86粒目
スコーンを買おうとしたら。
「え?売り切れ?」
「ごめんねぇ、旅行でたまたま立ち寄ってくれた人が、帰り道で食べたいからって」
小さなカウンターから、ふっくらマダムが謝っている。
元々、半分は売れてしまっていて、残りを全て買われてしまったと。
おさげから事情を聞いたマダムは、
「明日、取り分けておく?」
ちょっと心配ね、と憂う顔。
「平気、治ったら、母さんに直接買いに来させるからさ」
かぶりを振り。
「そうね、あなたのお母様、いつも珈琲と一緒に食べてくれるから」
お見舞いねと珈琲豆をおさげが受け取り、男もついでにマダムにお勧めされた豆を買っている。
「なんか、無駄足踏ませて、すいません」
店から出るとおさげに謝られた。
「いやいや」
珈琲豆も買えたしと男が袋を見せると、おさげは、
「ホント、人がいいっすよね」
くしゃっと鼻にシワを寄せて笑う。
しかし。
スコーン。
もうすっかりスコーンの口になっていた我は。
「フーン」
そう。
我と狸擬きは。
(スコーンであれば)
「の、これから我等と一緒に、スコーンを作るかの」
店のものには到底敵わないだろうけれど、ないより、いいのではないか。
男伝の我の誘いに、
「え?作る?スコーンを?あたしが?」
鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしたおさげは、一笑して終わるかに思えたけれど。
少しの間、地面を見下ろし悩み。
「……いいの?」
おずおずと訊ねてきた。
「無論、よいの」
おさげと共に貸家へ向かい、おさげを招き入れれば。
「珈琲屋でも、スコーンは珈琲味ではないのであるのの?」
「うん、プレーンと胡桃」
珈琲を抽出して混ぜるかと思っていたから、手間は省けた。
(珈琲スコーンも美味しそうであるの)
今度挑戦して見ようではないか。
材料をごそごそ取り出し、狸擬きに運ばせると、
「……なんか、あんたたちの背景が全然見えなくて、ちょっと怖いんだけど?」
男が濡らした布を手渡し、手を拭いたおさげに訝しげな顔をされる。
「あぁ、よく言われます」
にこりと笑顔の男。
「よく言われんのかよっ!」
まぁ似たようなことは言われるの。
先刻。
店の外でおさげと話して時、扉を開いた珈琲屋のマダムに、
「売り切れのお詫びに教えるわね。うちは水分はミルクでなく、ヨーグルトを使っているのよ」
と、ヒントを貰えた。
(ふぬふぬ……)
牛の乳との水分量はどれくらい違うのか。
とは言え、スコーンは懐の広さが売り。
雑に作ってもそれなりの形にはなるだろう。
男に、髪を結って貰うと、エプロンも着けて貰う。
「計量はしたからの、皆でバターを細かくするの」
突如始まるお菓子教室。
おさげは、栗毛から、栗毛に憑いていた水の事は何か聞いたのかと思ったけれど、栗毛はおさげに特に何も話していない様子。
(まぁ、それどころではなかったか)
小麦粉がまぶされたバターを指で潰していく。
「フンフン」
狸擬きも肉球で擦り潰している。
男は、ソファで我等をスケッチしつつ、我の言葉をおさげに伝えてくれる。
「絵、描けるんだ、へー……」
ヨーグルトで生地を纏めて休ませている間に、男の淹れたカフェオレと、チーズケーキでお茶にする。
「絵を売って、生計を立ててんの?」
おさげはチーズケーキを美味しいと褒めてくれ、カフェオレをガブガブ飲みながら、男に訊ねている。
