11章 か弱き心
「気を付けて行くんじゃぞ」
「……」
日が沈み出す頃、集落入り口付近であろう場所で、ジュカとルーナに見送られた。
「気を付けろ? この状態じゃ気を付けようが無い! 俺はアシムじゃないんだぜ」
憮然とした表情でそう不満の声を漏らすが、状況は変りそうにない。
「少しの間だけ我慢してください。我々の掟なのです」
アシムが涼やかな口調で肩越しに振り返るようにネイに声をかけた。
ネイはアシムの操る馬の後ろに乗っていた。
いや、乗せられている、と言った方が正しい。
目隠しをされ、両手をアシムの腰に回して手首を縛られた状態だったからだ。
部外者に集落の場所を教えることは禁じられているらしく、ネイはこういう状態となった。
「おまえ、目が見えないんだろ? 本当に馬なんか操れるのかよ?」
ネイがそう訊いたが、アシムは答える代わりに微笑を浮かべると、掛け声と共に馬の横腹を軽く蹴った。
それを合図に馬はいななき、前脚を跳ね上げて風を切り裂くように猛然と走り出す。
「バ、バカヤローッ! 声をかけてからにしろ! こっちは見えないんだぞ!」
そんなネイの罵声も風の音にかき消えてしまう。
こうしてアシムの他、五人の男たちと共にネイは森の獣捕縛に向かった。
「さあ。ここまで来ればもう目隠しを取って結構です」
アシムはネイの手首の縄を解くとそう告げた。
ネイはやっと視界が自由になったことと、無事に馬から降りられることに安堵の息を漏らす。
目隠しをされた状態で馬に乗るのは、過去味わったことのない恐怖だった。
なにせ何も見えものだから心の準備が出来ず、馬が枯れ木か何かを飛び越すだけでゾクリと身体が震えた。
それに馬を操ってるのが『目が見えない』と言っている人間なら尚のことだ。
「なあ……もしかして帰りもこの状態か?」
げんなりとした表情を作りながらアシムに尋ねたが、答えは分かりきっていたものだった。
「もちろんです」
あっさりと言い切る爽やかな口調。だが今は腹を立てる元気もない。
「では行きましょうか」
「ここからは徒歩か?」
「ええ、相手はなかなか警戒心が強く、物音を立てると身を隠してしまいます」
そう言いながらアシムは手綱を樹に繋ぎ、馬の鼻梁を優しく撫でた。
他の五人も同じように馬を樹に繋いでいる。
男たちの装備はアシムを含め、何かの動物の毛皮で作られた服を着て、その肩に弓と矢筒を担いだ格好だ。
「……俺には弓矢は無いのか?」
「弓矢を扱い慣れていない人間は、森の中では仲間を誤って撃つ危険がありますから」
アシムの口調は穏やかだが、言うことは失礼極まりない。
ネイは笑み浮かべるアシムに舌打ちをした。
「ところで相手はどんな生き物なんだよ?」
「屈強な身体にとてつもない腕力を持っています。実はあなた達を森で見つけたのは、その獣だと思って近付いたからです」
そのアシムの台詞にネイは違和感を感じた。
何とは言えないが、何かが引っかかる。
「……で? どうやって捕らえるんだ?」
「罠を仕掛けます。あなたにはそこまで獣をおびき出して欲しいのです」
「……俺はエサ役かよ?」
ネイがジロリとアシムを睨みつけると、アシムは苦笑いをする。
「言い方は悪いですが、身軽な貴方だからこそ頼みたいのです」
アシムはネイの方向にジッ顔を向ける。
もしその眼が開いていたなら、『真摯な目』という言葉が当てはまるのだろう。
そのアシムの顔に、ネイはうな垂れてタメ息をついた。
「分かりましたよ……エサでも何でもやってやるさ」
ネイの台詞にアシムは笑みを浮かべながら頷いた。
「で、どうしてその獣を捕らえる必要があるんだ?」
ネイのその問いにアシムは笑みを消し、代わって沈痛な表情を見せる。
「一年ほど前からですが、獣は森に住み着きました。初めはそのまま放っておくことも話合われたのですが……。次第に農作物を荒し始め、狩りのため森に入った者も襲われる事態が起きたのです」
「生活を脅かされ始めたわけか?」
「ええ……それで致し方なく」
「なるほどね。まあ、良いさ。俺はエサ役をやるだけだけだからな」
