38章 逃亡路
急かされるままにネイは梯子を上り地上へと出た。
地上へ出ると空はすでに白みかけ、今にも陽が昇ろうとしている。
「ネイ! 早く乗……っ!」
目の前の砂上船の操縦席から顔を出したセティが、ネイを急かそうとしたが驚いて口の動きが止める。
ネイの横にルーナを抱えたミューラーが立っていたからだろう。
ミューラーは砂上船の扉を開けると、ルーナを中へと押し入れた。
中に乗っていたユピがうれしそうに『キキッ!』っと短く鳴き声を上げ、ルーナの膝の上に飛び乗った。
その際、中にはアシムもすでに乗っていたが、突然現れたミューラーの気配に戸惑っているようだった。
「早くお逃げなさい」
ミューラーは扉を押さえたままそう言うと、ネイに向かって急き立てる。
「ちょ、ちょっと待てよ! 一体どういうことなんだ? ビエリはどうするんだ?」
ネイが怒鳴り返すとオツランが申し訳無さそうに俯いた。
「すいません、僕のせいです。城に戻ったときにヴァイセン帝国の人間が来ていたのですが、そのときにネイさんたちのことを言ってしまって……急いでアシムさんたちと城を抜け出して来たのですが……」
「お気になさらずに。何度も言いますが、それは仕方の無いことです。オツラン殿はヴァイセンの兵が何故いるのか知らなかったんですから」
アシムが砂上船から身を乗り出し、慰めるように声を掛けた。
「だから、何でヴァイセンのヤツ等に追われなきゃいけないんだ? あんな物騒な国のヤツ等に追われる覚えは無いぞ!」
どうしても状況が把握出来ず、頭を掻きむしりながらネイが怒鳴った。
「君には無くとも向こうには大有りなんですよ。それに正確に言えば、彼らはネイ君を追っているわけじゃない」
ミューラーがそう言うと、ネイ以外の者の視線が砂上船に乗ったルーナに集まる。
「っ! ルーナか……」
ネイはその視線に気付き、呟くように言った。
「どうしてヴァイセンのヤツらがルーナを……」
「良いから早くしなさいよ! モタモタしてたら追いつかれるわよ! 聞きたいことは逃げながら聞きなさい!」
ネイの疑問を、苛立ったようなセティの怒鳴り声が打ち消した。
「彼女の言う通りです。今はとにかくお逃げなさい」
ミューラーに言われ、周りを見ると全員が頷く。
ネイはボリボリと頭を掻くと、大きなため息をついて肩を落とした。
「分かったよ。分かった……」
そう言いながら砂上船に乗り込む途中、一度リーゼの方に顔を向ける。
「……ビエリのこと頼むぜ。『先に行く』って言っておいてくれ」
その言葉にリーゼは深く頷いて返した。
「このまま北に向かい『聖都』に出なさい。あそこは非戦闘地域ですからヴァイセンの者たちも無茶は出来ません」
ミューラーがセティにそう言うと、セティは戸惑いながらも頷いて見せる。
「あんたは来ないのか?」
ネイのその疑問にミューラーは微笑みながら首を振った。
「少しでも時間を稼ぐ人間が必要ですからね」
「それなら僕たちが……」
オツランがそう申し出るが、ミューラーはそれにも首を振って見せる。
「あなたは王家の……しかも正統な王位継承者と聞きました。そんな人間がこれ以上干渉すれば、国家間に余計な軋轢を生んでしまいます。ただでさえ逃亡に手を貸した事実は、あなた方にとって好ましく無い状況ですよ」
ミューラーにそう言われると、オツランも何も言い返せなかった。
「それにヴァイセン帝国には知人がいるんです。その者の名を上手く使わせてもらいますよ」
ミューラーはそう言って片目を瞑って見せると、オツランは苦笑いを浮かべながら頭を下げた。
ミューラーはそんなオツランを微笑んで見ると、再びネイたちに向き直る。
「では早く出なさい。そして私のためにも捕まらないでくださいね。他の者に先を越されたら国に帰れなくなってしまう」
「努力はするさ」
ネイが嫌そうな顔を作りながら応えると、ミューラーは満足そうに頷いた。
「じゃあ行くわよ」
セティがそう言うと、ミューラーはもう一つ言い忘れていたことを慌てて付け足した。
「そうそう、あとファムートに気を付けなさい。私が商業国を出る前に、彼は姿を消していました」
ミューラーのその台詞でアシムの表情に緊張が走った。
ネイの脳裏にズラタンの館、顎に刀傷のある蛇のような顔が浮かんだ。
「なにい?『教会』からの要請?」
「ええ。それでヴァイセンの者たちも我々を追って来ているようです」
砂上船の中、ネイの上げた素っ頓狂な声にアシムは神妙な面持ちで頷いた。
「なんで教会が……」
そう呟きながら、隣に座るルーナの頭を見下ろす。
時折その頭が砂上船の揺れに合わせ、前後左右にと動いていた。
「そもそもルーナをキューエルから取り返そうとしていたのは教会のようです。カムイ王が調べたところによると、ズラタンという人物も教会からの要請で動いていたらしいですね」
「そんなバカな……」
ネイはキューエルの最後に言っていた言葉を思い出していた。
キューエルは最後に、ルーナを『ズラタンの元から』連れて来たと言っていた。
ルーナを取り返そうとしていたのは教会で、ズラタンはその要請を受けて追っていたというなら、そのキューエルの最後の言葉はおかしくなる。
あの状況でキューエルが嘘を言うとはネイには思えなかった。
それとも、教会からはルーナを連れ出したのは別の人間で、それを取り返したズラタン元から、その後でキューエルが連れ出したのだろうか?
