60章 ネイの決断
ネイたちは教会の中にいた。
教会内にはすでに人はなく、燭台の灯りがボンヤリと淡く室内を照らす。
二列に設置された長椅子が左右同数に並び、アシムはその一つに腰を下ろした。
アシムが腰を下ろすと、その斜め前の位置にネイも腰を下ろす。
ネイは腰を下ろすと背もたれに寄りかかり、腕と足を組み目を閉じた。そして、斜め後ろに座るアシムに過去への回帰を促す。
「話してみろよ」
ネイがそう言うと、アシムは気持ちを落ち着けるわずかな間を置き言葉を発した。
「私には妹がいました。名をチェリスといい、幼き日に両親を亡くした私たちにとって、互いがより添うべく唯一の肉親だった。そんな私たちの前にあの男が現れたのは今から四年ほど前です……」
アシムの耳に自分の名を呼ぶ声と、雨水に崩れ落ちる音が甦る。
「チェリス! チェリス!」
アシムは妹の名を呼びながら雨の森を走っていた。
ぬかるむ地面はまるで行く手を阻んでいるかのようだった。
雨音と焦りで気配を探ることさえ出来ない。
「こっちだ、アシム!」
不意に名を呼ばれ、視線を向けた先に確かに感じる二つの気配。
「ファムート! アルムを殺したのは貴方ですか! 一体どういうことです!」
必死に叫ぶアシムが、さも可笑しそうにファムートは低く笑った。
「どういうことだあ? こいうことだよっ」
ファムートがそう言うと同時に短い悲鳴が上がった。チェリスの声だ。
「チェリス!」
「おっと動くなよ。大事な妹の頭が身体から離れちまうぜ」
再び上がるか細い悲鳴。
「くっ! なぜ……なぜですファムート。チェリスへの恩を忘れたのですか!」
一歩踏み込みそう訴えかけるが、返ってきたのは高らかな嘲笑だった。
「おん? 恩だと? 残念ながらそんなものを感じたことはないな」
「くっ!」
さらに足を踏み出そうとしたが、三度上がった短い悲鳴にその歩みが止まる。
「動くなよ、アシム。俺は臆病だからなあ、そんな形相で近づかれたら震えて手許が狂っちまうぜ」
「……何が望みです」
「そうだなあ……。まずは弓と矢ををこっちに投げてもらおうか」
素直に従うしかなかった。愚かだが、ファムートの『情』というものに一縷の望みを託していた。
「よしよし。じゃあ次は跪いてもらおうか」
言われたとおりぬかるむ地面に両膝を突いた直後、左太股に鋭い痛みが走った。
アシムの呻きと、チェリスの名を呼ぶ声が同時に上がる。
矢だ。矢が太股を貫いた。そう認識したと同時に、先刻と同じ痛みが今度は右太股を襲った。
「ぐっ!」
その激痛にアシムは苦悶の表情を浮かべ、痛みを感じる部分に両手を持っていった。
間違いなく両脚を矢が貫いている。
「ああ……」
チェリスの身をよじる様な短い声と、ファムートの低い笑いがアシムの耳に届く。
「良い様だな、アシム」
頭を垂れるアシムに、ファムートが言葉を投げ捨てた。
「なぜ……」
「なぜだあ? 簡単だよ、アシム。おまえが俺を毛嫌いするように、俺もおまえが嫌いなのさ。虫唾が走るほどにな」
笑いを混ぜたようなファムートの口調に、アシムの肩が怒りに震えた。
その怒りをぶつけるように、ファムートに向かって顔を上げる。
「だったら私を、私だけを苦しめたら良い! アルムの命を奪うことも、チェリスを人質にすることもない!」
アシムの訴えに、ファムートは憎悪の気配を向けてくる。
「その面だ。その面が気に入らねえ! さも何事にも屈しないといった面を見てると、どうしても屈服させたくなるんだよ! だから待ったのさ。おまえの希望を断ち切ってやれる日をな」
再び高笑いをするファムートに、アシムは力無くうな垂れた。
「気分を害していたなら詫びましょう。だからチェリスを離してほしい……」
アシムのその発言に、ファムートは鼻白んだように鼻を鳴らした。
「だったらしっかりと詫びて、俺に哀願して見せろ」
悔しさに身が震えるが、だからと言ってどうすることも出来ない。
「……申し訳なかった。どうかチェリスを離してやってほしい」
深く頭を下げるアシムの耳に、ファムートの勝ち誇ったような高笑いが響く。
