19章 されど英雄
降り注ぐ雨が身体を打ち、流れるように頬を伝う。
焼けるような左肩の痛みが他人事のように感じる。
ネイはおぼつかない足取りで、横たわるキューエルに歩み寄った。
まだ荒い呼吸を整えながら見下ろすと、キューエルは空の一点を見つめていた。
二振りのナイフが鳩尾と脇腹に深々と突き刺さっている。
キューエルは空を見つめたまま低く笑った。
しかし、その笑いにすでに邪気は無い。
「参ったぜ……まさかあそこで止まるとはな……」
先刻、中腰のまま頭を上げなかったことを言っているのだろう。
口を開くたび、そこから鮮血が嫌なを音を上げながら零れ落ちる。
だが、その顔はどこか清々しささえ感じさせた。
「……俺には幸運の女神がついてたみたいだ」
ネイがそう言うと、キューエルは愉快そうに目を細め、弱々しい笑い声を上げた。
「女神か……それじゃあ仕方が無いな……」
「キューエル……」
一体何があったんだ?
そう言おうとしたが、その言葉を飲み込んだ。
そんなことを訊いても尾もなんの意味も無いと分かっていた。
ここにいるキューエルこそが全てで、訊いたからといって刻が戻るわけではない。
「キューエル……あの娘は何だったんだ?」
その質問にキューエルは声を出さずに笑った。
「盗賊なら情報すらも盗め。そう教えただろ」
「……」
「……まあいい。一つだけ……一つだけ教えてやる。あの小娘は……ズラタンの元から連れてきた」
「ズラタン? あいつはズラタンと関係があるのか?」
「言ったろ? 一つだけ――」
無理に笑おうとしたキューエルの口から再び血が零れ、言葉が途切れた。
「……止めを差すか?」
キューエルはわずかに顔を向ける。
しかし、ネイは首を左右に振って応えた。
そんなネイに、キューエルは低い笑いを漏らす。
「酷いヤツだな……そうしてくれた方が楽なのにな……」
「罰だと思って我慢してくれ」
そう言って微笑むネイに、キューエルも目を閉じて微小を浮かべた。
「……キューエル」
「……」
キューエルは目を閉じたまま何も応えない。
しかし、ネイは言葉を続けた。
「あんたの言ったことは正しいのかもしれない。俺はプライドなんて大そうな言葉を使って、ただ自分のやっていることを正当化したいだけだったのかもな……」
「……」
「だけど……あんたは一つ間違ってる。それだけは確かだ」
今度はキューエルも眼を開いた。
だが、ネイに顔を向けることはしない。
「……あんたは国を奪えば、万人を殺せば、そして勝利すれば英雄だって言っただろ? あれは違う」
そこまで言うと、ネイはキューエルの傍らにしゃがみ込み方膝を突いた。
「国を奪えなくても、万人を殺さなくとも、例え敗れたとしても……あんたはやっぱり俺の英雄だったよ」
ネイが泣き笑いの表情を浮かべる。
頬を伝うものは雨水か、それとも涙か、ネイ自身にも分からなかった。
そんなネイの顔を見ずに、キューエルは笑った。
「おまえは本当に嫌なヤツだよ」
「……」
つかの間の沈黙。
様々な記憶に思いを馳せ、懐かしむように、どちらも口を開かなかった。
そしてキューエルは最後の力を振り絞り、二本のナイフを引き抜いた。
その瞬間、口と傷口から血が溢れ出る。
二本のナイフに付いた血を、自分の服で拭い取ると、それをネイに差し出した。
「もう行け……」
ジッとネイを見据える瞳。
ネイは俯き、その瞳から顔を背けた。
「……ああ。分かった」
ネイが立ち上がると、二人は最期にもう一度だけ視線を合わせる。
そして、キューエルが空を見上げて再び目を閉じると、ネイもキューエルに背を向けた。
俯きながら一呼吸分だけその場に、一度顔を空に向かって上げると、何かを振り払うように歩き出す。
一度だけ……一度だけ足を止めたが、振り返ることはしなかった……
岩陰からキューエルに近付く二つの影があった。
「また一段と痩せましたねえ……」
「ミューラー団長、どうしますか?」
その問いにミューラーは逡巡し、一度しみじみと頷く。
「手厚く葬ってあげましょう」
「ズラタンには何と?」
「焼け死んで遺体も燃え尽きた……とでも報告しますよ」
そう言うとミューラーはその場にしゃがみ込んだ。
そのミューラーの背に言葉を投げかける。
「……しかし、なぜこの男は早く逃げなかったんでしょうか。いくらでもそうする機会があったと思いますが……。ましてや、どちらにせよ先は永くなかったろうに」
その疑問にミューラーは苦笑する。
