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第1章


 ごく普通の人生――と、言い切れたらどれだけ楽だっただろう。


 父と兄が待ち受ける客間に足を踏み入れた瞬間、そんな思いが頭の片隅をよぎる。豪奢なシャンデリアが燦然と光を放つ大広間は、いつ見ても冷たく、俺を歓迎していない。毎度のことだけれど、今夜の空気には尋常じゃない圧迫感がある。胸がほんのりと重い。


「レオン、遅かったな」

 兄のアレクシスが上品ぶった笑みを浮かべながら、俺を見下ろすように言う。やけに張りついた笑顔が不自然だ。テーブルの向こうでは父が腕を組んだまま沈黙していて、目は明らかに俺を睨んでいる。

 ふと、胸の奥がかすかに痛む。こんな雰囲気はもう何度目だろう。小さい頃から、いつも俺は部外者扱いだ。相続やら家名やらが絡む貴族の家で、出来の悪い次男は居場所を確保するのに苦労する。


「急に呼び出すなんて、どういう用件ですか。さっさと済ませてくれませんか」

  わざと気軽な口調を装う。自分がこの場で萎縮したら、思う壺だとわかってる。けれど、兄はそんな俺の強がりなど歯牙にもかけない様子で、まるで獲物を前にした肉食獣のように唇を歪める。


「用件は単純だ。父上、言ってやってくださいよ。」

 兄の声に促され、父がゆっくりと椅子を鳴らす。いつの間にか周囲の使用人たちがスッと下がり、部屋は俺たち三人だけになっている。その静寂が恐ろしく嫌な予感を煽る。


「レオン、お前には才能がない。今まで見守ってきたが、もう限界だ。今日限りで家を出て行け」」

  父の低く、重みのある声が室内に響く。

 頭の中で“才能がない”という言葉がぐるぐると反響し、咄嗟に笑うしかなくなる。


「才能がない、ね……。さすがに手厳しいですね」

  笑ってみても、胸の奥では何かが砕けるように痛い。わかりきったことでも、面と向かって父から言われると堪える。


「俺が無能だなんて、どこで判断したんです? 兄上のほうが、よっぽど凡庸な――」

  言いかけた言葉が途切れる。兄のアレクシスがひどく嫌な笑みを浮かべたまま、テーブルに肘をついている。むしろ“しめしめ”とでも言いたげだ。


「父上は賢明な判断をなさっただけだよ、レオン。家を守るには、使えない人間を置いておく余裕などないからな」

「はあ、なるほど。兄上が父を説得したんですか」


 俺の声は想像以上に冷たい。横目で見れば父は微動だにせず、まるでこの追放宣言が確定事項であるかのように黙り込んでいる。兄は勝ち誇った表情で、わざとらしく肩をすくめる。


「お前が役に立たないのは事実だからな。お情けで生かされてきた身分をわきまえろ。出て行け、そして二度と戻ってくるな」

「……言われなくても、そんな家こっちから願い下げですよ」


 そう呟いたものの、胸がじわりと熱くなる。悔しさなのか怒りなのか、それとも虚しさなのか、自分でもわからない。いずれにせよ、ここにいても仕方ない。


 ばちん、と扉を乱暴に開け放ち、俺はそのまま屋敷を飛び出す。いつか認めさせてやるとか、もう一度ここに戻ってきて見返してやるとか、そんな言葉さえ頭に浮かばない。

 ――とにかく一刻も早く、この場所から出たい。それだけが心を支配している。


 外に出ると、夜の闇が濃い。空が泣いているのか、冷たい雨が遠慮なく頬を打ってくる。足元の敷石が不安定で、うっかり滑りそうになるたびに嫌な気分が増幅する。通りのガス灯がぼんやり揺れ、雨のせいで視界は最悪だ。


「追い出すなら、もうちょっと天気のいい日にしてくれればいいのに」


  誰に向けるでもない文句を呟きながら、ずぶ濡れになった身体を震わせる。懐を探ってみても金貨はほとんど入っていない。せいぜい当面の生活費にすらならない程度だ。


「やれやれ。これが無能の烙印ってやつか」


  皮肉をこめて笑う。思えばずっと肩身が狭かった。貴族の二男として生まれたのに、期待に応えられず、何かと比較され、罵倒され。自分には商才などないと信じ込んでいた。でも、こうして家を追われると、逆に妙な解放感もある。