「アシム……」
哀しげなチェリスの声。その直後だった。
まるでその瞬間だけ雨音が止んだかのように、アシムの耳にはっきりと届いた。
バシャリと人が崩れ落ちる音が……。
「チェリス!」
弾かれたように顔を上げてチェリスの名を叫ぶが、その呼びかけに返事は無かった。
ただファムートの高笑いだけが返ってくる。
「死んだ……死にやがった!」
一瞬の空白。ファムートの言葉を理解することを脳が拒絶していた。
しかし、その思考を失った頭にファムートの言葉が否応なく侵食してくる。それと同時に――
「ファムートォォ!」
気が狂わんばかりの怒りが爆発し、立ち上がろうとしたがそれが出来ない。
怒りに身じろぎし、ただ地面を這うようにしか動けなかった。
「良い様だ、アシム。俺をくだらない人間だと思ってたんだろ? 舐めやがって! ……どうだ? 俺のことがしっかりと頭に焼きついたか?」
「ファムートォォ!」
「ヒャッハッハ!その姿とおまえの誠意に免じて、おまえの命だけは救ってやる。感謝しな」
それが最後に聞いたファムートの言葉だった。
遠ざかるファムートの高笑い。
這いつくばるアシムの指先が、雨で冷えきったチェリスの身体に触れた……。
「私はチェリスの冷たさと、泥水の味を決して忘れはしない」
アシムの怒りに呼応するかのように、燭台の炎が大きく揺らめいた。
「……」
ネイは何も言わず、ただ腕を組んで静かに耳を傾けていた。
「チェリスとアルムはあの次の日、人生で最良の日を迎えるはずだったのです。それを……。あの男は私から最愛の妹を、共に育った友人を、同時に二人も奪ったんです」
アシムの顔を見ずとも、ネイの背中にその怒りがひしひしと伝わった。
「……」
ただ燭台の灯りが緩く揺らめき、つかの間の沈黙が教会内に広がる。
その沈黙の後、黙って話を聞いていたネイが口を開いた。
「カムイ王がおまえと再会したとき、美人姉妹だと思っていたって言ったのは、おまえに妹がいたからか」
ネイの言葉にアシムが寂しげな笑いを返した。
「やっぱり貴方は聞き逃しませんでしたか。チェリスはカムイに良く懐いていましたから……」
ネイは憂鬱そうにタメ息をつくと、ゆっくりと長椅子から腰を上げた。
「どっちにしろ一人じゃ無理だ。もう一度将軍と会うまでに殺気を鎮めておけよ。それじゃあ子供にも気付かれる」
「ネイ……」
アシムはぎこちない笑みをネイに向けるが、ネイは顔を向けることなく足早に扉へと向かった。
アシムはその背を見て一度微笑み、立ち上がると矢筒と弓を背にネイの後を追った。
月が高く昇りソエールの街が妖しく映し出される刻、ネイたちはその月明かりの元に姿を現した。
ここはソエールの街でも貧困層が身を寄せる場所。アンジェリカと出会った地域だ。
ネイたちはその地域にある空家に身を潜めていた。
空家とは言っても貧困層の地域にあるだけあって、その佇まいは廃墟さながらだ。
セティは空家から出ると一度ぶるりと身震いをする。
室内にいる間、湿った木材とカビの臭いに文句を言いながら、しきりに周囲を気にしていた。
「もう一度訊くけど、将軍を人質にするっていうのは本気?」
まだ髪と肩のあたりを気にしながらセティが言った。
「ああ。そのままファムートの所まで案内させたら、ヤツと決着をつけてこの街からズラかる」
無表情で答えたネイにセティは肩を落としてタメ息をついた。
「あんた、そんなことしたらどうなるか分かってるわけ?」
幾分か声を荒げてセティが言うと、アシムが申し訳無さそうに顔を伏せる。
「どうせやるなら出来るだけ派手な方が、かえって意表を突けるってもんだ」
ネイが静かな口調でそこまで言うと、セティは緩く頭を振った。
しかしセティも観念したのか、それ以上考えを改めさせようとはしなかった。
代わりに今後の行動について再度確認をする。
「じゃあ私は荷馬車を手に入れて、ルーナと丘の麓で待機していれば良いわけね?」
「そうだ」
「まったく、簡単に言ってくれちゃって」
素っ気無いネイの返事にセティは肩をすくめて見せた。
