第4章 雨季の終わり
雨季が終わりを告げようとしていた。スコールが和らぎ、空にはようやく青空が覗き始めている。雨に洗われた木々の緑は一層鮮やかで、どこか生命が息を吹き返したような空気が漂っていた。湿った土の匂いが鼻をくすぐり、時折鳥のさえずりが響く。だが、それでも湿度は高く、衣服が肌に張り付く不快感は消えない。
ヴィクターはベラドンナの採取という任務を果たし、前線基地に戻ってきた。先触れをし、許可を得たヴィクターは手にしたベラドンナをしっかりと抱え、参謀本部に足を運ぶ。ホークアイ中将のいる部屋に入ると、彼はいつもの飄々とした表情で出迎えた。
「いや、ファーウッド少尉!君は本当に仕事が早い。いやあ、助かるなあ。」
ホークアイ中将はヴィクターからベラドンナの入った袋を奪うようにして受け取ると、その内容物を確認しながら満足げに頷いた。
ヴィクターは空いた手で敬礼を行う。
「よくやった。これを研究開発部に回して、あとは彼らに任せればいい。君は安心して休みたまえ。いや、本当に感謝しているよ、少尉。」
ホークアイはにやりと笑いながら、すぐに研究開発部のスタッフを呼び出し、ベラドンナを託して部屋を出て行った。
ヴィクターはその背中を見送りながら、ふと安堵の息を漏らした。ホークアイは確かに厄介な男だが、仕事の結果を出す能力に関しては疑いの余地がない。これでクラーレの解毒剤が完成すれば、戦況は大きく変わるだろう。
数日後、研究開発部からアトロピンの抽出に成功したという知らせが届いた。クラーレの解毒剤が正式に完成し、参謀本部はその成果を大々的に発表した。この知らせは南方の戦線全体に広がり、陣営全体が明るいムードに包まれた。
「これでトキシリーフに対抗できる……!」
兵士たちの間にはそんな期待が高まっていた。雨季の終了とともに、この植物型の魔物を殲滅するための作戦が始まるだろう。戦況がようやく前進する兆しに、誰もが安堵と期待を胸にしていた。
その夜、ヴィクターは部下たちと弟レオンを誘い、前線基地の近くで営業する、簡易的な酒場で酒を酌み交わしていた。スコールが弱まったとはいえ、湿気が充満する空気は変わらず、遠くから聞こえる雨音がまだ季節の名残を感じさせる。ランプに照らされた薄暗い酒場のテントの中では、兵士たちの笑い声や乾杯の音が賑やかに響いていた。
「なあ、お前たち……俺の異能で、お前たちに無理をさせてないか?」
ヴィクターはグラスを軽く揺らしながら、静かに問いかけた。その声は普段の軽口とは違い、どこか不安を抱えた響きを帯びていた。
その言葉に、一瞬場が静まり返った。部下たちは顔を見合わせ、レオンも眉をひそめてヴィクターをじっと見つめた。そして次の瞬間、大きな笑い声が酒場中に響き渡った。
「隊長! なんすか、それ!」
「僕たち、そんなこと一度も思ったことありませんよ!」
「むしろ、戦闘前に隊長の声を聞くだけでグッと気持ちが高まるんす!おお、俺はやってやるぞ!って。」
兵士たちの声に混じり、レオンも静かに口を開いた。
「兄さん、僕たちが兄さんを慕っているのは、異能に強制されたものなんかじゃないよ。兄さんが僕たちのためにいつも全力で戦ってくれる姿を見ているからだ。」
その言葉に、ヴィクターは目を伏せ、グラスを手の中でゆっくりと回した。酒の表面に揺れる自分の顔が、なんだか少し違って見える。
「……そうか。お前たち、本当にそう思ってるんだな。」
ヴィクターの声は微かに震えていた。部下たちは彼の表情を見て、少し驚いたように目を見開いた。
「隊長……?」
「目にゴミが入ったんだ!」ヴィクターは慌てて顔を背けたが、誰もその動作に突っ込まなかった。ただ、優しい空気が酒場を包み込んだ。
グラスを空けたヴィクターは、少し笑顔を取り戻して言った。
「……よし、今日の代金は俺につけろ。好きなだけ飲んでくれ。」
その一言に部下たちは歓声を上げ、早速高価な酒を注文し始めた。彼らの無邪気な声に、ヴィクターは苦笑を浮かべる。
「おい、俺が破産しない程度にしろよ!」
彼の言葉に、また笑い声が起こった。
ヴィクターは賑やかな部下たちを見ながら、胸の中にあった罪悪感が少しずつ薄れていくのを感じていた。これまで背負い続けた重荷が、彼らの言葉によって軽くなっていく。
(俺の声は、こいつらの力になっている。それでいいんだ。)