「……カーク君、知っていましたか? 仮面の盗賊団はね、彼が首領になってからは殺戮行為がピタリと止んだんです」
「……それがなにか?」
「私が思うに、逃げなかったのはネイ君に見せるためだと思いますよ。今の自分をね」
ミューラーの言葉に、カークは低く笑った。
「落ちぶれた姿なのにですか?」
その台詞にミューラーは肩をすくめた。
「ダメですねえ、カーク君は……落ちぶれた姿だからこそ、ですよ」
「?」
「もっとも、本当のところは本人にしか分かりませんが……」
「……そんなものですか?」
「そんなものです」
カークは納得いかぬ顔で首を傾げる。
そんなカークの様子にミューラーは微笑んだ。
「もし……もしも彼が別の道を歩んでいたら……」
そこまで言い、言葉を飲み込むとミューラーは緩くかぶりを振る。
「いや、自分で選んだ以上、別の道なんてないですね」
そう寂しそうに呟き、タメ息をつくと立ち上がった。
そして、気を取り直すように陽気な声を上げる。
「さあ、我々には我々のやるべきことが残っていますよ」
クレスタに戻るのにどれだけの時間が掛かっただろう。
まるで悪夢の中を彷徨い歩いているような気分だった。
暗闇の中、彼方の空が微かに白み始め、もうすぐ陽が昇ぼることを告げていた。
雨のせいか、血が流れすぎたせいか、それともその両方か、体温が極度に低下しているのが朦朧とした頭でもはっきりと分かる。
おぼつかない足取りでクレスタへ辿り着こうというとき、その西門に幾人かの人影が見えた。
「おそ〜い!」
甲高い女の声だ。
「あんた、こんなにレディを待たせて風邪でも引いたらどうするのよ!」
声からセティだと分かったが、目が霞んではっきりとは見えない。
「済んだんですね」
「ブジ……ヨカッタ」
「キキッ!」
おまえら何してるんだ?と軽口を叩こうとしたが、舌までもが痺れたように上手く喋れない。
「血を流しすぎたようですね……」
そのアシムの声もどこか遠くから聞こえた。
「ちょっと、あんた酷い顔色よ!」
耳元で騒ぐセティの声が、遠くで聞こえるのはありがたかった。
直後、突然身体が浮く感覚がした。
「ネイ……ダイジョウブ?」
どうやら、ビエリに背負われたというのは何とか認識出来た。
身体が早いリズムで上下するのが分かる。
おそらく走っているのだろう。
朦朧としながらその揺れに身体を委ねていると、突然そのリズムが止まった……
「おまえたち待て!」
その声にアシムたちギクリとする。
見慣れない胸当てと兜を被った兵士が二人、アシムたちに近付いてきた。
「デカい男と、そこのおまえ……男だよな?」
そう言と、兵士の一人がしげしげとアシムの顔を見る。
「まあ、いい。ん? おまえは……女でいいんだよな?」
「失礼ね! 何であたしとアシムが同じ反応なのよ!」
「うるさい! 反抗するな!」
そう言うと、兵士は背後に立つもう一人に声をかける。
「こいつらで間違いないよな?」
その問いにもう一人が神妙に頷いて見せた。
「よし。おまえら一緒に来てもらおう」
「はあ? 何を威張ってるのよ! あんた達は私兵団じゃないでしょ?」
セティは腰に手を当て胸を張った。
そのセティの態度に、二人の兵士の顔が歪む。
「我々はズラタン卿直属の私兵だ。いいから一緒に来い!」
ズラタンという言葉に、ビエリに背負われたネイの身体が反応する。
「こいつ…らは…ダメ…だ」
ネイがそう言うと、アシムとセティは理由も聞かずに兵士に奇襲を掛けた。
セティは兵士の股間を蹴り上げ、アシムは首筋に弓を叩き込む。
短い呻き声を漏らし、私兵の二人はその場に崩れ落ちる。
「ビエリっ! 南門に向かって走りなさい!」
アシムがそう叫ぶと、ビエリは一目散に走り出した。
その勢いに、ビエリの頭に乗っていたユピもずり落ちそうになり、必死にしがみつく。
「いたぞ! こっちだ!」
後方から私兵団の声が聞こえてくる。
「このままじゃまずいですね……」
そう呟くと、アシムは立ち止まった。
それをネイは視線だけ動かして確認する。
「ちょっと、何してんのよ! 追いつかれるわよ!」
「貴方たちは先に行きなさい! 私は時間を稼いで後から追いつきます」
ビエリとセティが躊躇する。
「早くしなさい!」
めずらしく怒鳴ったアシムの声に驚き、ビエリは走り出した。
「時間を稼ぐってどうするのよ!」
「いいからも行きなさい」
セティは下唇を噛み逡巡したが、結局は踵を返してビエリの後を追った。