ネイは皮肉を込めて答えたが、アシムは満足げに頷いた。
アシムが他の男たちにも声をかけ、一行はさらに森の奥深くへと歩を進めた。
目隠しをされて集落を出たネイには、今の場所がどの方向なのか皆目検討も付かない。
空を仰ぎ見るが、木々が邪魔をして月の位置すら確認が出来ない。
しかし、かなり森の奥深くまで来ているのは、徒歩に移行してからの時間で分かった。
森の中は人の通った目立つ形跡もなく、獣道すらない。
その森の中を生い茂る木々や枝をかき分けながら進む。
森の中は月明かりすら届かぬ状況だが、前を歩く男たちは迷うことなく先へと進んでいく。
(大した視力だ……)
仕事上ネイも視力には自信があったが、森の闇を意にも介さない男たちの視力には舌を巻いた。
ネイが声には出さず感嘆の声を上げた直後、先頭を歩く男が不意に足を止め、後方に身を屈めるように指示を出した。
「どうした?」
ネイは身を屈めると、アシムに近づき小声で問いかけた。
アシムは人差し指を立てて唇に当てると、そのままその指を先の崖下に向ける。
ネイは木々の隙間からそっと崖下を覗き見た。
崖下には川が流れており、その川岸に何か動く影が微かに見える。
その影からかなりの大きさと見て取れる。
さらに目を凝らすと、うっすらとその姿が見えてきた。
どうやらネイたちに背を向けているようだ。
その身体は毛で覆われ、頭の上には耳らしき突起物が二つ見える。
何かを食べているのか、身体の横にその残骸のようなものが投げ捨てられた。
「ずいぶんデカいな……」
ネイはその姿を見て素直な感想を漏らした。
「怖気付きましたか?」
アシムが小さく笑いながら言うと、ネイは片眉を上げて鼻を鳴らした。
「で? 俺はどこへあいつを誘い込めばいいんだ?」
そう訊くと、他の男たちが周囲を見回し始める。
罠を張るポイントを探しているらしい。
そのポイントが決まると、男の一人がアシムに耳打ちをし、アシムがそれに頷いて応える。
そしてアシムとネイを残し、他の男たちは移動を開始した。
「いいですか。貴方は獣をあそこまで誘い込んでください」
そう言ながら指差したのは川岸の一角。
ちょうど岩壁に挟まれ、三角の形を作っている場所だった。
「そこまで誘い込んでくれれば、その後は我々に任せてください」
「本当かよ?」
ネイが疑わしそうな眼差しを向けると、アシムは肩をすくめながら小さく首を傾げる。
「……まあ、死なない程度に努力するさ」
両手を開き、軽口を叩いてネイも移動を始めた。
まずは崖下まで行き、相手に近付かないことには話しにならない。
崖下まで降りるのに使えそうな樹のツタを見つけると、それを使って慎重に降りていく。
順調に崖下まで辿り着くと、足を着いたいた瞬間、微かに石と石が擦れ合う音が上がった。
その音にヒヤリとし、身を屈めて様子を伺うが気付かれてはいないようだ。
胸を撫で下ろしてそっと崖の上を見上げるが、アシムたちが何処にいるかはすでに確認出来ない。
(本当に大丈夫なんだろうな……)
息を静かに深く吐くと、腰から二本のナイフを抜き、獣に近付き始める。
ここからは身を隠す場所が無いため、もしも振り返られたら終わりだ。
呼吸音にすら気を遣い、極力息を止めながら距離を縮めていく。
そのまま忍び足で近づいていくと、獣のその背がわずかに上下しているのが確認出来た。
ここまで近付けば、逃げることよりも襲う方を選ぶだろうと考え、意識的に石を踏む音を立てた。
ジャリっと音が上がり、獣の身体が一度ビクリと震える。
そしてゆっくりと立ち上がった。
「っ!」
近くで見るとその巨体はさらに大きく見える。
そのとき、ネイの勘が危険を知らせ、急激な警報を鳴らし始めた。
何かがおかしい……。
獣が振り返りかけたそのとき、頭の中で鳴り響く警報がピークに達した。
「くっ!」
獣が振り返るのと同時にネイは反射的に腰を落とした。
次の瞬間、頭上を猛烈な風圧が通り過ぎた。
その風圧だけでも頭が飛ばされそうな勢いだ。
ネイはその何かを避けたのと同時に、後ろに転がり距離を取る。
そして『それ』を見た。獣が右手に持っている巨大な斧を……。
