103章 オジさん
「へっくしょんっ!」
中庭に響いた大きなくしゃみ。その音に驚き、顔向けたトゥルーの脳天に軽い衝撃が走った。
「痛っ!」
手にした木造の剣を地に落とし、両手で頭を抱え込んで屈み込む。
「今ので君は死んだ。敵と対峙しているときに顔を背けてはいけない」
頭を押さえながら低く呻くトゥルーを、傍らに立ったレイルズが見下ろす。その手には木造剣が握られている。
淡々と語ったレイルズに、トゥルーは口を尖らせながら恨めしそうな視線を向けた。
「今のは仕方ないじゃないか――」
ゴニョゴニョと不満を口にしながらトゥルーが中庭の中央へと視線を移す。
視線の先には大きな木があり、その木陰で頬杖をつきながら寝転がる男がいた。
男はトゥルーの視線には気付かず、鼻を擦りながら大きな欠伸をしていた。
「ネイがくしゃみなんかするからだよ」
トゥルーがネイを睨むと、その視線に気付いたネイが欠伸を止めて片眉を上げる。
「そんなの知るかよ。誰かが俺の噂をしてたんだ、文句ならそいつに言え」
ネイがニヤニヤと笑いながら仰向けに寝転がると、トゥルーは口許を曲げて鼻を鳴らした。
「だいたい、昼間からゴロゴロと寝転がってるなよ。目障りだ」
「それは、おまえの集中力の問題だな」
ネイは手をヒラヒラとなびかせながら、トゥルーの苦情をにべもなく切り捨てた。
ネイの態度に尚も食ってかかろうとするトゥルーだったが、レイルズに軽く小突かれると渋々と地に落ちた木造剣を拾い上げ、もう一度だけネイを睨んでレイルズに向き直る。
再びレイルズに挑むトゥルーの声に、ネイは笑みを浮かべてそっと瞼を閉じた。
「ええと、これで全部だよね……」
自身の記憶をたどるように、黒目を上に向けて小首を傾げる。その拍子に両手で抱えた袋が傾き、中身が零れ落ちそうになろうのを慌てて顎で押さえつけた。
「危ない、あぶない」
中身が散乱するのをどうにか防ぎ、ほっと吐息を漏らした。――こうしてエマに頼まれた物を買いに街に出る。これがここ数日のリムピッドの日課だ。
再び記憶をたどり欠けている品物が無いのを確認すると、鼻歌混じりに帰路につく。
途中、店頭の可愛らしいスカーフに目が止まり、覗き込むようにして顔を向けた――が、それがいけなかった。
顔を横に向けていたため、正面から歩いて来た男に気付かずにそのままぶつかってしまった。
手にした袋の中身をぶちまけ、ああっ、と声を漏らし、すぐさま鋭い視線を向ける。しかし、相手の姿を目にすると、慌てて顔を伏せて小さく舌打ちをした。
帝国兵――リムピッドがぶつかったのは、五人組の帝国兵のうちの一人だった。
街の巡回中か、それとも巡回の当番を終えて帰るところか、五人の顔には疲労の色が浮かんでいる。その疲労感が苛立ちに繋がり、リムピッドにとっては悪い方に出た。
謝罪の言葉も述べずにさっさと散らばった荷物を拾い始めると、そのリムピッドの態度に兵士の表情が途端に不機嫌なものとなる。
「おい小僧、人にぶつかっておいて謝罪の言葉もないのか」
小僧なんて呼べるほど自分だって年はいってないだろ。それに、あたしは小僧じゃない! ――と、胸の内で毒づく。もちろん声には出さない、騒ぎを起こして目立ちたくはない。
落ちた林檎に手を伸ばしながらチラリと男たち視線を向けたが、それがさらに悪かった。不満の感情が無意識に目に宿っていた。
「なんだその目つきは」
男の一人がリムピッドの腕を掴み、乱暴に立たせようとする。
「痛い! 離せよ!」
腕を振って拒否するリムピッドの声に、男たちは顔が見合わせた。
「このガキ、女か?」
「女で悪いかっ!」
鋭く兵士を睨みつけると、兵士が口の端を上げて低く笑う。
「そんな態度を取っていいのか? 最近はガキがお遊びで作った反乱組織とやらもいるからな、ガキといえども収容所に連れて行くぞ」
からかうような兵士の言葉にリムピッドが一瞬動揺すると、兵士はその変化をあざとく見抜いて笑みを浮かべた。
胸の内を見透かされたことで自尊心が傷つき、それと同時に怒りが込み上げる。
「あんた達はいつもそうだ! 脅しをかければ何でも言うことを聞くと思ってるんだろ!」
