第2章 秘密の合言葉
雨季が訪れた。突如として空を覆う灰色の雲。稲妻が遠くで光り、その直後に激しい雨が地面を叩きつけるように降り注ぐ。前線基地の簡易宿舎の屋根を叩くスコールの雨音は絶え間なく続き、湿気を孕んだ空気が宿舎の中にまで入り込んでくる。兵士たちは魔物トキシリーフの放つ矢の届かない安全なこの時期、少しだけ肩の力を抜いていた。
ヴィクターの部屋もまた、どこか湿った空気に満たされていた。窓から入り込む雨の匂いと、宿舎特有の木の匂いが混ざり合い、彼は少し憂鬱な気分で机に肘をついていた。その時、伝令係から一通の手紙を受けとる。
「レオンからの面会要請、か……。」
ヴィクターはため息をつきながら立ち上がる。療養を続けていた弟には、まだあの時のことを伝えられていなかった。「ちょうど気分転換が欲しかったところだ。」苦し紛れにそう呟き、部屋を出た。
雨の音が鳴り響く廊下を進み、レオンの住まう合部屋の前で足を止める。扉を軽く叩くと、すぐに内側から応える声があった。
「どうぞ!」
扉を開けると、そこにはすっかり元気そうな顔の弟が立っていた。レオンはこちらを見て驚いたような表情を見せた後、申し訳なさそうに頭を下げる。
「隊長、面会にはこちらから伺いましたのに……。」
「同室のやつ今いないんだろ?楽に喋れ。」ヴィクターはそう言うと、遠慮なく部屋に上がり込み、簡素な椅子に腰を下ろした。「あの時のこと、聞きたいんだろ?」
レオンは一瞬、迷うような表情を見せたが、意を決したように頷いた。「そうです。誰に聞いても口止めされていて……。」
ヴィクターは軽く笑い、椅子に寄りかかった。「お前、前の任務で魔女に大事にされてたんだな。」
その一言に、レオンの目が輝いた。「やっぱりフィオナさんが……!」
ヴィクターは腕を組みながら続けた。「詳しくは知らんが、どうやらお前を気にして南方の様子を見ていたらしい。それで、トキシリーフの毒を同定して、自分の異能でお前を解毒したと。一緒に来ていた移動の魔女が、置き土産に解毒剤の成分を伝えていったから、今研究開発部が大急ぎで詰めてるところだ。」
それを聞いたレオンはじっと押し黙ると、床に視線を落とした。「また……僕はフィオナさんに助けられたのか……。」
その呟きに、ヴィクターは少し優しい表情を見せた。そして、椅子から身を乗り出し、真剣な目で弟を見つめる。
「そのフィオナさんなんだがな。」
ヴィクターの声には、これまでにない厳しさがあった。おそらく弟はショックを受けるだろうが、伝えなければならないことだった。
「お前を助けるために魔力を使い果たして、数年は目覚めないらしい。」
その言葉を聞いたレオンは、言葉を失ったように口を開けたまま固まった。
ヴィクターは弟の肩を軽く叩き、「だからお前は」と真剣に言葉を続けた。「目覚めた彼女に恥ずかしくないよう、最高にかっこよくなっておかなくちゃならん。」
スコールの雨はまだ降り続いている。ヴィクターが静かに去っていった後も、降り続く雨音の中で、レオンは呆然とヴィクターの言葉を反芻していた。
スコールはさらに勢いを増し、雨の音が木々を叩きつけるように響く。暗く重い雲に覆われた空から降る雨は、地面を泥に変え、空気には湿気とともに土の匂いを混ぜ込んでいた。ヴィクターはレオンの部屋を出て、自分の部屋へと向かう廊下を歩いていた。
弟の呆然とした姿が脳裏に浮かぶ。彼にあの悪い知らせを告げたのは自分だが、必要なことだった。それでも、どこか心に引っかかるものがあった。元はと言えば、自分の異能が......。
「くそ……。」
雨の音にかき消されるような小さな声で呟きながら歩いていると、ヴィクターの行く手を阻むように、黒いフードを深くかぶった男が音もなく現れる。その顔はほとんど見えないが、濡れた布の光沢と、かすかに聞こえるブーツの泥を踏む音が異様に響く。
「ヴィクター・ファーウッド隊長殿。」
男は低い声で言った。「中将閣下が、お呼びです。」
その声には抑揚がほとんどなく、単なる伝達のためだけに存在しているようだった。ヴィクターは短く息を吐き、肩を揺らすように軽い笑いを漏らす。
「……そうか。連れて行ってくれ。」
