114章 無知
鈍重な動きで再び架けられた跳ね橋。
スラルはギャリーとフィリップだけを引き連れて跳ね橋を渡ると、嗅ぎ慣れぬ刺激臭に顔をしかめた。
門の前で帝国兵が慌しく行き来し、スラルたちに気を止める余裕さえない。そんな兵士の群れの中で、他の兵士に指示を出している中年の男に目が留まった。
「訊ねたいことがあるのだが、少しよろしいか」
スラルが声をかけると、男が恨めしそうに睨んでくる。
この忙しいときに何の用だ――中年兵はそう言いたげに舌を小さく打ち鳴らしたが、三人の白い装備を目にした途端に目を丸くした。
「あ……もしかして、聖都の聖騎士団の方々ですか?」
男の問いにスラルは顎を引いて見せると、身分を名乗り、跳ね橋の前に枢機卿を乗せた馬車を待機させていることを告げた。すると中年兵は慌てて背筋を伸ばし、来訪を歓迎する言葉を口にしようとする。が、スラルはそれを手で制した。
「挨拶は結構。――立て込んでいるところ申し訳ないが、この街の責任者に会いたい。責任者は何処か?」
「は、はい、では少々お待ちを。今、案内の者を呼びます」
そう言った中年兵は辺りを見回すと、一人の兵士に向かって手招きをした。
息を切らせながら駆け寄ってくる兵士は、必要以上にきびきびとした動きに反して頼りない雰囲気がある。おそらく新米の兵士なのだろう。
「御用でしょうか?」
「うむ。――こちらは聖騎士団団長、スラル様と団員の方々だ。クラウチ隊長に御用とのことなので、君が東宿舎に御案内して隊長を御呼びしろ」
クラウチというのがこの街の責任者らしい。
新米兵はスラルたちが聖騎士団であることを聞くと、両手の指を組み合わせてうやうやしく頭を下げた。それは兵士としての挨拶ではなく、信徒としての挨拶だ。そのことから、新米兵が信徒であることが分かる。
新米兵が信徒しての挨拶をしたことから、自然、スラルの態度も帝国兵に対するものではなく、同胞の一信徒に対するものとなる。
あとは新米兵の案内だけで十分なことを中年兵に告げると、中年兵は一礼し、まるで厄介事から逃げるように走り去って行った――
「では、こちらへどうぞ」
新米兵が片腕を開いて路を示す。
「先ほど責任者を呼び出すようなことを言っていたな? 何なら我々が直接出向いてものいいのだぞ」
スラルがいくらか砕けた態度で提案すると、新米兵は慌てて顔の前で掌を左右に振った。
「ダメです、隊長の許に御連れするわけには行きません。今はまだ危険ですから」
「危険? ――もしよければ、何があったのかを聞かせてもらえないか」
スラルが訊ねると新米兵は口ごもって躊躇したが、最終的には兵士としての立場よりも信徒としての立場を優先したようで、左右に目を配ると門から離れた場所に三人を誘った。
「この街に地下収容所があることを御存知ですか?」
近くに他の兵士がいないにも関わらず、新米兵は必要以上に声を潜めた。そのことに、スラルが苦笑いを浮かべながら頷いて返す。
「実は、その収容所で暴動が起きまして――」
地下収容所で起きた囚人たちの暴動から始まり、脱獄した複数の少年、街中で突然立ち昇った煙と、新米兵がこれまでの経緯を説明する。その間、三人は一切口を開くことはなく、ただ新米兵の言葉に耳を傾けていた。
「――と、いうわけなんですよ」
自分の知りうる限りの状況を説明し終えると、スラルが納得したように顔を上下に揺らす。
「なるほど……。先ほど見た荷馬車の者たちは、その脱獄者のようだな」
後半の言葉は背後に立ったギャリーとフィリップに向けられたものだ。
フィリップとギャリーが頷くと、なぜか新米兵も神妙な面持ちで頷いた。
「ですから、クラウチ隊長は収容所で鎮圧のための指揮を執っています。――ところで、なぜ聖騎士団の方々がこのような街に?」
嬉しそうに訊ねてくる新米兵にスラルが笑みを零すと、背後の二人が苦笑いを浮かべながら肩をすくめる。
三人の様子を見て新米兵は照れ臭そうに頭を掻き、上目遣いをスラルに向けた。