外に出ると、月明かりが雨に濡れた地面を照らしていた。ヴィクターは静かに夜空を見上げ、ふと柔らかな笑みを浮かべた。その顔には、わずかだが確かな安堵が滲んでいた。
スコールの季節がついに終わりを迎えた。熱帯雨林の空は晴れ渡り、濃い緑が灼熱の太陽の光を受けて輝いていた。湿気は相変わらず重く、足元の泥の匂いが強く立ち上る。ジャングルの中では鳥や昆虫が騒がしく鳴き、木々の間から鮮やかな羽を持つ鳥が何羽も飛び立っていく。まるで自然そのものが、長く続いた雨季の終わりを祝っているかのようだった。
参謀本部が立案した罠は、スコールの合間に着々と設置されていた。あちこちに仕掛けられた大きな網や落とし穴が、トキシリーフを的確に捉えていた。動きの鈍い植物型の魔物たちは身動きを封じられ、毒矢を放つこともままならない。そして、万が一毒矢が命中しても、開発された解毒剤の存在が兵士たちの心を支えていた。
「次の個体を罠に誘導するぞ!」
兵士たちは声を上げながら、手際よく戦いを進めていく。気分は高揚し、疲れを感じさせない鋭い動きだった。その士気の高さは、南部戦線全体を包み込み、戦線は熱帯雨林を超えて一気に押し上げられた。トキシリーフは、この地域からほぼ一掃された。
熱帯雨林の空は、スコールの終わりを告げるように晴れ渡り、祝勝会の夜は蒸し暑いが心地よい風が吹いていた。陣営の中心に設置された広場には、木製のテーブルと椅子がずらりと並び、兵士たちの歓声が響き渡っている。テーブルの上には大きなビール樽や焼きたての肉、鮮やかな色合いの果物が溢れ、南方特有の香辛料が鼻をくすぐる。
「おい、この果物、すごく甘いぞ!」
ある兵士が皿いっぱいの果物を抱え、大声で仲間を呼び寄せる。その隣では、ローストされた野鳥にかぶりつきながら、大きな声で笑い合う別のグループ。音楽隊が即席の演奏を始めると、リズムに合わせて兵士たちはテーブルを叩き、酒を手に踊りだした。
「南部戦線の勝利を祝おう!」
誰かがそう叫ぶと、歓声が一層大きくなり、グラスが次々にぶつかり合う音が広場を満たす。火の回る焚き火が炎を上げ、その光が兵士たちの汗に濡れた顔を照らしていた。
ヴィクターはそんな喧騒を少し離れたところから眺めていた。高揚感に包まれる部下たちの姿に目を細めながら、手にしたビールジョッキをゆっくりと傾ける。
「隊長、こっちに来て乾杯しましょうよ!」
部下たちが声をかけるが、ヴィクターは軽く手を振って応じるだけだった。その心には、どうしても引っ掛かっていることがあった。移動の魔女、タリアのことだ。彼女のことを思い出すたび、胸がざわつく。それを振り払うように、もう一口酒を飲む。
ふと目を上げると、焚き火の向こうで踊る兵士たちの笑顔が目に映る。笑い声や手拍子がリズムを刻み、音楽に合わせて靴音が軽やかに響く。その光景を眺めながら、ヴィクターは心の中で呟いた。
(結局、魔女は何も対価を要求しないで帰っていった。俺がこうして彼らと勝利を分かち合えるのは、あの魔女の助けがあったからなのに。)
彼はなんとか気をそらそうとしたが、頭に浮かぶのはタリアの笑った顔や、その小鳥のような笑い声ばかりだった。
天幕の片隅で肘をつき、次のジョッキをもらおうと頭をあげたヴィクターは、ふと、黒い森の夜のことを思い出した。
(あの時の匂い……柔らかい体……今まで忘れてたのに、なんだって急に思い出してるんだ、俺は。)
その記憶が鮮やかに蘇った瞬間、ヴィクターの心臓は一拍大きく跳ね、彼は急に机から立ち上がった。
「隊長、どうしたんですか?」隣で飲んでいた部下が不思議そうに声をかける。
「ああ……悪いが、俺、先に戻る。」
「えっ、もうですか?まだ早いですよ!」
部下たちの引き留めにもかかわらず、ヴィクターは立ち上がり、その場を後にした。
与えられた自室に戻ると、ヴィクターは荷物を放り出し、そのままベッドに体を投げ出した。天を見つめながら、心の中で思う。
(あの魔女に、もう一度会いたい。いや、もっとだ……これからもずっと会う権利が欲しい。そう……恋人として。)
自分の考えに驚きながらも、それが本心であることを否定できなかった。ヴィクターは目を閉じ、タリアに会う方法を真剣に頭の中で考え始めた。彼の表情には、いつもの軽口を叩く余裕などなく、ただ真摯な思いが滲んでいた。
雨季の終わった熱帯雨林の夜は、湿った空気をまといながら静かに更けていく。ヴィクターの心には、新たな決意が芽生えていた。