男が、これは自分の記録のためだけですと答えると、
「そんなに上手いのに売らないんだ?」
不思議そうな顔をされる。
「上手な人はたくさんいますから」
「この街なら仕事になるよ、これ」
客も多いしさと。
おさげの言葉で、そういえば、お船で描かれた絵はまだ届かないことを思い出す。
狸擬きと共にチーズケーキとカフェオレをおかわりしたおさげに、スコーンの生地を、包丁で四角く切らせ、予熱したオーブンで焼き上げれば。
「うわ!!ホントに焼けた!スコーンじゃん!」
ほう、焼けないと思っていたか。
端っこの形の悪い部分を、味見分として取り分け、クリームの代わりにバターを塗って皆で噛み付けば。
「……うっまぁっ!」
おさげは存外、美味しいものに目が無いらしい。
「フンフン♪」
端っこではなく、形のいいものに前足を伸ばそうとする狸擬きを止め、
「お主の母親にも、ちゃんと温め直して食べるように伝えるのの」
「うんうん!絶対伝えるっ」
おさげにも、満足の行くものが出来た様で何より。
片付けをすれば陽も暮れ始め、散歩がてら、おさげを送るために外へ出ると、夕暮れが眩しく。
夜の始まりを告げる橙色に、子供の姿もなくなり、水路からもお舟が減り。
煌めき揺れる水路の美しさ。
先を黙って歩いていたおさげが、
「あ、あのさ」
小さな橋の真ん中で、不意に立ち止まり。
「?」
「その、……ありがと、ホントに」
振り返らずに、礼を呟かれた。
「フーン」
気にするな人間、となぜか狸擬きが返事をする。
狸擬きの返事に、小さく笑うおさげ。
不意に、すいっと小鳥が、金具と金筒を足に付けた雇われ小鳥が、この時間でも組合の方から、我等の上を飛び越え、どこかへ飛んで行く。
「……」
それをじっと見送っていたおさげは、再び歩き出したけれど、もう1羽、飛んで行く姿に足を止め。
「……平気かな」
ぽつりと呟いた。
「?」
なにがであるか。
スコーンの日持ちか。
「か」
か?
「母さん……」
(……ぬ?)
「シスターに言われるまま、修道院から、帰って来ちゃったけどさ……」
(のの)
こちらを振り返ったおさげは、すでに、目に涙を溜めていた。
唇を、スコーンの詰められた布袋を抱えるその腕も、小さく震えている。
(の……)
そうか。
おさげは、父親を亡くしている。
自死と言う、この世界では非常に稀有な死に方で。
その父親の死後、身近な人を、ここに、この街に留まらせておきたいと願い、水の神が邪な気持ちとはいえ、この女に手を貸すくらいには。
身近な人間の死を、そこいらの人間たちよりも、遥かに恐れている。
母親が倒れたことを小鳥が知らせに来たため、そして、今も立て続けに飛んで行く小鳥を見て、不安が増したのだろう。
今も射し込む夕陽は、暗い夜の訪れを告げるもの。
(ぬぬん……)
改めて見れば、存外に細い、うつ向いたおさげの肩。
「の」
我は男に問う。
「ん?」
「これから、馬車は出せるかの」
と。
おさげを部屋まで送り届けたあとに、ジェラートを食べさせて貰おうと思ったのだけれど。
仕方ない。
「あぁ」
男は小さく笑うと、おさげに、
「馬車を出します、これから修道院まで行きましょう」
と伝えると、
「……へっ?うえっ!?」
うつ向いてたおさげは、バッと顔を上げ、
「い、いいよっ!そんなの、い、今からなんてっ!」
ちょっと気になっただけだし!
