113章 嫌悪
「私は、スラル。聖都にて聖騎士団の団長を務める、スラル・ガートと申します」
そう名乗って口許に薄い笑みを浮かべた男。
年は三十前後だったろう。はっきとした二重瞼に深緑の瞳、首筋まで伸びた柔らかなクセのある金髪、病的なまでの白い肌、引き締まった顎。それらは女性的な美を持ちながら、どこか男性的な力強さも兼ね備えていた。
絵画の天使が成長すれば、おそらくこうなるのだろう――そう思わせるような中性的な容姿。
エマは肩越しにそっと振り返り、団員と話し込むスラルの背中を盗み見た。
金の装飾を施した白銀色の装備に真紅のマントがよく映えている。気障な配色であるが、それに見劣りしない優美さをスラル自身が持ち合わせている。
――大丈夫、怪しんでいる様子はない。
働き蜂として、かけ引きの技術にはそれなりの自負もある。表情などから胸の内を悟られるような愚かな真似はしない。しかし、それでもスラルの眼差しを思い出せば、どうしても不安になる。
微笑んだ口許に反し、瞳の奥に見えた冷やかな気配。それは蔑む類のものではなく、感情の一切を挟まずに相手を見極めようとする、審判者の眼差しだ。初めから『言葉』など信じていない。
この男は危険すぎる――直感がそう訴えかけてきたが、どうすることもできなかった。スラルがレイルズたちを見逃してくれることを祈り、エマは静かに荷台に乗り込んだ。
「ほお、娼婦館の者たちですか」
待機させていた二人の団員、そのうちの一人がスラルに手綱を差し出しながら頬を緩ませた。
「御婦人の言い分はそうらしい。遠方の得意客から声がかかったそうだ。――そこで、我々が道を譲ることになった」
「聖騎士団が娼婦に道を譲るのですか?」
二人の団員が不服そうな表情を見せると、スラルが一瞥をくれる。
「この街道は狭い、とても馬車がすれ違える幅ではない。相手の馬車が六台に対し、我々は馬車一台と騎馬隊だ、我々が道を譲った方が早いだろう」
「しかし……」
尚も不服そうにする団員に対し、スラルは緩くかぶりを振って見せた。
「ギャリー、フィリップ、君たち二人が聖騎士団を誇りに思っているのは分かる。だが、誇りとは他者を見下すためのものでないよ。――真の誇りとは、己を戒めであるべきだ、と私は思うが」
スラルが二人の顔を交互に見やるとやると、ギャリーとフィリップは冷水を浴びたような表情で顎を引き、深々と頭を下げた。
大柄なギャリーと小柄なフィリップ。上背に差はあれど、スラルに対する忠誠心に差異はない。
「御婦人を貶める卑しき発言、神の徒として恥ずべきことでした」
「分かってくれればいい――」
スラルは軽やかに馬に跨ると、馬体を反転させて二人を見下ろす。
「では、私は気難しい御老人に事の次第を説明してくるとしよう。君たちは道が空いたら御婦人方を先導して差し上げてくれ」
そうは言ってもただの先導役だけで残されるわけではない。あくまで監視役を兼ねてのことだ。当然二人もそれを心得ており、表情を引き締めながら静かに頷いた。
スラルの短いかけ声で馬が駆け出すと、二人の頬を風が撫でる。そこで表情から緊張を解き、二人同時に深い吐息を漏らした。
「スラル団長が平民出での孤児院育ちだとは、未だに信じることができないな。貴族の家系に生まれた我々より、よほど貴族然としている」
ギャリーが苦笑すると、フィリップが小柄な身体を揺らして自嘲するような笑みを浮かべた。
「貴族などとは所詮は人が定めし身分。おそらく、神が御定めになった身分というのが在るのさ」
「なるほどな……」
ギャリーに先導され、六台の荷馬車が道に退いた聖騎士団の前を通過する。
荷台に乗った娘たちはチラチラと目を向けてきたが、その視線は警戒心のようでもあり、恥らうようでもある。当然その視線には団員たちも気付き、まだ若き団員などは、緩みそうになる頬を必死に抑えている様子だった。
荷馬車が通過する際、団員たちの鼻先を甘い花の香りがくすぐる。
「いい匂いだ……」
思わずそう呟いた若い団員を、中年の団員が肘で突っつく。
スラルは団員たちの中ほどに立ち、先頭の荷馬車が通過する際にはわずかに頭を下げた。先頭の荷馬車にはエマが乗っていたためだ。それ以後は微動だにせず、通過していく荷馬車を静かに見送っていた。
