57章 今後の備え
周囲に霧が立ち込める。
自分がどこにいるのかも分からなかった。
ただ地鳴りのような恐ろしげな音が、まるで自分を追い詰めるように耳に響いてくる。
「……っ!」
その霧の中、声にならない声で必死に誰かの名を呼んでいる自分と、そんな自分を少し高い場所から見下ろすように見ている自分がいる。
次の瞬間、霧の中から何かが飛び出し、突然ランプの灯りが消えるように暗闇に包まれた。
そこで自我は一つとなり、闇の中を落下していくような感覚に襲われる。
何も見えない。ただ刺すような、凍てつく寒さにもがき苦しみ、そして暗闇にその意識が飲み込まれていく。
深い泥沼に捕らわれたように、ゆっくり、ゆっくりと。
しかし、意識が完全に飲み込まれる直前、白い手が伸び、沈み行く意識を引き上げた……。
ネイはベッドの上で目を覚ました。ひどく嫌な汗をかいて最悪の目覚めだ。
「お目覚めですか?」
不意に声をかけられギクリとしたが、すぐに聞き覚えのある声だと認識し、緩慢な動きで声のした方に顔を向けた。
視線の先ではアシムが、涼しい顔で紅茶をカップに注いでいた。
「朝か……」
うな垂れながら呟くように言うと、アシムが笑顔で頷いてカップを差し出してくる。
「サービスだそうです。昨夜、息子が迷惑を掛けたお詫びにと。一体何があったんです?」
アシムが壊れた扉に目をやり、呆れたような表情を見せると、ネイは苦笑しながら首を振った。
「いつ戻って来たんだ?」
カップを受け取りながらネイは訊いた。アシムが戻ってきた記憶は無い。
「昨夜のうちですよ。アンを家に送り届けてから」
「……そうか」
ネイは何食わぬ顔で紅茶を一口飲むと、目頭を指で強く押さえた。
「戻ってきたことに全く気付かなかったな」
「それはそうです。気付かれないように気を遣いましたから。邪魔しちゃ悪いと思いましてね」
そう言うとアシムは意味有りげに笑い、ネイの横の辺りを小さく指差した。
「ああん?」
ネイは片眉を上げると面倒そうに首を捻った。が、すぐにその目が見開かれ、思わず仰け反る。
ルーナがすぐ横で、丸くなったユピと寝ていたからだ。
ベッドが四つの大部屋だが、いつの間にかネイのベッドに潜り込んで来ていたらしい。
「な、なっ! あちっ!」
慌ててベッドから跳ね起き、思わず紅茶を手にこぼした。
「フフフ、そんなに照れなくても……手まで握って微笑ましい光景でしたよ」
「なっ!」
笑顔のアシムとは対象的に、ネイの口許は引きつっていた。
確かにルーナが寝についた記憶は無い。
自分がいつの間にか先に寝てしまっていたというのも分かる。しかし……。
そこでルーナはパチリと両目を開け、上体をムクリと起こした。
思わずネイの身体がビクリと波打ち、数歩後ろに下がる。
「……」
ルーナは無言のままベッドから降りると、そのままソファへと向かう。
そして何事も無いかのようにソファに腰を下ろした。
その一連の動作に鈍重さは無い。恐ろしく寝起きが良い。
「……」
唖然としてその様子を見ていたネイの頭に、本当に寝ていたのか?という疑問が浮かんだ。
三人と一匹が朝食を取りに一階に降りると、店主が大袈裟なまでの愛想笑いを向けてくる。
ネイは欠伸をしながら横目で店主を見ると、その視線を斜め下にズラした。
そこには口を尖らせ、上目遣いにネイを睨んでくる少年がいた。
昨夜の少年だ。
ネイは少年の前で立ち止まると、ニヤリと口の端を上げて挨拶するが、少年は膨れっ面で横を向いた。
それに気付いた店主が慌てて少年の頭を押さえつけ、無理矢理に頭を下げさせた。
「一体何があったんです?」
少年がネイたちのテーブルに、頼んでもいない料理を運んで来たとき、アシムは朝一番の質問と同じことを口にした。
少年は皿を乱暴に置くとすぐに立ち去ろうとする。が、離れ際にチラリとルーナに視線をやったのをネイは見逃さなかった。
「なあに。若き猛りを間違った方向に向けた少年に、ほんの少し灸を据えてやっただけさ」
ネイが涼しい顔でそう言うと、去りかけた少年の足がピタリと止まり、ズカズカと床を踏み鳴らしながら戻ってくる。
