108章 火移り
対峙した両者の気力の昂ぶりに呼応するように、燭台の灯かりが微かに揺れた。
互いの気配に並々ならぬものを感じ取り、一方は眉間に微かなシワを刻み、一方は口許に笑みを浮かべる。
凍てつくような静かな気配と、烈火の如き獰猛な気配。二つの相反する気配が混じり、溶け合い、息苦しくなるような張り詰めた空気を生み出す。
「いいねえ。只事じゃねえ気配がビンビン伝わって来やがる」
肩に担いだ槍斧をゆっくりと下ろし、オズマが満足げに頷く。
「金獅子オズマ。その名は耳にしていたが、どうやら噂に違わぬようだ」
対してレイルズは無形の構えのまま、揺らぎを見せぬ瞳でオズマを射抜いた。
「あんたの名前、聞いてもいいかい?」
「私はレイルズ――」
答え終えるとレイルズは軽く身体を浮かせ、オズマに向かって一直線に駆け出す。
静から動へ。レイルズのその行動に、オズマは口許に笑みを浮かべたままで目を大きく見開いた。
「俺の名を知って、素手で向かって来るたあ良い度胸だっ!」
見るからに重量のあるハルバートを片手で軽々と構えると、一歩踏み込み体重を乗せて鋭い突き放つ。
唸りを上げて襲いくる槍の穂先。それをレイルズは左に跳躍して躱すと、宙に舞ったまま続けて通路の壁を蹴った。
一瞬の出来事――突きを放った体勢のままでいるオズマの頬に、空中で身体の向きをを変えたレイルズの蹴りが炸裂する。
オズマは顔を横に向かせ、よろけながら数歩後退った。しかし、倒れることはない。それどころか、その口許には笑みさえも浮かんでいた。
蹴りを喰らって反り返った上半身を跳ね起こし、その勢いのままに反撃に転じる。腰を捻転させて振られたハルバートは、着地直後のレイルズを捉えていた。
避けきれない――瞬時にそう判断したレイルズは片足を浮かせ、横一閃されるハルバートに足の裏を向けた。
「ぶっ飛べええ!」
口の端に血を滲ませながらオズマが吠える。
レイルズの身体はまるで突風に吹かれた木の葉のように吹き飛んだ。しかし、その瞬間にオズマが訝しげな表情を作る。全く手応えを感じられなかったのだ。
オズマが覚えた違和感は正しく、遠く吹き飛ばされたはずのレイルズは何事もなかったかのように柔らかな着地を見せ、一本に束ねられた白髪が身体の前に静かに垂れた。
オズマは口の端に滲んだ血を拭うと、涼しげな表情のままでいるレイルズに低い笑い声を漏らした。
「やるじゃねえか。てめえ、『乗りやがった』な」
レイルズはオズマの一撃を喰らって吹き飛んだわけではなかった。襲いかかるハルバートの柄を足の裏で受けると、それを踏み台にするようにして自ら後方に跳んだのだ。
笑みを浮かべたオズマにレイルズが静かに口を開く。
「蹴りをまともに受けても踏み止まれる屈強な肉体。重量のある武器を片手で軽々と操る腕力。まさに感嘆に値する剛力だ。しかし――」
レイルズが首を軽く振ると、前に垂れた髪が弧を描いて背中に流れる。
「私はすでにそれを超える剛力を知っている。故に怯みはしない。次はその笑み、消してみせよう」
レイルズが半身の体勢を取り、オズマは笑い声を上げた。
「俺を超える力? 面白れえ! どうやら『素手』がおまえさんの『武器』みてえだしな、俺も本気ってやつを見せてやるぜ」
オズマもレイルズと同じように半身の体勢となり、腰を落としてハルバートを両手で構える。
「涼しい面に冷や汗かくなよ」
構えを取って睨み合い、両者の気力がさらなる昂ぶりを見せる。
足を這わせるようにしてジリジリと距離を詰めるレイルズの背後、角から顔を出したビエリが恐々と二人の様子を覗っていた。
