な面持ちの娘にルートリッジが思わず吹き出す。
「魂を抜かれる?」
「ええ。あの騎士は、何百年も人の魂を喰らいながら生きているらしいですよ」
人差し指を立て、口を尖らせながら力説する娘に、ルートリッジが声を上げて笑う。
「そんな馬鹿なことがあるか。あの漆黒の鎧が継がれているだけだ。中身は別人に決まってる」
ルートリッジが現実的に否定すると、娘は納得がいかぬように腕を組んで低く唸った。
「確か『血路の騎士』という名は、通る道が必ず血で染まることが由来だったな?」
ルートリッジが問うと、娘は自信有りげにコクリと頷く。
「見てみろ――」
ルートリッジが肩越しに通りを見ると、娘もそれを習うように首を伸ばして覗き見た。
「血なんか一滴たりとも流れていないぞ。噂なんてそんなものだ。何百年も生きられる人間なんぞ居るものか」
「う〜ん、そうかなあ……。魂喰らいっていう剣で、魂を食べるって聞いたんだけどな……」
首を左右に捻りながら低く唸る娘に、ルートリッジは目を細めた。
元々は信仰心の強い街、此処サイホンの住人は、そういった超越的な存在を信じやすいことを知っていた。
「そんなことより、帝国本土の者がこの街に来る話は聞いてなかったのか?」
「さあ、あたしは聞いてませんけど……」
娘の答えに、今度はルートリッジが首を捻って低く唸る番だった。
先ほどの兵士たちの様子を見た限り、彼等にとっても『予期せぬ来訪』だったと思える。
「彼等は何をしに来たのか……。ところで、この先には何か在るのか?」
言いながら、ルートリッジは漆黒の騎士たちが向かった方向を指差す。
それに対する娘の答えは明確で、帝国軍宿舎が在るということだった。
「帝国本土の者が? 人数を聞く限り、戦闘が目的ではないようですが……妙ですね」
戻ったルートリッジの報告に、アティスは顎に手を当てうつむいた。
「しかし、血路の騎士というのを初めて見たぞ。なかなか貫禄があるな」
ルートリッジがクレアに出された紅茶を啜りながら言うと、うつむいて思考に耽っていたアティスが顔を跳ね上げる。
険しい表情を突然に向けられ、ルートリッジが紅茶を零しかけた。
「血路の騎士! 帝国本土から来たというのはヤツなのですか!」
「なんだ急に。それがどうかしたか?」
「……」
尚も険しい表情を見せるアティスに、ルートリッジが眉を寄せる。
「ヤツが来ることに、何か思い当たる節でもあるのか?」
アティスは顔を上げると表情を和らげ、首を横に振った。
「……いえ、分かりません。それでルー、その『黒騎士』たちはどこへ向かったのでしょうか?」
話をはぐらかすように不自然に表情を和らげたアティスに、釈然としない感のルートリッジだったが、一度自分を納得させるように深く頷く。
「どうやら宿舎に向かったようだ」
「宿舎ですか……。では、この街に滞在するということですね」
再び考え込むようにうつむいたアティス。
その様子に、ルートリッジは一抹の不安を覚えた。
蒼き月が頂点に達し、そこから下降を始めた刻、ルートリッジは不意に目を覚ました。
ベッドから身を起こし、再び閉じかける瞼を擦ると、脳が覚醒を求めて欠伸が一つ漏れた。
どうにか眠気を払うと、暗い部屋の中で視線を落とす。
ベッドの中、隣で眠るクレアが心地良さそうに寝息を立てている。
帝国本土の人間が来ているためか、常連の兵士たちも今夜は店に来ることはなく、早めの就寝となったためすっかり深い眠りに入ってた。
続いて床に視線を落とすと、どんな夢を見ているのか、ビエリがむにゃむにゃと口許を歪ませながら半笑いで眠っていた。
その不気味さに、思わず吹き出しそうになる。
笑いを堪え、ソファに視線を移したときにその異変に気付いた。
酒場で世話になるようになってから、毎晩そこで眠っていた者の姿が今は無い。
瞬間、胸中に暗い影が広がり、反射的に声を上げる。
「ビエリ、起きろっ!」
ルートリッジの叫び声に床のビエリがビクリと跳ね起き、キョロキョロと顔を巡らせた。