「だから誤解だって言っただろ! それに俺の名前はココだ! 少年じゃない!」
顔を真っ赤にしながら怒鳴るココを尻目に、ネイは目を閉じながらパンを一切れ千切って口に放り込んだ。
そのネイの様子に、ココは悔しそうに下から睨みつけて来る。
今にも噛み付きそうな気配だ。
二人の様子にアシムはタメ息をついて肩をすくめたが、それはすぐに笑い声へと変わった。
「しかし人さらいとは……」
身体を前後させながら、アシムは必死に笑いを堪えようとしていた。
「全く失礼な話だ」
「しかしあの子も災難でしたね。どうりでさっきから殺気を感じるわけです」
アシムがそう言うと、ネイはうんざりしたようにカウンターの方へ目をやった。
カウンターの陰からココがギラギラと睨んでいる。
白々しい笑顔で手を振ってやると、睨んだままカウンターの陰に隠れてしまう。
「こっちの方が災難だ。そんな思い違いを受けたかと思えば、ルーナには部屋から追い出されるし」
「ルーナに? なぜです?」
「そんなこと知るか! 突然背中を押して、部屋から一度追い出しやがったんだよ」
ネイが昨夜のことを思い出し、不機嫌そうにルーナを見るが、ルーナは淡々と食事を口に運んでいた。
アシムもルーナに顔を向けて首を捻るが、その答えは二人には分からなかった。
「そう言えば、あのアンという女性のことですが……」
アシムがそう切り出すと、ネイはさも興味が無さそうに視線を落としたまま肉を口に入れる。
「昨夜ここを出たとき、彼女が後を着いて来ていたのは気付いていたでしょ?」
「……だからなんだ?」
ネイは顔も上げずに今度はスープを口に運んだ。
「だったら、なぜ彼女を振り切ろうともしなかったんです?」
そこでネイは一度視線だけを上げ、眉間にシワを寄せながら鼻を鳴らした。
「だいたい誰だか検討がついたから、わざわざ振り切る必要もないと思ったんだよ」
ネイが嫌そうに答えると、アシムは含み笑いをする。
「彼女は生まれつき心臓が悪いらしく、少し走ると息切れがするそうですよ」
「……」
今度は答えることもなく、ネイはそのまま食事を続けた。
そこでもう一度アシムが肩を揺らすと、ネイは手にしたスプーンを放り出す。
「おまえ、一体何が言いたいんだ?」
不機嫌そうな顔で腕を組むネイに、アシムは笑みを浮かべながら首を左右に振って見せた。
「いいえ……別になにも」
「だったら黙ってとっとと食えよ。今日は色々やることがあるんだよ!」
怒鳴るネイに、アシムは声を噛み殺して笑った。
ココの鋭い眼光に見送られ、ネイたちは涼風亭を出た。
心地良い陽の光が顔を照らし、ネイは両手を上げて思い切り背伸びをする。
久々にぐっすり寝れたおかげが、身体が軽く感じる。
「それで今日やることとは?」
アシムがネイの背に言葉をかけると、ネイは腰に手を当てて振り返った。
「色々と買い揃える。おまえも矢の補充が必要だろ?」
「……確かに。しかしお金はどうします?」
アシムが眉の両端を下げて訊くと、ネイは腕を組んで低く唸った。
「問題はそこだ……」
「盗みはいけませんよ」
アシムが釘を刺すと、ネイは組んだ腕を解いて肩をすくめた。
宿代はすでに前払いで支払っているため、寝る場所の心配はなかったが、それでも今後どうなるかが分からない以上、金が底をつくというのは致命的だった。
ネイはタメ息を一つ吐いてルーナを見下ろした。
馬の尾のように一本で結んだ髪。その結び目の真っ赤なリボンがよく映える。
「仕方がないな……とりあえず今ある金で、最低限の物だけ買い揃えよう」
ネイは袋の中を弄った。
チャラっと少しばかりの侘びしい音がする。
分かってはいたが、金がほんとんど尽きてしまった。
最も大きな出費だったのは、アシムの矢だ。
ネイが安物にしろと言ったが、何だかんだと理由を付けられ、それなりに上等なものを購入させられた。
それでも矢の出来にはあまり納得出来ないらしく、宿に戻ったら自分で加工しなくてはいけないと不満をこぼしていた。
その他にも包帯やランプ。非常食用の燻製など、細かな物も色々と購入した。
今まで堂々と買い物が出来る状態ではなかったため、この街でそれらの必要最低限の物を購入しておきたかったわけだが……。