リムピッドの言葉に兵士たちの顔色がわずかに変化した。それに気付き、ハッとして口を噤んだがもう遅い。
「おまえ、この土地の生まれか? このゴルドランに現地人、それもガキが一人でいるなんて怪しいな。本当にレジスタンスの一員かもしれんぞ」
周囲がざわつき始める。騒ぎに気付いた者が遠巻きに集まり始め、リムピッドは顔を歪めた。
「離せよっ! あたしが独りでも、あんたには関係ないだろ!」
腕を思い切り振るが、掴んでくる兵士の手を振りほどくことが出来ない。
「こら、暴れるな。とりあえず収容所に連れて行ってやる。関係があるかどうかはそこで聞いてやる」
「ぶつかったのはお互い様だろ!」
「おまえが小さくて見えなかったんだよ」
小馬鹿にするような笑みを浮かべ、リムピッドを見下ろす。
リムピッドが尚も抵抗して暴れると、他の四人も手を貸そうと近づいて来た。
「いい加減に大人しく――」
そこまで言うと、腕を掴んでいた兵士の顔が弾け飛び、そのまま転がるように倒れ込んだ。
兵士に代わり、突如としてリムピッドの目の前に伸びてきた足。何者かが横から帝国兵の顔に蹴りを入れたのだ。
腕を掴まれていたリムピッドも一緒に倒れそうになったが、その背をムズリと掴まれ身体を支えられた。
リムピッドが自分の身体を支えた人物をそっと見上げると、その人物は逆光となって黒い影に見えた。それも山のように大きな影だ。
「悪いな、小さくて見えなかった」
大きな影は平然とそう言った。
山のように大きな男。呆然と見上げたリムピッドの視線が、不意にその男の手に落ちた。
その手には林檎が一つ、リムピッドが落とした物だ。真っ赤な林檎がその大きな手にはひどく小さなものに見える。
「おい、大丈夫か!」
倒れた仲間に駆け寄る四人の兵士。
倒れた兵士は失神しただけのようで、微かな呻き声を漏らした。その声で無事だと知ると、四人の兵が林檎を手にした男に向き直る。
男に向けられた兵士たちの怒りの眼差し――が、すぐに怒りの眼差しは困惑へと変化する。
戸惑う兵士を目の当たりにし、リムピッドは再び男を仰ぎ見た。
男が林檎を噛りながら一歩進み出ると、逆光で見えなかった容姿がリムピッドに目にもはっきりと映る。
口許に浮かぶ不敵な笑み。鬣のように逆立つ金色の髪――
「金獅子っ!」
「オズマっ!」
四人の兵士が口々に驚きの声を上げた。
オズマは驚く兵士をよそに、不敵な笑みを浮かべたまま林檎に噛りつく。
「オズマ、おまえは何をしたのか分かっているのか! 今は我々帝国軍がおまえの雇い主だろうが!」
帝国兵が声を上擦らせながら怒鳴り散らすと、オズマは面倒そうに耳を掻いて見せた。
「おいおい、難癖つけるつもるか? ちょっとぶつかっただけだろ。小さくて見えなったんだよ」
「ふざけるなっ!」
一人の兵士が腰の剣に手を伸ばす。
「難癖つけた挙句に抜こうっていうのかい?」
笑みを浮かべたまま、オズマは両の眼を鋭く光らせた。そのオズマの威圧が剣を抜くのを躊躇させる。
剣を握った格好のままで動きを止める兵士。動けぬ兵士に向かい、オズマは小さく鼻を鳴らした。
「ママに教わらなかったのかい? 恐い人に会ったら目を逸らして逃げなさい、ってよ。それとも――」
さらに一歩進み出て、林檎を持った手をゆっくりと前に突き出す。
「どれだけ恐いか試してみたいのかい?」
言うと同時に手にした林檎を握り潰した。
オズマの言動に四人の兵士が悔しげに顔を歪める。しかし、その表情に反し、剣に伸ばされた手はそっと戻された。
「オズマ、このことは上に報告させてもらうぞ」
捨て台詞を吐いて失神した兵士を肩に担ぐと、五人はオズマの横をすり抜けて去って行く。
その間、鬱憤を晴らすように地に落ちたトマトを一つ踏み潰した。
去って行く五人にリムピッドが安堵の息を漏らす。
「ありがとうオジ――」
「オジさんじゃねえ! お兄さんだ」
顔をズイっと近づけて睨みを利かせるオズマに、リムピッドは背を反らせて苦笑いを浮かべた。
「あ、ありがとう、お兄さん。よく知らないけど、お兄さんって凄い人なんだね」
「別に凄くはねえよ。ただ限りなく最強に近いだけだ」
「そ、そうなんだ」
オズマが胸を張って小鼻を広げると、リムピッドは頬を掻いた。