「アレ? ……オニク……キエタ……」
「目を覚ませ! 肉など初めから無い! 消えたのはアティスだ!」
ルートリッジの怒鳴り声に、ビエリがぴんと背筋を伸ばして目を見開く。
「どうしたんですかあ?」
クレアが身を起こし、眠そうに目を擦りながら不満げに問う。
ルートリッジはその声を無視し、ベッドから飛び降りると足早に窓に近づき顔を貼り付けた。
通りを見下ろし、視線を走らせるがそれらしき影は見当たらない。
「アッ……ギー……イナイ」
「なに?」
不意に上がったビエリの言葉にルートリッジは振り返り、部屋の中に目を配る。
ビエリの言う通り、確かにギーの姿もそこにはなかった。
「トイレじゃない?」
クレアがベッドの中から寝ぼけ声で言うが、ルートリッジは鼻を鳴らして首を振った。
「二人でか? そんなワケが……」
と、そこで一階へ通じる扉が静かに開く。
三人の視線が開かれた扉に一斉に集まると、顔を見せた人物はビクリと身体を震わせた。
「なんだあ? おまえら起きてたのか?」
「……ギーか」
ルートリッジが失望の声を漏らすと、ギーはムっとしたように頬を膨らます。
「なんだとは何だよ!」
「すまん、すまん。それよりアティスを見なかったか?」
「ああ? 見たも何も、様子がおかしかったから後を尾けて来たところだよ」
ギーが部屋に足を踏み入れながら平然と言うと、ルートリッジが驚きの声を上げる。
「尾けた? それでアティスはどこへ行ったのだ!」
驚くルートリッジをよそに、ギーは素知らぬ顔でソファにドカリと腰を下ろした。
「宿舎に向かったみたいだな。夕方の様子を考慮すると、まず間違いないだろ」
自信満々に答えたギーに、ルートリッジの眉尻が小刻みに震える。
「何をしに行った?」
「そんなの俺が知るかよ」
面倒臭さを示すように小指で耳を掻くギーの姿に、ルートリッジの苛立ちが募る。
「……それで? おまえはどうして尾けたんだ?」
「興味本位だよ、興味本位。俺って一度気になると眠れなくなる性質でね。繊細っていうのかなあ……」
「どうして止めなかった?」
「は? どうしてって、俺が止めてあの女が素直に言うとを聞くかよ。それに、俺は仲間じゃねえ。止める義理もないだろ? そもそも帝国兵の宿舎に近づくなんて危ねえじゃん」
半笑いで堂々と言い放つギーに、ルートリッジがズカズカと歩み寄る。
「なんだよお」
ギーが反抗的な目を向けると、目の前に立ったルーリッジが右拳を振り上げた。
固く目を閉じて首をすぼめるビエリ。
同じく、目を閉じて首をすぼめるクレア。
ゴン――直後に鈍い音が部屋に響く。
「ぐぬおおおおっ!」
両手で頭頂部を抑え、身を折ってギーが悶え苦しむ。
その両目は飛び出さんばかりに見開かれていた。
「バカ者が! 危ないと分かっているなら止めろ!」
「グーで……殴りやがった……ぐうう……星が見えるう……」
苦しむギーに、ビエリとクレアが呆れたように大きくタメ息をついた。
建物の陰、一際濃くなった闇に紛れて目的の場所を覗き見る。
目の前にそびえる建物は、宿舎と呼ぶのは申し訳ないような代物だった。
四方を高い壁で囲われたその外観は、『主無き館』といった具合にも見える。
だからと言って、宿舎に忍び込む緊張は無い。
むしろ、血路の騎士が近くにいるという興奮を抑えるのに必死だった。
そのアティスの視線の先、兵士が五人、門番として立ち構えている。
帝国本土からの来訪者が居るためか、常日頃から勤勉なのかは判断出来なかったが、五人に緩慢な気配を感じることは無い。
アティスは目深に被ったフードの下で小さく舌打ちをした。
やはり正門ではなく他の場所を探すべきか。そう考え、腰を上げかけたときに一筋の影が見えた。
「っ!」
直後に兵士の一人がバタリと地に崩れ落ちる。
四人の兵士が慌てた動きを見せるがそれもほんの一瞬のことで、その四人もすぐに地に崩れ落ちた。
(……矢か? 何者だ?)