四台目の荷馬車が目の前を通過しようとしたとき、スラルの眼が一瞬鋭く光る。他の娘たちとは雰囲気の違う少女が目に留った。
頭巾を目深に被り、聖騎士団に見向きもしない少女。うつむいているため目許を窺い知ることは出来なかったが、その肌は陶器のように白い。
少女に気を奪われていると、不意に視線を感じた。少女の近くに腰を下ろし、寝癖のように跳ね返った髪を頭上で一本にまとめた眼鏡の女だ。
女はスラルと目が合うとニヤリと笑って見せる。その笑みは媚びるような下卑たものではなく、高慢さを感じさせる挑戦的な笑みだった――
全ての荷馬車が通過し終えると、先導していたギャリーとフィリップが戻り、スラルの前で馬から降りた。
「問題無し、と言ったところです……ん?」
スラルの目が遠ざかっていく荷馬車を追っていることに気づき、フィリップが怪訝そうに眉を寄せる。
「団長、どうかしましたか?」
「いや。――それで、何か不審な点はあったか?」
相変わらず荷馬車に目を向けたままでスラルが訊ねると、ギャリーとフィリップは顔を見合わせて小さく頷き合った。
「後ろにつく際に荷台を一台ずつ確認しましたが、花が大量に積んであるという以外は、これといって目を引くものはなかったと思います」
先に答えたのはフィリップだった。答えながらギャリーに目配せすると、ギャリーも後に続いて口を開く。
「自分も特に不審は感じられませんでした。婦女子ばかりでしたし、娼婦館の者、というのに嘘はないかと」
「そうか――」
スラルはようやく荷馬車から目を離すと、口許に笑みを浮かべながら二人に向き直った。
「だが、私は疑問に思う点があったよ」
「不審な点があった、と?」
フィリップが神妙な面持ちを見せると、スラルはゆっくりと頷いた。
「あの一行は遠方の客に呼び出されたそうだが、かなりの人数だったな。あれだけの人数を呼び出せる人物だ、よほどの資産家なのだろうな。だが、そんな上客に呼び出されたにしては、何かが足りないとは思わないか?」
投げかけられた疑問に二人はうつむくと、わずかな間を置き、あっ、と短い声を発して弾かれたように顔を上げた。
「警護の者です、警護の者がいません」
フィリップが答えを出すと、スラルは満足げに頷いた。
「あれだけの娼婦を一度に呼び寄せる人物が、警護の者を寄越さないとは思えない。ましてや婦女子ばかりの一行だ、賊に襲われる危険もあるだろうに」
「客に呼ばれたというのは嘘ですか……」
「その可能性が高いな。それに、娼婦とは雰囲気の異なる人物がいた」
「体格の良い中年の女ですか? もしそうなら、アレは使用人かと思いましたが」
ギャリーが首を捻ると、スラルが愉快そうに笑った。
「私が言っているのは別の人物のことだよ。――眼鏡をかけた御婦人に、頭巾を被った少女、その二人だ。特に、眼鏡をかけた方には見覚えがある」
「どこかで会ったことがある、と?」
「かもしれんが、どこで会ったのかは思い出せない」
三人が同時に遠ざかった荷馬車に目を向けた。
「――追いますか?」
フィリップが訊ねると、スラルは首を左右に振った。
「いや、止めておこう。何かあるのだろうが――」
背後の馬車にチラリと目をやると、馬車の窓に気難しげな男の横顔が見えた。
見事に白く染まった頭髪、顔に刻まれた無数のシワ、比較的に細面にも関わらず皮膚の垂れた頬。それらの老いを感じさせる容姿の中で、落ち窪んだ両の眼だけはギラギラと輝いて見えた――衰えぬ意志の強さを誇示する輝きだ。
「今は枢機卿猊下が御一緒だ、我々に仇なす存在でないのなら敢えて関わりを持つこともないだろ。――先を急ぐ。馬車を戻し、隊列を組み直せ」
スラルはそう指示を出すと、もう一度街道を目で辿る。しかし荷馬車はすでに遠く、その影を確認することはできなかった。
夜明けも間近だというのに、空では相変わらず星が騒いでいる。
小さな森を抜けて景色が開けた直後、聖騎士団の前に突如として枯れた大地が姿を見せた。幾多の争いのために草木が死んだ大地、ゴルドラン周辺特有の光景だ。
