5章 過去の偶像
遠い記憶。一つの光景が鮮明に甦る。
「だから言ったろ。俺が守ってやるって」
目の前の前の青年は、そう言って笑いながら右手を差し出した。
その目は優しく、そしてその手は力強く。
差し出された手を掴んだ瞬間、涙が頬を伝った……
街の娼婦から梟について聞いたその二日後、ネイはガラニスタを出た。
その二日間、様々なことが胸中に浮かんでは消えた。
梟を背にした男は左腕に大きな火傷がある……。
その情報は確かにネイに動揺を与えた。
一人。そう、一人だけネイには思い当たる人物がいたからだ。
その人物の名は『キューエル』。
ネイより年上で元盗賊ギルドの人間だ。
そしてキューエルとネイは因縁浅からぬ仲でもあった。
もちろん、梟がそのキューエルだとまだ決まったわけではない。
しかし、ネイにはその確信があった。
そうして二日で準備をし、自分の目で確かめるため、キューエルの潜伏先へ向かうことにした。
その潜伏先も大よその検討は付いていた。
もし梟がキューエルなら、必ずそこにいるはずだと……。
その場所はガラニスタから北へ丸一日ほど歩いた所にある。
昔、キューエルと共に仕事でこの地に来たときに、偶然二人で見つけた場所だ。
モントリーブで問題が起きたときは、そこで落ち合うことにしていた。
もし梟がキューエルなら必ずそこにいる。
星が空に広がり出す頃、目的の場所が近いことを示す音が聞こえてきた。
歩を進めるごとにその音は大きくなり、地響きのように腹の底を震わせ始める。
前方に見える木の陰に身を隠し、ネイは周囲の様子を窺った。
「やはり……」
ネイは自分の予想が当たっていたことを確信した。
前方には大きな穴が空いたような崖があり、その穴には巨大な滝から大量の水が流れ込んでいた。
その滝を見下ろして滝壷の当たりを覗くと、見張り役であろう男が一人立っていたのだ。
この滝を昼間見れば、壮大な滝に虹が架かりその美しさは中々のものだ。
しかし、夜の景色はそれとはまるで印象が違う。
壮大な景色は、美しさよりもむしろ恐ろしさを漂わせる。
巨大な穴にまるで誘い込まれるような感覚さえ覚える。
その滝の横には、人一人が通れる程度の獣道があり、その道は滝壷まで続いていた。
おそらく野生の獣が水を飲むために通っていた道なのだろう。
しかし、今その道の途中には野生の獣ではなく、武器を所持した男が立っている。
ネイは少し悩んだが、結局その男に正面から堂々と近づくことにした。
本来なら正面から近づくのは危険極まりない。
キューエルの仲間にしろ、そうではないにしろ、こんな場所に身を隠している人間が真っ当なわけがないからだ。
しかし、ネイには此処にいるのはキューエルであり、『自分を待っている』という確信があった。
なぜかは分からない。
しかし、胸騒ぎと共にそう感じたのだ。
ゆっくりと男に近づくと、男はネイが思っていたよりも早くに気が付いた。
警戒心が強い証拠だ。
男は右手に曲刀を持って浅く身構える。
「なんだテメエは?」
「……」
質問に答えず、黙って獣道を下りてくるネイに対し、男の殺意が顔を出す。
「なんだって聞いてんだよっ!」
そう怒鳴り、腰を低くして曲刀を深く構えた。
ネイは男の間合いに入らない程度の位置まで近づくと、相手を射抜くように睨みつけた。
「キューエルの所へ連れて行け」
ただそう静かに言い放つと、曲刀を構えた男の顔にニタニタと下卑た笑みが浮かぶ。
ネイはその笑い顔を見て胸がムカつき、不快そうに眉間にシワを寄せた。
こういう笑い方をするヤツにろくな人間はいない。
(こんなヤツがキューエルの仲間だと? あのプライドの高いキューエルがこんなヤツと?)