「やっぱり、私のような者がそんなことを御訊きするのはまずい……ですよね?」
「いや、そんなことはないよ。信徒である君には概要を知る権利があるだろう」
その言葉を聞くと新米兵は頬を上気させ、目を輝かせた。聖騎士団の団長が自分の存在を尊重してくれたことが誇らしい。
「我々は、ある囚人を引き取りに来た。その囚人を異端審問にかけることが正式に決定したためだ」
「あっ、それはもしかして、枢機卿猊下をつけ狙っていた疑いとかで捕縛した囚人のことですか?」
スラルが首を縦に振り、肯定を示す。
「そうだ。そこで、被害者である猊下が自ら赴き連行する運びとなった。おそらく猊下は異端審問にかける前に、それ相応の人物かどうか、御自身の目で御確認したいのであろう」
「そうですか。――枢機卿猊下は元異端審問官で精力的な方だったと聞きしました。しかし、枢機卿という地位に御着きになった今でも労を惜しまず行動なさるとは……尊敬します」
さらに新米兵が言葉を続けようとしたが、それを遮るように門の方から馬の嘶きと無数の蹄の音が響いてきた。
四人が顔を向けると、二十数騎の騎馬がちょうど門から飛び出していくのが見えた。どうやら脱獄者捕縛のために編成された騎馬隊のようだ。いかにも急ごしらえらしく、お世辞にも足並みが揃っているとは言えない。
「どうやら捕縛に向かうようだな」
スラルは騎馬隊を見送ると、新米兵に向き直った。
「君の説明でこの街の状況はよく分かった。案内役はありがたいのだが、そういう事情なら我々に構わず兵士としての任務に戻ってくれて結構だ」
新米兵の表情が強張る。何か無礼があったのかと模索するように複雑な表情を浮かべていた。その胸の内を察し、スラルは新米兵の肩に片手を置くと柔らかい微笑みを浮かべた。
「心配しなくていい、君に非はない。状況を聞いたかぎり、騒ぎが落ち着くまで此処で待機させてもらった方が良い、と判断しただけのことだ。その間、君を付き合わせるの私としても心苦しい。このような状況のときこそ、一人の兵士の労働力が貴重になるのだから」
それでも何かを思案するように新米兵が目を泳がせると、スラルはさらに言葉を続けた。
「君の名前を教えてもらえるか? 君の猊下に対する尊敬の念、それは必ず猊下に御伝えしよう」
新米兵もそこまで言われるとようやく受け入れ、名前を告げて渋々といった様子で離れていく。
名残惜しそうに何度か振り返ってくるが、スラルが親しげに片手を上げて見せると深々と頭を下げ、跳ねるように駆け出した。
「さて――」
新米兵の姿が見えなくなると、スラルは背後の二人に向き直った。その顔に先ほどまでの柔らかな笑みはない。
「どうやら我々は先を越されたようだな」
「目的の囚人は、やはり先ほどの荷馬車に乗っていたんですかね」
ギャリーが悔しげに言うと、スラルは口の端を軽く上げた。
「だろうな。そして、その前に見た娼婦たちも仲間だ」
「あの娼婦たちも、ですか?」
「我々が目的する囚人は、フォンティーヌから放たれた密偵である可能性が高いというのは聞いているな? 確か名前は――」
「兎の耳と呼ばれる賊ではないか、と」
フィリップが答えると、スラルが満足げに首を振る。
「先ほどの脱獄者たちの中にその兎の耳なる者がいたなら、フォンティーヌの息のかかった人間が手引きをしたと考えるのが妥当だろう。――そこでだ、娼婦たちの中にいた眼鏡の婦人が何者かを思い出した」
「見覚えがある、とおっしゃってましたね……。何者だったんですか?」
二人が興味深げな表情を見せると、スラルはもったいつけるようにわずかな間を置いてから口を開いた。
「学者だよ。それも第二級の認可を受けた学者だ」
「学者、ですか……。第二級といえば、学者としては二番目に高い地位の認可ですよね。そんな人物がフォンティーヌの密偵と関係があるんですか?」
不思議そうに二人が首を捻ると、スラルが喉を鳴らして低く笑う。
「あの婦人と会ったのは今から十年以上も前だ。婦人が私の学問の師と友人だったためだよ。私の記憶に間違いがないのなら、彼女は当時からフォンティーヌのエインセ将軍の元に身を寄せていたはずだ」