「才能がない? 本当にそうなのかな」


 小声で自問していると、雨に濡れた背中が急に寒くなる。まさか俺が“本当に”まったく何もできないとは思えない。でもそれを証明する場を奪われた今、どうしようもない。


 夜の路地裏をさまよい、やがて安宿らしき古びた建物を見つける。やけに重い扉を開けると、薄暗いカウンターの奥から番頭らしきおじさんが顔を上げる。


「部屋、ありますか?」

「一泊だけならな。雨宿りかい? ずいぶんずぶ濡れだな、兄ちゃん。」

「ちょっと色々あってね。金が足りるかどうか……。」


 財布を見せると、おじさんは苦笑しながら宿代をまけてくれた。おかげで何とか布団のある部屋にたどり着く。湿った毛布は薄っぺらいし、雨漏りのしずくが天井から落ちてくるけれど、それでも屋根があるだけマシだ。


「追放、ね。父も兄も大袈裟なんだよな。でも今さら泣いてすがるのは性に合わない。…俺はどうすればいいんだろう」


 ぼそっと呟き、せめて身体を拭こうと湿ったタオルに手を伸ばす。うまく眠れそうにはない。


 ――それでも、心の奥底に小さな火種のような思いがある。こんな形で終わってたまるか。俺は、何かできるはずだ。そんなぼんやりとした予感を感じながら、いつの間にか意識が遠のいている。



 翌朝。相変わらず天気はどんより曇り空だけれど、どうにか雨は上がっている。俺は宿を出て、街の中央にある大きな市場へと向かう。こんなとき、まず行くべき場所は人が多いところだという直感がある。

活気ある掛け声、露店の色とりどりの商品、調味料や魚や果物が混ざったような独特の匂い。ここは人々の生活が濃縮された場所だ。荒い言葉で値切り交渉している客や、どっしりと構えた店主たちのやり取りがあちこちで飛び交っている。


「なるほど、やっぱり経済の中心だよな。こういう場所を眺めていると、金の流れが見えるって言うか……」


  呟いてみるものの、具体的にどうするかは決めていない。ただ、ここで「何か」を掴めそうな気がする。

 ぼんやり歩いていると、果物を売る小さな屋台の前で足が止まる。色鮮やかなリンゴや梨が山積みになっているが、周りの店と比べると値札がやや高めらしい。店主は苦い顔で客を呼び込んでいるものの、どうにも売れ行きが悪いようだ。


「おっちゃん、そのリンゴ。ちょっと高いね。」

「しょうがないんだよ、最近の仕入れは値上がりが続いててな。儲けはギリギリだ。」

「へえ……。」


 相場がどうとか仕入れがどうとか、父と兄がしょっちゅう話していたけど、実際に目の前で見るのは新鮮だ。見よう見まねで商品を眺めるうちに、頭が勝手に何かを計算している気がする。

 いや、計算というほど意識的じゃない。感覚的に「この価格をもう少し下げたら売れそうだな」とか「ちょっとだけ値段を上下できたら利益率が変わるのに」などと思う。すると、不意に指先がピリッとする。


「……ん? 何だ、これ」

  まるで電流が走ったみたいに手が震え、視界が一瞬歪む。すると、店先の値札がかすかに揺らぐように見えた。いや、見えただけじゃなくて――


「リンゴ、一個いくらだった? さっきまで三枚の銀貨って言ってなかったか?」

 隣にいたおばさん客が、店主に声をかけている。店主も困惑した顔で値札を見直している。


「おかしいな。三枚のはずだったが、なぜか二枚でいいような気が……いや、そうだったか?」

  店主も混乱しながら、急に「ま、いっか」と言わんばかりにリンゴを二枚の銀貨で売り出す。客は得した気分で次々とリンゴを買い始め、その瞬間から商品がさっさと捌けていく。