ネイの知っているキューエルは、こういう笑い方をするヤツを毛嫌いするはずだった。
「はい、分かりました。なんて言うと思ってるのか?」
男は笑みを浮かべたままそう返してきた。
「そうか……」
そう呟くと、ネイはダラリと下げていた左腕を、男に向かった水平に振り抜いた。
次の瞬間、男は短い苦痛の呻きと共に、持っていた曲刀を地面に落とした。
男は苦痛に顔を歪め、右手に走った激痛の原因を掴む。
それはワイヤーの付いた、鋭利な菱形状の凶器だった。
男は慌ててそれを投げ捨て、曲刀を拾いネイを睨みつける。
いや、ネイではなく『ネイのいた場所』をだ。
男が睨みつけたときにはすでにネイの姿はそこにはなかった。
それに気付いたときにはもう遅い。
男の喉元に、背後から出された冷たいナイフの感触が伝わる。
ゴクリと男は喉を鳴らし、曲刀をそのまま下に落とした。
「どうする?」
ネイは背後から、男の耳元に感情の無い口調で囁く。
「ま、待ってくれ! あんたがネイだろ? キューエルから聞いてる。ちょ、ちょっとからかっただけだ」
男は慌ててそう叫ぶと、今度は媚びたような笑みを見せた。
「だったら早く連れていくんだな」
「わ、わかった」
ネイはその返事を聞くと男の喉元からナイフを放し、今度は男の背にナイフの刃先を当てた。
「行け」
「あ、ああ……」
掠れる声で返事をすると、男は両手を上げてゆっくりと滝壷の方に向かって歩き出す。
道は滝の裏側まで通じていて、滝の裏に周ると岩壁に空洞が見える。
その空洞はかなりの大きさだが、流れ落ちる滝が壁の役目をしてその姿を隠していた。
見張りの男を先導にして中に入ると、所々に松明が備え付けられており、その灯りは空洞のずっと奥まで続いている。
空洞をしばらく進むと、徐々に明るさが増してきて奥から話声が聞こえてきた。
灯りに照らされた数人の影が、ゆらゆらと揺らめいて壁に映る。
そこは広間のようになっていて、その中央で大きな炎が燃え盛っていた。
ネイは前を行く男の背後から、中にいる人間の数を瞬時に確認した。
酒を飲む者、武器の手入れをしている者、寝ている者と様々だが、どうやら三十人近くはいそうだ。
その人数を確認してネイは多少驚いた。
自分が考えていたよりも、その数が多かったからだ。
そのうちの酒を飲んでいた男が、外から戻った仲間に気付き表情を一変させる。
そして波紋のように、周りの男たちもそれに気付き次々に表情を変えていく。
「ま、待て!」
全員が武器を持って身構えたのを見て、背にナイフを突きつけられている男が慌てて仲間を止めようとする。
しかし、他の連中は止まりそうにない。
ネイの額に冷や汗が浮かんだ。
さすがにこの人数に囲まれてはまずい。
今にも男たちが飛び掛かろうかというそのとき、広間の奥から声が響いた。
「よせっ! そいつは俺の客だ」
その声は懐かしく、ネイのよく知る声……キューエルのものだった。
そしてキューエルはゆっくりとその姿をネイの前に見せた。
広間の奥。もう一つある横穴から炎の灯りに照らされて近付いて来る。
その顔には微笑を浮かべていた。
「三年……いや四年ぶりか? お前は鷹の眼って通り名が付いてるそうじゃないか」
キューエルは、ネイに酒の入った器を差し出しながら嬉しそうに目を細めた。
二人の様子を少し離れた場所から見ている他の男たちの眼には、一様にネイに対する不審の色が浮かぶ。
その視線を受けるネイも警戒を解かずにいた。
そんなネイの様子を察したキューエルは、周りの男たちに一瞥をくれると、ネイに対しては呆れたように眉の両端を下げた。
「相変わらず警戒心が強いな。安心しろ。俺が手出しはさせないさ」
そう言うと、もう一度手に持った酒を差し出してくる。
「……こんな連中を引き連れて、一体今まで何をしていたんだ?」