森が開けたと同時に道幅も広がり、その先にはゴルドランの街影が見えた。聖騎士団から見てわずかに高台となっている場所ある。
見上げる形となった街影は、星空を背景にした影絵のようであり、ある種の幻想的な雰囲気をかもし出していた。もっとも、それも夜明けまでの話で、陽が昇れば灰色の街へと姿を変える――
無事着いた――誰もがそう安堵しかけたとき、先頭を行く騎馬が異変を察知して歩みを止めた。
「スラル団長、アレをご覧下さい」
団員が前方を指差し、その方向にスラルが目を凝らす。
――あれは……
星空が輝くほどに澄んだ空。夜間とはいえど、月明かりのおかげで『それ』は思いのほか目立って見えた。
「今度は何かね?」
不意に馬車の中から投げかけられた重々しい声。
スラルが馬上から窓を見下ろすと、枢機卿が不機嫌さを含んだ表情でスラルを見上げていた。
「ゴルドランに煙が昇っています」
「煙? 火事かね」
枢機卿の問いかけにスラルはかぶりを振って応えた。
「ここからでは判断しかねますね。しかし、火影が見えないことからも、火事にしてもすでに鎮火しているかと」
「では問題ない」
それだけ吐き捨てて顔を引くと、異議を拒否するかのように窓がバタリと閉まる。
――やれやれ、困った御老人だ。
スラルは苦笑を漏らすと移動を再開するように指示を出し、先頭の騎馬が再び歩みを始めた。
ゴルドランの影が徐々に大きくなっていくと、さらにもう一つの異変に気づく。外壁の向こう側、街の中から鐘の音が鳴り響いてくる。どうやら街中に点在する警鐘台が、奥から外に向かって順に異常を伝えているようだ。
ギャリーとフィリップの二人がいつの間にかスラルの隣に並び、無言のままに指示を仰いでくる。そんな二人に、スラルは目配せをしながら顎を引いて見せた。
ギャリーとフィリップが騎馬を走らせて先頭に出ようとしたそのとき、ゴトリと大きな音が鳴り、続いて鎖を巻き上げるような金属音が耳についた――ゴルドランの門へと伸びた跳ね橋が、その身を持ち上げようとしている。
一団は跳ね橋の手前まで進むと、街道が開けた場所で三度進行を止めた。先に進みたくとも、橋の手前側が地面からわずかに浮き上がってしまったために進むことができない。
進入を拒否しているのか、とも思えたが、そうではないことがすぐに分かった。
門の前で慌てて壁を作ろうとしている兵士たちの姿が見える。一様に外に向かって背を向け、警戒心は明らかに街中に向けられていた。
鳴り響く警鐘、跳ね橋、外に背を向けて壁を作ろうとする兵士――スラルはハッとし、すぐさま団員に向かって指示を出した。
「隊列を組み、猊下を御守りしろ! 街から何かが出て来るぞ」
指示に従って団員たちが騎馬を反転させようとしたとき、門の前で壁を作ろうとしていた兵士の悲鳴が聞こえた。
慌てて左右に散っていく兵士の間から、車輪の音を派手に撒き散らせながら荷馬車が飛び出してくる。その光景に聖騎士団も息を呑んだ。
荷馬車は門から飛び出すと、わずかな傾斜がついた状態の跳ね橋を駆け上がってくる。その勢いから、浮いた跳ね橋を荷馬車で飛ぶつもりだというのが分かった。
――無謀な。
スラルも驚きを隠せなかった。
跳ね橋は大した高さまで持ち上がってはいない、今はせいぜい大人の胸程度の高さだ。馬だけでなら、まだ飛ぶことも可能だろう。しかし、荷台を引いた状態となると話は別だ。
荷馬車を操る人物の引きつった顔が見える。さらに驚いたことに、その人物は年端も行かぬ少年だった。
少年が歯を食いしばり、身を仰け反らせた次の瞬間――
「来るぞ!」
スラルが団員たちに叫んだのとほぼ同時に、荷台を引く三頭の馬車馬が跳ね橋から飛び出した。
枢機卿の乗った馬車を守ろうとする一団の目の前で、三頭の馬車馬が身をぶつけ合いながら地に脚を着き、直後に荷台が激しく地に叩きつけられる。
前のめりになって体勢を崩す馬車馬と、激しく弾みながら左右に傾く荷台。その荷台からはいくつもの悲鳴が上がった。
飛び出した勢いのまま、荷馬車は唖然とする聖騎士団の横を通過しようとする。その瞬間にスラルは見た――
荷台に乗った複数の少年たち。そして、荷台に乗り切らなかったのだろう、簡素な雨よけの帆に手をかけ、荷台から身を乗り出すようにした一人の男。
