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第1章 美しき魔女

南部戦線の湿気を含む重たい空気が、熱帯雨林に生い茂る木々の隙間から滲み出ている。その中で突然現れた魔女フィオナ・アルデンが、レオン・ファーウッドを救い、その場で昏倒した。辺りに緊張感が漂う中、兵士たちは誰もが息を潜め、その異様な状況を見守っていた。


その沈黙を破ったのは、部隊長であるヴィクター・ファーウッドその人だった。


「初めまして、美しい魔女殿。もしよければ、この後お時間をいただけませんか?」


沈黙を破ったその発言に、兵士たちは一斉に隊長の方向を振り返る。ヴィクターはいつもの飄々とした態度を崩さず、前に進み出る。だが、その手は緊張したようにわずかに震えていた。


彼が相対しているのは、小柄なフィオナを抱きかかえたもう一人の魔女、タリア・アルデン。長い黒髪が波のように揺れ、黒いドレスは熱帯の蒸し暑さを物ともせず彼女を優雅に包んでいる。だが、それ以上に彼女を際立たせているのは、その周囲に漂う得体の知れない空気だった。まるで彼女の周りだけが日陰となり、昼間の光が及ばないような不気味さがあった。


タリアの黒い瞳がゆっくりとヴィクターを捉えた。その目はガラス玉のように冷たく、同時に遊び心を含んでいた。


「あら……、かっこいい軍人さん。」

タリアは唇を少しだけ緩め、軽く顎を上げながらヴィクターを見下ろすように微笑んだ。その微笑みには、明らかに挑発的な色が含まれている。


「しょうがないわね。この子をおうちに戻したら、デートしてあげるわ。」

彼女の声は低く、湿気を帯びた熱帯の空気を裂くように響く。そして、さらりと続けた。

「あなたも、そこの子犬ちゃんを、奥にしまってきてちょうだいな。」


ヴィクターは表情を変えず、微笑みを浮かべたままタリアの言葉を受け止めた。しかし、目の端で兵士たちが彼女の視線を受けて一歩後ずさりするのを見逃さなかった。兵士たちは、得体の知れない魔女の存在に本能的な警戒心を抱いていた。


タリアはフィオナを抱き直し、ほんの一瞬だけヴィクターの顔をじっと見つめた。鋭い観察力を持つ彼女の瞳が、何かを確かめるかのように動く。そして、次の瞬間、彼女は宙に浮かび、黒いドレスがふわりと舞い上がったかと思うと、空気が揺れ、彼女とフィオナの姿は消えた。


「……なんだ、今のは。」

誰かが呟くが、誰も答える者はいない。ただその場に残された空気だけが重たく沈んでいた。


ヴィクターはすぐに指をパチンと鳴らして場を仕切り直す。

「エリック! この子犬ちゃんならぬ、レオンを救護部隊に預けてきてくれ。急げ。残りは暗くなる前に野営の準備を進めるぞ!」




太陽が地平線に沈みかけると、熱帯雨林全体がまるで息を吹き返すように一体となってざわめき始めた。昼間には蒸し暑さの中にも生命の気配を感じていた森が、夜の訪れを告げるようにその表情を変えていく。


部隊の簡単な夕食を終え、ヴィクターが天幕に戻ると、キャンドルが柔らかく揺れる薄暗い部屋の中、タリアは悠然と椅子に腰掛けていた。その黒いドレスが足元に広がり、まるで影そのものが形を成したかのようだ。彼女の瞳は暗闇の中で光を吸い込み、ヴィクターをじっと捉えている。


「約束通り、デートに来てあげたわ。」

タリアはふと振り返り、微笑みながら肩を軽くすくめた。

「話を聞きたいんでしょ? 軍人さん。私もね、ちょっとしたお願い事があるのよ。」


ヴィクターは内心でため息をつきつつも、外面は余裕のある笑みを浮かべたまま、自分の椅子に腰を下ろす。長い一日を戦場で過ごしたせいで、薄汚れた手袋が手に張り付くような感触だ。それを無造作に外し、指を組む。彼の動きは落ち着いて見えるが、その胸中は、目の前の魔女がもたらす得体の知れない危険性に警鐘を鳴らしていた。


