18章 英雄の定義
降りしきる雨は激しさを増し、地面に流れる泥水は、微かに残った友愛を流し去ろうとしているかのようだった。
この先にキューエルがいる。
そう覚悟を決め、まだ見えぬキューエルの姿を睨みつけるように、前方を鋭く見据えた。
キューエルの暗号が示した場所。
それは、街から西へ少し行った鉱山跡地。
この国モントリーブにはこういった場所がいくつも点在する。
ネイは雨でぬかるむ大地をしっかりと踏み締め、ゆっくりと鉱山跡地へ歩を進めた。
岩山に口を開けたいる穴の前に立ち、呼吸を整える。
穴の中に踏み入ると十分な幅のある通路になっており、少し先で再び明るさが増しているのが分かる。
一度大きく息を吸い込み、通路を進むとすぐに拓けた場所に出る。
そこまで来ると、頭上から再び雨が降り注いだ。
どうやら天井すでに崩れ、頭上が吹き抜け状態になっていたようだ。
辺りには草の根も張り、永い刻、人が足を踏み入れてないのが見てとれる。
そしてその奥、影になっている部分に石で造られた四角柱が倒壊しており、そこに腰掛けている人の影が確認出来た。
暗がかりで足しか見えないが、ネイは迷うこと無くその人影に声をかけた。
「待たせたか?」
「……いいや」
一呼吸置き返ってきた声は、ネイが聞き慣れた声だった。
影はゆっくりと立ち上がり、ネイに向かい歩み寄ってくる。
そうして暗がかりから出てきた人物に、再び声をかけた。
「……ずいぶんやつれたな、キューエル」
滝の空洞のときにはろくに目を合わせなかったが、今こうして対峙するとかなりやつれたのが分かった。
前回会ったときも痩せたように感じたが、今はそのとき以上だ。
落ち窪んだ眼。こけた頬。唇には艶が全くなく土気色をしている。
「逃亡生活はキツかったか?」
その台詞にキューエルは鼻を鳴らし、病的なまでの表情で薄く笑った。
「ネイ……抜けよ。すでに敵同士だ。余計な挨拶なんていらないだろ?」
感情の無い口調でそう言うと、キューエルは腰のサーベルをゆっくり引き抜いた。
その冷たい殺気にネイも覚悟を決め、腰に差さった二本のナイフを抜く。
右足前、半身の体勢のキューエル。
左足を前に、腰を落としてやや正面向きで構えるネイ。
互いに身構えたまま、しばし睨み合う。
最初に動いたのはキューエルだった。
素早い踏み込みと同時に、ネイの胸目掛けて突きを出す。
ネイはその攻撃を左側に身体を捻って避け、その勢いのまま右手のナイフで斬りつけた。
しかし、キューエルも頭を反らして、その攻撃を躱した。
そして再び距離を取る。
「……」
ネイがゴクリと喉を鳴らし、キューエルは口許に冷笑を浮かべる。
「なかなか腕が上がった。だがナイフの扱いも俺が教えたんだぞ?」
「……」
今度はキューエルの言葉をネイが無視した。
キューエルは笑みを消すと、再び踏み込んだ。
今度は先刻よりも速い。
ネイも同じように身体を捻って避けようとするが、今度はサーベルの刃先が左腕を掠めた。
それでも構うことなく右手のナイフで斬りつける。
「っ!」
しかし、右腕を振り切る前に、その手首をキューエルは左手で掴んで押さえた。
ネイはすぐさま左手、逆手に持ったナイフで突きを出すが、キューエルはその攻撃もサーベルで受け止めた。
その拍子に二人の顔が睨み合いながら急接近する。
「無理だな……無理だ、ネイ。おまえは俺には勝てない」
再び浮かぶ冷たい微笑。
サーベルが素早く後ろに引かれ、今度は腹部を突いてくる。
「ちっ!」
ネイはキューエルの腹に右足の裏を当てがうと、掴まれ腕を振り払いながらキューエルを踏み台にして後ろに飛び退いた。
しかし、キューエルは逃がさない。
すぐに距離を詰め、第三、第四の攻撃を繰り出してくる。
それらはナイフでは届かないサーベルの距離だ。
腕、胸、太腿と、なんとか急所を避けているが、徐々にその身体が斬り刻まれていく。
ネイは泥にまみれながら、なんとか必死で距離を取った。
だが状況は全く良くならない。
一向にキューエルの懐に飛び込むことが出来ないのだ。
