9章 森の狙撃手
崖の上から見下ろした光景は、見渡す限りの緑。
広大な森。それ以外にこれといったものが見当たらない。
「これは……凄いな」
思わずそんな言葉が口をつく。
その光景は商業都市モントリーブとはまるで別世界だ。
同じ時代の風景とは到底思えなかった。
「話には聞いていたが……ここまで凄いとは……」
ネイ自身も足を踏み入れたことがないこの地に、さすがに驚きを隠せなかった。
モントリーブとの国境を抜け、此処セルケアに入ると、すぐに街道が途切れて辺り一面草原が広がった。
そして、さらにそのまま南下していくと現在いる崖に出たのだ。
「迂回して降りられる場所を探そう」
そう少女に言い、手綱を引いて馬を崖沿いに歩かせる。
そのまましばらく行くと、崖下まで降りられそうなある程度緩やかな傾斜が見つかった。
手綱を引いて馬のを傾斜の前まで動かすと、ネイは馬の背から降りて道を確認する。
「どうやらここなら行けそうだ」
「……」
馬上の少女も降りようとしたが、ネイがそれを制した。
「おまえはそのまま乗ってろ」
そう言って馬の手綱を引きながら、ゆっくりと傾斜を下っていく。
馬は軽くいななき、最初は歩を進めることを拒否したが、それでもネイが手綱を引くと諦めたのか、傾斜を斜め向きに降り始めた。
慎重に、ゆっくりと馬を崖下まで降ろすと、大きく息を吐き出す。
「よし。とりあえず水場を探してそこで休もう」
自分たちもそうだが、馬も休ませてやらなければいけない。
なんだかんだ言っても丸二日間走らせ続けている。
それに水場を見つければ、とりあえず人のいる場所も見つけられるだろうと考えた。
ネイの楽観的な予想はすぐに砕かれた。
いくら進めども木々ばかり……。
肝心の水場でさえ、見つけること自体に労を要した。
丸一日歩き続け、そんな状況にさすがに辟易としてきたころ、突然それは目に飛び込んで来た。
キラキラと陽の光を反射する輝きだ。
木々が開け、かすかに水面を揺らした蒼い湖が見える。
それを見てネイが安堵の息をついた。
湖を見て、そこまで喜べたことは過去記憶に無い。
さすがにこの見知らぬ広大な森を、飲み水の心配をしながらこれ以上彷徨うのは遠慮したかった。
周囲に注意し、水辺に近付きその様子を探る。
光を反射する水面の奥、小魚が泳ぐ影がいくつか見えた。
どうやら飲み水としても大丈夫なようだ。
それともう一つ。水辺に近づく途中、いくつかの木々に伐採跡が見られた。
この森に入ってやっと見られた人の存在跡だ。
さっそく少女を降ろし、馬を水辺に近づける。
よほど喉が渇いていたのか、ガフガフと呼吸を漏らしながら勢い良く水を飲み始めた。
次に木製の水筒に湖水を入れ、それを少女に渡した後でネイも喉を潤す。
まさに生き返ると言うやつだ。
喉の渇きを癒すと、ネイは馬の背から荷物を降ろし始める。
まだ日は高いが、とりあえず今日はここで野宿をすることに決めた。
森は日が沈むのも早く、そうなってから行動するのは危険だと思ったからだ。
もっとも、それも水の確保が出来たから言えることだが。
「とりあえず今日はここで休むぞ。移動は明日の朝になってからだ」
ネイが周囲の探索がてらに野ウサギを捕らえて戻ると、少女がフードを羽織って焚き火の側に座っていた。
傍らには少女の服が干してある。
「ちゃんと洗えたか?」
その様子を見てそう声をかけながら近付いていく。
「食料を調達してきた」
そう言って少女の向かいに座り、捕らえたウサギの調理に掛かる。
日はもうすかっり暮れ、どこからか梟の鳴き声が聞こえてきた。
その鳴き声を聞きながら、ネイはふとキューエルのことを考えた。
簡単に処刑されると思ってはいない。
(すでに逃げただろうか……)
そんなことを考えながら少女に視線をやる。
少女は食事を終えて乾いた服を着ると、うつむき加減に一点をじっと見たまま座っている。
その陶器のように白い頬が、焚き火の灯りに赤く照らされている。
(とりあえず人がいる場所を見つけてコイツを預けよう。そしてモントリーブに戻る。キューエルと決着を付けなくては……)
今後について考えていた直後、ネイの身体が何かを感じ取った。
「っ!」
誰かに見られている感覚。その気配は野生の動物なではなく、間違いなく人のそれだ。
すぐに立ち上がり、少女の元まで素早く近づきナイフを身構える。
周囲を注意深く見回すが、動いている存在は確認出来なかった。
馬の様子を見ると、その耳が何かに反応してせわしなく動いている。
間違いなく誰かいる。
そう確信した次の瞬間――
「くっ!」
少女の頭を伏せさせると同時に自分も身を屈めた。
さっきまで自分の頭があった場所を何かが通過した。
(矢か?)