「来てくれて感謝する。それで......魔女どののお願い事とは?」


タリアは微笑みながら椅子に体を預けた。その指先がポケットから小さな透明のビンを取り出す。中には不思議な液体が揺れていた。


「急ぎすぎよ。まずこれでも飲む? 秘密の薬よ。正直になれるらしいわ。」


ヴィクターは口角を上げたが、その不審な申し出を受け取る気配はない。

「ありがたい申し出だが、俺は酒の方が好きなんでね。秘薬は遠慮しておこう。」


「そう。」

タリアは残念そうに肩をすくめながら、ビンをポケットに戻した。彼女の指先の動きさえも、どこか優雅で危うい。足を組み替えるたびに、そのドレスが黒い波のように揺れた。


ヴィクターはタリアの一挙一動を注意深く観察する。彼女の微笑みは柔らかいが、その瞳には遊び心と鋭さが混ざっている。ヴィクターは自分が一歩間違えれば、この「デート」が彼自身の破滅に繋がる可能性を理解していた。それでも、この場で情報を引き出すことが、南部戦線の命運を握る鍵となっていることは間違いなかった。


外からは虫やカエルの鳴き声が絶え間なく響き、遠くからは動物の低い唸り声も混じる。湿気を帯びた空気が天幕の中に入り込み、夜の熱帯雨林特有の匂いを運んできた。ヴィクターは椅子に深く腰掛け、タリアの黒々とした瞳をじっと見据えながら口を開いた。


「まず最初に、君は誰なんだい?」

ヴィクターの声は柔らかだったが、その視線には警戒の鋭さがあった。「前から時々この部隊を見ていただろう。」


タリアはその言葉にわずかに目を細め、唇の端を持ち上げた。その仕草は挑発的でありながらも、どこか愉快そうでもあった。

「あら、この国の軍人なら私のことは知っているはずよ。」

彼女は黒い髪を指先で弄びながら、涼しげに答えた。

「私は移動の魔女、タリア・アルデン。少なくとも今は、あなたたちの敵ではないわ。実は、あの倒れた魔女の姉弟子なの……そういえば分かるかしら。」


ヴィクターは眉を上げ、一瞬考え込むような表情を見せたが、すぐに納得したように頷いた。

「なるほど。そういうことか。」

彼は組んでいた両手を膝の上に乗せ、言葉を続けた。

「魔女どの。今回は弟を助けてくれてありがとう。俺はヴィクター・ファーウッド。レオンの兄で、この部隊の隊長だ。差し支えなければ、昼にあったことの確認をさせていただきたい。」


タリアは微笑みながら椅子に身を預け、優雅な仕草で肘をテーブルに乗せた。その瞳には、どこか余裕のある光が宿っている。

「あなたのことも知ってるわ。」

彼女は軽い調子で言った。

「子犬君のこと、見てたもの。」


「それはどうして?と聞いても?」

ヴィクターの問いに、タリアは肩をすくめて答えた。

「まずは、あの子犬が無事かどうか、教えてちょうだい。話はそれからよ。」


彼女の言葉には、少しだけ強い響きが含まれていた。ヴィクターはその口調に気圧されることなく、静かに答えた。

「ああ、弟は幸い順調に回復している。」

彼はタリアの視線を受け止めながら続けた。

「後方で経過を見ているが、数日後には戻れそうだ。それで、一体、あの小柄な魔女は誰で、何をしたんだ?」


タリアはゆっくりと微笑み、椅子の背にもたれかかった。

「あなたが予想している通りよ。あの子はレオン君が監視してた標識の魔女、フィオナ・アルデン。」


「フィオナはレオン君のことを可愛がってて、騎士になることとか色々お膳立てしてやったのよ。南方で騎士になる子犬が心配だって言って、私や使い魔で様子を見てたってわけ。それで、あの子は魔物の毒も同定して、子犬のピンチに駆けつけて自分の異能で何とかしたってわけ。代わりに昏倒したけど。」


ヴィクターは唖然としたように息を吐き出して脳内で悪態をついた。

(あの魔女をハズレ魔女って言ったやつは一体誰だ。ハズレどころか、めちゃくちゃ優秀な魔女じゃないか!)