巧みにサーベルを操り、距離を詰めさせてはくれない。
「クックック……アッハッハッハ!」
キューエルは低く、そして最後は高く笑った。
その笑いはどこか演技じみて感じるほど大袈裟で、ネイを不快にさせる。
「惨めだな、ネイ。泥だらけになって転げ回るだけか? 俺にタテ突いた挙句がその様か?」
口許にだけ笑みを浮かべて見下ろしてくる。
その瞳には蔑みの色が浮かんでいる。
ネイは頬の泥を拭いながらゆっくりと立ち上がった。
「……あんたほどじゃない」
「なに?」
冷笑を浮かべたまま訊き返した。
「あんたほど惨めじゃないと言ったんだ」
「ほお……言うようになったな。俺が惨めだと?」
「ああ。俺はあんたのようにプライドは捨ててない」
睨みつけるネイに、キューエルは目を細めた。
そして低く、愉快そうに笑いを零す。
「何がおかしい!」
ネイが激しく怒鳴りつけると、キューエルは顎を上げて勝ち誇ったように見下ろす。
「プライドだと? 盗賊にプライドか……。あまり笑わせるなよ」
再び低く笑った。
「おまえは何も分かっていない。分かっていないぞ、ネイ」
そう言って緩慢動きでかぶりを振ると、薄い笑みを浮かべる。
「あれか? 『貧乏人からは盗らない。殺さずに盗る』ってやつか?」
「……」
「同じだよネイ。同じだ。貧乏人から盗ろうと、殺して盗ろうと、結局盗みは盗みだ。クズのやることさ」
そう言って低く笑ったが、どこか自虐的なようにも感じる。
「同じじゃない!」
ネイが叫ぶとキューエルは笑みを消し、鋭くネイを睨みつけた。
「いいや、同じだよ。そんなのはプライドじゃない。自分のやってることをどうにか正当化したい弱者の言い分だ」
「……」
ネイは悔しさから、強く奥歯を噛んだ。
しかし、それが何に対しての悔しさなのか自分でも分からない。
変わってしまったキューエルに対してか。それとも何も言い返せない自分に対してか……。
そんなネイの心境を察したように、キューエルの口許に笑みが戻る。
「だがなネイ。それはチマチマとやっているからクズなんだ」
「なに?」
「戦争を考えてみろ。奪うなら国ごと奪えばいい。殺すなら一人じゃなく、何千何万と殺せばいい」
「……」
「不思議なものでな、そこまでやればクズじゃなく英雄さ」
愉快そうに笑うキューエル。
ネイの中で何かが、最後に残った何かが音を立てる。
「ただし、勝利すればの話だがな。負ければ大罪人だ」
さらに口許を大きく歪めて笑うキューエル。
一瞬、ほんの一瞬だけ、ネイはそんなキューエルから顔を背けた。
「笑っちまうだろ? 同じことをしても勝つと負けるじゃ扱いが真逆さ。だからおまえの言ってるプライドなんて、しょせん弱者の戯言だ」
「……」
「自分の卑しさを、自分の無力さを、その上辺だけのプライドとやらで正当化しているだけだ。本質は同じことをしているくせに、力で認めさせるのではなく、非難することで自分はマシだと慰めている負け犬だ!」
「……」
ネイの中で何かがゆっくりと崩れ始める……。
「あの小娘に関してもそうさ。女子供を利用するなだと? そう言うおまえも利用したんだよ! 俺に歯向かうためにあの小娘を連れ去った。決してあの小娘を助けるためじゃないぜ? あくまで俺への反抗ためだ! そうだろネイ?」
たしかにキューエルの言った通り、ルーナを利用したのかもしれない。
キューエルへの反旗の証として。
しかし……
「……べるな」
「なに?」
「もう喋るなと言ったんだ。あんたの言いたいことは分かった」
そこでキューエルの目が、意外なものを見るようにわずかに見開いた。
「……あんたは今日、ここで大罪人になるってことだ」
そう言って再びナイフを身構える。
「ほお……俺が敗者になるって言うのか?」
キューエルも冷笑を浮かべながらサーベルを構えた。
今、ネイの中で完全に崩れ落ちた。
どこで信じていた愚かな願望が……。
悔しいが腕前では圧倒的にキューエルが上だった。
このままでは勝てない……
「どうした? 大そうな口を利いたわりには消極的だな。来ないならこっちから行かせてもらうぞ」