ネイは結局酒を受け取ることはなく、またキューエルの目を見ることもなく問いただした。
それはこの六年、キューエルが姿を消してから考え続けていたことだ。
キューエルは結局ネイが受け取らなかった酒を横に置くと、つまらないことを聞くなと言わんばかりに、ため息混じりに苦笑した。
「色々さ……」
「……」
表情を変えないネイに、キューエルは緩くかぶりを振ると一度その場を離れた。
そうして手に何かを持って戻ってくると、それをネイに投げてよこす。
「これは?」
ネイが受け取ったものは、顔の上半分を隠せる黒い仮面だった。
「仮面を着けた新しい賊が現れたって話は聞かないか?」
「……それがあんた達なのか?」
「ああ、そうだ」
しばらく前からよく噂を聞くようになった、ギルドとは別の盗賊団。
いや、盗賊団などとはそもそも違うのかもしれない。
そいつ等は奪うだけではなく、アサシン・ギルドさながらに平気で人を殺しもする。
それも無抵抗な人間であろうが関係無くだ。
それがキューエルだったという事実に、ネイは多少なりともショックを受けた。
キューエルらしき人物を、娼婦から聞いた時点で胸騒ぎはしていた。
それなりの覚悟もあった。
時間が人を変えることはネイも良く知っていたからだ。
しかし……
そのとき不意に、ネイの脳裏にまだ自分が少年だった頃、手を差し出してきた青年の顔が浮かんだ。
「キューエル、あんたは変ったな……」
「ん? まあ多少な」
二人の視線が交錯する。
キューエルの顔はやつれたように見えるが、しなやかな黒髪、日に焼けた肌、自信に溢れた黒い瞳、そして左腕の大きな火傷痕。
一見すると何も変っていないように見える。ただ一つを除いては……。
だがその一つの違いが『変った』と思わせる決定的なものだった。
それは笑い方だ。
決して目は笑わない。口の片端だけを上げた自虐的な笑み。
そんな笑い方をキューエルはしなかったはずだ。
「ギルドに……ギルドに依頼をしたのはあんたか?」
ネイはキューエルの顔を見ていることに耐え切れず、視線を外して問いかけた。
「ああ、そうだ。おまえをここに来させるためさ」
「オレじゃなく、別の人間が受けていたらどうするつもりだった?」
「それはないな。ランクSの仕事を持ちかけられるヤツはそうそういない。それにちょうどおまえが街に戻る頃を見計らって依頼した」
おそらくランクSの情報もキューエルが操作したのだろう。
どうやったのかはネイにも分からない。
全く別の仕事内容で依頼をしたか、または金を積んだか。
どういった方法にせよ、ギルドを知り尽くしたキューエルには簡単なことだろう。
「金の梟は? なぜそんな周りくどい依頼の仕方を?」
その問いにキューエルは小さく笑った。
「俺はギルドを抜けてギルドにも追われる身だぜ。名前を出すわけにはいかないだろ?」
そう言ってキューエルは両腕を軽く左右に開き、バカなことを聞くなと言わんばかりに薄い笑みを浮かべた。
「でも、梟があんただと気付かなかったら、オレはここには来なかったぜ」
ネイが吐き捨てるように言うと、キューエルは低く笑う。
「ガラニスタにミューラーがいただろ? それを利用した。お前のことだから興味を持って調べるだろうさ。まず酒場、そして次は娼婦。娼婦の選び方も簡単さ。酒場の近くで客を取っていて、尚かつ口の軽そうな女だ。酒を飲んだ客は饒舌になるからな」
キューエルは、経緯をそう説明しながら再び低く笑った。
しかし、変わらずにその目は笑わない。
「ネイ、目を付ける女が同じだったな」
「そのためにわざわざ梟の刺青を彫ったのか?」
「ああ。背中の刺青なんて服を着れば隠せるからな。梟が誰なのか、ギルドにも足が付かなくて済む。唯一の心配は、伝言役に使ったあの娼婦だ。憶えていられるだけの頭かどうか怪しいからな」
