47章 聖女
薄暗い部屋の中、ベッドの主の発した言葉にネイの思考が混乱した。
何を言ったのか聞き取れたはずが、頭でそれを理解することが出来ない。
そんなネイの気持ちなど知らず、ベッドを囲うように垂らされたレースがそっと開いた。
だが、月明かりが逆光になっていて顔は分からない。
ただ、その影から小柄なこと、長い髪だということは分かった。
「……ネイでしょ?」
そう言ってジッと見つめているのは分かる。
「何で……知っているんだ」
長い間を空け、そう聞き返すのがやっとだった。
騒ぐなというような脅しの言葉も、ルーナについての質問の言葉も出てこない。
頭に浮かんだ言葉をそのまま口するのがやっとだった。
しかし、ベッドの主にはそれだけで充分だった。
ネイの言葉を聞いた直後、ベッドの上から飛び出した。
裸足だ。間の抜けた話だが、そんな当たり前のことしか頭に浮かばなかった。
次の瞬間、ネイは目を白黒させる。
ベッドの主はそのままネイまで駆け寄ると、勢い良くネイに飛び込み抱きついてきたのだ。
「お、おい……っ!」
突然のことに驚き見下ろすと、ネイは言葉を飲み込んだ。
髪が……月明かりに照らされた髪が、濃い銀色をしていた。
ルーナと同じ髪の色だ。
「あんたは……聖女なのか……」
その言葉にベッドの主は、ネイの腹部に頬を当てながら小さく頷いた。
そして、そっと顔を上げて微笑む。
そしてネイは驚きに目を見開いた。
少女だった。小柄な身体が示す通り、まだどこか幼さを残す少女。そして―――
「私と同じ蒼い瞳だ」
少女はネイの顔を見上げ、ジッと見つめながら嬉しそうに言った。
少女が言う通り、その瞳はネイと同じ深い蒼色だった。
ネイは言葉を掛けることも、引き離すことも出来ずにただ固まっていた。
しかし少女は気にせず、再び顔を伏せるとそっと白い頬を当て、抱きつく腕に力を込めた。
「嬉しい……本当に来てくれるなんて。……本当に嬉し過ぎて足がガクガクします」
消え入りそうな小さな声で呟くと、事実、少女の身体は微かに震えていた。
ネイはその震える肩にそっと両手を置いた。
「お前は……っ!」
そう言ったとき、何かを感じた。
警戒音だ。ネイの勘がもたらす警戒音が鳴った。
ネイの表情が咄嗟に険しいものとなり、その異変に少女が心配気に口を開く。
「どうした……ムググ」
ネイは左手で少女の口を押さえ、自分の唇に人差し指を当てた。
驚きに目を大きくしたが、微かに朱色に染まった白い顔が、コクリと頷き同意を示す。
ネイはそっと手を離し、少女にベッドまで下がるように指示を出して扉をわずかに開けた。
隣の部屋に人が居る気配はない。
次に出窓に近付きそっと外を見る。
いた。顔を窓に近づけて何とか見える程度だが、ネイが上ってきた階段方向から近付いて来る二つの影。なびいているのは黒いフード。
間違いなくアサシンだ。
ネイは舌打ちをし、少女に動かないように指示すると、そのまま部屋を出ようとする。
そんなネイに少女は声を掛ける。
「行ってしまうの?」
その寂しげな声に、部屋を出ようとしたネイは足を止める。
「……ここを動くなよ」
背を向けたままそれだけを言ってネイは部屋を出た。
外に通じる扉の横、ネイは壁を背にしてナイフを構えた。
ガチャリと静かに扉が開く。
「……」
警戒しているのか、すぐには部屋に入って来ない。
ネイは斜め下に視線を落とし、フードの裾が見えた瞬間、振り向き様にナイフを突き出した。
しかし相手もそれに反応し、後方に飛び退いて階段下に着地する。
ネイは舌打ちをすると無理に追うことはせず、外に出て後ろ手に扉を閉めた。
顔を全て覆う不気味な仮面を着けた二人組み。間違いなくアサシンだ。
ネイが外に出るとアサシン二人は散開し、距離を取った。
ネイはそれを見てうんざりしたような表情をする。
「仕事熱心なのは良いが、こんな場所まで来るなよ。それとも熱心過ぎる信者か?」
ネイの言葉を無視し、アサシンは低く身構えた。
「鷹の目に死を……」
それを聞いてネイもため息を吐きながら身構える。
「ちょっとは融通を利かせろよ」
この状況をどう打開するか、目の前の相手に集中しなければ、殺られる。
それは分かっているが、どうしても思考が聖女に傾きそうになる。
それを振り払うように、ネイは小さく首を振った。
同時に花びらが舞い散る。ネイの不用意な動きにアサシンが二人同時に飛び出した。
左右からキラリと光る刃が顔を見せた。
(下がるな!)