男は無言でヴィクターを促すように背を向けた。ヴィクターは一瞬、その背中を睨むように見たが、やがて小さく肩をすくめ、後をついて歩き始めた。面倒ごとに違いなかった。
入り組んだ回廊を進む中、ヴィクターの心にある種の確信が広がっていた。この呼び出しが、この前の魔女の件に絡んだ厄介なものであることは間違いない。それでも、彼が拒否できる立場にいないこともまた事実だった。
やがて、一際重厚な木製の扉の前に立つ。ノックの音が、雨音にかき消されるように低く響いた。
「入りたまえ!」
中から飄々とした声が聞こえ、ヴィクターは扉を押し開けた。
部屋の中は、外の湿気とは無縁の空間だった。乾いた空気に満ち、香ばしい葉巻の煙が漂う。壁には様々な勲章や肖像画が飾られ、デスクの後ろにはヒョロリと痩せた男が腰掛けていた。彼は一際豪奢な軍服に身を包み、その胸にはいくつもの勲章が輝いていた。
「ファーウッド少尉、待っていたよ!」
レイ・ホークアイ中将が葉巻を咥えながら親しげな笑みを浮かべる。しかしその目の奥には、冷たい光が潜んでいた。
ヴィクターは扉を閉め、敬礼をして一歩前に出る。その角度は、僅かな乱れも許されない。
「失礼致します。」
「この前のことは万事うまーくやっておいたからね。いやあ、大変だった。」
中将は気楽そうに言いながら、葉巻の先を灰皿でトントンと叩いた。「標識の魔女があの件に関与していたとは、これで誰も分からないだろう。」
ヴィクターは口元を引き締め、硬い声で応えた。「閣下のご高配に感謝いたします。」
「それで、だ。」
中将は姿勢を少し崩し、椅子に深く腰掛けた。「君の貴重な情報提供には大変感謝している。しかし、それをより生かすために……君にもう一働きしてもらえないかと思っているんだ!」
その言葉に、ヴィクターは一瞬だけ目を細めた。嫌な予感が脳裏をよぎる。
「ベラドンナが、足りないんだよ。」
中将は葉巻を口から外し、紫煙をゆっくりと吐き出した。「魔女どのから提供された化粧品そのものは、人には投与できないし、そもそも量も足りない。あの憎き魔物、トキシリーフを倒すために、絶対にクラーレの解毒薬は必要なんだ。どうしたらいいか、君ならわかってくれるね。......数日ぐらい、通常の任務は免除しておくから。」
ヴィクターは目線を床に落とし、短く息を吐いた。「……はっ。了解いたしました。」
准将は笑みを深め、葉巻を灰皿に押し付けて消した。「君の理解に感謝する。じゃあ、帰っていい。」
ヴィクターは再び敬礼をし、部屋を辞した。その背後で、重い扉がゆっくりと閉まる音が響いた。
中将の言葉は要するに、今日から数日でベラドンナを取って持ってこいという意味だった。
スコールの雨音が激しく窓ガラスを叩き続ける中、ヴィクターは自室で頭を抱え込んでいた。外の雨は容赦なく降り注ぎ、滴が窓を伝うたびにぼんやりとした影を映し出している。湿った空気が部屋全体に広がり、机に散らばった資料の紙端が湿気で波打っているのが目に入った。
「ベラドンナの自生地域は……かなり遠い……。」
独りごちる声が静かな部屋に響く。目の前に広げられた地図には、赤いペンで丸がいくつも付けられている。そのほとんどが、この国から遥か離れた場所だ。ヴィクターはため息をつき、資料に目を落とした。
その中には、ベラドンナについての記載が詳細に描かれていたが、同時に、それがいかに危険な魔物の支配地域でしか見つからないかを示している。
「……こんな場所、誰が簡単に行けるって言うんだ。」
苛立たしげに地図を手元から押しやると、椅子に深く体を預けて天井を仰いだ。頭の中には、ホークアイ中将のニヤついた顔が浮かぶ。
(……あの陰湿中将め、俺が移動の魔女と知り合ったことを完全に利用する気だな。)
中将が言いそうな台詞が脳裏をよぎる。
ーー君は移動の魔女と知り合ったんだってね?ん?彼女の力を借りれば、あっという間じゃないか?ーー
「……くそ。」
ヴィクターは肩を落とし、こめかみを押さえながら頭を振った。普通に考えれば、この問題の解決のためにはたしかに移動の魔女の力を借りるのが最善の選択肢だとは分かる。だが彼女はただの女性ではない――得体の知れない「移動の魔女」だ。道具のように扱えば、どうなるか分かったものではない。
