シエラ
真っ赤な水の底で、影を落とす〝狂妖〟を見上げた。
回転しながら、ゆっくりと沈んでくる。それとは逆に、穏やかな流れがタイドを浮上させる。
『ここはどこだ……? 俺は何をしてるんだ……?』
丸まって浮く狂妖と目が合う。双眸が赤く光り、タイドの脳に灼きついた。
緑の残光が薄れると、目の前の狂妖は消えていた。
耳鳴りが頭を締め付ける。
思考が溶けて、空になった頭に、狂妖の赤い目が棲みついた。
次の瞬間、水が逆流した。息ができない。苦しい。口に押し込まれた何かが、強引に空気を送り込んできた。
みるみる水は掃けてゆき、苔むした根の間に、ずぶ濡れのまま横たわる。
動こうとするが、四肢は動かない。虫のような黒い影が飛び交い、現実のざわめきが夢の縁を削っていく。
――「見えるか!」
目が合った。顔が近い。長が怒鳴っているが、音は遠かった。
「起きろ! 見えるか!?」
喋ろうとするが、ムセてしまう。長が手を振ると、木の根が口から引きずり出され、沢山の水を吐き出した。
「……見え……てる、たぶん……な」
かすれた声で返答すると、長は満足気に笑みを浮かべ、手足に絡みつく根の拘束を解いた。
傷跡だらけの手で顔を拭う。鼻に詰まった根っこを引きずり出すと、しばらくして、緩い水が耳から垂れた。
頭はぼんやりするが、体は少しずつ動いた。傷跡が痛む。特に黒鉛狼の噛み跡は、肉が盛り上がり、芯の部分が重く痛んだ。
「呪いにやられた肉は削り取ったからのう。安心しろ、命に別状はないわい」
「カッカッカッ」と長が快活に笑う。
左手を見ると、神座の近くに、ケロイド状の火傷痕が走っていた。掌を握り違和感を確かめる。
「治療の際に、妖精の粉を通りやすくしたのじゃ。左腕に精孔の通り道を造ったんじゃよ」
左手の火傷痕から、心臓に向かって道が作られた、と説明を受ける。
「お前たちは狼との戦いで古代の毒を帯びた。あんな物を持ち出すとは、侮れん奴らじゃ」
長が言う古代の毒とは、呪いと毒を融合させた兵器らしい。
「呪獣が育ち切らずに潰せて良かったわい」
呪いを受けた傷に、妖精の粉を注ぎ込む事で、呪いを焼き潰したらしい。
その過程で肉体にまで精孔が伸びたという。
長から新たな服と、ククリナイフとスリング紐、弾などを受け取り、装着していく。
「リーフは無事か?」
タイドの質問に、長は渋い顔をする。
「まさか……」
「いや、無事じゃ……無事なんじゃがのう。今回は力を使いすぎた。粉の枯渇じゃ」
粉の枯渇、小さい体で大分無茶をさせたからだろう。
「それって治るのか?」
「うむ、リーフはまだ若いからのう。未熟な分、回復も早いじゃろう。見に行くかの?」
長の案内で、タイドは回廊を抜け、根の洞に入った。
木の内部は静かで、根が天井から垂れ下がり、湿気がこもっている。
中心に透明な筒が据えられ、淡い緑の光の中でリーフが浮かんでいた。
「……リーフ」
小さな体が液体に浮かんでいる。
目を閉じ、呼吸も浅い。金の髪はふわりと水中に舞い、背中の翅が、かすかに脈動していた。
「粉の根源が尽きると、こうして培養槽で回復するしかないんじゃ……心配いらん、順調じゃよ」
長の声が優しく響く。だが、タイドの胸には、言いようのない焦燥があった。
戦いの中で、何度も自分を引っ張ってくれたリーフ。
神座に飛び込み、狂妖を呼び出し、自分の体に粉を通してくれた。
あれは――こんな小さな妖精が耐えられる所業ではない。
「……この子は、こうなる事を承知で?」
長は黙って頷く。
「この子は、俺よりもよっぽど戦士だ」