鍵を解除して牢獄に踏み入ると、怯えと警戒の入り混じっていた子供たちの表情が驚きに変わる。
ネイの背後、ヒョコリと姿を見せたリムピッドを目にしたためだ。
「リム!」
一人がそう叫ぶと、リムピッドは満面の笑みを浮かべて子供たちに駆け寄った。
安心したような子供たちの表情は、先ほど見せた怯えた幼子のような表情に比べ、幾分か大人びて見えた。
全員がリムピッドと同年代、『少年』といった年齢のようだ。
ネイは喜び合うリムピッドたちを尻目に黒髪の女性へと歩み寄った。
大人びた表情を見せるが体格を見るかぎりは十代半ばを過ぎた頃、リムピッドやルーナよりもわずかに年長、そういった具合に思える。
「あんた、ユアか?」
ネイが訊くと、女は見上げてくる黒水晶のような瞳がわずかに大きくさせ、静かに顎を引いて頷いた。
「ある人間に頼まれてあんたを助けに来た。誰に頼まれたか分かるか?」
ユアに見つめられると不思議に心が落ち着かなくなる。しかし、冷静さを失ったわけではない。
ネイはエマの名を自ら口にすることをしなかった。あまり全ての情報を与えてしまっては、仮に別人だったとしても同意するだけで済んでしまう。
ユアはそうしたネイの意図を察したかのように微笑んで見せると、澄んだ声で静かにエマの名を口にした。
ネイが満足げに頷く。
「そうだ、エマに頼まれた。おまえの知ってるヤツがあと一人、一緒におまえを助けに来ている」
「レイ――レイルズね」
ユアが澱みなく答えてくることにネイは感心した。捕らわれた状況、ましてや答える相手は突然現れた見知らぬ男だ。言葉を詰まらせてもおかしくはない。
ネイは納得したように頭を上下に揺らすと、ユアに対する警戒を解いた。
レイルズを『レイ』という愛称で呼んだことからも、本人に間違いない、そう判断してのことだ。
「どうやらユアで間違いないようだな。レイルズの元に連れて行ってやる――と言いたいところだが、その前に一つ訊きたい。そこの道をさらに下まで進むと何があるか知っているか?」
ネイが扉の外を指差しながら訊くと、ユアが答える代わりに少年の一人が口を開いた。
「まだ他にも牢獄があるよ。ここは重罪を犯した人間が入れられる場所なんだ」
「なるほどね。じゃあついでに訊くが、茶色いドングリみたいな髪型で、こんな目をしたヤツを見かけなかったか?」
ネイが両目尻を指先で左右に開きながら下げて見せる。
「あっ、茶色い髪でおっかぱ頭の男の人? その人なら知ってるよ」
「本当か?」
少年がコクリと頷く。
「俺たちが牢獄に入れられたすぐ後に連れて来られた人だ」
「どこの牢獄だか分かるか?」
「分かるよ。そこの扉は食事が運ばれて来たときにだけ開くんだけど、そのときに見えたんだ」
「よし、だったらおまえは今から一緒に来い。――ユアとリムは戻って来るまでここを動くなよ」
ネイはそう言い残すと、少年一人の手を引いて牢獄を飛び出した。
少年の指示に従い、ランプを片手に螺旋の道を足早に下っていく。
途中、牢獄の扉があったが、少年が首を横に振ったために見向きもせずにその前を通り過ぎた。そうして五つ目の扉にさしかかったところで少年が声を上げる。
「そこ、そこの扉だよ!」
少年の声でネイは足を止め、扉の前に立つと背後を振り返りながら視線を上げた。
暗闇の中に淡い明かりが四角に浮かぶ。ユアたちを残してきた牢獄の明かりだ。
その牢獄から螺旋の道を2週半ほど下り、ちょうど正面、斜め下に位置する場所にネイは立っていた。
(なるほどね。正面にあたる位置だから見えたのか)
少年が言っていることに間違いはないようだと納得すると、向き直って扉に目をやった。ユアたちのいた牢獄の扉と同じ造りだ。