「なっ!」
獣が道具を使う。それはネイにとって予想外だった。
もしあと少しでも反応が遅れていたら、間違いなく頭は川岸に転がっていただろう。
獣は不意打ちを回避されたと見るや、地面を蹴り第二の攻撃を仕掛けてくる。
軽々と振られる巨大な斧。
それがネイの肩口を目掛けて振り下ろされてくる。
ネイは後方に飛び退き、第二の攻撃もなんとか避けた。
目標を失った大斧はそのまま地面に振り下ろされ、激しい衝撃音と共に石と土が四方に飛び散る。
「おまえは―――」
さきほどアシムから『獣と間違えた』という話を聞いたときに違和感を感じた。
その違和感の正体が今分かった。
それは、目が見えなくとも正確に気配を感じ取るアシムが、『獣と人間の区別がつかなかった』なんてことがあるだろうか?というものだった。
そしてその理由も今なら分かる。
後ろに飛び退いて斧を避けたとき、ネイは確かに見た。
毛で覆われた顔の下。そこにもう一つの顔があるのを……。
「人間かっ!」
獣と呼ばれた者の正体は、動物の毛皮を頭から被った人間だった。
それも、通常の三倍はあろうかという大斧を、片手で軽々と振り回すほどの腕力の持ち主だ。
(アシムたちは、初めから人間だと知っていやがったんだ……だから自分たちと獣を間違えたのか!)
そう悟ったとき、さらなる追撃がネイに襲い掛かった……。
「アシム! 一体どうなっているんだ! あいつヤバいぞ!」
崖上で待機していた男が叫んだ。
言われるまでもなく、アシムにも様子がおかしいことは分かった。
罠を張り、自分たちが待ち構えている場所までネイが近付いて来る気配がない。
代わりに、何度か風をなぎ払う音と、重い物を叩きつけるような音が響いてくる。
そして、それがまだ続いているということは、少なくともネイがまだ無事でいるということだ。
「あいつ、本当におまえを負かしたのか? このままじゃ死んじまうぞ!」
その言葉でアシムも意を固めた。
「……移動しましょう。作戦変更です。生け捕りは……難しいかもしれません」
そう言ったアシムの顔が苦しげに歪む。
それはアシムにとっても苦渋の選択だった。
「くそっ!」
再び大斧が自分の身体を掠めていく。
その風圧で服がバサバサと音を立てる。
これで何度目になるか、一向に大斧の勢いは衰えることがない。
しかし、その間にネイは二つのことを確認出来た。
まず一つ。
獣と呼ばれた者は、腕力は凄いが技術は全く備わっていないということ。
その大斧を力まかせに振り回しているだけだ。
もっとも、それはそれで驚くべきことではあったが。
そしてもう一つは……
ヒュンと短い風を切る音が、ネイの耳に飛び込んできた直後、獣と呼ばれた者の口から短い呻き声が漏れる。
「ガッ!」
矢だ。アシムたちの誰かが放った矢が、肩口に深々と突き刺さっている。
急所ではないから、さすがにその巨躯に致命的ダメージを与えることは出来なかっただろうが、勢いを一時的に止める効果はあった。
ネイは頭だけを弱冠動かし、矢が飛んできた方向に視線を走らせた。
アシムたちが崖上で弓を構えているのが見える。
「ま、待てっ!」
ネイがそう叫んだが遅かった。
矢が一斉に放たれ、獣と呼ばれた者を目掛けて飛んで来る。
「くそっ!」
ネイは、獣と呼ばれた者と飛んで来る矢の間に立ち塞がり、両手に持ったナイフで向かってくる矢を叩き落としていく。
しかし、そのうち二本は当て損ない、その矢は獣と呼ばれた者の右太腿と左腕に命中した。
「グウゥ!」
呻き声と共に、獣と呼ばれた者はネイの背後で膝を突いた。
アシムたちはネイの行動に呆気に取られ、第ニ射の構えを取った姿勢のまま動きを止めている。
ネイは慌てて両手を振り、アシムたちに向かって叫んだ。
「待てっ! 待つんだ!」
ネイが感じたもう一つのこと……
「こいつは怯えているだけだ!」
それは、獣と呼ばれた者のがその身体から放っている恐怖心だった。
アシムたちが構えを解くのを見て、ネイは安堵の息をついた。
そのネイの背後、獣と呼ばれた者は小さくうずくまり、頭を抱えて震えていた……
つづく