しかし、今の彼にはその驚きよりも、なんとしても魔女から聞き出さないとならない事項があった。彼は姿勢を正し、ごくりと唾を飲んでから次の質問を続けた。「魔女どの。毒の対処法を我々にも教えていただくことは可能か?。」


タリアは目を輝かせながら、少し意味ありげに微笑んだ。

「キスよ。」


ヴィクターは驚きで目を見開いたが、冷静さを保とうと努めながら問い返した。

「……鼻を摘んでいるようにも見えたが、それも関係しているのか?」


「まあ、そうね。」タリアは面倒くさそうに肩をすくめた。「フィオナによれば、あの毒は筋肉と神経のつながりを断ち切って、呼吸の筋肉を使えなくするクラーレっていうものらしいわ。でも効果は永遠じゃないから、フィオナの異能がなくても呼吸が止まっている間だけ人工的に息を吹き込んでやればいいって話。せいぜい数時間よ。」


ヴィクターはタリアの真っ黒な瞳をじっと見つめながら、言葉を選んだ。「そうか……。貴重な情報提供、感謝する。しかし、その対処法は戦場では現実的ではない。あの標識の魔女殿の方法は我々には使えないのか?」


タリアは唇を薄く開き、鋭い視線をヴィクターに向けた。「それはあの子の異能によるものだから、無理だと思うわ。でもね……。」彼女の声はどこか挑発的で、天幕の薄明かりの下でその黒い瞳が微かに光った。


彼女はゆっくりとポケットから小さなビンを取り出し、意味ありげに中の液体を揺らした。「フィオナによると、クラーレには解毒剤もあるそうよ。知りたい?」


ヴィクターはそのビンにちらりと目をやった。ランプの光を受けて、液体がゆらゆらと揺れている。「先ほどの、魔女の秘薬が?」彼の声には微かな警戒が含まれていた。


タリアは楽しげに目を細め、唇の端を上げた。「ここまでの情報提供はサービス。ここからは取引になるわ。解毒剤のことを教える代わりに、最初に言ったようにお願いしたいことがあるの。と言っても、拒否を許すつもりはないのだけれど……。」


ヴィクターは天幕の外から聞こえる熱帯の夜の音、虫の声に一瞬耳を向け、静かに息を吐いた。「聞こう。その解毒剤の情報と引き換えなら、大抵のことは可能だろう。」


タリアは満足げに微笑み、ビンを指先で回しながら口を開いた。「頼もしいわ。じゃあ……ベラドンナ…って知ってる?」


「異国語で美しい女性……という意味だな。君の別名か?」


ヴィクターの返しに、タリアは軽く笑い、顎を少し上げて彼を見下すような目をした。「うふふ、ありがとう。でも違うわ。ベラドンナはね、珍しい舶来の化粧品であり、同時にその材料の植物の名前よ。目にさすと瞳が大きくなって美しく見えるから、そう呼ばれているの。」


彼女はゆっくりとビンをテーブルの上に置いた。その表面がランプの光を反射して、部屋に小さな輝きを生んだ。「これをね、なんとか人に注射できるようにしたら、クラーレの解毒剤になるらしいわよ。フィオナによると。」