「何にしても、兵士の駐屯地みたいなこんな街を、嬢ちゃんが一人でウロつくもんじゃねえよ。まあ、気を付けて帰んな」
軽く手を上げてオズマが背を向けると、その太い腕にリムピッドがしがみついた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「ああん? 礼ならいらないぜ」
「そうじゃない。――お代を置いていってよ」
そう言ってリムピッドが右手を差し出すと、その手を見下ろしたオズマは訝しげに眉を寄せた。
「お代ぃ?」
「さっき潰した林檎、あたしが買った物だから」
「……」
路を行きながら、片手に袋を抱えたオズマが深々とタメ息をついく。
肩を落としたオズマの隣、リムピッドが頭の後ろで手を組みながら、へへへ、と満足げに笑った。
「まったく、最近のガキはしっかりしてやがる。助けてもらった上に、林檎一個で荷物持ちまでやらせるんだからよ」
「それとこれとは別問題。オジ……じゃなくてお兄さんも、拾い食いなんてしない方がいいよ。木のない所に林檎が落ちてるわけがないんだからさ」
リムピッドが人差し指を立ててながら得意げに言うと、オズマは両眉を上げて肩をすくめた。
「でも、お兄さんって帝国兵に見えないよね」
「俺は傭兵だ。帝国兵ってわけじゃねえ」
「へえ、そうなんだ……」
リムピッドが感心と落胆の入り混じったような声を漏らした。
帝国兵ではないと知って安心した一方、金で帝国に雇われていることへの抵抗を感じる。
侵略されたこの地で、金や地位により帝国に寝返った大人たちのことが頭をよぎった。
リムピッドの浮かない表情を察してか、オズマが口を開く。
「ディアドと帝国の戦争。それに参加するつもりでいたんだが、少し出遅れちまった。おかげでこの街でお留守番よ」
オズマがそう言って笑うと、お留守番という子供じみた言い方にリムピッドも頬を緩める。
「この街では何をしてるの?」
「収容所があるだろ、そこの番兵みたいなもんだ。まあ、退屈な仕事さ」
オズマの言葉にリムピッドが顔を跳ね上げたが、オズマはそれに気付かずに言葉を続けた。
「ディアド侵攻軍から増軍要請が来るまで、時間潰しのつもりだったけどよ、増軍要請なんて来ないうちに終わりそうだな。賃金は安くても、ディアドの側につくべきだったかもな――ん、どうした?」
再び浮かない表情を見せたリムピッドにようやく気付き、オズマが首を傾げる。しかし、リムピッドはすぐに笑顔を見せると、なんでもない、と首を振った。
「そっかあ、収容所にいるのか……。あっ、もうここまででいいよ」
娼婦館へ続く横路が先に見えて来たことに気付くと、オズマの手から引ったくるように袋を取った。
「なんだ、家はこの近くなのか?」
「そう。あの横路に入って、その先にある館でお世話になってるの」
リムピッドが先を指差すと、納得したようにオズマが頷く。
「そうか。じゃあ気をつけて帰れよ」
「うん、助けてくれてありがとう」
リムピッドは笑顔を見せると踵を返し、小走りにオズマから離れて行く。
オズマがその背を見送ると、リムピッドは横路に差しかかったところで足を止め、オズマに向き直って大きな声を上げた。
「オジさーん、退屈な仕事を頑張ってね。今夜あたりは退屈じゃなくなるかもよ」
そう言ってよろけながら袋を片手に持ち替えると、大きく手を振り横路へと入る。
リムピッドの姿が見えなくなるとオズマは苦笑し、帰路につくべく背を向けた。しかし、数歩進んだところでフと何かを思い出したように足を止め、ゆっくりと振り返る。
「そういえば、あの先にある館は――」
考えるまでもなくすぐに思い当たり、陰鬱な吐息を漏らす。
「まだガキなのに娼婦館かよ……。ガキにも色々あるってことだな」
そう呟くと、澱んだ気分を晴らすように両腕を天に突き上げ背を伸ばした。
呻き声を漏らし、力を抜いて肩を落とすとそのまま空を仰ぎ見る。
「今夜は退屈しない、か。そうだとありがたいねえ」
オズマは顔を伏せると笑みを浮かべ、収容所への帰路についた。
路に映る長く伸びたオズマの影が、日没の近づきを告げる。
盗賊は、月と共に目を覚ます……
つづく