フォンティーヌで繋がりを見せたことに二人が驚きの声を上げた。
フォンティーヌの密偵と思われる囚人が収容された街。そこで起きた脱走劇。時を同じくして街から出て来た娼婦たちと、そこに紛れたフォンティーヌ縁の者――俄然、脱獄者の中に目的の囚人がいた可能性が高まる。
「しかし、なぜ学者が脱走に手を貸したのでしょう?」
「その学者が直接的に脱走に関わったとは思えんな。おそらく、実行犯は別にいる」
そこで、スラルの脳裏に褐色の肌をした男の顔が甦った。それと同時に、ある閃きが走る。
――そうか、あの男か。あの男が鷹の眼か。
「どうかされましたか?」
不意に黙り込んでしまったスラルを、ギャリーが心配げに覗き込む。
「いや、何でもない。――おそらく、学者は帝国軍領土にフォンティーヌの者が足を踏み入れる手助けをしただけだ」
何かに思い至ったようにフィリップが、あっ、と短い声を漏らした。
「認可状ですね。第二級の認可状があれば、どこの国であろうと足を踏み入れることが可能だ」
「おそらくそういうことだろうな。いくら休戦中とはいえ、帝国軍の領土にフォンティーヌの人間が足を踏み入れるのは容易ではない」
「荷馬車を追いますか?」
ギャリーが問うと、スラルが思案する。そうして出された答えは――
「いや、まだいい。それよりギャリー、君は枢機卿殿にもうしばらく待機していただくよう伝えろ。――フィリップ、君は私と来い。収容所に行って、逃げ出した囚人の確認を取る」
慌しく兵士が行き交う街中。奥へと進むほど、白い靄のように広がった煙はその濃度を薄めていく。しかし、それでも刺激臭が未だに鼻をついていた。
「しかし、兎の耳という賊は枢機卿の何を掴んだのでしょうね。枢機卿が自ら出向くほどの物なんて……」
早足に進むスラルに遅れを取らぬようにしながらフィリップが口を開いた。小柄なフィリップの歩幅では小走りに近く、若干呼吸も荒くなっている。
「よほど知られては困る物なのだろう。――しかし、今回の脱走劇は好都合かもしれないな」
「と、いうと?」
「枢機卿より先に兎の耳に接触することが容易になった。それが出来なければ、わざわざ警護を申し出てこの地までやって来た意味がないからな」
スラルが吐き捨てるように言うと、フィリップが何を思い出したように笑う――が、やはり息は荒い。
「しかし、団長が警護を申し出たときの枢機卿の顔、あれは可笑しかったですね」
「私がいなければ、団員をある程度自由に動かせただろうからな。兎の耳と二人になる時間を作るつもりだったのだろうが、私がいるのではそうもいくまい」
枢機卿とは、教皇に次いで権限を有する。しかし、聖騎士団とは教皇直属の組織。正確に言えば教会の組織とは一線を画し、教皇の私兵という扱いだ。そのため、教皇が不在の際にはその指揮は聖騎士団の団長へと委ねられる。
「――あれが収容所ですね」
前方に見えてきた門。その奥では縄にかかって地に伏せる人の姿が見えた。服装からして暴動を起こした囚人だというのが分かる。
「すでに鎮圧したようですね。では早々に……」
先を行くスラルが不意に足を止め、フィリップの口を手で遮った。二人の左手に見える路地の奥から蹄の音が聞こえてくる。
足を止めた二人が凝視していると、路地の闇から一騎の騎馬が飛び出して来た。
並の馬よりも二周りほど大きいであろう馬体。しかし、騎乗した男も巨躯のため、大きな馬体にさほどの違和感はない。
見るからに馬力のある太い脚が地を蹴り、今しがたスラルたちが歩いて来た方向へと駆け抜けて行こうとする。
「オズマだ」
フィリップが馬に跨る男――オズマを目にして声を上げた。
オズマは憤怒の相を浮かせながら前だけを睨みつけ、スラルたちに気づいた様子はない。
「団長、見ましたか。オズマです、金獅子オズマですよ」
フィリップに言われるまでもなく、スラルにも『当然』分かっていた。
――なぜオズマが此処に……。あの男も兎の耳を追っているのか?