ヴィクターは立ち上がり、窓の外をぼんやりと眺めた。雨に覆われた暗い景色を見つめながら、自分のこれまでの行動を振り返る。
(そもそも標識の魔女が関与してきたのが発端なんだが......。いや、それよりも、俺を庇ったレオンの行動が全ての始まり……いや……最終的には、俺の異能が原因か……。)
思考が堂々巡りし、胸に暗い影が広がる。彼はこぶしを固く握り、机に置かれた資料を再び手に取った。
(だが、そんなことを考えていても始まらない。解毒剤は必要だ……それも、できるだけ早く。この南部戦線の命運は、解毒剤の有無で全く違う。)
ヴィクターは意を決したように顔を上げると、天幕の中を見回した。スコールの雨音が遠くで響く中、ふと、タリアのいたずらっぽい微笑みが脳裏に浮かぶ。
(……どうせ、頼み込んだところであの魔女が簡単に手を貸してくれるとも思えない。だが、背に腹は代えられん。)
「……ダメ元で頼み込むしかないな。」
スコールの雨音が外の闇を支配し続ける中、ヴィクターは部屋の中でソワソワと意味なく歩き回った。湿気で空気は重く、窓を伝う雨粒が時折ランプの灯りを反射して揺れる。彼は何度目かの深いため息をつき、壁に手をついて頭を垂れた。
(しかし、あの魔女に連絡を取る方法がこれしかないだなんて……くそっ、魔女め、あの時、俺をからかうためだけにこんな合言葉を提示したんだろうよ。)
ヴィクターの頭には、タリアの人を食ったような笑顔が思い浮かぶ。その時は、それを自分が叫ぶことになるとは金輪際思っていなかった。
(いや、だがこれしか方法がない。背に腹は代えられん。)
彼は一度肩を落とし、窓の外を確認して、深夜の廊下にも耳を澄ました。見回りの兵士はこの時間にはここを通らないはずだった。誰もいないことを確認すると、部屋の扉をしっかり閉め、鍵をかける。念入りに周囲を確かめた後、大きく息を吸い込んだ。
「……くっそ、あー……!タリア、愛してる、結婚してくれー!!」
その叫びは部屋を越えて廊下にまで響き渡り、スコールの雨音にさえ負けないほどの力強さだった。叫び終えた瞬間、ヴィクターは自分の声の余韻に呆然と立ち尽くし、思わず顔を覆った。
(俺はいったい何をやってるんだ……!)
だが、その羞恥も束の間、部屋の空気がふわりと揺れた。湿気た空間が一瞬で変わり、スパイシーで甘い香りが漂う。次の瞬間、黒い髪がゆらめき、タリアが部屋の中心に現れた。彼女はヴィクターを見て腹を抱えて笑い出すと、そのまま椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「それを本当に使ったのは……あなたが初めてよ!」彼女は息を整える間もなく笑いをこらえようとしているが、目尻には涙がにじんでいる。「本当に叫ぶなんて……面白すぎる……!」
ヴィクターは眉をひそめ、顔を真っ赤にしながらもすぐに膝をつき、両手を合わせた。
「頼む!」彼はタリアがさらに余計なことを言う前にヤケクソで声を張り上げた。「移動の魔女の力を貸してくれ!ベラドンナが必要なんだ!」
タリアは笑いを止め、目を細めると、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。彼女の雰囲気が変わり、柔らかな笑顔の裏に冷たい鋭さが見え隠れする。
「あなたは……そう、私のお願いを果たしてくれたみたいね。」彼女の声は低く、どこか甘やかでありながら、ヴィクターの背筋を凍らせるような鋭さを帯びていた。「じゃあ、一応聞いてあげる。あなたは、この新しいお願いの対価に何を支払うつもり?」
ヴィクターはその言葉に息を呑んだ。彼女の黒い瞳は深い闇を映し出しているようで、そこに彼の姿が映り込んでいるように思えた。ヴィクターはごくりと唾を飲んだ。やはり、対価が必要か......。しかし、彼には魔女の興味をひけそうなものの心当たりがあった。逃げ出したくなる自分を必死で奮い立たせ、部下たちの顔を思い浮かべ必死に言い募る。