しかし確認している時間はない。このままでは狙い撃ちだ。
焚き火に砂をかけて火を消し、少女を抱えて矢が飛んできた方向とは逆方向の森に走り出す。
そして、そのまま少女を抱えて木の陰に飛び込んだ。
その直後、風を切り裂く音と同時に、二人が身を隠した木に一本の矢が突き刺さる。
ネイは舌打ちをし、矢が飛んできた方向を覗き見るが、相手の姿はやはり確認出来なかった。
しかし、矢の数から相手は一人、少なくとも少数だろうと判断する。
再び身を隠した木に矢が突き刺さった。
ちょうど自分の頭がある高さだ。
ネイも夜目には自信があったが、どうやら相手はそれ以上のようだ。
焚き火を消して暗闇を作っても、全く意味が無い。
一定の距離を保ちながら、自分たちを的確に狙い撃ちしてくる。
隠れていても標的にされるだけだ、というのは明白だった。
「ここにいろ。ちょっとこれを借りるぞ」
そう少女に言ってフードを脱がす。
一度大きく息を吐くと、そのフードを木の陰から左に投げた。
タイミングを遅らせ自分自身は右に飛び出す。
風を切る音。
矢が投げたフードを正確に刺し貫いたのが視界の隅に映った。
恐ろしい精度だ。
しかし、それと同時に矢の出所も目で捉えることが出来た。
出来る限り身を低くし、両手にナイフを構え、矢の出所に向かい猛然と走り出す。
直進して来るのが予想外だったか、一瞬相手の反応が遅れた。
しかし、それも束の間。再び矢が放たれた。
だが、今度はその姿を確認出来ているため、放たれる瞬間がはっきりと分かった。
その呼吸に合わせ、ネイは前方に飛び込むように転がった。
放たれた矢が、ネイの身体を掠めて地面に突き刺さる。
それでも動きを止めることなく距離を詰めると、相手が弓を捨てて腰のナイフを引き抜くのが見えた。
そのナイフをネイに向けて振り下ろしてくるが、ネイはそれを左手、逆手に持ったナイフで受け流した。
そしてそのまま右手のナイフを相手の喉下に突きつける。
「うっ……」
相手の短い唸りと共に、時間がそのまま停止した。
「観念しろ」
睨みつけながら低い声で相手を威圧する。
その相手の顔を確認すると……
「っ! ……女?」
流れるような白銀の金髪。
目を閉じてはいるが、それでも分かるほど睫毛が長く、切れ長で涼しげな目元。
予想外の相手に一瞬気が緩んだそのとき、頭上の木の枝から何かが落下してきた。
それに気付いたと同時に、後頭部に強烈な衝撃が走る。
「しまっ――」
ネイの言葉はそこで途切れた。
視界がチカチカと点滅し、足元がふらつく。
「勘は鋭いようですが、残念ながら私は男です」
意識が無くなる寸前、耳にしたのはそんな言葉だった。
そして、意識はそのまま深い暗闇に落ちていった……
つづく