ネイは迷うことなく覗き窓の蓋をずらして中の様子を窺がうが、今度は灯かりの類が漏れ出すことはなく、牢獄の中は暗闇に支配されていた。
そこで、ランプを持ち上げて覗き窓から灯かりを送り込んだ。
「っ!」
わずかに浮かび上がった牢獄の様子。送り込んだ灯かりが牢獄の奥にいる人の影を照らし出す。
脚を投げ出すようにして床に腰を下ろし、両腕を鳥の翼のように広げている。顔は伏せられ、ラビかどうかは確認することが出来ない。
「おい、ドングリ」
声を潜ませながらも口調を尖らせる。しかし、その声に対する反応はない。
ネイは一度舌打ちをすると片膝をつき、ランプを傍らに置いて錠前の解除にかかった。
少年が背後から興味深げにネイの手許を覗き込もうとするが、それよりも先に錠前がガチャリと音を立てる。
目を丸くした少年が見守る中、ネイは扉を押し開けると座り込んでいる人物に素早く駆け寄った。
伏せられた顔をそっと覗き込む。――間違いなくラビだ。
衰弱し、意識を失っているのか、近づいてもラビは身動き一つ取ることはなかった。
広げられた両腕は壁から伸びた鎖に繋がれ、投げ出した両足は鉄球から伸びた鎖に繋がれている。
裸となった上半身には赤黒く腫れた無数の傷痕。下半身は太股の部分が裂けたズボンを穿き、その裂けた部分から露出した肌には刃物による刺し傷があった。
何度も刺されたであろう傷痕は、一つひとつが醜く歪んでいる。おそらく、刺される度に焼きゴテか何かで傷口を塞がれたのだろう。
ネイは思わず表情を歪め、沈痛な面持ちで緩くかぶりを振った。
「おいドングリ、しっかりしろ」
呼びかけながら何度か肩を揺すると、ラビの口からようやく短い呻き声が漏れた。
虚ろな眼差し。その眼差しがゆっくりとネイの顔に向けられるが、灯かりの眩しさですぐに顔を背ける。
「どうやら生きてたみたいだな」
ネイは安堵の笑みを浮かべながらそう言うと、ランプの灯かりを手で遮った。
ネイの声を耳にし、ラビがもう一度視線を向ける。
「ああ、ついに俺は狂っちまったのか? 大して親交のない人間にまで救いを求めてるようになったらお終いだな」
再び顔を伏せ、ラビが低く笑う。どうやら幻を見ているものだと思い込んでいるらしい。
「その親交の薄い人間がわざわざ助けに来たんだよ」
ネイが皮肉るとラビはわずかに間を置き、ハっとして顔を跳ね上げた。その瞳には先ほどまでとは異なり、わずかな光が宿っている。
「ネイ、本当におまえか? どうして関係のないおまえが――いや、おまえにも関係があるか……」
「そう、俺にも関係があるんだよ。ディアドが帝国に潰されたら、少なからず責任を感じるんでね」
ネイが言葉を交わしながら手際良く鎖を外していくと、その作業を眺めながらラビはかぶりを振った。
「関係があるっていうのは、そういうことじゃねえよ……」
ラビが口の中でそう呟いたが、その声はネイの耳には届かなかった。
「だいたい捕まるなら捕まるで、その前に自分が掴んだものを情報屋にでも伝えりゃ良かったんだ」
ネイが不満を口にすると、ラビが力無く笑う。
「よく言うぜ。手に入れたものが物的証拠だってことは察しがついてるんだろ?」
やはりそうか――ネイは自分の予想が当たっていたことに満足するように頷いた。
自由を奪った鎖を外し終え、もう一度ラビの身体に視線を這わせる。
衰弱してはいるが動かすことに問題はなそうだ。
「だったらせめて何を入手したのか、どこにそれを隠したのか、それくらい伝えておけよ」
ネイが肩を貸すと、ラビは身体の痛みに顔を歪めながら立ち上がって低い笑い声を漏らした。