「……俺にできることは……君の妹弟子への気持ちを利用するようで申し訳ないが、レオンの配置に若干の融通を効かせるくらいだ。それで不十分なら、実家に帰るように説得する。本人は嫌がるだろうが、南部戦線全体のためと言って納得させる。それ以外のことでも……俺にできることなら何でもする。」彼は視線を落としながら、声を低く続けた。「解毒剤ができたら、レオンももちろん、この南部戦線全体の命運が大きく変わるんだ。どうか頼む!」
ヴィクターはさらに頭を下げ、深く折り曲げた体勢でタリアを見上げた。
「あら、大した覚悟なのね。」タリアは机越しにヴィクターを見つめ、黒い瞳を細める。「魔女に『何でもする』なんて言うなんて、命知らずもいいところじゃない?」
ヴィクターは彼女の視線に怯むことなく、深い息を吐き出して答えた。「......俺は、俺についてきてくれる部下を、これ以上失いたくはないんだ。」その言葉には重みがあり、彼の心の中に残る過去の影を滲ませていた。
タリアは彼の言葉にしばらく沈黙し、ヴィクターの必死な表情を見つめながら考えた。約束を守り、合言葉を本当に使った真面目な男。フィオナの大事なレオン君のために、この男の頼みを聞いても損はないかもしれない。……それに、この男を揶揄うのは面白い。そう結論づけた彼女はふっと微笑んだ。
「なるほどね。」彼女の声はどこか柔らかくなった。「部下思いなのね。……そうね。引き受けてあげてもいいわ。……さっきの叫び、なかなかおもしろかったから。」タリアは意地悪く笑い、視線をそらした。
ヴィクターは彼女の言葉に安堵の表情を浮かべた。勢いよく体を起こし、タリアを真っ直ぐ見つめる。「ありがとう……これで部下を失わなくて済む。」
ヴィクターは机に広げていた資料の束を持ってきて、タリアに見えるように、地図を指差しながら説明を始めた。「この地域が一番多くベラドンナの自生地があるのは間違いない。しかし、魔物の支配領域に囲まれていて普通の方法では辿り着けないんだ。移動の力で……どうか頼む。」
タリアは資料に目を通しながら軽く頷いた。「なるほどね。」彼女の指先が地図の一角をトントンと叩く。「でもこれ、移動にあたってちょっとした問題があるわ。」
「問題?」ヴィクターは眉をひそめ、地図を見つめ返す。
「この距離を移動するには、日帰りで往復は無理なの。」タリアはゆっくりと説明する。「帰るための魔力を貯めるのに、現地で一泊しなきゃならないわ。」
彼女の言葉が落ちると同時に、部屋の中が一瞬白い閃光に包まれ、直後に凄まじい轟音が響き渡る。近くに雷が落ちたのだ。その光と轟きはヴィクターを圧倒するようだった。
「一泊だと……?」ヴィクターは思わずタリアの顔を見上げた。彼の困惑が露骨に顔に表れていた。
タリアはそれを面白がるように悪戯っぽい笑みを浮かべた。「そうよ。魔力を使い果たした私は、逃げられないし戦えない。だから、あなたが一緒に来て私を守らなくちゃいけないわ。まさか一人で行かせようと思っていたわけじゃないでしょ?」
その言葉に、ヴィクターは思わず固まった。湿気で光るタリアの黒髪が、ランプの光を受けて艶やかに揺れる。その美しく整った顔立ちを見つめながら、ヴィクターは眉をひそめる。
(この魔女と二人きりで一泊……しかも、何もできないから俺が守る?絶対に俺の反応を面白がって言ってるだろ……。)
その予想通り、タリアはヴィクターの動揺を完全に楽しんでいるようだった。彼の困惑した顔を見るたびに、彼女の口角はさらに上がっていく。
「どうしたの、かっこいい軍人さん?」タリアはわざとらしく首をかしげて見せる。「あなた、部下を守るために何でもすると言ったんじゃなかったかしら?」
その一言で、ヴィクターは観念したように頭を垂れた。そして深い息を吐き、重々しくうなだれる。「……わかった。一泊でも何泊でも付き合おう。君が必要だと言うなら、それに従う。」
タリアは満足そうに頷き、笑みを浮かべながら立ち上がった。「いい返事ね。それじゃあ、準備をしましょう。明日朝また来るから、資料を揃えておいて頂戴。」彼女は軽やかに踵を返し、部屋を後にした。
ヴィクターは彼女の背中が完全に消えるまで見送った後、大きく息を吐き出して椅子に座り込んだ。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、呟く。
「俺の肝試し人生は、これからも続くらしいな……。」