75章 業深き者
「……」
「どうした?」
砂丘を下りてくる途中、一度足を止めて振り返ったアシムに、カムイが声をかけた。
何かを気に止めたようなアシムの様子に、カムイの表情に不安の色が浮かぶ。
「何でもありません。一つ……一つだけ当て損ないました」
浮かない表情で言ったアシムにカムイは目を丸くした。
「おまえ……何を言っているんだ? 誰だって狙いを外すことはあるだろ? あれだけ次々に当てる方が信じられんぞ?」
「いや、そういうことじゃ――」
言葉の途中、アシムは先の言葉を振り払らうように首を振った。
「とにかく気をつけてください。只ならぬ気配の持ち主がいます」
アシムの忠告にカムイが力強く頷く。
そして、振り返るとシャムシールを握った右拳を突き出す。
「帝国軍は混乱しているぞ。今こそが好機! 大笛を吹け! 進軍の音色を派手に響かせろ!」
低く、地の底から空に伸び上がるような笛の音が耳に届いた。
その音に、オツランとミューラーが顔を見合わせて頷いた。
「よし、我々も行くぞ!」
背後の兵士を見やる。
全ての者が準備を終え、口許には敵を求めて笑みが浮かぶ。
「この戦闘に全てを懸けよ! 必ずや、死んでいった者たちにも届く勝鬨を上げるのだ!」
「くうぅ! 来るぞお!」
低い大笛の音に、各団長が激を飛ばす。
今だ黒煙が立ち昇る中、残った帝国兵たちが怯えた顔で前方を見た。
正面から、撤退したディアドの兵が怒号と共に戻って来る。
「あいつら……装備が……」
先刻の戦闘時、無防備に近い軽装備だったディアドの兵士。
それが今や、重装備に変貌を遂げていた。
その分厚い胸当が、照りつける陽射しで鈍く光を反射する。
「た、大変です! 北からもディアドの軍……ぐっ!」
慌てた男の首に、クロスボウの矢が深々と突き刺さり、言葉の途中で砂地に倒れ逝く。
一呼吸の間、団長はその兵士を呆然と見下ろし、弾かれたように矢が飛んできた方向に顔を向けた。
巣穴から蟻が湧き出すかのように、砂丘を滑り下りてくるディアドの軍勢。
その先陣を切るのは――
「っ! カムイ王!」
鈍い輝きを放つ、金色の胸当が見えた。
「覚悟せよ!」
「くううぅ!」
突如現れた軍勢に、指示を出そうとするが間に合わない。
カムイは砂上を駆け、大きく踏み込み幅広曲刀を力まかせに振り払った。
「っ!」
一閃――シャムシールの刃が深々と首に食い込み、わずかな抵抗を伝えながら斬り離された頭が宙に待った。
カムイは乱れた呼吸を飲み込むと、悠然とシャムシールを振って血を飛ばした。
「我はカムイ! 砂漠の民を統べる王よ! このまま剣を捨てて引くならば良し! だが抵抗するならば容赦なく斬り捨てる!」
混乱する帝国軍に向かい、シャムシールの切先を突きつけた。
「あれが砂漠の王か」
アジー・ワイは名乗りを上げた男の姿に眉を寄せた。
「……らしいな」
「想像と違うな。勇猛果敢な砂漠の民を統べる者……勇壮な男の姿を思い描いていたが……」
「先ほどの一撃を見る限り、決して場慣れしているとは思えんな。剣の扱いが雑だ」
アジー・ワイは鼻を鳴らし、周囲に視線を走らせた。
「ハマンはどこだ?」
「あそこに……」
指差した先、ハマンは遥か後方で待機していた。
その状況に、アジー・ワイは緩くかぶりを振る。
「前線で指揮を執る者と、後方で隠れるように指揮を執る者。勢いに差が出て当然だ」
「大方、前線の兵を置き去りに、撤退するかどうかの算段を練っているんだろうさ……。それで? 我々はどうするのだ、アジー・ワイ」
「劣勢というやつだな。ならば、やるべきことは一つだ」
アラハ族の拳先突剣。その鋭い切先が、いとも容易く金属製の胸当を刺し貫く。
崩れ落ちるディアドの兵に、ミューラーはの拳が強く握られる。