 俺はぽかんと口を開け、何が起きたのか理解できないまま手のひらを見つめる。ほんの少し意識を込めたら、価格が下がった? いや、気のせいかもしれない。けれど、ここで偶然と片づけるには現象があからさますぎる。


「嘘だろ。俺がそんな……」


  頭の中で父が放った「才能がない」という言葉がリフレインする。いや、今のは単なる思い込み。そう考えて撤退しかけたとき、店主がにこやかに俺を見て声をかける。


「へへっ、なんだか知らないけどおかげで助かったよ。今朝まで売れ残ってたリンゴが、あっという間に捌けてくれた」

「そう、よかったね。…もし、その値段をもう少しだけ上げたらどうなるかな」


 試しにそう言ってみる。すると、店主が「いや、さすがにもう上がらない」と苦笑いしつつも、値札を書き直す仕草をする。俺はほんの少し意識を集中させる。

 すると、またもや指先がピリッと震え、店主が「三枚半」と呟いた瞬間、客が「そんな高いの買うかい!」と怒って帰るのが見える。でも、その直後に別の客が、なぜだか妙に納得顔で三枚半を支払ってリンゴを買っていく。店主も驚いているし、俺自身も何が何だか混乱する。


「こ、これは……俺が価格をいじってるのか?」


 まるで信じられないが、事実として目の前で起こっている。無意識に操作した“何か”が、経済の小さな動きを変えている。生まれて初めて感じる未知の手ごたえに、鼓動が速くなる。


「おもしろい。金が集まってくるのがわかる、ってこんな感じなのか?」


 周囲のざわめきが急に鮮明に耳に入ってきて、まるで世界が広がったように感じる。しばらく圧倒されたまま立ち尽くしていると、ふいに背後から誰かが俺に視線を向けている気配に気づく。



「……レオン?」


 聞き覚えのある声が、静かな風のように届く。

 振り返ると、そこにはエリザベートが立っている。王族の立ち姿と気品を兼ね備えた彼女は、淡い色のドレスに薄い外套を羽織り、大きな瞳を不安げに揺らしている。


「あなた、こんな所にいるなんて。どうしたの?」


 声をかけられても、俺はどう答えればいいか一瞬わからない。かつては婚約者だったはずなのに、家を追い出された今、俺たちの関係はどうなっているんだろう。エリザベートも複雑そうな表情だ。


「まあ、いろいろあって追い出されたんだ。あんまり詳しく話すこともないだろ」


 そう投げやりに答えてみるが、エリザベートは少し目を伏せて、「…そう」と切なげに呟く。


「でも、あなたならきっと自分の道を切り開ける。私は、そう信じてるわ」


 ……なぜに?

 その言葉に込められた感情をどう受け止めていいのか、正直迷う。彼女は王女としての誇りがあるし、俺にはもう何の肩書きもない。

 あのとき俺たちの婚約が破棄されたのも、才能がないからと思い込んでいた。でも、今感じている得体の知れない力が本物ならば、何か変われるのだろうか。


「ああ……ありがとな。でも、あんまり俺に期待しないほうがいいかもよ」


 精一杯の強がりを言うと、エリザベートはわずかに微笑む。それはどこか寂しげでもある。

 次の瞬間、背後から屋台の店主が声をかけてきたので、彼女の姿に意識を奪われた俺は振り向くことになる。

 再び目を戻すと、エリザベートは人混みに紛れて去っていった後だ。あれは何かを言いたかったのだろうか。



「よお坊ちゃん、その知り合いかい? すごい貴族風の嬢ちゃんだったが」


 店主がからかうように言う。俺は曖昧にごまかして、屋台を後にする。心の中に小さな渦が巻いているものの、今はそれよりも気になることがある。それは、さっき感じた「経済操作」とでも呼ぶべき力だ。



 昼近くになって市場をぶらついていると、別の大きめの商家が開いている店舗に目を留める。そこには、高そうなドレス姿の若い女性が立っていて、かなり鋭い眼差しで店員に指示を出しているようだ。