ネイはそんな考えを巡らせていたが、あまりにも情報が少なすぎて現段階では何とも言えなかった。
ただ、釈然としない気持ちの悪さが胸に広がるだけだ。
「!」
ネイはそこで先ほどのミューラーの台詞を思い出した。
「聖都は非戦闘地域だから聖都に逃げろ」
そう言ったのはそれだけが理由ではなく、ルーナのルーツが聖都に有ることからもそう言ったのかもしれない―――。
そこまで考えたとき、不意に名を呼ばれているのに気付いて我に返った。
「聞いていましたか?」
アシムが怪訝そうにネイに顔を向けていた。
「あぁ……悪い。なんだ?」
アシムは出来の悪い子供を見るような表情をして首を振ると、再び表情を引き締めた。
「良いですか。もしこれから先、ファムートと出くわすようなことがあっても必ず逃げてください」
アシムの言葉にネイはあからさまに不機嫌な表情を作った。
「そんなに俺の『腕』は信用無いかよ」
ネイがそう言うとアシムは苦笑いを作る。
「気を悪くしたなら謝ります。それはあなたの腕の良し悪しで言っているのではありませんよ」
アシムが宥めるように言うが、ネイはチラリと横目で疑わしい眼差しを向けただけだった。
「本当ですよ……ただ、あなたではファムートには勝てない。あなたは命乞いをする相手の目を見ながら平然と斬ることは出来ないでしょ? そういう人間でなくてはファムートには勝てませんよ」
「……フン、おまえには出来るのかよ。おまえの方が無理そうだぜ?」
ネイに言い返されるとアシムの顔に笑みが浮かぶ。
「私は相手の目を『見れません』から」
アシムは本気とも冗談とも取れぬようにそう言うと、両手を組んで俯いた。
そしてその表情は今までネイが見たこともないくらい張り詰めていた。
そんな空気を切り裂くように、操縦席からセティが突然声を上げる。
「来たわよ!」
その声に反応し、ネイは窓から身を乗り出して後方を覗き込んだ。
ネイの頭の上からユピも外に顔を出す
後方、まだ多少距離があるであろう場所に砂煙が上がってるのが見えた。
「くそっ! カムイ王は何で帝国兵にまで砂上船を貸したんだ!」
ネイが頭の上のユピを引き剥がしながら愚痴を溢すと、アシムは冷静な声で返事を返す。
「仕方が無いですよ。正式な隣国からの要請なら、それを無下には出来ないでしょ。ましてや我々は立派な犯罪者ですからね。そうそう一国の王が庇えるものじゃありません」
「分かってるよ!」
ネイは冷静なアシムにイラついたように怒鳴ったが、アシムは「だったら聞くな」と言わんばかりにユピに向かって肩をすくめて見せた。
「セティ! これ以上近付かせるな! きっともうすぐ砂地を抜ける!」
ネイは操縦席に向かって声を掛けた。
「そんなことこの子たちに言なさいよ!」
セティは涎を垂らしながら走るラクファローを指差しながら、ネイに振り返って目を吊り上げた。
しかしネイの要求も虚しく、背後から迫る砂煙は徐々にその距離を縮めているように感じる。
「どうなってんだ! なんで向こうの方が速いんだよ!」
「う〜ん……ラクファローの食べている物が違ったんでしょうか?」
アシムが真顔でそう返事をした。
ネイはルーナを抱き上げると砂上船を飛び出した。
アシムもユピを肩に乗せてそれに続く。
「あんた達、ご苦労様」
セティはそう言いながらラクファローの頭を撫で、額に口付けをすると装具を外してその身を自由にしてやる。
「急ぐぞ!」
ネイは後方に上がる砂煙を見ながらセティにそう声を掛けた。
セティは一度振り返ると、その砂煙との大よその距離を確認した。
「まずいわね……かなり距離を縮められたわ。ここから徒歩となるとルーナがいる分また遅れるし……」
セティは前方に視線を戻すが、身を隠せそうな場所は無かった。
しばらく先までは土が剥き出しになった地面が広がり、さらに遥か遠方にうっすらと緑が見える。