アシムはセティも走り出したのを確認し、追って来る私兵たちに向き直る。
「人数は……参りましたね。矢の数が足りません」
人差し指で頬を掻くと、矢筒から全ての矢を引き抜き、地面にそれを並べて刺した。
「少々痛いのは我慢してください」
アシムは向かって来る私兵に向かい弓を構えた。
「行った?」
「イッタ」
セティとビエリは身を隠しながら南門へ向かっていた。
ここ数日、減っていたはずの私兵団の数が、急に元に戻った気がする。
「じゃあ行くわよ」
「ウン……」
そう行って走り出そうとするビエリをネイが止めた。
「見ろ……」
ネイが示した先に荷馬車が見える。
しかし、その周辺にはに七、八人の私兵がいる。
「どうするつもり?」
「あれを頂戴するんだよ……」
「一体どうやって?」
怪訝そうにするセティ。
ネイはビエリに降ろすように言うと、セティの肩を借りて地面に座り込んだ。
セティが心配そうに肩の傷口と顔色を見るが、ネイはそれを手で制した。
そしてビエリをジッと見上げると、ビエリはその視線から逃れるように目を泳がせた。
「ビエリ…おまえがやれ。あいつらを……蹴散らしてくれ」
「!」
目を逸らしたビエリの身体がビクリとする。
「ムリ…オレ…ムリ」
そう答えて弱々しく首を振るビエリ。
しかし、ネイはそんなビエリを見据えたまま動かない。
「いや、出来る」
「ムリ……」
ビエリは頭を抱えると、全てを拒否するようにその場にしゃがみ込んでしまう。
セティが心配気に二人を交互に見やる。
ネイは立ち上がると、ビエリに歩み寄りその肩に手を置いた。
ビエリの身体がまたビクリと震える。
「いいか、ビエリ……アシムの矢は全然足りない…さっき確認した」
ネイは一度苦しげに大きく息を吐き出した。
「おまえがやらなきゃアシムを助けられない。おまえのデカい手は頭を抱えるためにあるのか? 太い腕は身体を隠すためにあるのか?」
「アウゥ……」
ビエリは幼子がイヤイヤをするように頭を左右に振る。
それを見て何か口を挟もうとしたセティを、ネイは視線で制した。
「俺も血を流しすぎた。自分でもヤバいと分かる。だから助けてくれ」
ネイの言葉にビエリは弱々しく顔を上げる。
「ネイ……タスケル……?」
「そうだ。おまえなら……いや、おまえしか出来ないと思っているから頼んでる」
「オレ……デキル?」
「ああ。おまえは本当は強い。他のヤツらに出来ることを、おまえは出来ないかもしれない。だが同じように、おまえに出来て他のヤツらに出来ないことがある。それが今だ」
その言葉にビエリはオロオロとうするが、真っ直ぐにネイはビエリを見続けた。
すると、ビエリはノロノロと立ち上がり、兵士たちとは逆方向にゆっくりと歩き出す。
ネイとセティが見守る中、建物の横にあった丸太を手に持ち、元の場所に戻ってくる。
一度ネイを見下ろして不安気に頷く。
それをネイは頷いて返した。
次の瞬間、ビエリは意を決したように、咆哮を上げながら飛び出して行った。
それを見送るとネイは倒れそうになり、セティが慌ててその身体を支える。
「頼むぜ……ビエリ……」
ネイはビエリの背に向かい、静かに呟いた。
ビエリの暴れ方は酷いものだった。
恐怖のためにがむしゃらに丸太を振り回すだけだ。
しかし、虚を突かれたこととビエリの勢いに、兵士たちはたじろぐ。
泣き出しそうな顔で必死に振られた丸太は、まとめて二人を軽くなぎ払う。
「ハハ……すげえ……」
ビエリの様子に弱々しい笑みを浮かべると、ネイの意識は暗闇に落ちていった。
「参りましたね……矢が無くなりました……」
アシムの前方には太腿を射抜かれ、倒れている私兵が三十人近くいた。
無事な者もアシムの矢を恐れて動けなかったが、矢が尽きると見るや一斉に向かって来る。
「どうしたものか……」
腕を組みながら顎に手を当て、呑気に考え込んでいると、ガラガラとけたたましい音を上げて何かが近付いてくる。
するとその直後、アシムと私兵の間を遮るように、大きな影が飛び出して来た。
荷馬車だ。
突然現れた荷馬車に、兵士たちも慌てて足を止める
「アシム!」
セティの叫び声。
その声を聞き、アシムは荷馬車に飛び乗った。
それと同時に荷馬車が走り出す。
一度立ち止まった私兵も、我に返ると慌ててその後を追う。
しかし、武具を装備した人間の足で追いつくはずもなく、見る見るうちに荷馬車は遠のいていく。
走り去っていく荷馬車。
セティは荷馬車から顔を出し、悔しがる私兵に向かい唇を投げて見せた……
つづく