二対一だ。後ろに下がれば追撃を受け、避けきることは出来ないだろう。
ネイは身を低くして踏み込むと、刃が当たる寸前に思い切り頭を下げる。
頭上で風を切り裂く音がしたのと同時に、頭を下げた勢いのまま地面を転がり二人の間を通り抜けた。
そして、すぐさま身体を起こしながらアサシン二人に向き直る。
上手く二人の背後を取る形になった。
俊敏性だけならアサシン二人にも引けを取らない。
ネイは地面を蹴り、一気に背後から右のアサシンに襲い掛かる。
突き出したナイフ。しかしアサシンは振り返ることなく、身体を右に回転させてその攻撃を躱した。
そして、同時に爪状の刃で振り向き様に反撃に出ようとする。
「このっ!」
反撃される前にネイは肩口で体当たりし、アサシンのバランスを崩すことに成功した。
しかし安心する間もなく、もう一人が左から首を狙って襲い掛かる。
ネイはその攻撃を咄嗟にしゃがんで躱すが、バランスを崩していたアサシンが再び上から刃を突き刺しにかかった。
「うわっ!」
何度か声を上げて後方に転がり、上から突き刺してくる刃を避ける。
それでも執拗に追撃してくるアサシンの顔に向かい、転がりながら地面の土をナイフで巻き上げた。
その土を防ぐのにアサシンが顔を腕で覆う。その隙にネイは距離を取り立ち上がった。
「!」
一人いない。もう一人がネイの視界から姿を消していたのだ。
その瞬間、ネイは反射的に頭を下げた。
直後、背後から髪を何かが掠めていく。アサシンの刃だ。
ネイは振り返ることなく、身を低くしたまま逆手に持った左手のナイフを背後に突き出した。
「ぐぅ」
短い呻き声と確かな手応え。そして素早く横に転がり距離を取ると、ネイは再び身構える。
だが今度は二人とも襲っては来ない。追撃が間に合わないと判断して仕切り直すようだ。
ネイはゴクリと呼吸を飲み込み、右にいる相手に目をやった。
黒いフードの上、太腿のあたりが他よりも濃い色になっている。
どうやらナイフを刺した場所は太腿だったらしい。
その傷は、手応えからしてそれなりの深さだと思えたが、仮面を着けていては表情で判断することも出来ない。
「へっ……無理するなよ。痛いだろ?」
ナイフを身構えながら笑って見せるが、もちろんそれには答えるはずもない。
互いの間に緊張感が走る。
そのとき不意に、ガチャリと扉の開く音がした。
「……ネイ?」
こともあろうに、少女が扉から顔を覗かせる。
「バカっ! 中にいろ!」
ネイがそう叫ぶと少女は一度ビクリと身体を震わせ、慌てて扉を閉めようとするが遅かった。
姿を見られたアサシンは、少女に襲い掛かろうと走り出す。
「くそっ!」
ネイは左手のナイフを口に咥え、走り出したアサシン目掛けて左腕を振った。
そしてワイヤーがアサシンの左腕に的確に絡みつき、その動きを封じる。
アサシンを止めることに成功すると、ネイの脳裏に記憶を辿って中庭の情景が素早く描き出される。
ネイは口に咥えたナイフをホルダーに収めると、ほんの一瞬少女を見た。
少女も怯えた表情でネイを見ていた。
「また来る」
そう短く言うと、目の前のアサシンに向かって走り出す。
ナイフを刺された太腿の傷が痛んだのか、アサシンの反応がわずかに遅れた。
爪状の刃で応戦しようとするが、それよりもネイの踏み込みの方が早かった。