アティスが上げかけた腰を再び下ろし、身を低くして様子を伺っていると、倒れた兵士の元に駆け寄る複数の影が現れる。
そのまま倒れた五人の兵士を担ぎ上げて連れ去ると、代わって別の帝国兵が門の前に立ち並ぶ。
(あの五人、装備は帝国兵の物だが……)
アティスは静かに目を閉じ、頭の中にある様々な情報・記憶を交錯させた。
待つことわずか、導き出された答えに薄い笑みを浮かべた。
(反乱組織か……)
その答えを肯定するように、さらに物陰から現れた複数の人影。
その影は門をくぐり、宿舎の敷地内へと踏み込んでいく。
当然、代わった五人の門番がそれを阻止することはない。
最近になり帝国領内で、小規模ながら反乱活動を起こしている一団が在る、ということを耳にした。
大した成果を上げられていない様子から、その一団はごく少数だと考えられる。
「ずいぶんと大胆なものだな。だが――」
利用しない手はない。その決断に、アティスは迅速に従った。
「止まれ。ここはヴァイセン帝国宿舎だぞ」
フードを目深に被った不審さに、五人が身構える。
しかしその気配は、兵士の警戒心というよりも、罪人の緊張感の方といった方が適切だった。
フードの下、アティスの口に嘲りの笑みが浮かぶ。
「止まれと言っているだろ!」
声を抑えながら怒鳴りつけ、槍を向けてくる。が、その切先が小刻みに震えているのが分かった。
それを見たアティスは微かに眉を寄せ、確認するようにそっと相手の顔を覗き見た。
若い。五人ともまだ若い顔立ち。
幼さを残すその顔は、少年と言ってもおかしくはなかった。
(違ったのか……)
目の前に立つ者たちが、レジスタンスだという自身の予想に不審を覚える。
「何者だ。用が無いならとっと去れ!」
再び怒鳴りつける兵士に、アティスはそっと顔を伏せて逡巡した。
目の前の兵士が騒ぎ立てることはまず有り得ない。
そんなことをすれば、困るのは自分達だ。
問題は――
「仕方がないな。生かしておいてやる」
ボソリと呟くと、フードの下で握っていたブンディ・ダガーをそっと離す。
次の瞬間、突き出された槍を素早く掴み、手前に引いた。
「あっ!」
バランスを崩し、前のめりになった兵士の首筋に手刀を叩き込む。
あっさりと倒れる兵士。その姿に、残った四人は唖然とした。
アティスは、四人の思考が回復するよりも速く次の行動に移る。
身体を回転させ、次なる標的に向かい蹴りを放った。
踵が見事に首筋に命中し、短い苦悶の声を上げて二人目が倒れ込む。
止まること無く流れるようなアティスの動き。
蹴り上げた足が地に着くと同時に身を低くし、再び回転しながら三人目の足を払う。
成す術もなく相手が倒れると、素早く喉元に手刀を入れる。
三人が意識を失ったところで、残された二人の思考がようやく回復した。
慌てて二人が槍を構えると、アティスはゆっくり立ち上がり乱れたフードを整える。
「安心しろ。私はおまえたちがすることを邪魔するつもりは無い」
アティスが静かに言葉を放つと、二人は困惑したように顔を見合わせた。
「そこを通して欲しいだけだ」
顎先で門を指し示すアティスに、二人はさらに困惑を深める。
「おまえたちは倒れた三人を起こし、引き続きここで門番のフリをしていてもらいたい」
再び二人は顔を見合わせるが、槍はアティスに向けたままだ。
「お、お、おまえは何者なんだ!」
一人がアティスを睨むと、アティスは薄く笑みを浮かべた。
「私が何者かは関係ない。私はおまえたちの邪魔はしない。その代わり、おまえたちは私を大人しく通し、引き続きここで門番のフリをする。それだけだ」
「ふ、ふざけるな!」
槍を構え直す二人に、アティスは小さくタメ息をついた。
「あまり時間を掛けたくは無いのだがな……。今見たろ? 私は強いぞ?」
言いながら、アティスはチラリと倒れた三人に視線を落とす。
「私としては、全員が生きていることに感謝してもらいたいくらいだ。殺す気なら―――」
再び二人に視線を戻し、冷たい笑みを向ける。
「全員死んでいた」
感情の無い口調で言われ、二人はゴクリと喉を鳴らすと倒れた三人に視線を落とす。
「……」
二人は最後にもう一度だけ顔を見合わせ、構えた槍を静かに下ろし始める。
その様子に、アティスは満足そうに頷いた……
つづく
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