ファンジオの嘘
『イグノス第1士官候補新兵訓練所』はリリステルから馬車で半日程離れたテルキス州との州境に造られた、イグノスに3箇所有る『士官候補新兵訓練所』の1つだ。『二種(士官候補生)』と呼ばれる普通学校を卒業し、各士官学校の試験に合格した入学資格の有る者は、内定から入学までの半年の間に此処で訓練を受け無ければならない。訓練所では彼らの人格や、家柄などは全て無視され、新たな人格と、精神力、そして兵に相応しい肉体を造る為『三週間』の厳しい訓練を受ける。これは付属幼年学校を卒業した『一種(予備士官)』と呼ばれる彼らは免除される。この『ブートキャンプ』を逃れる為に、我子を幼年学校に通わせる軍関係者も多い。
ちなみにファンジオが言った『一年間』はジャンを元気付ける為の大嘘である。
「点呼を取る! 番号!!」飛び出したジャンに遅れる事5分、バードマンが直立不動で待つジャンに叫んだ。
「1!!」叫び隣を見る。ジャンの周りには苦楽を共にする仲間は居なかった。寂しさを誤魔化す様に唇を強く噛んだ。
「貴様!! 誰が首を動かして良いと言った!」ジャンの耳に触れるくらい近づき罵声を浴びせた。
「申し訳ありません! サー」再び前を向き、鬼を見た。
「よし! 休め!」
言われるとジャンは背中で両手を握り、腰の高さにそれを下げた。
「これから『クソ』で有るお前を一人前の軍人に育てる為の訓練を行う! 通常は『三週間』の所だが、貴様は特別に『六週間』の時間を俺が訓練に割いてやる! 光栄に思え!」ファンジオの嘘がバレた。
「はい! サー」ジャンは真実を知ってしまった。大人達の企みに翻弄され少年は復讐の為、心を捨てる事を決めた。
「気をーーつけ!」一瞬の休息をもぎ取った。
「右向けーー右!」
ジャンは言われるまま右に体を向けた。
「前へ進め!」
ジャンは両手を振り、見た事の有る兵の行進を真似た。
「速度が早い!! 良いか! お前に許される速度は一分間に50ヤードきっかりだ! それ以上もそれ以下も許さん!」ジャンの真横で叫びながら、バートマンが言った。
「はい! サー」
「『クソ』の分際で返事だけは一人前か! 覚えて置け! 此処に貴様が居る間、お前の行動は全て俺の監視下に有る! 逃げれると思うな! お前が此処を出るときは『一人前のクソ』に成った時だ!」
「はい! サー」軍人を『一人前のクソ』と呼ぶ事をジャンは知った。
「全体ーー止まれ!」
200ヤード程ジャンを歩かせ、動きを止めた。
「気をーーつけ!」
「敬礼!!」
ジャンは誰も居ない前方に敬礼をした。
「何だそれは!! 餌を貰いに来た犬か!! 踵を揃えろ! 指を伸ばせ!」ジャンの足や手を叩き唾を飛ばした。
「はい! サー」
「直れ! 回れーー右!」満足したのかジャンを反転させ再び歩かせる。
「前へーー進め!」
ジャンはその後5時間行進をさせられた。日も落ち始め、ジャンの意識が朦朧とし始めた頃、バートマンが叫んだ。
「全体! 止まれ!」
「休め!」
ジャンは休めの体制を取り、ホッとした。辛い一日が終わる、あとは解散を待つだけだ。そう思った。
「今日は初日だ、精霊の如き慈悲を持つ俺は貴様をイタぶる事はしない、本日の訓練を終える!」
「有難う御座います! サー」開放される喜びにジャンの心が浮き足立った。
「よし! では腕立て100回の後解散とする!」彼の慈愛とは何だったのであろう……
「腕立て! 用意!」放心するジャンの鼻先でバードマンが叫び散らした。
「ふぁい! サー」もはや呂律も回らない。
「1――!」号令が始まった、ジャンは残る力を振り絞り、腕をくの字に曲げた。
「2――!」ジャンのそれを追う様にバードマンは数を数えた。
ジャンは歯を食い縛り、持てる力の全てを腕立てに叩き付けた。そして5回目で大地に口付けした。
「何をしているんだ! まだ5回しかして居ないぞ! 貴様は根性まで『クソ』なのか!!」地に伏せるジャンを罵倒した。バードマンはジャンのタンクトップを掴むと、グイと引き上げ元の姿勢に戻した。
「6――!」ジャンの背を掴んだまま言った。
ジャンは背中を掴まれたまま腕立てを続けた。下りは自らの力、上りはバードマンの力を借りジャンは二時間を掛け腕立てをやり遂げた。
「気をーつけ!」屍と成りつつ有るジャンに命令する。
「夕食は食堂で食え! 現在の時刻、7時55分! 食堂は8時までだ。消灯は8時10分!就寝も同じだ! 一秒も遅れるな!]
「ふぁい! サー」残された一滴の力を振り絞りジャンが叫んだ。
「解散!!」言うとバードマンはつま先を返し暗闇の中に消えて行った。
「終わった……」半日の訓練を終え、正に精魂尽きたジャンがその場にへたり込んだ。
「ごはん……」緊張が解け、ジャンは空腹にポツりと洩らした。
(食堂――場所知らないし……)一息付き冷静な思考を取り戻しつつ有るジャンが気付いた。
(急がなきゃ!!)残された時間は少ない、飯まで取り上げられたら自分が壊れてしまう!そう感じた。
ジャンは駆けた! 歩みより遅かったがジャンの底力の全てを晩御飯に賭け……
やっと見つけた『訓練者用食堂』の前でジャンは膝を付き、満天の星空を仰いだ。
「そんな……」暗闇と化した食堂を前にジャンの頬に一筋の涙が毀れた。それを拭う事無くジャンは拳を地に叩き付ける。
ジャンはこの時全てを失った、人格もプライドも、そして食事さえ翼を広げジャンの元から飛び立って行った。生まれて初めて味わう虚無感にジャンは契約者と成り、生き残った自分に怒りさえ覚えた。
何度見ても点く事の無い食堂の窓を振り返りながら、ジャンは宿舎へ足を向けた。トボトボと力無く歩み、まだ一日目だと言う事に絶望を感じた。
「気をーつけ!」やっと辿り付いた宿舎の前で鬼の顔をしたバードマンが仁王立ちでジャンを待ち構えて居た。
「貴様! 『クソ』は時間の概念すら無いのか! 今何時だと思っている!」
「……サー」もはや立つ気力さえ失い初めていた。そして次の瞬間その場に力無く崩れ落ちた。
バードマンは意識を失ったジャンを抱え、宿舎のベットまで運び、上掛けを掛け寝かせると出口に向い、静かに扉を閉め宿舎を後にした……