54章 背を向けて
漆黒の帳が紅色の空を完全に覆い隠そうとしている。
路行く人も、ついつい急ぎ足になる時刻だ。
アシムたちの待つ涼風亭に戻るため、中央広場を抜けて北東への通りに入ろうとしたとき、ネイの耳が気になる会話を拾った。
「ヴァイセン帝国がまた戦争の準備をしているらしいぜ」
「本当かよ! ここ数年大人しかったのに」
「ああ。流しの薬屋がそう言ってた」
その会話を耳にし、不吉な予感にネイは足を止めた。
同時に、後を着いて来ていたルーナが、ネイの背中に顔をぶつけて立ち止まった。
「こっちに来るのか?」
「いや、今度の相手はディアドらしい」
露店の人間だろうか、男二人が腕組みをしながら険しい顔をしている。
「ディアド? あの砂漠の国だろ? どうしてまた?」
「なんでも教会からの要請を受けたヴァイセン兵を、ディアドが邪魔をしたのが発端らしいぜ。協定を裏切る行為だとよ」
「協定?『教会の要請は特務として、各国が協力し合う』ってやつか?」
一人が肩をすくめて見せる。
「よく言うぜ! あいつ等、戦争を仕掛けられるそれっぽい理由が欲しいだけだろうが! 要は、お得意の侵略だろ?」
「っ! おい、よせよ」
一人が近付いて来る人の気配に気付いて肘で突くと、息巻いていた男も慌てて口をつぐんだ。
「ちょっと良いかい?」
声をかけると、二人は気まずそうに顔を向けてくる。
「今の話は本当かい? ほら、ヴァイセンがディアドに戦争を仕掛けるっていう……」
男二人が胡散臭そうにネイを見て、その視線をゆっくりと上下させる。
「……あんたは?」
一人が顎を上げながらネイに尋ねてきた。
「いや、聞き耳を立てるつもりはなかったんだが、ディアドに知り合いがいるんだ。だからちょっと気になってね」
笑みを答えると、二人は顔を見合わせた後にルーナに視線を落とした。
子供連れで安心したのか、その表情から警戒心がわずかに消えた。
「そういう話を聞いたってだけで、事実かどうかは分からないな。ただ、大量に武器を用意してるっていうのは事実らしいぜ……そう薬屋が言ってたんだ」
最後の部分は言い訳のように付け加え、ネイから目を逸らした。
「その薬屋は、まだいるのかい?」
「ああ。向こうで露店を出してるよ」
男がそう言い、広場から東に伸びる通りを指すと、ネイは礼を言ってその場を離れた。
「おい、もう少し寄り道していくぞ」
ネイがルーナに声をかけると、それに同意するように、ルーナは無言で服を掴んできた。
ラビは涼風亭に入ると周囲を見渡した。
多少混んではいたが、すぐに目的の席を見つけるとラビは真っ直ぐにそこへ向かった。
席まで近づき、無言で椅子を引くとドカリと腰を下ろす。
「あら、ずいぶん早かったわね」
腕を組んでいたセティがチラリとラビを見て声をかけた。
「食事は済んだみたいだな」
セティには応えず、ラビはテーブルの上に積まれた空の皿に目をやりながら言った。
「ええ、先に済ませましたよ。あなたは?」
アシムが笑顔で答えると、ラビは黙って自分の腹を軽く叩いて見せる。
どうやらラビも別の場所で済ませてきたらしい。
「一人だけ良い物を食べて来たんじゃないでしょうねえ」
セティが妬ましそうな視線を送ると、ラビは嫌そうな表情を作った。
「それで? あなたの雇い主とやらはどうなりました?」
アシムが苦笑いを浮かべながら訊くと、ラビは待つように手で制しながら宿の女を呼びつける。
女が来るとテーブルを片付けるように促し、ついでに紅茶を三つ注文する。
女が明るく返事をし、皿を持って席から離れると、ラビはわざとらしく大袈裟に周囲を見渡した。
「う〜ん……俺の気のせいか? 肝心のヤツがいないような気がするが」
ラビがそう言うと、アシムとセティは顔を見合わせて小さくタメ息を吐く。
「さあ? ちょっと出て来るって行ったきりよ」
それを聞いてラビは不機嫌そうに眉間にシワを寄せた。
「まったく! 勝手にいなくなりやがって」
ラビが不満の声を漏らすと、まるでそれを宥めるようなタイミングで、店の女が紅茶を持って戻って来た。
ラビは女に軽く礼を言い、その紅茶を美味そうにすする。
そして大きく息を吐き出すと、テーブルに両肘を突いて手を組み合わせた。