約束の時刻はもう迫っている。
ここまで下準備を何もしなかったのは、ギリギリになってから行動した方が、感付かれる危険が少ないというネイの判断だった。
しかし、それで苦労を強いるのはセティだ。あまり時間が無いなか、ルーナを連れた状態で荷馬車を確保しなくてはいけない。
「行くか」
ネイが声を掛けるとセティとアシムが神妙な面持ちで頷いて返した。
「じゃあ荷物を取ってくれ」
ネイはそう言ってアシムの背後を指差す。
そこに全員の荷物をまとめていたが、ネイとアシムで先に丘の麓に運んでおくという手筈になっている。
アシムはネイに言われ、振り返ると荷物に手を伸ばして身を屈めた。
その瞬間ネイの目が鋭くなった。
腰のナイフを素早く引き抜くと、アシムの首筋にナイフの柄を叩きこんだ。
「ぐっ!」
予想だにしなかったことに完全に不意を突かれ、アシムが足元をフラつかせる。
セティは突然のことに声を上げることすら出来ず、ただ目を見開いていた。
「ネイ……どうして……」
アシムはどうにかネイに顔を向けると、そこまで言って地面に崩れ落ちた。
「ネイ! あんた何やってるの!」
驚きと怒り入りの混じったセティの声がネイを責める。
ネイはそんなセティを無視し、金の入った袋を懐から取り出すとそれをアシムの懐へと入れる。
「ネイ、説明しなさい!」
何も答えようとしないネイに、セティがヒステリックな声を上げた。
ネイは振り返るとそんなセティをジッと見据える。しかしその顔に表情は無い。
「俺たちが街を出るまで、アシムには寝ててもらわなきゃ困るんだよ」
「俺たち? 俺たちっていうのはアンタと誰よ!」
その口調には明らかな批難の色があり、眉尻を上げてネイを睨みつけて来る。
まるで敵をみるような目つきだ。
ネイはそんなセティから一度目を逸らし、俯いて立っているルーナに視線をやった。
腕の中ではユピが威嚇の鳴き声をネイに向けている。
「……将軍に弓を引いてこの街を追われることになれば、もう逃げ切るのは無理だ。それに今は身を隠せる場所が要る」
はっきりとしたネイの口調にセティが言葉を詰まらせた。
これ以上逃げ切るのが無理なのも、身を隠せる場所が必要なのも、ルーナを連れていればもっともだというのは分かる。しかし――
「だったらこんな裏切るような真似じゃなく、ちゃんと説得すれば……」
「無理だな。ファムートを間近にしたときのアシムを見たら、おまえにも説得が無理なのが分かるさ。それに……」
おまえはアシムがファムートを恨む詳しい経緯を知らない。そう言おうとしたが、その言葉をネイは飲み込んだ。
「とにかく、今はアシムに大人しくしていてもらわなきゃいけない」
「……」
セティは何も言わずに俯いた。
「アシムが目を覚ましたら伝えろ。もうすぐ砂漠国とヴァイセンが戦争になるらしい」「ディアドが?」
顔を上げたセティの目が大きく開かれる。
「ああ。それを言えばアシムはディアドに向かうだろう。おまえもアシムとディアドに戻って、ほとぼりが冷めるまでディアドに身を寄せろ」
そこまで言うとネイは置かれた自分の荷物に目をやった。
「中に非常食や薬、その他諸々の物を買って入れてある。アシムも一緒に買って周ったから分かるだろう。おまえたちの足なら、それでとりあえずディアドまでは行けるはずだ」
ネイはそう言うとルーナに歩み寄り、抗議の声を上げ続けるユピをルーナから引き剥がす。
ユピは掴まれる際、ネイの袖口に噛み付いたが、ネイはそれを無視してユピをセティに向かって放り投げた。
そして無言のままルーナの手首を掴む。
「ネイ、やっぱりこんなやり方って……」
背を向けたネイに言葉を投げかけた。
しかし、ネイは肩越しにわずかに顔を向けただけで、何も言わずにルーナの手を引いて歩き出す。
二人の背は徐々に遠のき、その姿がセティの視界から消えていく。
振り返らぬネイに代わるように、ルーナが一度だけ小さく振り向いた……
つづく
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