56章 早合点
月明かりの下、少し路から外れた土手。そこに生い茂る草の上に腰を下ろしていた。
心地良い風が頬を撫でる。
「それで、ずっと宿の前で待っていたんですか? いつ出て来るとも知れないのに?」
アシムが少し声のトーンを上げて言うと、アンは膝を抱えながら恥かしそうに俯いた。
少し赤みを帯びた栗色の髪が胸元に落ちる。
「それでアンジェリカさんは……」
「アンで結構ですよ」
微笑んで言うと、アシムも頬緩めて小さく頷いた。
「それでアン。あなたは、ネイがそのエルナン少年だと思うわけですね」
アシムが覗き込むように言うと、アンはコクリと頷く。
アンの話では、その昔この街にエルナンという少年がいたという。
アンはエルナンと親しく、二人はよく一緒に遊んだ。
しかし、別れは突然に訪れ、それ以来アンはエルナンを見ていないということだった。
「しかし、褐色の肌に黒髪というだけでは……」
アシムが困ったように少し首を傾けると、アンは強く首を振ってそれを否定した。
「瞳の色もです。エルナンの瞳はまるで夜の湖のように、深い蒼をしていた」
分かってもらおうと必死に訴える気持ちは伝わるが、それに対してアシムは苦笑いを浮かべるだけだ。
「残念ながら、それは私には分からないんですよ」
「あっ! すいません……」
アンは一度アシムの顔に目をやると、申し訳無さそうに目を伏せた。
「良いんですよ。それより、そんなにネイはエルナン少年に似ているんですか?」
再び力強く頷くアン。
「ええ。なんていうか、昔の面影があるんです。あの人……そのネイという人のことを、詳しく教えていただけませんか」
「それは……」
真摯な視線を感じたが、アシムは何と答えるべきか口篭もった。
ネイの口からこの街の出身だということは聞いている。
褐色の肌の持ち主が、同じ街にそう何人もいるとも思えない。
ということは、ネイがエルナンだというアンの主張は当たっているとも思えるが……。
「すいません。彼とは出会ってまだ間もないんです」
何も言わないことにした。
それは自分の口から言うべきことではないと思えた。
仮にネイがそのエルナンだったとしても、名乗らないなら名乗らないなりの、名を変えたなら変えたなりの理由があると思えるからだ。
「そうですか……」
その声からは明らかな失望感が読み取れる。
「そのエルナン少年とはどんな人物だったんですか?」
落ち込むアンを励ますように、アシムは極力明るい口調で尋ねた。
その問いかけに、アンは一度大きく呼吸をして夜空をそっと見上げた。
あたかも、そこに過去の幻像が映し出されているかのように、懐かしげに目を細める。
「一言で言えば、わたしの王子様です」
「王子様……ですか?」
少し眉をひそめたアシムに、一度アンは小さく笑う。
「おかしいですか?」
「いや、まるで夢物語のような表現だと……」
「そうですね。でもあの頃のわたしにすれば、エルナンは夢物語から現れた人物だったんです」
「……」
「わたしは、生まれつき心臓があまり丈夫じゃありません。そのため、子供の頃から外で遊ぶことはなかったし、それを許されることもなかった。だから家の敷地の外はまるで別世界のように考えてた。それこそ夢物語の世界が広がっているかのように」
「……」
「周りの子達を眺めて色々と空想を広げていました。でもその子たちからすれば、いつも青白い顔で遠くから見ているだけの私は、きっと幽霊みたいな存在だったんだわ。窓から手を振ってみても逃げていくだけ。幽霊は見えないものでしょ?」
そう言ってアンは少し淋しそうに笑った。
「エルナン少年は他の子とは違った?」
その問いに静かに頷く。
「わたしを初めて『見つけてくれた』んです」
アンはそこからエルナンとの出会いをアシムに語った。
家の敷地に迷い込んできた『別世界』の住人。
不思議そうに自分を見つめる蒼い瞳。
褐色の肌に、自信と生気に満ち溢れた笑顔。
手を引かれ、そこから始まった空想から現実への離脱。
「でもわたしは知らなかった。エルナンはとても明るくて、元気で輝いていたから……。わたしはただ外の世界にはしゃいでいるだけだった」
「?」
「エルナンは肌の色のせいで、街の人に良くは思われていなかったの。ううん、思われていなかっただけじゃない」
アンの沈痛な気配に、アシムもその状況がなんとなく読み取れた。
「とくにあの頃は、ヴァイセン帝国との『休戦』が結ばれる前だったから……。きっと街の人たちも自分の恐怖心をごまかすため、その捌け口を求めていたんだわ」