「木々がある場所まで逃げ切れればな……それまでルーナは背負うか」
「ビエリじゃあるまいし、辿り着く前に力尽きるわよ」
「とにかく先に進みましょう。追いつかれたら、その時はそのときです」
アシムの意見に同意するようにユピが鳴き声を上げた。
やはり考えが甘かった。
ルーナを連れていては思っていたよりも足が遅れる。
ネイとアシムで交代にルーナを背負いながら走ったが、やはりそれでも限界があった。
後方から迫る影は当初ゴマ粒程度に見えていたが、振り返る度にその輪郭をはっきりさせる。
今でははっきりと人型の影が確認出来た。
相手からもネイたちがそう見えているからか、追い上げる速度が増しているようにさえ感じた。
「くそっ! 目の前に餌をぶら下げた馬みたいだな。勢い付きやがって」
何度目かの交代でルーナを背中から下ろしたとき、ネイは息も絶え絶えで膝に手を突きながら愚痴を漏らした。
「まったくですね。追う側と追われる側じゃ気分が違いますよ」
さすがのアシムからも弱気な台詞が漏れる。
「何人くらいだ?」
下を向きながら呼吸を荒くしてセティに聞くと、多少間を空けて『三十人ちょっと』と答えが返ってきた。
それを聞いてネイは顔を歪めて舌を出すと、気持ちを鼓舞するように勢い良く上体を持ち上げた。
「文句ばかり言ってても仕方が無いな。行くか」
そう言いながら、胸中では『逃げ切れない』と覚悟を決めていた。
やっとの思いで草原まで差し掛かったとき、背後からかすかに声が聞こえる。
すでにヴァイセンの追っ手との距離はすぐそこま縮まっていた。
立ち止まって休む余裕はもう無い。
上り坂を上がりきり、少し進んだ所でネイとアシムは顔を合わせて頷き合うと、立ち止まってアシムの背からルーナを下ろした。
「ちょっと! あんた達なに止まってるのよ!」
慌ててセティも立ち止まり、地団駄を踏みながら二人を怒鳴りつける。
「ルーナを連れて先に行け! 俺たちは時間を稼ぐ」
「はぁ? 本気で言ってるの?」
セティは呆れたように言ったが、二人の表情を見て息を飲んだ。
その顔は覚悟を決めた男の顔だった。
「……分かったわ。必ず後から来なさいよ!」
セティはそう言うと、ルーナの手を引いて走り出す。
それを見届けて二人はヴァイセン兵の方向に向き直った。
「さてと……じゃあちょっと格好を付けるか」
「そうですね」
足元でユピも飛び跳ねながら威勢良く息巻く。
上り坂を駆け上がってくる足音が聞こえる。ガチャガチャと装具の擦れ合う音だ。
二人はナイフと弓をそれぞれ構えた。
セティは振り返らずにルーナの手を引き必死に走った。
後方で叫び声、怒鳴り声が聞こえたが振り返ることはしなかった。
ただ二人を信じ、目を閉じて必死に走った。
しかし、わずかばかり進んだ所で背後から近づく足音を耳にした。
絶望感が全身を包む。
さらに固く目を閉じ、それでも必死に走った。
追いついて来る気配が左右に分かれる。
恐る恐る目を開くと、そのまま目を見開いた。
セティの左右、ネイとアシムが走っていた。
「あんた達何してるのよ!」
「いや、やっぱり無理だ。あんな体力バカを相手に出来るか!」
「ですね」
アシムも走りながら数度頷く。
セティは背後をそっと振り返ると、ヴァイセン兵が剣を振りかざしながら迫って来る。
そしてその格好に目を白黒させた。
全員が黒い鎧を身に纏い、足の先から首まで完全防備だった。
「あいつら、あの格好で追いついて来たの!」
その有り余る体力を考え背筋がゾッした。
「ひえぇ〜!」
セティの甲高い悲鳴が辺りに響く。
小高い丘の上。
ネイたちが逃げる様子を馬上から眺める者がいた。
その光景に微かな笑みを浮かべる。
次の瞬間、馬の脇腹を軽く蹴り、ネイたちに向かい勢い良く斜面を駆け下りた……
つづく
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