第3章
朝の冷たい風を感じながら宿を出て、いつもの市場へ向かおうとする。
今日は空に雲が厚く垂れこめていて、何だか街の雰囲気も重苦しい。見慣れた路地を歩いていると、胸の奥に小さな不安が渦巻くのがわかる。――どうして、こんなにザワついているんだろう。
「……胸騒ぎがするな」
誰に言うでもなく口を開く。俺は“経済操作”という謎の力を得てから、毎日のように小さな試行錯誤を繰り返している。あちこちの露店で価格をほんの少し動かし、需要と供給を弄び、慎重に利益を得る。そのたびに自分がまるで世界を操っているような錯覚に陥る。でも同時に、もしこの力を使いすぎてしまったら――そんな恐怖が頭をかすめているのも事実だ。
ここのところ市場の噂にやけに俺の名前が混ざり出した。
「追放された貴族の次男が、突然稼ぎまくっている」「不可解な値動きが頻発している」「貴族社会に恨みを抱いた男が何か企んでいる」――。
どれも眉唾ではあるが、少しだけ的を射ている気がする。証拠はつかまれていないはずなのに、噂というのは恐ろしい。
「あの大商会の令嬢、カティアが俺を鋭くチェックしているのも確かだし、下手な真似はできないな」
昨日、彼女と対話したときの冷静な眼差しが脳裏によみがえる。
直接敵意を向けてきたわけではないが、危険を感じ取ったら容赦はしない、と暗に告げられた。あの目はビジネスに命を懸ける本物の商売人のそれだ。変に刺激して正面衝突するのは得策じゃない。
そんなことを考えながら大通りに入ると、今日は朝から騎士のような姿の見回りが増えている。露店の店主が不満げにため息をつき、そっと俺に耳打ちしてくる。
「おい、レオン。妙な噂が流れているせいか、最近、貴族や兵士の監視が厳しくなってきたよ。よからぬことを企んでるやつがいるって噂だ」
「へえ、そうなんですか。そりゃまた、穏やかじゃないですね。」
一見、他人事のように応じるが、内心は冷や汗だ。旧体制の貴族が俺を疑い始めているのかもしれない。とりわけ、俺を追放した兄アレクシスが裏で動いているのは想像に難くない。あいつなら、俺が少しでも台頭してくる気配を見せれば、面白がるより先に排除しようとするだろう。
「さて、どうするかな」
朝の薄暗い市場を見回す。いつもの活気がどこか陰をひそめ、値段をめぐる会話もぎこちない。人々は何らかの緊迫感を感じているようだ。もちろん、みんながみんな俺を疑っているわけじゃない。ただ、貴族や騎士が市場を監視しているのは事実で、そのせいで商人たちが萎縮している面もある。
「よし、こんな時こそ冷静に考えよう。まずは情報だ」
そう思って歩き出そうとしたとき、背後から不意に声がかかる。
「お兄さん、少し時間いい?」
低くはないが、どことなくしゃがれた男の声がする。振り向けば、年配の商人らしき人物が露店の隅に立っている。髭の色は白く混じり、背はあまり高くないが、眼光に鋭さがある。
「何か御用ですか?」
そっと距離を保ちつつ尋ねると、彼は苦笑いしながら近づいてくる。
「いや、怪しい者じゃない。ただ、お前さんが最近市場で評判になってる若者じゃないかと思ってな」
「評判? いい噂じゃないでしょうけど」
「それは人によるさ。悪く言う奴もいれば期待してる奴もいる。俺はただ、力を持つ若者に警告したいだけだ。……力には必ず責任が伴うって、昔から決まってるだろう?」
まるで俺の頭を見透かすような言い回しだ。戸惑いつつも、心には引っかかるものがある。力を持った以上、その使い方を誤れば大勢を巻き込む危険がある――誰かに言われなくてもわかっているはずが、最近の自分は浮かれていたかもしれない。
「わかってます。気をつけますよ」
歯切れ悪くそう答えると、老人はちらりと市場を見回す。
「ならいいんだ。だが、覚えておいてくれ。ここにいる商人も客も、一人ひとり生活がある。儲け話に浮かれていると、いつか大事なものを失うかもしれない。……若い奴はすぐに飛びすぎるからな」