「唯一の心配? 俺の行動はお見通しっていうことか……」
そう言ってネイは自虐的な笑みを浮かべた。
反してキューエルは愉快そうに高く笑い声を上げる。
「情報の取り方、盗み方、その全てをおまえに教えたのはこの俺だぜ?」
「そうだったな……。なぜ俺を来させた?」
「久々に会いたかったからさ」
白々しい言葉だ。
その白々しさに、ネイはかぶりを振りながら小さく鼻で笑った。
「ちゃんと答えろよ。なぜ来させた?」
もう一度訊くと、キューエルは顔を伏せて大きくタメ息をつく。
そのとき、遠巻きに見ていた一人の男が苛立った顔で近付いてきた。
「キューエル、そいつに用があるなら早くしてくれ! ただでさえそいつを待っていて時間が掛かってるんだ! 早くあの子供を連れて逃げねえと……」
逃げる? ガキ? しかしネイが聞き取れたのはそこまでだった。
男が激しく捲くし立てる最中、キューエルは立ち上がると同時に腰のサーベルを引き抜いた。
一閃――男の頭が身体から斬り離され、斬り口から血が飛び散る。
その光景がひどくゆっくりしたものに見え、血の色が妙に鮮やかに映った。
「っ!」
いきなりのキューエルの行動にネイが目を見開き、周囲の男たちも凍りついたように動きを止める。
「口が軽いヤツは足を引っ張ることになる」
止まった時の中、キューエルだけが言葉を発し、ゆっくりと顔に付いた返り血を拭い取る。
キューエルはそのまま振り返ることなく、肩越しにネイを見た。
「着いて来い」
それだけを言って歩き出し、死体を片付けるように感情の無い声で男たちに命じた。
「……良かったのか? 仲間だろ?」
ネイが先を歩くキューエルの背に問いかける。
広間の奥、さらに深くへと進む横穴を二人は歩いていた。
キューエルは一度鼻を鳴らすと、振り返らずに返事を返す。
「仲間? あいつらがか?」
そう言ったキューエルの表情は、後ろを歩くネイには見れなかった。
もしかしたら笑っていたのかもしれない。
「あいつらは利用するだけの駒さ。それも使い捨てのな」
そうキューエルが冷たく言い放つと、再びネイの脳裏に浮かぶ面影。
自身が少年の頃、手を差し出してきた青年の顔だ。
「見ろよ」
しばらく進むとキューエルは急に立ち止まり、顎で前方を指し示す。
示された場所は簡易の牢獄のようになっていた。
どうやら横穴の行き止まりを利用して造った物らしい。
穴の亀裂から月明かりが差し込むのか、牢獄の中は他所よりもわずかに明るく浮かび上がっていた。
そして、その牢獄の中に――
「なっ……」
一人の少女が静かに座っていた。
ネイはキューエルの横を通り抜け、牢獄に歩み寄る。
年は十四、五といったところか。もしかしたらもう少し若いかもしれない。
その顔は陶器のように白く、緩く微かにクセのある髪は銀色をしている。
そのとき少女が不意に顔を上げ、その顔をネイに向けた。
向けられた顔に感情の色は無く、その瞳は美しい深い紅色をしている。
「……こいつは?」
ネイの問いかけにキューエルが低く笑うが、ネイは振り返らなかった。
少女を監禁し、それを笑えるキューエルに怒りが込み上げる。
「まだガキじゃないか。こんなガキも『駒』と一緒か? 利用するのか?」
「ああ。最も利用価値がある」
キューエルがそう言いながら声を上げて笑う。
その笑い声が、ネイには耳障りなほど反響しているように聞こえた。
「だから言ったろ。俺が守ってやるって」
目の前の前の青年は、そう言って笑いながら右手を差し出した。
左腕には火災の中、少年を救うためにひどい火傷を負っている。
しかし苦痛の顔は見せず、ただ少年に笑顔を向けた。
初めて触れた人の優しさ。
その日から青年は、少年にとっての英雄になった。
その英雄は、もういない……
つづく