ヴィクターは彼女の言葉を黙って聞きながら、ビンを見つめて眉をひそめた。数秒の沈黙の後、彼は静かに呟いた。「…俺の手には余る。上層部に持って行ってもいいか?」


タリアは椅子にもたれ、肩を軽くすくめた。「そうでしょうね。」彼女は軽く微笑んで続けた。「伝えてもらって構わないわ。」


その言葉の後、彼女の声色が少しだけ硬くなった。「そして、これの対価としての私からのお願いは、今回の件におけるフィオナの関与を隠すことよ。」


彼女の黒い瞳が真っ直ぐにヴィクターを捉えた。その視線は鋭く、わずかにぞっとするような冷気を孕んでいる。「数年は魔女の眠りにつくであろうフィオナの周りを騒がせたくないの。必要なら私の名前を使いなさい。」


ヴィクターはタリアの言葉をじっと受け止めた後、静かに頷いた。「そうか。了解した。」


タリアは安心したように微笑み、椅子から身を乗り出して机に手を置いた。「よかった。これで、面倒なことをしなくて済むわ。暗殺とか、できるけど柄じゃないのよ。」彼女の口調は軽いが、どこか恐ろしさも含まれている。


一瞬の沈黙が訪れる。ランプの揺らめきが二人の顔を静かに照らし出していた。やがてタリアが立ち上がり、椅子を一歩引いて最後にこう告げた。「じゃあ、私はこれで。かっこいい軍人さん。」


ヴィクターは椅子の背もたれに体を預け、息を整えた。心拍数を抑えるための深呼吸のつもりだったが、どうにも効果は薄い。そんな中、彼はタリアの真っ黒な瞳をもう一度見つめ、軽く微笑んでみせた。


「美しい魔女殿、万が一のために、連絡先をいただけませんか?」


彼の声はふざけた調子を装っていたが、その裏には微かな真剣さが滲んでいた。


タリアは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに楽しげな表情に戻り、首をかしげた。彼女は何か面白いことを考えるように唇の端を軽く噛んでから、答えた。「そうね……タリア、愛してる、結婚してってあなたが大声で叫んでくれれば、すぐに行ってあげるわよ。」


その言葉にヴィクターは目を見開いたが、すぐに笑みを作った。「それは、なかなか高いハードルだな。」声は落ち着いていたが、心の中では彼女の返答に呆れつつも妙に納得していた。


タリアは椅子に座ったまま、優雅に脚を組み直した。その動きが、彼女の美しい黒いドレスの裾をわずかに揺らした。「まあ、あなたが本当に困った時なら、それくらい叫べるんじゃないかしら。」彼女はにっこりと微笑むと、椅子から立ち上がることなく、空気に溶け込むようにスッと消えた。


タリアの気配が完全に消えると、ヴィクターはしばらく椅子に深く腰を下ろしたまま動かなかった。彼女が消える直前に放った香り、スパイシーで甘さのある香りがまだ空間に漂っている。彼はそれを肌で感じるように目を閉じ、額に滲んだ汗が頬を伝う感覚を意識した。


(魔女というのはこういう存在か。いくつ肝があっても足りんな。)


彼は指先でテーブルの端を軽く叩き、思案するように視線を天井へ向けた。(しかし、妹弟子を守るためにここまで動くなんて、タリア・アルデン。やることが徹底している。絆が強いんだな……そこに関しては、好感が持てる。)


ヴィクターはふと、少しだけ微笑んだ。彼女の言葉に翻弄されつつも、その確かな芯のある態度に何か尊敬めいた感情を抱いていた。だが、それが彼の最後の感想になるかもしれないという予感も、胸の片隅にあった。


(……もう会うこともないだろう。)


外の熱帯雨林では、夜の音が混じり合っていた。虫やカエルの鳴き声、遠くで低く響く動物の唸り声。それらが湿った空気とともに天幕の中にまで忍び込み、ヴィクターの思考を包み込んでいく。蠱惑的でスパイシーな香りが、まだ彼の肌にまとわりついていた。

お読みいただきありがとうございます!全5話、完結まで毎日投稿します。

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