そう言って、彼は苦い顔で笑い、くるりと背を向けて人混みに消えていく。
どこか達観した雰囲気が残像のように漂い、俺はしばらく言葉が出ない。
「力を使って金を生む。それに目がくらんで、本当に大切なものを見失う……か」
ぼんやりと呟き、少しだけ胸が痛む。そもそも俺はなぜ、こんなに金にこだわっているのか。
貴族の家で肩身が狭かった反動か、それとも父と兄に対する恨みか。自分でもよくわからない。けれど“経済操作”に魅了され、稼ぐ快感と「俺にも才能がある」という証明欲求に駆り立てられているのは確かだ。
◇
そんなモヤモヤを抱えながら、午前中はいつものようにいくつかの露店で価格変動の実験を試みる。とはいえ、監視の目が厳しい状況で派手な操作はリスクが高い。できるだけ自然な範囲で小さくやるしかない。
市場を慎重に行き来していると、どこからか怒鳴り声が聞こえてくる。反射的にそちらを振り向くと、大柄な男が店先で店主ともめているようだ。喧嘩かと思い近づいてみると、その大柄な男は何やら「お前のせいで値段が暴落して大損だ」と怒鳴っている。
「これは……まさか、俺の操作がどこかで影響してるのか?」
嫌な予感がして、聞き耳を立てる。どうやら彼は隣の商人との価格競争に負けて損失を被ったらしい。そこにタイミング悪く謎の値動きが重なって、客に買い叩かれたとのことだ。店主は「そんなこと知るか」と突っぱねているが、しきりに「おかしい…こんな値段は理屈に合わない」とぼやいている。
「理屈に合わない価格操作……明らかに俺のせいだろうな」
罪悪感が湧く反面、何とか自分を正当化したくなる気持ちもある。俺が直接この店を狙ったわけじゃない。あくまで小さい範囲で試行錯誤をしていただけで、そこにどんな波及が起こるかまでは計算しきれていない。
そのまま視線を外そうとすると、不意に背後に冷たい気配を感じる。振り向けば、どこかで見覚えのある紋章が入った服を着た男が立っている。おそらく貴族の使用人か下働きのような風貌だ。俺と目が合うと、意味ありげに笑う。
「へえ。あなたが、いま噂の『追放貴族』ですか」
決して大声ではないが、挑発的な響きがある。どうせなら無視して立ち去りたいが、すでに目が合った以上、逃げるのもみっともない。
「そうですけど、それが何か?」
「いえいえ、ちょっとあなたに興味がありましてね。最近、いろいろと商売の邪魔をしているようで、うちのご主人も困っておられるんですよ」
「ご主人って…どなたのことです?」
「さあ、どうでしょうね。昔からあなたをご存じの方かもしれません。」
苦々しい笑顔を浮かべて、男は嘘臭く頭を下げる。多分、これは兄アレクシスの差し金か、あるいは旧体制の貴族たちの誰かが俺を“調査”しているのだろう。
「あまり派手に動くと痛い目に遭う。そう伝えておきます。では、失礼」
男は押しつけがましくそう言い残し、人混みに紛れる。まるで闇夜に溶ける亡霊のように消えていく姿に、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
くそっ、わざわざこんな形で牽制してくるなんて、やっぱり兄が裏で動いている可能性が高い。
兄はうわべは善良な人間を装い、裏で容赦なく相手を潰す男だ。俺がこれ以上目立てば、本気で始末されかねない。
◇
昼過ぎ。市場であまり大きく動けない俺は、結局いつものように露店の隅で少しだけ金を動かす程度にとどめる。そして、少し重くなった財布を抱えて裏路地を歩くが、胸の奥は晴れない。朝からずっと感じている不安がじわじわ増してきて、頭が痛い。
「今のやり方って、本当に正しいのか? 俺がこの先も力を使い続けるなら、相応の覚悟が要るんじゃないか。」
なぜか老人の忠告や、謎の男の警告が頭を離れない。兄の陰謀だけじゃない。もしかすると俺が市場を混乱に陥れている“悪”として、他の貴族や王族からも敵視される日が近いかもしれない。