静かな口調だったが、そこには非難と哀れみが入り混じっているように感じた。
「エルナンはそんなことはちっとも感じさせず、他の子にからかわれるわたしをいつも庇ってくれた。そのたびにいつも傷だらけで……」
「……」
「でも、そんな時間がいつまでも続くわけがなくて、すぐ噂になって大人に知られてしまったんです」
「さぞ叱られたでしょ?」
微笑んで問いかけたアシムに、アンは淋しげに首を振った。
「いいえ。全部エルナンが悪いことになって……。そのときになって、エルナンがどういう扱いを受けていたかを初めて知ったんです」
「そうですか」
アシムにも痛いほどに伝わる悲哀の感情。
そこには、何も知らなかったという罪悪感も含まれているのかもしれない。
エルナンは何も言いワケをせず、その後もこっそりと会いに来てくれたという。
何も変わらぬ笑顔で。
「エルナン少年も本当は淋しかったのかもしれませんね。それにとても優しい少年だった?」
「ええ……」
そこでアシムは腕を組んで首を捻り、何かを考え込むように低く唸った。
そんなアシムを、アンが怪訝そうに見つめる。
「どうかしまして?」
「う〜ん……そこまで聞いた限り、やっぱりネイとは別人じゃないですか?」
真面目な顔でそう言ったアシムに、アンは一瞬目を丸くして思わず吹き出した。
その様子にアシムも一緒に笑う。
ひとしきり笑い、涙を拭うアンにアシムはさり気なく尋ねた。しかし、その質問が再び重い空気を作ってしまう。
「それで、エルナン少年との別れはなぜ?」
「突然です。エルナンが――」
そこで、アンは何かを苦しむように眉を寄せて胸を押さえた。
そして充分な間を空け、苦しげに息を吐き出すと言葉を発した
「死んだと……」
「死んだ?」
アシムは両眉を一杯に持ち上げた。
「ええ」
「それは確かですか? 一体誰がそんなことを?」
その問いに、アンが少し躊躇しながらも答えた瞬間、アシムの背中にゾワリと悪寒が走った。
涼風亭、三階の一室。
ベッドで髪を拭うルーナの背後。窓の外に在る人影がそっと両開きの窓に触れた。
そしてその手に力が込められると、静かに窓が外へと開く。
空気に流れが生まれ、窓際に吊るされたルーナの服がわずかに揺れた。
その影は窓枠手を掛けると、そっと中を覗き込む。
「っ!」
その瞬間、影がビクリと反応する。
窓際にいつの間にかルーナが立っていたのだ。
少し見下ろすように影の主をジッと見据える。
影の主もそっとルーナを見上げた。
肩から紐で吊るした太股丈の肌着の下、そこから覗かせたカボチャ型の肌着が目に飛び込み、影の主は思わずバランスを崩した。
必死に窓枠にしがみつき、なんとか部屋に入ろうとするが、さらに驚いて目を見開く。
ルーナが無表情にバケツを構えていたのだ。
影の主は知るよしもないことだが、それはセティに言われたことだった。
「覗き魔がいたら水でもかけてあげなさい。覗き魔って分かる? 窓なんかに張り付いてこっそり覗く最低の人間ね」
ルーナはそれの言葉に従ったまでだ。
「ちょちょちょ、ちょっと待って!」
慌てて影の主が声を上げるが遅かった。
振られたバケツから勢い良く水が飛び出し、それを顔に思い切り浴びてしまった。
「……」
影の主は動きを止め、無言で頭を振って水を弾く。そして部屋の中へと侵入してきた。
部屋の中に入るとルーナの前に立ち塞がり――いや、塞ぐことは出来ない。背がルーナよりもわずかに低いのだ。
「いきなり水をかけるなんヒドいよ!助けに来たのに!」
線の細い甲高い声。部屋に侵入してきたのは年端もいかぬ少年だった。
ユピが短い鳴き声を上げると、少年に近寄り足元をグルリと一周する。
そして、再び短い鳴き声を上げるとテーブルの上に飛び乗り、後ろ足で首元を掻いて欠伸をする。
ユピのその一連の行動を、少年は呆然と見ていた。
「何だあの生き物……? あっ! そんなこと気にしてる場合じゃないや。早く逃げなきゃ!」
少年はルーナに右手を差し出した。
その差し出された手をルーナはジッと見下ろす。
「さぁ、早く!服を着て逃げよう」
自分で言ってルーナが肌着というのを再び意識したのか、少年は頬を朱色に染めた。
しかしルーナは動かず、ただジッと差し出された右手を見下ろしている。
「早くしないとあいつ等が戻って来ちゃうよ!俺、さっき下で君を見たんだ。そのとき父ちゃんたちが話してるのを聞いた。君と一緒にいたヤツ等はただの旅行者じゃないって」