「帝国軍です! 帝国軍の指揮系統を断ちなさい! 帝国軍が撤退すればアラハ族も引きます!」
ミューラーは指示を飛ばすと、周囲に忙しなく視線を走らせた。
この状況で注意すべき人間――アジー・ワイの姿を探す。
(一体どこに……)
そこで不意に、今しがた発した自分の言葉が耳の中で反響した。
指揮系統を断つ――劣勢に断たされた帝国軍の方こそ、成し遂げるべき優先事項。
ミューラーは弾かれたように顔上げ、カムイの姿を探す。
そして、それを見た。
カムイに向かい、砂上を滑るように一直線に近づくアラハ族の姿。それは――
「アジー・ワイ!」
駆け出そうとするミューラー。が、その行く手を阻むが如く、三人のアラハ族が立ちはだかる。
「おまえを近づけるな……アジー・ワイからそう指示を受けた」
その言葉にミューラーが舌打ちをする。
三人の背後、オツランが帝国兵を斬り倒した姿が見えた。
「オツランっ!」
その呼びかけにオツランは顔を巡らせ、ミューラーを見つけると手を貸すべく駆け出そうとした。
そのオツランに、ミューラーが大声を張り上げる。
「カムイ王です! カムイ王の元に行きなさい!」
踏み止まり、オツランがカムイに顔を向けた――と同時に、アジー・ワイの姿に気付く。
一度ミューラーに視線を戻し、逡巡を見せるオツラン。
そこに再びミューラーの激が飛ぶ。
「私に構わず行きなさい! 早くっ!」
オツランは小さく頷くと、父の元へと駆け出した。
突き出された帝国兵の槍を避け、その顔にシャムシールを突き立てる。
返り血で濡れた頬を拭い、乱れた呼吸を整えた。
「砂漠の民の力を示せ! 帝国軍に我等の力を刻み込めっ!」
帝国軍が撤退間近と見て取り、カムイはここぞとばかりに同胞を鼓舞する。
その声に応えるように、あちこちで野太い声が上がる。
同胞の衰えぬ闘士に笑みを浮かべた直後、名を呼ぶ声がし、その方向へと顔を向けた。
「覚悟っ!」
「なっ!」
陽射し遮るように、目の前に突如として現れた影。
宙を舞い、鋭い刃が襲いくる。
停止する思考。
目の前の出来事が、恐ろしくゆっくりと見えた。
突き出された刃が正確に首を狙ってくるのが分かったが、身体がそれに反応しない。
ヤられる――頭のどこかでのんびりと、そう自覚する自分がいる。
が、突然ふくらはぎに激痛を感じ、カムイは反射的に膝を折った。
寸でのところ、頭の上を刃が通過し、勢いあまった身体がカムイと激突する。
微かにカムイの耳に届いた相手の舌打ち。
二人は絡み合うように倒れたが、すぐに男は距離を取った。
その男の姿を、カムイは左脚で片膝を突きながら見上げた。
「おまえが、アジー・ワイか?」
「……」
アジー・ワイはジッとカムイを見下ろしている。
だが、その視線はカムイの顔ではなく、伸ばされた右脚に注がれていた。
その右脚、ふくらはぎには矢が突き刺さっている。
その矢が刺さり、カムイは膝を折ったのだ。
アジー・ワイは、先刻までカムイが背にしていた方向にゆっくりと顔を向けた。
視線の先、砂色のフードをなびかせ、弓を手にしてたたずむ人物。
「魔術師の仕業か……」
アジー・ワイの口許に、薄い笑みが浮かぶ。
「やああっ!」
激しい雄叫びと共に、顔を背けたアジー・ワイに振り下ろされるシャムシール。
その攻撃をアジー・ワイはわずかに身体を反らして軽々と躱した。
数歩後退し、両手でシャムシールを身構えている青年を見据える。
「おまえは……」
「我はオツラン! カムイ王の息子、オツランだっ! いざ勝負!」
睨みつけ、きつく口許を引き締めるオツランに、アジー・ワイは目を細めた。
「……」
無言のまま互いを見据え、静かに時を刻む。
アジー・ワイはわずかにうつむくと、その頬をわずかに緩めた。
「なるほどな……。この国が陥ちぬわけだ。澄んだ魂を持っている」