その足で宿に戻ろうかとも思ったが、なんとなく気持ちがおさまらず、半ば彷徨うように路地裏を進む。すると、薄暗い角を曲がった先で、エリザベートと鉢合わせになる。王族の身分なのに、なぜこんな場所に? 彼女は薄いローブを被り、護衛らしき者と一緒に立っていた。こちらに気づくと、少し驚いた顔をする。
「あなた、こんな場所で何してるの?」
「いや、こっちの台詞だ。王女様が路地裏なんて、危なくないか?」
ちょっと皮肉っぽく言い放つが、エリザベートは薄く微笑みながら、護衛に「少し離れていて」と合図を出す。護衛は渋い顔をするものの、一定の距離をとって待機するようだ。
「ごめんなさい。あなたときちんと話をしたいって思ってたの。でも市場には人目が多いから、こういう場所を選ぶしかなくて」
「ふうん。王族ともあろうお方が、俺なんかと二人きりで話してるの、バレたらどうなるのやら」
軽口を叩いても、内心はざわつく。彼女がこんな行動に出るなんて、よほど俺の動向が気になるのだろうか。エリザベートは真摯な瞳でこちらを見つめ、静かに切り出す。
「市場での噂、私の耳にも入ってるわ。あなたが価格を操っているかもしれないって話。真偽はわからないけれど、昔からあなたは頭が切れる人だった。私はそれを誰よりも知ってる」
「……そうかもな。だけど今さら俺に期待されても困るよ。俺はもう貴族社会から追放された身だ」
自嘲気味に言うと、エリザベートは少し悲しそうに目を伏せる。そして意を決したように口を開く。
「でも、あなたが今、どんなふうに力を使おうとしてるのか…気になるの。もし本当に経済を動かす力があるなら、旧体制を打ち壊すこともできるかもしれない。あるいは、さらに混乱を広げるかもしれない。……あなたはどっちを望んでいるの?」
まっすぐな問いかけだ。俺は返事に詰まる。実を言えば、復讐したいような気持ちもあるし、それを面倒に感じる自分もいる。さらには市場を支配して大金を得たい欲望もある。でも、だからといって無謀な破壊者になりたいわけじゃない。
「正直、俺自身まだ整理がつかない。追放された恨みは消えてないし、力を使うほど俺の評判は悪くなる。どうやって折り合いをつけたらいいか……」
不覚にも弱音がこぼれかける。するとエリザベートは小さく頷く。
「なら、もっと自分と向き合えばいいと思う。あなたが本当に何を求めているのか――昔から、あなたはすぐに遠慮して本音を隠してきた。でも、今は遠慮してる場合じゃないでしょ?」
「……そうだな」
頷いた瞬間、自分の胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。昔、婚約者だったとき、彼女には何度か「もっと自分を信じて」と言われた記憶がある。あの頃の俺は、自分が無能だと思い込んでいたせいで、その言葉を真剣に受け止められなかった。
エリザベートは小さく微笑み、「あなたならできるわ」と短く告げて、護衛を伴って去っていく。
周囲に人気はないが、もし誰かがこれを見ていたら不思議に思うだろう。
追放された男と王女が、路地裏で何をしているのか、と。
◇
夕暮れ時、俺は結局市場に戻らず、人通りの少ない場所で一人になって考え込む。経済操作の力は確かに魅力的だ。だが、それを使う以上、兄アレクシスや旧体制の貴族たちとの衝突は避けられない。もしかすると、街全体が混乱に陥り、多くの庶民に被害を及ぼすかもしれない。それは本意じゃない。
「そもそも俺はどうしたい? 復讐がしたいのか? 金が欲しいのか? 認められたいのか? ……全部かもしれないし、どれでもない気もする」
自嘲しながら、頭を抱える。そんなとき、古い記憶がふっと蘇る。幼いころ、俺は父や兄に罵倒されながらも、母だけはこっそり「自分を信じなさい」と励ましてくれた。母は病弱で、あまり長くは生きられなかったけれど、そのときの優しい声はまだ鮮明に耳に残っている。