真剣な顔で言うが、少年の頬は相変わらず赤い。
「派手な顔立ちの女を二人も連れてるし、君を連れてフラリと出て行ったと思ったらすぐに戻って来るし。それに、もう一人目つきの悪いヤツも途中で来んだよ!そいつと女が怪しげにヒソヒソ話してた……。あの黒いヤツらは人さらいか何かだろ?」
何も答えず、俯いているルーナの両肩に少年は手を置いた。
「君があの黒いヤツに着いて店を出て行くとき、父ちゃんが声をかけたのに君は何も応えなかったって……よほど恐い目に合っているんだろうって父ちゃんが話てた」
俯くルーナを覗き込むようにして訴えかける少年。その小鼻が少しヒクついている。
そして、テーブルの上のユピがもう一度大きな欠伸をした。
「だから俺、助けようと……可愛いしさ……いや、それは関係ない…わけでもない」
途中からゴニョゴニョと聞き取れない程度の声で言った。
その直後、ルーナの背後でドアノブがガチャガチャと激しく鳴った。
「チッ!」
ドアに鍵が掛けられているのを知り、ネイはイラついたように舌打ちをする。
結局盗みをせずに帰ってきたネイに、ワケの分からぬ苛立ちが湧き起こる。
「おい!俺だ!鍵を開けろ!」
苛立ちからドアを叩く音が乱暴になった。
ガチャガチャとドアノブを激しく回しながらドアを叩く音。不機嫌そうに呼びかける声。
そのことに少年の心臓が縮み上がった。
「早く逃げなきゃ!」
言うが早いか、少年は吊るされたルーナの服を小脇に抱えると、窓まで駆け寄って窓枠に足をかけた。
そして壁に立てかけてあった梯子に足を掛ける。
「さあ、早く!」
窓の外からルーナに向かって右手を差し出した。
ドアを叩くネイの手がピタリと止まった。
部屋の中からかすかに声が聞こえたからだ。
「っ!おい!どうした!ここを開けろ!」
すぐさま呼びかけながらドアを叩き、手を止めて耳を澄ます。
しかし今度は反応が無い。
ネイは舌打ちをすると数歩さがり、勢いをつけてドアに体当たりをした。
しかしドアは壊れない。思ったよりも頑丈だ。
もう一度後ろに下がり再び体当たりをすると、今度は軋みを立てながら、ドアは奥へと勢い良く開かれた。
ネイはそのまま倒れこむように部屋に転がり、膝を突くと同時に素早く武器を構える。
そのネイの目にまず飛び込んで来たのは、肌着姿のルーナだった。
テーブルの上のユピは、眠そうに緩慢な動きで顔を向けてくる。そして――
「ん? ……何だおまえは?」
ルーナが立つ場所のさらに奥。窓の外に怯えた少年の顔が在った。
ネイは一度チラリとルーナに目をやると、タメ息ついて立ち上がる。
そして武器を収めながら窓に歩み寄った。
顔面蒼白の少年は、動くことも出来ずにただ震えていた。
「何だおまえは?」
「ううう、うるさい!悪党め!」
その言葉で、ネイのこめかみに青筋が一本浮かぶ。
「ほお〜……たいそうな口の利き方だな」
そう言うとネイは一度ルーナを振り返り、次に少年が抱えた物に視線を移す。
ルーナの服だ。
「梯子に上って小脇に服か……人を悪党呼ばわりするには、ずいぶん説得力の無い状態だなあ、坊主」
ネイが目を細めて皮肉を言うと、少年もその意味を悟った。
「ちちち、違うぞ!これは違うぞ!俺はそんなんじゃないぞ!」
「……」
ネイは無言で梯子に手を伸ばすと、最上段にワイヤーを巻きつける。
そして、三度同じ質問をした。
「何だおまえは?」
少年は答えず、何をされるのかと震えながらもネイを睨みつける。
少年のその態度に、ネイは底意地の悪そうな笑みを浮かべると、梯子を掴んで軽く押した。
「ひいいいー!」
少年を乗せた梯子は、悲鳴と共にゆっくりと壁から離れて傾いていく。
しかし、ネイの巻き付けたワイヤーの支えで、梯子は傾いたまま倒れることなくその動きを止めた。
今度はワイヤーを引いて梯子を戻すと、ネイは再び梯子を掴んだ。
「もう一度訊くぞ。おまえは何だ?」
冷笑を浮かべながら少年を見据える。
少年が何も答えず、怯えながらも反抗的に睨むと、ネイは再び梯子を押した。
「うわああー!」
梯子が傾いては悲鳴を上げ、戻されては睨む。
少年がそれを繰り返すうちに、ネイの顔に喜びの色が浮かんでくる。
少年が何者か?という当初の目的を忘れ、その反応を完全に楽しんでいた。
「ひえええー!」
「あわわわわ!」
「ぎゃあああー!」
その夜、涼風亭の周辺に、少年の悲鳴が何度も響いた……。
つづく