呟くようなアジー・ワイの言葉に、オツランは眉を寄せる。
「何を言っている」
「……」
訝しげに見るオツランの問いに、アジー・ワイが答えることはなかった。
そして、砂漠の戦闘が終わりを告げる……。
砂丘のふもとに身を隠す男。
砂上に設置された四角すいの骨組み。
その頂点から吊り下がった振り子が小さく揺れ始めた。
その動きを見て、男は慌てて砂丘を駆け登る。
そして、砂丘の上に立つと指笛を吹き鳴らした。
砂丘の上からの合図に、カムイは脚を引きずりながら立ち上がった。
痛みに歯を食いしばり、高々と右手を挙げると再び大笛の音が響き渡る。
それを待ったかのように、アジー・ワイの足許に矢が突き刺さった。
アジー・ワイは矢を放ったフードの人物に視線だけを向ける。
「引け……ということか」
再びオツランに視線を戻す。
オツランは乾いた唇を舌で湿らせ口を開いた。
「風が来ます。帝国軍は、あの風の中で戦えますか?」
「なるほど。今、風の中で仕掛けられたら我々は全滅だろうな」
オツランがきっぱりと頷いて返す。
「良いだろう、未来の王よ。我々は引こう」
そう言うとアジー・ワイは踵を返し、右手を挙げてそれを振り下ろした。
アジー・ワイの行動を合図にアラハ族が後退りをし、潮が引くように撤退を開始する。
それを見た帝国兵も、せき止められていた川が一気に流れるが如く、我先にと武器を捨てて撤退を開始する。
撤退する帝国軍。その姿を隠すように、突風が再び砂漠の大地に吹き荒れた。
「うおおおお!」
天を突くような絶叫。砂漠の民の勝鬨が上がる。
遥か彼方、次第に小さくなる帝国軍に向かって武器を高々と上げ、歓喜の声を腹の底から絞り出す。
「大したものですねえ。逃げるとなると、あの風の中でも歩を進められる」
吐息をつき、苦笑するミューラーにオツランが肩をすくめた。
「転がりながら逃げたのでしょうね」
血と砂で汚れた顔に満面の笑みを浮かべた。
そのオツランの笑顔に、ミューラーも声を上げて笑う。
その傍ら、アシムに肩を借りたカムイも、その顔に安堵の笑みを浮かべていた。
「アシムよ、もう少しマシな助け方はなかったのか?」
脚の痛みを堪えながら、器用に片眉を上げてアシムを見やる。
「貴方の身体が邪魔で、アジー・ワイを狙うことが出来なかったのですよ」
その言葉にカムイが顔をしかめ、疑わしそうにアシムの涼しげな顔を睨んだ。
「王の身体を邪魔扱いかよ……」
一度アシムは笑顔を見せたが、すぐにうつむき表情を曇らせた。
周囲には、黒ずみ、装備を歪ませた帝国兵の亡骸が散乱する。
「ここに倒れた者たちも、誰かの大事な人だったのでしょうね……」
苦しげに言ったアシムに、カムイは緩くかぶりを振った。
「アシムよ、この戦闘で起きたことは全て、俺が背負うべき業だ」
いたわるように言ったカムイの言葉も、アシムの表情を晴らすことはない。
「私は……私は、自分の味わった苦しみを、他の誰かに強いたのです。近し者を助けるべく、遠き者の命を踏みにじった」
「おまえの妹と兵士を一緒にするな。彼等は自ら戦場に立ったのだ。戦場では、命を失うことがあるということも承知している……」
アシムは泣き出しそうな笑みを浮かべ、首を小さく左右に振った。
「それは、逝った者の違いです。残された者に違いはありません」
「アシム……」
アシムは遠くを見るように顔を上げた。
その頬に微かな風を感じる。
「長が……ジュカ様がどうして森の外を嫌ったのか、今ならはっきりと分かります……」
風に乗り、血の臭いが鼻をつく。
戦士を高揚させる戦場の香りに、アシムはそっと顔を背けた……
つづく
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