 長い栗色の髪をきっちりとまとめ、その横顔は凛として美しいが、どこか険がある。


「あれは……カティア、だったかな」


 大商会の令嬢として噂に聞いたことがあるが、こんなところで直接見るのは初めてだ。彼女は俺を視界に入れていないらしく、忙しそうに数字の書かれたメモに目を走らせている。

 どうもさっきからちらちら俺のほうを横目で見ているような気もするが、きっと気のせいだろう。こちらとしても、いま声をかける理由がない。


 それよりも、さきほどの自分の能力をどう試してみるかに意識が向いてしまう。市場の喧騒の中で、値札や商品の配置を観察していると、頭の中に複雑な数式めいたものが次々に浮かんでは消え、やがて何らかの法則めいたものが見えてくる。


「価格は、需要と供給のバランスで変わる。そこに人の心理が加わると……まるで生き物みたいに動くんだな」


 一人で納得していると、不意にカティアの視線がバチッとこちらに向いて、俺と目が合う。彼女はほんの一瞬だけ目をひらき、そのまま何事もなかったようにメモを取りながら店員に何か指示を出す。

 どうやら“あの追放された貴族の次男”が市場をうろついていると気づいている様子だが、話しかけてくるつもりはないらしい。


「勝ち気そうな人だな。まあ、今日のところはお互い野次馬ってとこか」


 俺は肩をすくめ、通りを先へ進む。

 腹が減ってきたが、財布の中にはわずかな銀貨。早く何とかして金を稼がないと宿にも泊まれなくなる。できれば夕方までに少しでも稼ぎたいが、ただの素人が簡単に金を作れるわけがない。

 ――普通なら、そうだ。

 けれど、俺にはさっき奇妙な力を目の当たりにしたばかりだ。それが本物なら、もしかして市場価格をコントロールして一瞬にして……。


「そんなうまい話があるわけ……あるかもしれない。んー、やってみるか」


 小声で自問自答していると、なんだか楽しくなってきた。

 俺は再びいくつかの露店を試し、ささやかに価格操作を試みる。店主と客のやり取りを観察し、ほんの少し意識を傾けると、値札がごく自然に動く。まるで風が吹けば桶屋が儲かる――その結果だけを意図的に操作する感じだ。


 一度うまくいけば、周りの人がどんな反応をするのかを確かめるのも容易い。

 客が戸惑いつつも買う場合もあれば、値段が急に変わって怒る場合もある。そこには多様なリアクションがあり、俺はその法則性を短時間で吸収しながら、どんどん要領を得ていく。


「面白い。やばいくらい楽しくなってきたな。俺、本当に金が操れるんじゃないか?」


 そう思った瞬間、胸がゾクッとする。もしこれが現実に通用する力なら、貴族や王族だって凌駕できる武器になるかもしれない。

 ――父と兄が俺を追放したことを、あいつらはそのうち悔やむんじゃないか? そんな青臭い復讐心が湧き上がる。でも、今はそれよりも「俺は稼げるかもしれない」「この世界でやっていけるかもしれない」という可能性が胸を熱くする。



 市場を後にして路地裏を歩く頃には、いつの間にか日が西に傾き、街の向こうから夕焼けが見える。地面には影が長く伸びて、ひんやりした風が頬をかすめる。

 雑然とした裏路地は、湿った生ゴミと香辛料の混じったような匂いが漂い、真新しい革靴が台無しになるレベルの汚れ方だ。それでも俺は足取りが軽い。今日一日で何度も価格操作を試し、小さく稼げる手応えをつかんだからだ。


「こんなところでこれだけ動かせるなら、もう少し規模を大きくして……いや、焦りは禁物か」


 あまりにも上手く行きすぎると、必ずどこかで落とし穴がある気もする。実際、力を使うときには不思議な疲労感があるし、周囲に不自然な混乱を与えすぎると目立ってしまう危険もある。

 それでも、追放されて落ち込むばかりだった俺の心は、急に光を見つけたようだ。意外と這い上がる気力はあるらしい。


 ふと、石畳の隅でうずくまっている人影が目に入る。もしかして宿がなくて困っている人かと思い、軽く声をかけようと近づく。しかし、その人影は俺に気づくとするりと逃げてしまう。


「なんだ、気のせいか」


 気を取り直して夕暮れに染まる裏路地を抜け、俺は今朝の安宿へ戻る。その途中、頭を巡るのは “価格を操る” という力のことばかりだ。あれは本当に本物なんだろうか? 