ブンブンかぶりを振って、無理に笑みを浮かべるけれど。
男が、
「今ならまだ、温かいスコーンを届けられるかもしれません」
絶えず落ち着いて声で、
「俺たちは、夜の移動も珍しくないんです」
さらりと嘘を吐き、修道院のある丘の方を指差せば。
「……そうなの?」
怪訝そうなおさげに。
「えぇ」
しっかり頷く男に、我も頷いて見せれば、おさげは、
「……行きたい」
と、スコーンの入った袋をぎゅっと強く握った。
男と手を繋いでいた我は男に抱っこされて、夕闇の中、馬を預けている厩舎へ急ぐ。
馬を出して貰うと、我等が馬はどんな時間でも、
「♪」
「♪」
走るのか、おぉ走るのか、とご機嫌で鼻息を荒くし。
荷台の預かり場のおじじが、
「修道院まで?それなら、空の小さな荷台を貸そう」
と小さな屋根なしの荷台を出してくれた。
馬たちは、荷のない我等だけの重さに拍子抜けしたように歩いていたけれど、すぐにペースを掴み、男の指示がなくても、パッパカ歩いて行く。
「……あの」
「?」
「その、ごめん……」
男を挟んで反対側に座るおさげが、
「じゃなくて、申し訳ない、です……」
小さな声で謝ってきた。
男は、
「大人の病気は珍しいから、心配になる気持ちは解ります」
そつなく慰めながら、外灯が照らす暗い丘を上がっていく。
修道院までの道は、最後の馬車の乗り手が、灯りを点けながら帰って行くため、我等の様なたまの夜の客も、不自由なく辿り着けることが出来る。
「……」
教会の一部は、しかしまだ最後の夕陽に染まり。
出迎えてくれたのは老シスターだった。
「こんな時間に上がってくる馬車が見えて、何事かと驚きましたよ」
おさげが、どうしても母親が心配になってやってきたと伝えると、老シスター曰く、おさげの母親は、
「熱も順調に下がっているし、今は、口頭だけではあるけれど、若いシスターたちに、色々と仕事の指示を出していますよ」
と元気そうですと笑っている。
それはそれは。
「な、なんだよぉ……」
とんだ取り越し苦労じゃん、と、素直でないのは言葉だけ。
大きな安堵の含まれたおさげの溜め息。
「でも、わざわざこんな時間に、心配で仕方なくて来たのね?」
老シスターは、手を伸ばしておさげの肩を撫でている。
「うん……」
「それなら、挨拶くらいはしていらっしゃい」
面会時間は過ぎてるから、少しだけねと老シスター。
「……でも、昼間、会ったばっかりだし」
「そんなの関係ないわ。いい匂いね、ビスケット?」
おや、とうに冷めているはずなのに、老シスターは鼻がいい。
「あ、これ、スコーン」
「まあまあ、それなら尚更渡さなくちゃ」
「うん。……ありがとシスター、ちょっと行ってくる」
おさげが、少しだけ待っててと我等に手を振ると、たっと建物の中へ駆け出し。
「……」
残された我等は。
「の。我は、水の神に挨拶したいの」
男の腕の中から老シスターを見下ろせば。
男伝の我の要求に、
「……えぇ。どうぞ、ご自由に……」
おさげへ向けていた慈悲の眼差しは消え、よそよそしくなる。
ご自由にとは言われたけれど、水の神の許へ向かうと、老シスターも付いてきた。
その老シスターが扉を開けば、しかし中は真っ暗。
月明かりも存在しないこの世界。
晴れていても、尚更、夜は暗い。
老シスターが手探りで、蝋燭台に火を点けていく。
「……」
やがて、徐々にぼんやりと闇に浮かび上がる水の神は。
「……?」
(ぬぬ……?)
ただの石像。
じっと眺めても、睨んでみても。
人魚を象った、ただの石の塊。
我は男の抱っこから降りて、老シスターの立つ石像の前まで向かい、
「……」
ふっと身体の力を抜いてみれば。
人であることを意識してやめてみれば。
隣に付いてきた狸擬きが反応し、ぼわっと毛が3倍くらいに膨れる程度で、特に何も起こらない。
(……ふぬ?)