「まあ、いないヤツに文句を言っても仕方がない。今から言うことをお前たちからヤツに伝えてくれ」
そう言うと一度二人を交互に見る。
「四日後だ。四日後にこの街で落ち合うことになった。そうだな……今と同じ時刻で良い。陽が沈んだらこの街の教会前で待っていてくれ」
そこでもう一度紅茶をすする。その音にセティが顔をしかめた。
「教会の場所は……ヤツがこの街出身だって言うなら知っているだろ」
「まだその人物がどこのどなたかは教えてもらえないわけ?」
セティが不機嫌を前面に出して言うと、ラビは人差し指を立てて左右に振った。
「そいつは……」
「俺の口からは言えない……ですか?」
アシムが続きを言うと、ラビは眉を上げて笑みを浮かべる。
「じゃあ俺はもう行くぜ」
そう言うと紅茶の残りを一気に飲み干し、ラビは椅子を後ろにずらした。
「ちょっと待ちなさい」
席を立とうとしたところでセティが鋭く呼び止めると、ラビは中腰のまま動きを止めた。
「……なんだ?」
訝しげな表情をするラビを、セティは横目でジロリと睨む。
「紅茶代を置いてきなさい」
そう言われてラビはタメ息を吐くと、懐から自分の紅茶代を取り出して乱暴にテーブルに置いた。
「これで満足ですか」
歯軋りしながら皮肉を込めて言ったが、セティはテーブルの上のコインを見るとニコリと微笑む。
「あんたが注文した分は三杯よ」
そう言ってセティは涼しい顔で、さも美味そうに紅茶を飲む。
絶句するラビの隣でアシムが声を噛み殺して笑った。
広場の男が言った露店はすぐに見つかった。
東へ伸びる通りを行き、しばらくすると地面に座り込んで薬を並べている男がいた。
布で日よけを作った程度の簡素な露店だ。
ネイは手前で立ち止まると手持ちの金を確認し、その後で男に歩み寄った。
「薬屋かい?」
ネイが話しかけると、体格の良い男がゆっくり顔を上げてネイを見上げた。
座っていても腹が重そうなのがよく分かる。
「はい。腹痛から傷薬、解毒剤まで色々揃ってますよ」
愛想よく口の端を上げて見せる。
「数日前に肩が抜けちまってね。何か効くのはあるかな?」
そう言って左肩を軽く叩いて見せると、薬屋は笑顔のまま一つの小ビンを差し出した。
ネイがしゃがみ込んでそれを受け取ると、ルーナもその隣に膝を抱えてしゃがみ込む。
「そいつは塗り薬でね。塗った部分が良く冷えるから効きますよ」
小ビンの蓋を外して匂いを嗅いでみると、鼻にツンとくる匂いがしてネイは少し顔をしかめた。
「じゃあこれを貰うよ」
「毎度」
満面の笑みを浮かべる男に、提示された金を払いながらネイはさりげなく口を開いた。
「いつもここにいるのかい?」
「いいえ。数日したらまた別の街です」
男は変わらぬ笑顔で答える。
「流しの薬屋か……」
「ええ。移動しながら各地で薬の原料を手に入れるんですよ」
「へえ。じゃあここの前はどこに?」
そう尋ねると、笑顔のままではあるが、その顔色にわずかな変化が見えた。
それを確認し、すかさずもう一つ適当な薬を注文する。
すると薬屋は合点がいったように、再び満面の笑みを浮かべて薬を差し出して来た。
その後の会話は滞ることなく、実に円滑に進んだ。もっとも、会話が終わるまでに更に薬を何個か買い足したが。
ネイは充分な話を聞くと、笑顔の男に見送られながら店をあとにした。
薬屋の話では、この街に来る前はアーセン地方で商売をしていたらしい。
アーセンとは、現在いる国の西に隣接する土地で、数年前にヴァイセン帝国の侵略を受けて吸収された国だ。
そのため、現在はヴァイセン帝国の領土となり、先方隊の駐屯地として利用されている。
そのアーセン地方の鍛冶屋が総出になって大量の武器を生産しているらしく、その武器はそのままアーセン地方の南、ヘルタ地方に送られているらしい。
ヘルタもアーセンと同じ境遇の地域で、ヴァイセン帝国に吸収され、砂漠のディアドに隣接している土地でもある。
そして、そのヘルタに武器と同時にヴァイセン帝国の本隊も向かっているというのを、薬屋はアーセンの駐屯兵から耳にした言うのだ。
(俺たちのせいか? ヴァイセンが付け入るスキを俺たちが作っちまったのか?)