 王族や貴族が握っている権力よりも、はるかに強力なのでは?


「そうだな。金こそすべてを支配する。経済が世界を回すんだ」


 自然と口をついて出る言葉に、自分でハッとする。

 まるでずっと前からわかっていたような気すらするのだ。

 扉を開けて宿の薄暗い部屋に入ると、番頭のおじさんが「今日はよく働いたのか?」と声をかけてくる。


「まあな。少しだけど、朝よりは財布が膨らんでる。これで部屋をもう一泊頼みたい」


 そう言って小さな銀貨を手渡すと、おじさんは目を丸くしながら感心した様子で笑う。


「たいしたもんだよ。昨日の夜は憔悴しきってたけど、若いってのはすぐに立ち直れるんだな」

「……そう見える? 本人はあんまり変わった気がしないけど」


 実際のところ、心は大きく動いている。けれど表情はどうかわからない。とにかく疲れたので、部屋に戻って靴を脱ぎ捨てる。



 薄暗いランプを灯し、狭いベッドに腰掛ける。

 今日という一日は、追放のショックに始まり、謎の能力との出会いで終わった。良い日だったのか悪い日だったのか、まだ判断がつかない。ただ一つわかるのは、俺に新しい武器が備わったという確信だ。


「まさか、こんな俺に“経済操作”みたいなスキルがあったとは……」


 父と兄に蔑まれていた俺が、実は最強の切り札を持っていた――そう思うと笑えてくる。

 もっとも、力は使い方を誤れば自滅する。たとえば市場の値段を闇雲に上げ下げしまくったら、必ず誰かに目をつけられ、痛い目を見るだろう。そもそも、今日やったことだって、危うい橋を渡っているに違いない。それでも、あの屋敷にいたときの無力感に比べれば、全然ましだ。

 俺は戦える。そう思うだけで、胸が震えるような喜びを感じる。


 そして、ふとエリザベートの姿が脳裏に浮かぶ。複雑そうに俺を見つめていたけれど、あの眼差しにあったのは何だろう。哀れみ? それとも、どこか期待のようなもの?

 少なくとも、彼女は俺の前で完全に見下した態度はとっていなかった。昔の婚約者としての名残かもしれないし、ただの同情かもしれない。俺にはわからない。でも、また会うことがあるなら、あのときの彼女の表情の真意を確かめたい気もする。


「……考えても仕方ないか。今は自分の生き方を安定させるのが先決だな」


 ぼそっとつぶやき、ベッドに背中を預ける。

 窓の外では、いつの間にか夜の帳が下り始めている。街のあちこちから明かりがともり、どこか遠くで鐘の音が響いてくる。今日は朝から晩まで大きな変化があったせいで、疲労感は半端じゃない。


 でも、不思議と心は軽い。人生が暗転したつもりが、いつの間にか新しい可能性を手にしている。運命は意外と皮肉だけど、悪くない展開だと思う。


「金がすべてを支配する、か」


 ふいに自分が幼い頃、兄にこっそり聞かされた言葉を思い出す。あのときはピンとこなかったけど、いまはその意味が身にしみる。金の力でどうにでもなるこの世界なら、俺が復讐しようと思えばできるだろうし、逆に俺が支配することも可能かもしれない。


 ――まあ、復讐なんてかっこ悪いし、正直それほど執着もない。けれど、思い出すだけで胸をかきむしられるような悔しさがあるのは事実だ。父にも兄にも、ここにいないはずの使用人たちにも。みんな俺を見下していた。その無念は拭いきれない。


「でも、もう後ろばかり見ていても仕方ない。これから何をするかだ」


 自分に言い聞かせるように、しっかりと拳を握り込む。その瞬間、ぐうっと情けない音が腹の底から鳴る。そうだ、今日はまともに飯を食べていなかった。



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