長は何も答えず、ただ、目を細めていた。
その時――
「警報か?」
洞の奥で、低く金属音のような振動が響いた。直後、木々が軋む音が聞こえる。
「おい、これは……!」
タイドが立ち上がろうとすると、頭の奥で“キィン”と耳鳴りが走る。
『こっちも完全じゃないな、しょうがねぇ』
「何事じゃ」
長の言葉に、部屋の外に控えていた妖精が答える。
「何者かが神木に侵入いたしました。前と同じで蜘蛛の反応はありません」
慌てる妖精達に長が指示を出す。
タイドの胸がざわついた。
「……結界を抜けられたってことか?」
「そうじゃ、神木に直接入り込んだとなると――これは只事では済まんぞ」
長の目が険しくなり、声に焦りが滲む。
「お主はまだ動くな。リーフと共にここにおれ。……封印層の守りを固めるぞ!」
長が命じると、部屋の外に控えていた妖精たちが一斉に飛び立った。
警鐘が回廊に響き、巨木全体を震わせる。
タイドはいつでも出動できるように、装備を改めた。
ボロボロになった服は、新たに妖精の衣服と同じ、深緑の丈夫な繊維で作り換えられている。
そしてククリナイフとスリング紐は更なる改造が施されていた。
ナイフの握りを確かめていると、鋭敏になった感覚が何かを捉える。
慌てる妖精達の動きとは明らかに違う個体がいる。
徐々にタイドの洞に近づいて来る。タイドが物陰に隠れると同時に、一匹の妖精が飛び込んで来た。
「ハァハァ……撒いたか、しつこい奴らだ」
シエラだ。息を切らながらリーフの管に飛来する。
「リーフ、ずるい奴だ。お前ばかりが選ばれる。俺様の方が優秀なのに……選ばれし者なのに」
リーフを睨みつけ、硬く握りしめた拳に魔力を集める。
「俺様が選ばれたなら、ゴブリンなど即全滅させた。こうなったのはお前のせいだ」
拳の魔力が針のように研ぎ澄まされていく。
「やめろ!」
タイドが飛びかかり、ククリナイフを振るう。それをすり抜けたシエラは、驚きに目を見開きながら、
「なぜ人間がここに居る! 神聖な場所に穢れた人間が入るなど……」
口から泡を飛ばしながら、魔法の矢を打って来た。それをククリナイフで斬り払う。
「バチン!」
と激しい音と共に、魔法の矢が弾ける。その威力に少し後退った。
「ふっざけんなよ!」
シエラの周りに魔力が集束する。銀色の針が2本、宙に震えた。
即座にスリングで鏑弾を抜き取る。振り抜きざまに投擲するが、シエラの姿は掻き消えた。
「ギャハハッ! そんな物が俺様に当たるかよ!」
タイドのすぐ側の空間に現れ、2本の矢を放って来た。
タイドは前方に飛び込むと、胸を強かに打ちながら、矢を避けた。
その際に一本の矢が左足の太ももを傷付ける。
伸び上がってククリナイフを振るうが空を切った。
洞の天井まで飛び上がったシエラは、笑いながら魔力を練る。その姿には見覚えがあった。
「お前、その目」
鈍い金色に濁る瞳。
「ゴブリンに操られ……」
「ふざっけんな! 俺様が操ってるんだ!」
シエラは咄嗟に魔法矢を撃ち込んで来た。
2本の矢を、小さく半身を捻って避け、スリングを振るう。避け損ねた左頬と左太ももに矢が掠めた。太ももはしっかり矢が当たったが、妖精の服が魔力を散らしてくれたようだ。
「貴様、その服! 盗みやがったな」
転移して鏑弾を避けたシエラが怒鳴り散らす。
「うるせえ」
タイドは放った後のスリング紐を鞭のように振るうが、シエラに後退される。
「当たんねぇよぉ」
余裕に見えたシエラが、突然吹き飛ばされた。
スリングの先端が石を隠し持ち、素早く投擲したのだ。