砂漠の後継者、オツランとの別れの時が思い出される。
(ミューラーのヤツ、上手くやるって言ったじゃねえか!)
胸中で糸目の団長に毒づき、同時にアシムにそのことをどう伝えるか考える。
ただでさえアシムと砂漠の王は旧知の仲だ。
自分たちがきっかけになったかもしれないと知ったら、生真面目なアシムのこと、ここでジッとしていることは出来ないだろう。
思考を巡らせながら広場に戻ったところで、離れた場所からスカートをたくし上げ、ネイたちに駆け寄ってくる女に目が止まった。
先ほどルーナに声をかけ、アンジェリカと名乗った女だ。
「エルナン!」
女は再びその名で呼びかけながら駆け寄ってくるが、ネイはそれを無視して涼風亭へと続く通りに入った。
しかし、少し行ったところで女は追いつき、ネイの腕を掴んでくる。
ネイは舌打ちをし、うるさそうな表情で振り返った。
「人違いだって言ったろ」
呼吸を荒げて前かがみになる女に向かい、冷ややかな口調で言葉を投げつける。
女はまだ顔を上げることが出来ず、空いた手で胸を押さえながら必死に空気を吸い込んでいた。
その様子を見てその場を去ろうとするが、女が掴んだ腕を離さない。
「待って……お願い……」
まだ呼吸を荒げながら、苦し気に女は言葉を吐き出した。
「エルナン……エルナンでしょ?」
「だから人違いだって言ったろ」
顔を背けながら面倒そうに言うと、女は顔を上げてジッとネイを見据えた。
その瞳は哀しげな色を浮かべている。
「そう……。そうやって知らないフリをするのね」
「……」
「じゃあこれだけ聞いて。さっきあなたが出てきた家。あそこに住んでいた人は九年前にあそこを出たわ」
「……」
何も応えないネイを見据えたまま、女はゴクリと呼吸を飲み込んだ。
「そして二年前に亡くなったの……」
その言葉でネイは女の方に顔を向け、相手の目を見返した。
女の目は何かを期待するような、すがるような目をしていた。
「……人違いだって言ってるだろ」
そう言った瞬間、女は力無くうつむいてネイの腕から手を放し、自分のスカートを握り締めた。
女がそのまま動かなくなると、ネイは何事もないようにルーナに声をかけて背を向ける。
背中に視線を感じつつも、ネイは振り返ることなく歩調を早めた。
促されるがまま、うつむき加減に隣を歩くルーナ。
その紅い瞳がネイの手をジッと見据える。
震えるほどに強く握られていたネイの手を……。
つづく
9月17日〜19日、携帯版の方から投票をクリックしてくれた方、大変ありがとうございます!
フと思ったのですが、投票をクリックしてくれてる方って同じ人ではないですよね?
それはそれで大変嬉しいのですが、もしそうなら『同じ作品に投票出来るのは、おおよそで月に一度』というルールらしいので、そのへんは注意してください。
ではまた次回(10/19)