「馬鹿野郎が。『物』の在り処だけを先に教えちまったら、誰も俺を助けになんか来なかっただろ」
強がるように笑みを浮かべるラビの横顔に、ネイが苦笑いを向ける。
「確かにそうだな」
振り下ろされたハルバートの『斧』を半身になって躱し、それと同時にオズマの左太股に蹴りを叩き込む。
蹴りを放った足を捕まえようとオズマが左手を伸ばすが、レイルズはその足を素早く引くと、そのまま地に着けることなく再び蹴りを放った。
レイルズの足を掴もうとしてわずかに前屈みになったオズマの頭部、今度はその場所に蹴りを喰らう。
頭部が激しく揺れ、オズマはたまらず膝をついた――が、レイルズの足をなぎ払おうと、片膝をついたままでハルバートを振る。
地を這い、足を吹き飛ばさんばかりの勢いで迫るハルバート。しかし、それでもレイルズを捉えることは出来ない。
レイルズはオズマの肩に手を置いて跳躍すると、オズマの頭上を飛び越えるようにして背後に回り込んだ。
背後に回ったレイルズの両脚がオズマの胴に、両腕が首に、まるで蛇のように素早く絡みつく。
首を締め上げるつもりだ――オズマは本能的にそれを悟るとレイルズを背負ったままで立ち上がり、跳ぶようにして壁に身体を預けた。
壁とオズマの身体で板挟みにされ、絡みついたレイルズの両脚がわずかに緩む。オズマはその隙を見逃さず、左腕を背後に伸ばしてレイルズの襟元を掴むと、前屈みになりながらレイルズの身体を強引に引き剥がした。
左腕一本とは思えぬ腕力でレイルズの身体は前方に引かれ、頭から石床に叩きつけられそうになる。しかし、レイルズは猫のように身体を反転させると寸でのところで地に足を着けた。
向かい合う格好となった両者――その直後、先に動いたのはオズマだ。
オズマはレイルズの胸に足を突き出し、押し退けられたようにレイルズが数歩後退する。
二人に出来た距離。それはハルバートの間合い。
間髪入れず、渾身の力で振られたハルバートがレイルズに襲いかかる。
身を捻ってどうにか『斧の刃』を避けるが、柄の部分は避けきれない。
守りを固めために持ち上げた両腕。その腕の上から伝わる強烈な衝撃。レイルズの身体は軽々と吹き飛ばされ、冷たい石床の上を勢いよく転がった。
確かな手応えにオズマが口の端を上げる。
倒れこんだレイルズはゆっくりと立ち上がり、顔色を一つも変えずに左手で右脇腹のあたりを擦る。
腰を浮かせてオズマの力に逆らわず、素直に飛ばされることにより被害を最小限に押さえたつもりだった。腕で守りも固めていた。しかし――
(右肘が外れ、肋骨が三本……いや、四本持っていかれたか。しかし、内臓に損傷はない)
冷静に自身の損傷を分析すると、左手で右手首を掴み、外れた肘を事もなげに入れ治して見せた。
ゴキリと響いた不快な音に、さすがのオズマもわずかに顔を歪める。
「まだやるのかい? いくら入れ治そうが、一度外れたものはしばらく使い物にならんだろうよ。片腕じゃあ俺には勝てないぜ」
オズマが肩をすくめて見せると、レイルズは右腕を静かに突き出した。
「問題ない」
そう言い放ち、右腕を軽く動かす。
レイルズの言動に、オズマは吹き出して高らかな笑い声を上げた。
「本当に面白れえ男だなあ。いいだろう、とことん相手になってやる」
オズマがハルバートを構え直すと、それを望んだかのようにレイルズも自然に構えを取っていた。 レイルズが自らの左胸にそっと右手を当てる。
顔色一つ変えぬレイルズだったが、その胸にはわずかな戸惑いがあった。
己の中で、『何か』が広がりつつあるのを感じたからだ。それが何なのか、その正体はレイルズ自身にも分からない。
ただ、熱を帯びた鼓動だけが静かに高鳴っていた……
つづく