第2章
朝の陽射しが街角を照らし始めるころ、俺は宿のベッドから起き上がる。
昨夜は興奮のあまりなかなか眠れず、ほとんど仮眠程度だった。だけど、今は妙に清々しい気分だ。鏡に映る顔はやや寝不足のくせに、目は輝いていると思う。やっぱり、あの不可思議な“価格を操る感覚”を体験してから、何かが変わった気がする。
部屋の隅で背伸びをしたあと、軽く髪を整えて宿を出ると、さっそく市場に向かう足が弾んでいる。
「今日も盛況だな~」
広場に入り込むと、活気のある声が左右から飛び交い、露店の布が鮮やかに翻っている。昨日の雨はすっかり上がり、空には薄い雲がちらほら浮かぶだけだ。朝の陽射しが通りを斜めに照らし、店先の果物や野菜がやけに美味しそうに見える。
行き交う人々が立ち止まり、値段を交渉する姿を眺めるだけでわくわくする。まるで自分もこの市場の一部になったような気分になるから不思議だ。
「さて、俺のスキル…いや、経済操作が本当に通用するのか、もう少し大きな規模で試してみるか」
一人ごちてから、まずは昨日と同じように小さな屋台に目を向ける。リンゴを売るあの店主は早速開店しているらしく、にこやかな表情で客を呼び寄せている。昨日の売り上げが上々だったからだろう。隣の屋台には違う果物や干し肉など、さまざまな商品が並んでいる。
俺は顎に手を当て、周囲の値札と客の様子を軽く観察する。仕入れ価格と売値のギャップ、客の購買意欲、商品の鮮度と陳列位置…頭の中でいろいろな要素が自然と混ざり合い、それをなんとなく“動かせそう”な感覚がこみ上げる。
「ふむ、昨日は勢いでやってみたけど、やっぱりそれなりに理屈はあるよな……」
商品が売れ残っている店ほど微妙に値段を下げれば客が飛びつくし、同じカテゴリーの商品を売る店が並んでいれば、一方を下げてもう一方を上げることで客の流れを誘導できるかもしれない。そんな仮説がぽんぽん浮かんできて、指先が少しだけ熱くなる。
ただ、昨日みたいに無闇にやってしまうと混乱を大きくするだけだ。店主や客には突然の値動きの理由がわからないから、下手をすれば「何か怪しい」と疑われる可能性もある。
「うーん、でもやらなきゃ始まらない。さて、どう仕掛けるか……」
思わずにやりとする。盗み聞きするわけじゃないが、店主と客のやり取りが耳に入ってくる。
「値段が高い」「品質がいまいち」「もう少し負けてくれ」そんな文句が飛び交うのは市場の風景だ。
俺は少し離れた位置から、あえて大きめの商家が出している露店を狙う。そちらのほうが周囲への影響力が高いから、効果的に検証できそうだ。
「すみません、ちょっと見せてもらっていいですか?」
客を装って品物を手に取りながら、店員と軽く会話を始める。どうやらこの店は野菜やパンなどの食料品を扱っていて、一括仕入れで値段をやや強気に設定している様子。
「毎度どうぞ。新鮮ですよ。今朝納品されたばかりですからね」
店員が自信満々に言うものの、近くのお客さんは値段を見て敬遠しているようにも見える。これはチャンスかもしれない。
「へえ、確かに良さそうだけど、ちょっと高いかもな」
そうつぶやきつつ、俺は心の中で集中する。価格がほんの少しだけ下がれば客は買う。それを客観的にイメージして、指先に意識を集めるような感覚を持つ。
微妙に視界が揺れ、店先の値札に焦点が合う。すると、表記はそのままなのに、売り手と買い手の心理が変化していく気配がある。
「……うん、まあその値段でも妥当かな。買っていこうかな」
あれだけ渋い顔をしていたお客さんが、あっさり財布から銀貨を出して購入していく。店員のほうも「少し高めだけどいいだろう」という雰囲気で、堂々と金を受け取る。この瞬間、ほんの少しだけ、商品が“妥当な値段”に感じられたのかもしれない。
「お客さんも、よかったらどうです? そろそろ数が減ってきますよ」
店員が俺に声をかける。周囲を見回すと、数人の客が同じように前に進んできているところだ。値札は変わっていないが、客の購買意欲は高まっている。こうやって自然に“需要”を刺激できるのは面白い。
「ああ……そうだな。じゃあパンを少し買わせてもらうよ」
ここで俺も何も買わないと不審がられるので、あえて小さなパンを二つばかり購入する。ほんの些細な金だけれど、これで店員とのやりとりは自然になる。
店員は俺を普通の客だと思っているらしく、まったく疑う様子がない。俺は背中を向けるときに一瞬だけ指先を見つめて、小さく息を吐く。さすがに毎回、多少の集中力を要するらしく、少し疲れる感覚がある。
「ふう、これが経済操作か。商品そのものをいじってるわけじゃないのに、売買の流れを変えられるなんて、とんでもないチートだよな……」