「うおぉー!」
ネイは力いっぱいアサシンの腰に体当たりすると、そのまま腰に腕を回して持ち上げるように押し込んだ。
「!」
アサシンがネイの意図に気付き、抵抗を見せるが間に合わない。
そのままネイは躊躇うことなく、アサシンごと屋上から宙に身を投げ出した。
中庭の植え込みが見える。
それが恐ろしい速度で眼前に迫ってきた。
葉の枝が揺れあい折れる音が耳障りなほど間近で聞こえ、目の前が真っ暗になり身体に衝撃を受けた。
「うぐぐ……」
呻き声を漏らした直後、わずかな時間の差で近くに何かが落下した音が聞こえた。
ネイは数度頭を振ると、おぼつかない足取りで立ち上がる。
ネイの下、植え込みの木々の上にアサシンが仰向けで倒れていた。
ピクリとも動かない。仮面の隙間、顎のあたりから血が一筋流れているのが見える。
植え込むがクッションとなったとはいえ、ネイの体重も掛かってはただでは済まないだろう。
ネイがアサシンを見下ろしていると、ガサガサと近くで音が聞こえた。
もう一人のアサシンだ。
どうやらもう一人は無事だったらしく、ネイと同じくフラつきながら植え込みから身を起こした。
周囲が騒がしい。
どうやらネイたちの落下音を聞き、教会の人間たちが騒ぎ始めたようだ。
ネイは近くに落ちたナイフを左手で拾い上げると、それを構えながらゆっくりと倒れたアサシンから離れる。
周囲のざわつきが次第に大きくなる。
どうやらアサシンも、この状況で仕事の遂行は無理と判断したのか、ネイに向かって来る気配はない。
そして憎々しげに腕に絡みついたワイヤーを投げ捨てた。
ネイがワイヤーを収めてジリジリと後退すると、アサシンはそれに合わせて倒れた仲間に歩み寄る。
そのとき倒れていたアサシンがかすかに動いた。
その仲間の様子に気を取られた隙に、ネイは窓ガラスを割って部屋の中に飛び込んだ。
「ぐぅぅ……」
激しい痛みが右肩を襲った。
ダラリと垂れたまま、自分の意志で動かすことが出来ない。
(折れてはいないようだが……)
部屋の外では人が慌しく行き交う音が聞こえる。
「くそ……」
ネイは意を決すると、壁に向かい思い切り右肩を叩きつけた。
「ぐぅ!」
激しく痛むがそれを堪えて数度繰り返し、鈍い音が右肩に響くとそのままズルズルと壁沿いに崩れ落ちた。
床に腰を下ろしながら肩で息をし、もう一度右腕を動かしてみる。
激しい痛みはあるが今度は動かすことが出来た。
「上手く填まった……」
そのまま少し呼吸を整えていると、部屋の外で声が聞こえる。
「いたぞ! 向こうへ行った!」
どうやらアサシンが見つかったようだ。
アサシンが上手い具合に注意を引き付ける形になっているなら、今は下手に動かない方が良いと判断し、しばらく息を潜めることにした。
呼吸を整えながら、目を閉じて屋上の光景を思い出す。
空中に浮かぶような花園。小さな建物。そしてそこにいた少女。
聖女と呼ばれる人物は、ルーナ以外に確かに存在していた。
銀色の髪だった。自分と同じ蒼の瞳をしていた。
そして少女の声。少女の表情。
「ハハ……まるで夢でも見た気分だ……」
そう呟いてネイはうな垂れた。
少女は確かに名を呼んだ。そして笑いかけた。
瞳の色以外、ルーナと全く同じ顔だった……
つづく