――君ならできる。大丈夫。
そんな母の言葉に救われていたはずなのに、成長するにつれて諦めのほうが大きくなり、いつからか「自分は無能だ」と思い込むようになった。だけど今、俺の手にはこの不思議な力がある。無能どころか、世界をひっくり返せるかもしれない最強の武器だ。
「母さん……もしあんたが今の俺を見たら、どう思うかな」
自問すると、胸がきゅっと締めつけられる。罪悪感もあるし、かすかな誇りもある。俺は母の遺言をまともに信じきれなかった。でも、いまなら遅くはないはずだ。
◇
結局、すっかり夜の帳が下りてから宿に戻り、部屋のベッドに腰掛ける。窓の外は街灯がぼんやり灯り、人気のない路地が闇に沈んでいる。さっきから頭が重く、かれこれ何時間も頭の中で答えの出ない問いを巡らせている。
「やれやれ、悩むなんて性に合わないのにな」
しかし、エリザベートの言うとおり、今はもう遠慮している場合じゃない。俺が力を持った以上、必ず自分の本音と向き合うべきだ。過去に受けた仕打ちに対して、少しは仕返しをしたい。それを否定するつもりはない。けれど、破壊的な復讐に走りたいわけでもない。もし、俺が世の中を変えることができるなら、どうせなら面白い方向に変えてみたい。
――そうだ、金がすべてを支配するこの世界を、もっと自由にしてやればいいんじゃないか。貴族の家柄がどうのこうのと威張り散らす時代は、もう終わらせてもいいのかもしれない。
ぼんやりそんな考えが浮かんでくると、なんとなく気持ちが軽くなる。俺は、ただ無意味に貴族を滅ぼすんじゃない。誰もが豊かになれる可能性を提示する――そのために、経済操作を使えばいい。まあ、その途上で兄や貴族どもと衝突するなら、それは避けられない戦いだろう。
「この力は責任も伴う。でも、逃げても何も始まらない」
自分なりに覚悟を固めながら、ベッドに倒れこむ。頭の中には今日のやり取りが映像のように浮かぶ。
市場で怒り狂っていた大柄な男、牽制してきた謎の使用人、俺に警告を与えた老人、路地裏で励ましてくれたエリザベート――すべてが一日で起こった出来事だ。いつかこの街全体が俺の力を恐れたり、あるいは期待したりするようになるかもしれない。ならば俺は、その声に応えられるだけの強さと冷静さを持たなくてはならない。
「力には責任が伴う。けど、だからこそ使いこなす価値がある」
小さく呟き、拳を握りしめる。幼いころの無念は、もう過去のことだ。それを乗り越えられれば、俺は本当の意味で強くなれるのかもしれない。兄アレクシスと向き合う日が来るなら、そのときは笑って堂々と勝負してやればいい。
部屋の外では、誰かの足音がかすかに響く。宿の主人が廊下を歩いているのだろう。そんな生活音すらも今はありがたく思える。うだうだ悩むほど、俺の人生にはまだ余地がある。追放された時には絶望しか見えなかったけれど、こうして試行錯誤を続けるうちに、未来が少しずつ色づいてきた。
「よし……明日はまた市場に出て、ちゃんと状況を見極めよう。とことん勉強して、この力をどう使うか考えるんだ」
そう心に決めると、幾分肩の力が抜け、疲れがどっと押し寄せる。短いあいだでも熟睡できそうだ。
もう逃げない――自分の心の闇とも向き合う。復讐の衝動も、救済の願いも、自分の中にあるいろいろな感情を否定するのではなく、しっかり抱えて一歩進む。
目を閉じれば、ほんのわずかに母の声が聞こえた気がする。幼いころに聞いた、やさしい囁き。
「大丈夫、あなたならできるわ。」
その思い出にそっと助けられながら、俺は深い闇へと落ちていく。半分眠りに入る意識の中で、心の整理はまだ終わらない。けれど、大切な一歩を踏み出せたような気がしている。
――この力をどう使うのか。その答えは、俺自身の生き方にかかっている。
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