荷馬車が横を通過していくとき、身を乗り出した男と確かに目が合った。
やや長めの黒髪に褐色の肌、そして蒼い瞳。まだ陽も昇らぬというに、その容姿をはっきりと認識できた。それと同時に、相手も自分を認識したという確信を得る。
目の前を通り過ぎるわずかな間であったが、互いに目を逸らすことはなかった。
――今の男は……
聖騎士団の目の前を通過しても、尚も激しく左右に揺れている荷馬車。スラルはそこから目を離すことが出来なかった――正確には、身を乗り出した男の後ろ姿からだ。
「一体何だったんですかね。無茶なことをするヤツらだ」
騎馬から降りたギャリーが、嵐のように去った荷馬車に苦笑した。
「まだ子供ばかりだったな」
フィリップも呆れたように笑う。しかし、スラルは二人に応えず、ただ自分が目にしたものを確認するように目を閉じた。
瞼の裏に褐色の肌をした男の姿が浮かぶ。目が合った瞬間に驚いたような表情を見せ、すぐに鋭い眼差しを向けてきた。
――あの眼、アレは私と同じものを感じた眼だ。
ある一つの感覚が声となる。本能が告げたかのようなその声を、スラルは薄い笑みを浮かべて受け入れた……。
「すげえ、俺すげえ!」
トゥルーが手綱を振りながら歓喜の声を上げる。
「馬は大丈夫? 脚を痛めなかった?」
荷台から心配そうにホーリィが訊ねると、トゥルーは笑みを浮かべながら親指を立てた。それでようやく他の者たちも胸を撫で下ろす。しかし――
「すぐにでも追っ手が出るだろう。荷馬車では追いつかれる可能性が高い」
無事だった喜びを打ち砕くように、レイルズが淡々と悲壮な現実を口した。
帝国兵が『逃げられました』で済ませてくれるはずもなく、レイルズの言ったことはもっともだったがホーリィは妬ましそうに睨む。
「でもさ、この先の橋まで逃げ切れれば平気だよね。橋を落としちゃえばいいんだし」
落ち込んだ空気を振り払うようにリムピッドが明るく言うと
「でも、橋を落としたら他の人に迷惑じゃないかしら」
とユアが応えた。
本人はいたって真面目に言ったのだが、結果、的外れな心配が少年たちの不安を和らげた。
少年たちがクスクスと笑い、ユアが不思議そうに小首を傾げている。その光景にリムピッドも笑い声を漏らしたが、何かを考え込むようにうつむいたネイに気づき、漏れ出た笑いを引っ込めた。
「ネイ、どうしたの?」
リムピッドの不安げな声で少年たちも笑いも止める。
ネイは顔を上げるとレイルズに向き直り、重そうに口を開いた。
「レイルズ、門の外にいた連中を見たか?」
「見た、あれは聖都の聖騎士団だ。あの場にいたことは驚いたが、彼らがわざわざ脱獄者を追って来るとは思えないが……」
「そんな心配をしてるわけじゃない。ただ、あの中にいた金髪のヤツ、そいつが少しに気になっただけだ」
「スラル・ガート。聖騎士団の団長で騎士の中の騎士と呼ばれる人ね」
そう言ったのはユアだった。
思いがけぬ人物からの情報にネイは一瞬言葉を失った。しかし、姉が働き蜂だった、という考えがすぐに頭をよぎる。
「あいつがスラル・ガートだったのか……」
「知っているのか?」
「いや、知っているというほどのことじゃない。聖都に行ったときに見かけた程度さ」
聖女の存在を確認するため聖都の教会本部に侵入したときのことだ。ネイが噴水に身を隠した際に目の前を横切った男、それがスラル・ガート、その人だった。
ネイの脳裏に先ほどのスラルの姿が甦る。
ただ目が合っただけだ、殺意を向けられたわけでもない。それでもある一つの感覚が声となり、ネイにはっきりと告げてくる。
――あの男は障害となる。
決して相容れぬ存在。生理的な拒絶。
なぜ目が合っただけの相手にそう思うのか、それはネイ自身にも分からなかった……
つづく
ショック第二弾。
この作品にシャムシールという武器が出てきます。
作中、『幅広曲刀』と表記していましたが、シャムシールって刀身が細いことを最近知りました……
剣の形は事前に調べたはずなのに、なぜそんな思い違いをしたのか……
後で気が向いたときにでも、何か良い表記に変えます(09/03/12)