回復する隙を与えず、そのままスリングでシエラを絡めとる。
「グウッ……くそっ……離せ」
シエラは必死に抵抗しながら魔力を集めた。
だがタイドは知っている。
長もリーフも、全ての妖精が魔法を行使する時は、翅を震わせている事を。
さらに拘束を強めて、
「殺すぞ」
とタイドが言うと、シエラは抵抗をやめた。
「くそっ! なんなんだよお前! ただの運び屋ごときが、ふざけんな」
口汚く罵るシエラに、
「お前のその目、ゴブリンや狼と同じだ」
「はっ、この目はカラス様からいただいた金眼だ。魔力を高め、より高次元の存在になるんだよ」
「お前がゴブリンを手引きしたのか? 卵を奪うために? じゃあなぜ卵を戻させた?」
「うるさい、そんな事知った事か」
うそぶくシエラを締め上げると、すぐに降参した。
「分かった、分かったよ。喋るから締めるな。俺様はあの時、卵を奪う手引きをしたが、その後の事は知らなかった。まさかホブゴブリンを倒す者が現れるとはな。咄嗟に卵を持ち帰らせて、疑いを晴らしつつ、次の機会を伺ったのさ」
悪びれた様子も無く、ペラペラと喋る。 カラスとやらは、よくぞこいつに目をつけたものだ。
「仲間を売って恥ずかしくないのか?」
「うるさいっ! お前があの時、俺様を選んでいたら、ゴブリン共なぞ全滅させていたさ。ばかリーフと違って、俺様の攻撃魔法で瞬殺だっ。それを分からぬ奴らが悪いっ、皆死んでしまえば良い」
泡を飛ばしながら力説する。本気で自分の正しさを信じきっている。
「狂ってる……」
その時、シエラが強烈な光を放つ。と同時にタイドを頭痛が襲った。一瞬の緩みを逃さず、シエラは飛び立つと、瞬間移動を繰り返して逃亡した。
しばらく動けないほどの頭痛は、しばらくしてやわらいだ。
「どうするべきだ? ここでリーフを守るか?」
長の言葉もある。タイドは方針を決めると、リーフの浮かぶ管の前で仁王立ちになった。
しばらくすると、沢山の気配が迫って来た。妖精達だと分かっているが、シエラの事もあり、緊張が走る。
しばらくして飛び込んで来たのは長だった。
「くそっ! やられたわい。精霊の卵が再び奪われた」
「ああ、さっきシエラが来たよ。奴が手引きしたらしい」
「なんじゃとっ! ええい、あの馬鹿は何をしとるんじゃ」
長は悔しがるのもそこそこに、リーフの前に飛来した。
「急がねば、精霊の卵は何としても取り戻さねば」
長は管に両手を当てると、呪文を唱えた。言葉の抑揚とリーフの脈動が同期して、〝ボコボコッ〟と気泡が上がる。
「何をするっ」
タイドが制止しようとするが、妖精兵が魔法を唱えると、全身の力が抜けて動けなくなった。
「黙って見ておれ。心配は無い。急速に粉魔法を充填するだけじゃ」
長の魔力が管に注がれると、緑の光が爆発して、視界を埋めた。
赤の残光が薄れると、目の前にリーフがいた。
不思議そうに小首を傾げてタイドを見ている。
「タイド〜、無事だったんだね〜」
ポワポワと瞬きしながらまとわりつく。リーフの姿越しに、長を睨みつけた。
「これをしなかった、訳があるんだろう?」
長は手で制すると、
「今はそれどころでは無い。精霊の卵を奪還するのだ。お前達は、妖精の扉から先回りをしろ。卵を奪った者を逃すな」
「奪ったのは誰だ?」
「そいつは、ゴブリンキングじゃよ」
長が示す空間に、魔法の扉が現れた。
その先には、森を走る大きな狼と、それに跨る巨大なゴブリンの姿があった。
「わしらの縄張りに居るうちに、早く! 逃すでないぞ!」
タイドはリーフを従えると、飛び込むように扉を潜り抜けた。