「やはりかなり厳しいですか?」
アシムは見えるわけでもないのに、横から袋を覗き込むような仕草をした。
「まさに金欠ってやつだな……」
ネイはそう自分で言ってガックリと肩を落とす。
「不本意だが、セティの懐具合に期待するとしよう。もっとも、金に汚いあいつがそうそう金を出すとは思えんが……」
「ハハ、まあ何とかなりますよ」
一番の出費の原因であるくせに、能天気に笑えるところがカンに触る。
ネイは白い目でアシムを見たが、全く効果は無かった。
「で、これからどうします?」
悪びれた様子もなく笑顔で言ってくると、ネイはタメ息をついて緩く頭を振ると天を仰いだ。
陽は真上から少し傾いた位置にある。
「そうだな……教会に行こう」
「教会?」
「ああ。待ち合わせ場所の周囲を、おまえも少し頭に入れておいた方が良いだろ」
アシムが頷いて同意した直後、後方で女の悲鳴が上がった。
ネイたちがその声のした方に振り返ると、その悲鳴の原因に一瞬目眩がした。
ユピがいつのまにかルーナの腕から離れ、露店に並べられた果物を両手に抱えて勝手に食っていた。
女が、飼い主を探し求める金切り声を上げている。
「アイツは非常食にしてやる……」
さらに増えた余計な出費に、ネイは再び肩を落とした。
ラビの指定した教会は、広場から北西の方向に伸びた路の先、緑が茂る小高い丘の上に立っていた。
人が三十人も入れば一杯になるような、そんな小さな造りの教会だ。
そしてその教会を囲うように、真っ白に塗られた木製の柵が建ち並んでいる。
その様子は、ネイの記憶とほとんど変わりはなかった。
「どうです?」
アシムに訊かれ、ネイは周囲をグルリと見渡した。
小高い丘の上にあるため、どの方向から人が来てもすぐに分かりそうだ。
教会の裏手に木が数本立っているが、それ以外にこれと言って身を隠せそうな場所は見当たらない。
その状況をネイはアシムに説明し、アシムは深く頷いた。
「待ち伏せの危険はなさそうですね」
「こっちもその手は使えないってことだ。もっとも、ドングリのヤツはそういったことも考えてこの場所を選んだんだろうがな……」
そう言ってネイはもう一度グルリと視線を一周させた。
そのとき、教会の扉が静かに開いた。
そして中から祭服に身を包んだ体格の良い男が姿を見せえる。おそらくこの街の司祭であろう。
年齢のため少々頬の肉が下がっているが、それが温厚そうな印象をさらに助けているとも言えた
司祭はネイたちの存在に気付くと、微笑みを浮かべて短く挨拶をして来る。
それにアシムが小さく頭を下げて応えた。
そのアシムの様子を笑顔で見て、ネイに視線を移した瞬間、司祭の表情にわずかな変化があった。
何かに気付いたような表情を浮かべ、小首を傾けたのだ。
ネイはその変化に気付き、そっと顔を逸らした。
「行くぞ」
アシムたちに短く声をかけて立ち去ろうとすると、司祭が声をかけて呼び止めてくる。
その呼びかけに、ネイは顔を背けたまま小さく舌打ちをした。
「もし。ちょっとよろしいか。あなたはアンの……アンジェリカのお知り合いではありませんかな?」
歩み寄ってくる司祭の目線は真っ直ぐネイに向いている。
しかしネイは顔を逸らしたまま何も答えない。
「アンをご存知なんですか?」
何も答えないネイに代わり、アシムが口を開いた。
司祭は自分が問いかけた者とは別の人物からアンの名が出たので、少し戸惑った表情を見せたが、すぐに目尻にシワを作った。
「貧しい者たちへの配給を手伝ってもらっているんですよ。もうすぐ教会へ来る時間だが……」
それを聞いたネイは司祭に背を向け、もう一度短くアシムたちに声をかけた。
アシムは苦笑し、司祭に一礼するとルーナを手を引く。
司祭の名残惜しそうな視線を背に受け、ネイたちはそうして教会をあとにした。
これより二日後、この場所で思いがけない人物と再会を果たすことになるなど、このときはまだ知る由もなかった……。
つづく
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