サーベルの切っ先が、踏み込むタイミングを計って微かに上下する。
しかし、今度は先に動いたのはネイの方だった。
左手に持ったナイフをキューエルに向かって投げつけたのだ。
「っ!」
不意を突かれたキューエルだったが、そのナイフをサーベルで外側に弾き飛ばした。
だが、それによりわずかな隙が生じる。
そのわずかな隙。ネイは右手に握ったナイフまでも、キューエルの顔に向かって投げつけた。
「くっ!」
キューエルはバランスを崩しながらも、寸でのところで二本目のナイフもサーベルで叩き落とした。
ネイが小さく舌打ちをする。
「苦し紛れか? 武器を全て手放してどうする? 冷静なおまえらしくもないな」
冷笑を浮かべながら、キューエルは勝利を確信しネイに近付く。
「観念しろ……おまえは俺に敵わない」
キューエルがサーベルを振り上げた。
だが、その油断こそがネイの狙いだった。
ネイは渾身の力で地面を蹴り、キューエルの懐に飛び込んだ。
それに素早く反応し、キューエルのサーベルが振り下ろされる。
…
……
………
二人は動きを止めていた。
サーベルはネイの左肩口に振り下ろされている。
しかし、距離を詰めていたため、サーベルの根元で斬りつけられた傷は、ネイの骨を断つほどの致命傷には至らなかった。
そしてキューエルは……
「ぐぅ……」
その口から微かな呻き声が漏れる。
ネイの左腕が真っ直ぐキューエルに向かって伸びている。
そしてその手には……
「バカな……」
最初にキューエルが弾いたはずのナイフが握られていた。
キューエルは脇腹に深々と刺さったナイフを左手で押さえこんだ。
ネイは左手をナイフから離す。
そしてキューエルは気付く。
脇腹に刺さったナイフの柄には、何かが巻き付いていた。
その巻き付いた何かは、そのままネイの左手首から伸びている。
「っ! ワイヤーか……」
そう。ネイはナイフを投げつける前に、その柄にワイヤーを絡めていた。
「いつの間に……」
苦悶に歪むキューエルの顔。
しかしその動きは止まらなかった。
サーベルを肩口で受けたせいで、ネイの手許は微妙に狂い、一撃で仕留めることが出来なかった。
「くっ!」
ネイは慌ててもう一本のナイフを拾いに走る。
ナイフに手が届いた直後、脇腹に衝撃が走った。
キューエルに力一杯蹴り上げられたのだ。
「ぐぅ!」
身体がくの字に曲がり、胃液が逆流しそうになる。
そして苦悶に歪むネイの顔に、キューエルは泥を蹴りかける。
「うっ!」
泥が目に入り、視力を奪われる。
それでも、ネイは四つん這いのまま右手のナイフをがむしゃらに振り回した。
しかし、そんな攻撃が当たるわけもなく、ナイフは虚しく空を斬る。
一瞬の静寂―――
(来る!)
恐ろしく大きな警報がネイの中で鳴り響き、肩とわき腹の痛みを堪えて立ち上がろうとした。
しかし、左手が何かに捕らわれ、中腰にしかなることが出来なかった。
結果的にそれが命運を分けた。
中腰のネイの頭の上を、風を切り裂く音が通過する。
間違いなくキューエルのサーベルだ。
ネイはサーベルが振られてきた方向に、ナイフを持った右腕を思い切り突き出した。
確かな手応え……
わずかな間を置き、右腕を突き出した方向でバシャリと水音が上がった。
そして完全な静寂に包まれる。
己の荒い息遣いが耳障りなほどの静寂……
肩で息をしながら、周囲に耳を澄ますが何も聞こえない。
ネイは呼吸を整えながら目の泥を拭った。
霞む視界。自分がナイフを突き出した方向に目をやる。
視線の先、地に落ちたサーベルと、人の影らしきものが横たわっているのが確認出来た。
そこでネイはやっと安堵の息を吐き出した。
先刻、もし立ち上がっていたら、間違いなくその首は両断されていただろう。
何が自分の左手を捕らえたのかを確認し、ネイは息を飲んだ。
それは草の根だった。
草の根が、左手に巻かれたある物に絡まっていたのだ。
そのある物とは、宿から出るときに手荷物からそっと持ち出して身に着けていた物……
ルーナの髪を編み込んだという、聖なる魔除けだった……
つづく