心の中でつぶやきながら、パンを頬張る。外はパリッとしていて香ばしく、中は柔らかい。なかなか美味い。
少し歩いた先で、他の露店でも似たようなことを試してみる。今度は値上げ方向。客がある程度購入意欲を持っている商品なら、値札をちょっと上げても売れるかどうか。すると、意外に客が納得して買っていくことがある。一方で、あまりに上げすぎると即座に拒否される。その境界線がどこにあるのか、少しずつ掴んでいくのはやりがいがある。
そうして市場の一角を歩き回っているうちに、エリザベートの姿をちらりと見かける。彼女は昨日よりも念入りな護衛に囲まれているようで、目立つローブを羽織り、周囲を観察している。
すぐに彼女と目が合うが、互いに言葉は交わさない。
ただ、ちらっと目礼だけする。彼女の瞳に宿る静かな光は、まるで「あなたならやれるでしょう?」と呟いているかのようにも見える。
「王女様が市場視察か……。王族だからって侮れないね。こうやって庶民の経済活動をチェックしているのかもしれない」
少し背筋が伸びる思いだ。俺が追放された身である以上、今は深く関わるのはリスクが高い気もする。でも、どこかでまた言葉を交わす機会があるかもしれない。
そのまま別の大通りに移り、俺はさらに市場全体を見渡す。昨日も感じたことだけど、この場所は本当に“生き物”みたいだ。常に値段が変動し、人々の思惑がぶつかり合って、結果として一つの“相場”が形成される。
俺はその相場を小さく揺さぶりながら、どこまで行けるか試そうとしている。そして今のところ、小さな成功を積み重ねている感じだ。けれど失敗もある。値段をうかつに吊り上げすぎて怒られたり、店主から「何か文句があるのか」と突っかかられたり、予想外の方向に混乱が広がったりもした。
「ふう、やっぱり難しいな。理屈じゃなくて人の感情が揺れ動くから余計に手加減が大事だ。まるで綱渡りしてるみたいだよ」
一息つこうと、市場の端にある小さな屋台でスープをすすりながら、頭の中で勝敗を振り返る。成功するときは見事にハマるが、失敗すると周囲の反応が読めずカウンターを食らう。あれこれ考えるほど、この力のすさまじさと危険性が身にしみる。
そうしていると、ふと隣に立つ人影が視界の端に映る。
さっき横目で見た大商会の令嬢――カティアだ。
いつの間にか隣でスープを頼んでいて、俺に声をかける気配もなく静かに待っている。
「あ…どうも、こんにちは、ですかね」
何となく先に声を出すと、カティアはクールな横顔をこちらに向ける。そして小さく笑みを浮かべるでもなく、淡々とした調子で言葉を返す。
「ごきげんよう、レオンさん。ずいぶんと市場の観察に熱心ですね」
「まあ、いま俺にできることは限られてますから。追放された身だし、変な噂でも聞きました?」
そう尋ねると、彼女はメモ帳をめくりながら言う。
「噂かどうかは別として……最近、市場の価格変動が妙に読みにくいんですよ。一時的に値上がりしたり、突然値下がりしたり。商会としては誤差と呼ぶには大きすぎて、ちょっと気になっていて」
「へえ、そうなんですか」
ひやひやしながらも、無理に取り繕わない。下手に否定すると怪しまれる気がするし、カティアがここで問いただしてくるということは、何か勘づいているのかもしれない。
「あなた、急に追放されたあとに市場をうろついているそうですね。あと、昨日や今日にかけていくつかの露店で不可解な値動きが報告されている。まさか……とは思いますけど」
そう言って、カティアはまるで興味深い実験を観察するような目でこちらを見つめる。
俺は心臓が少しだけ跳ねるが、あえて平然を装う。
「俺はただ、自分なりに手探りしてるだけです。商才がないって言われて追い出された身だから、どうにかして金を作らないと生きていけないしね」
「ふうん。ならばその“手探り”がどこに行き着くか楽しみですね」
口調は刺々しくないが、鋭い洞察を感じる。
彼女はそのままスープを受け取ると、礼を言ってクイッと飲む。スープの湯気の向こうで、少しだけ微笑んだようにも見えた。
「あなたの動向は気になるけど、今のところ私から何か言うことはありません。お互いに利益を損なわない範囲でなら、いい勉強相手になりそうですし。もしも私の商会に支障が出るようなら、そのときは覚悟しておいてくださいね」
彼女はそう言い残して踵を返す。俺が返事をする間もなく、すたすたと人波に紛れていってしまった。
「……商売人って怖いな」
苦笑いしながらスープを飲み干す。だけど同時に、彼女が真面目に俺の存在を認識したと考えると、なぜか少しだけ嬉しくもある。
実際、正体不明の経済操作なんて代物を使っているのだから、疑われるのは仕方ないし、結果として注目されるのは悪くないかもしれない。