「フィリップ、急いで囚人を確認するぞ。逃げた囚人というのが目的の囚人だったなら、我々もあの荷馬車を追う」
スラルはそう言うと踵を返し、足早に収容所へと向かった。
荒れた大地を越え、左右に小さな森が広がる街道。木々の隙間から差し込んだ月明かりが、暗い街道をわずかに照らす。
道の凹凸で荷台が跳ねると悲鳴が上がり、その声が後方に流れていく。声が流れた先には二十強の騎馬の影。それを目にし、ネイの口から舌打ちが漏られる。
「思ったより早かったな。――橋は? 橋はまだ先なのかよ」
ネイが怒鳴るとレイルズが静かに頷いた。
「この森を越えれば山沿いに出る。橋はその先だ」
「くそ、逃げ切れそうにないな……」
ネイが顔をしかめると、リムピッドが前方を指差し叫んだ。
「ネイ、森を抜けるよ」
森を抜ければ月明かりを浴び、荷馬車の姿もはっきりと浮かび上がる。クロスボウの的として荷馬車は十分すぎるほどの大きさだ。しかし、だからといって止まるわけにもいかない。
漆黒の空で憎らしいくらいの輝きを放つ蒼い月。その球体から遠慮も無しに降り注いでくる明かりが、ついに荷馬車の姿を映し出す。
「頭を下げてろ!」
ネイが叫んだ直後、荷台の縁に一本の矢が突き刺さり、さらにもう一本の矢が雨よけの帆をかすめていく。荷台の縁に半身を乗り出した状態のネイも、慌てて頭を下げた。
「さっそく打ってきやがって。少しは勿体ぶれ!」
さらに数本の矢が荷台をかすめると、ホーリィがビエリに抱きつきながら悲鳴を上げる。しかし、騎乗した状態で放たれた矢がそうそう当たるはずもない。
追いつかれる――リムピッドは焦りから腰を上げ、荷馬車を操る兄に近づこうとした。
「馬鹿野郎、立つな!」
ネイが怒鳴りつけたのほぼ同時に車輪が石を弾き、荷台が激しく上下に揺れる。それに伴なってリムピッドの身体が前後に揺れ、その拍子に荷台の縁に踵を引っかけてしまった。
身体が後ろに傾き、リムピッドの口から短く漏れ出た悲鳴。驚いたように目を開き、何かを掴もうと両腕を伸ばすが、それは無情にも宙を掻くだけだった。
リムピッドの脳裏に一つの情景が甦る。
地下収容所の紅く染まった壁と、そこに揺れた自分たちの影。その影が後を追ってくる死神を連想させ、不吉さに身を震わせたこと。
――あの死神は、あたしを狙ってたんだ……。
不思議なほど冷静に自分の行く末を受け入れていた。
自分に向かい、手を伸ばそうとする少年の姿が滑稽なほどゆっくりに見える。ゾクリとするような冷気を背中に感じ、肌が粟立つ。
――ああ、死ぬんだ。
黒い絶望の影が小さな胸一杯に広がったとき、荷馬車から一つの影が飛び出すのが見えた。その瞬間、ゆっくりとした景色が本来の速度を取り戻す。
少年たちの叫び声と、何かに身を包まれたような感覚。川のように流れて見える地面が眼前に迫り、衝撃を受けた直後に天地の判断がつかなくなった――
無数の蹄の音が耳を突き、リムピッドはそっと瞼を持ち上げた。
自分がどこにいるのか、何をしているのかが一瞬分からなかった。しかし、自分の名を呼ぶ誰かの声が遠くで聞こえると、まるで急かされたように思考が動き出す。
――そうだ、あたしは荷台から落ちたんだ。
右半身に地面の固さと冷たさを感じる。しかし、不思議と痛みはない。そこでまで自覚したとき、何かが自分の頭を包み込むように絡まっていることに気づいた。
――誰かの腕?
状況を把握し、地に倒れた格好のままで顔を上げると、そこにはよく知った褐色の顔があった――
「ネイ」
ネイだ、ネイがリムピッドの頭を抱え、寄り添うようにして地に倒れている。
リムピッドが身を起こすと、ネイの腕は力無く地に落ちた。よく見れば、ネイの側頭部から額にかけて血が伝い、地面に滲んでいる。
「ネイ?」
そっと身体を揺するが、ネイは目を開けてはくれなかった。
背後から迫る蹄の音が、嘶きが、死が近づきつつあることを告げている。
ほんの少し前、唐突に突きつけられた死を冷やかに受け入れた。しかし今、徐々に迫る死には恐怖を感じ、振り返ることすらできない。
「ネイ、起きてよ。ネイ、ネイ」
震える手でネイの身体を揺すり、すがりつくように名を呼びつづける。
両目から溢れる涙は、自分が死ぬことへの恐怖からか溢れ出るのか、ネイを道連れにしてしまう恐怖か、果てはその両方か。
顔を上げると、涙で霞む視界の中に荷馬車が映る。しかし、そこまで辿り着くことはできない。
すぐ背後で騎馬隊の気配を感じ、リムピッドはきつく目を閉じると顔を伏せ、嗚咽を漏らした。
本当の恐怖も知らず、勇敢になったつもりでいた自分の愚かさに打ち震え、嗚咽を漏らした……
つづく
今回の話、3回書き直しました。
何かが納得いかないのですが、何なのかが自分でも分かりません。
書き直してるうちに、ますます分からなくなりました……(09/03/30)