◇
夕方に近づく頃、俺はそれなりの成果を得た。市場の数か所で価格操作を試し、上手くいった取引から少しだけ利益を得たのだ。といっても、莫大な儲けではない。ただ、今日明日を生き延びるには十分な量の金貨と銀貨が手に入った。
「昨日よりは手応えがあるけど、リスクも見えてきた。調子に乗りすぎると危険だし、どこかで仕組みを確立しないと……」
そんなことを考えながら、夕暮れの市場を眺める。少し前まで、ここの光景はただ“賑わっている場”にしか見えなかった。
でも今は違う。ここは俺にとって、実践の場であり、未来を切り開く可能性に満ちた場所だ。
「何度も失敗しながら、精度を上げるしかないな。いつか必ず大きな勝負に出るときが来るはずだ」
ポツリと呟いたとき、不意に背後で誰かが笑う声がした。振り向くと、フードをかぶった人影がニヤニヤしている。
「ねえ、アンタ面白そうなことやってるじゃない。私も混ぜてくれない?」
声の主は見たところ若い女性。軽やかな身のこなしで俺の周りをぐるりと回りながら、フードの奥からひょうきんな笑みを向ける。俺は面食らって警戒する。
「あんた誰だ? こんな薄暗いとこでナンパなら他を当たってくれ」
そう言うと、彼女はケラケラと笑ってフードを少しだけ下げる。ちらりと見える瞳はいたずらっぽい輝きを宿している。
「ナンパ? そう見えた? ふふ、そうじゃなくて、単に“面白い金儲けの匂い”がしたから声をかけただけよ」
からかうような口調で言いながら、彼女はゆっくりと後ずさる。
「……まあ、いきなり変な人から声をかけられたら警戒するわよね。今は詳しく言わないけど、いずれまた会おう。フィオナって名前だけ覚えておいて」
そう言い残すと、人混みの向こうにスッと消えていく。その一瞬の身のこなしはまるで泥棒猫みたいだ。思わず唖然としてしまったが、何者なんだろうか。
「なんだありゃ……。まあ、今は気にしてもしょうがないか。」
俺は気を取り直して市場の外れへ向かう。辺りは夕焼けに染まり、人通りが少しずつ減ってきている。今日のうちに宿をどうするか決めておきたい。昨夜と同じ宿に泊まるのもいいが、少しグレードの高い場所に移るのもありかもしれない。
財布の重みが昨日とは段違いだ。これほど順調に金を稼げるのは初めてで、正直怖いくらいだが、腹は決めている。俺はもう後ろを振り返って嘆くより、前に進むほうが性分に合っている。
「さてと、そろそろ引き上げるか。小さな勝ちを重ねて、大きな一歩に繋げるんだ」
そう言い聞かせながら、雑踏を抜ける。空には赤い雲が漂い、まるでこれから夜に向かうドラマを予感させるような深い色合いだ。
◇
少しだけ良さそうな宿を見繕い、部屋に荷を下ろす。部屋の窓からは市街地の大通りが見渡せて、夕暮れから夜への移ろいを感じられる。
「こんな部屋に泊まれるなんてな。昨日までは薄暗い床で寝転がってたのに」
思わず、くすりと笑いがこぼれる。もちろん豪華な場所とは言えないが、雨漏りの心配もなければ、タオルも清潔そうだ。
ベッドの縁に腰掛け、少し休んでから机に向かう。そこには宿の備品らしい紙とペンが用意されている。こういう場所なら書類まがいのものを作っていても不自然じゃない。
「まずは今日の成功例と失敗例を書き出してみよう」
何事も可視化が大事だ。俺は思い立ったらすぐに動くタイプだし、今は頭の中に情報が多すぎる。紙にまとめることで新しい発見があるかもしれない。
“価格を下げすぎると客層は広がるが利益率が下がる” “商品ごとの需要の偏りを見極めると効率アップ” …こんなふうに書いていくと、まるで現代の経済レポートみたいで自分でも笑ってしまう。でも同時に、これが俺の武器になり得るのだと実感する。
「あとは、あのカティアって令嬢が言ってた市場の“異常変動”。これは当然、俺の仕業が絡んでる部分もあるんだろうな。下手に揉めたくないけど、いずれどこかで協力関係になることも…あるかもしれない。相手は大商会のキーを握る人だし」
ぼやきながらペンを走らせる。そのうちあの王女――エリザベートの姿も思い出される。彼女はまるで、俺がこうやって活躍するのを待っているような雰囲気だった。
気づけば、頭の中にはいろいろな人物が浮かんでくる。
かつての家族、兄、そして新たに出会った商会や妙なフードの女性…何か大きな動きに巻き込まれていく予感がする。
追放された俺には選択の余地などないと思っていたが、実は“自分から選び取る”道がたくさんあるのかもしれない。
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