「フゥン」
狸擬きが、ほんの小さく鼻を鳴らす。
(ふぬぬ……)
水の神は、眠っている。
深く、深く。
栗毛に憑いていたのは、水の神の欠片程度かと思っていたけれど、どうや、そうでもないらしい。
狸擬きの、
「山火事と雨滴1つの差」
の喩えは、そう大袈裟でもなかった模様。
水の神は、我の力にも反応しないくらい、深く眠っている。
(水の神はねんねの……)
振り返り、我の後ろにいた男に両手を伸ばせば。
男は黙って我を抱き上げてくる。
「手間を掛けさせたの」
我は、男伝に老シスターに謝れば。
じっと我を注視していた、その老シスターは、
「『いいえ、私たちは、いつでも、何時でも、あなた方を歓迎します』
と、言いたいのですが」
蝋燭の揺れる薄暗がりの中。
老シスターの深い眉間の皺が、更に寄り。
「……私は」
疲れたような溜め息と共に。
「あなた方を、……いえ、あなた様を、とても恐ろしく感じます」
おや。
怖がられてしまった。
しかし。
老シスターの瞳に宿るのは、言葉通りの「恐怖」などではなく。
「……」
じっと見つめ返すと、先に目を伏せるように逸らしたのは老シスターであり。
(そうの)
「……では、長居は無用。暇するの」
老シスターは、何も言わずに、先を歩き、蝋燭は消されぬまま、扉が閉まる。
おさげはそう待つことなく、
「スコーン、手作りしたって言ったら、めっちゃ驚かれたっ!」
いつかの様な仏頂面ではなく、笑いながら駆けてきた。
おさげの様子からしても、母親はどうやら元気そうだ。
「今日は帰るのね?」
シスターは指先でおさげの頭を撫でるように触れると、
「うん。明日は仕事でなきゃだし」
街の方を見下ろす。
老シスターはこちらに向き直ると、
「……私どもの娘が、大変お世話になりました」
それでも、深々と頭を下げられた。
「いえ」
男が、隠さない硬い声で、短く低い声で答える。
そうであろう。
男にとっては、何よりも大事な我を、
「私はあなたが恐ろしい」
と形容され、さりげなくでもなく、もうここには来くるなと言われた様なものなのだ。
男からしたら、おさげのためだったとはいえ、間接的に恩を仇で返された気にもなるだろう。
馬車に乗り込み、老シスターに形だけの見送りをされ、丘を降りつつ。
「……あのさ」
丘の半ばで、おさげが、小声で訊ねてきた。
「?」
「もしかして、シスターに、何か失礼なこと言われたりした?」
と、ちらと丘の上を振り返る。
「いえ。……いや、少し」
男が、苦笑いで煙草に火を点ける。
「うわ、ごめんっ。代わりに謝らせて。シスターさ、男嫌いなんだよ」
ほーうほう?
それはそれは。
何とも興味深い。
我と狸擬きが男越しにおさげを覗き込むと、
「え?何?何か失礼なことされたの?」
おさげが男を見上げる。
「もう来るなと言われました」
正確には我に、だけれど。
「えーっ!?」
おさげはベンチから飛び上がり、
「ごめん!ホントにごめん!こんなによくしてくれてるのにっ」
何でだよもう、とおさげが困惑しつつ、目一杯謝ってくれたけれど。
おさげは悪くない。
丘を下まで降りきると、
「でも変だなぁ、そんなに表には出さない人だったんだけどなぁ」
不可解、と言ったように首を傾げる。
(男嫌い、であるとはの……)
初めて来た時は、普通に敷地を案内してくれ、男にも普通に接していた。
「うん、シスターの中では一番偉いし、他のシスターの手本になる人だしさ、普段は私情なんて全く出さない人だよ」
そうであろう。
ただ。
今、思い返せば。
ほんの少しの違和感を覚えたのは、水の神の像のある先刻の建物であったか。
あの老シスターは、栗毛の水が、「視える」とは言っていた。
ただ、我のように、3色なんて、これっぽっちも分からないと、力なくかぶりを振っていた。
あれは、本当に、言葉通りだったのか。
絶えず戸惑っていたように見えたのは、あれを視える我の存在に、だったのではないか。
ふと。
記憶が甦る。
それは、あの舌足らずな、声、
『色んな男の人を永遠に求め続ける、治らない不治の病。
その病気は治せないから、ここで、修道院で、ずっと、我慢して生きていくしかないって、シスターに言われちゃった』
そう。
あの水のなにかを掴んだ時。
水の追体験的なものをした時の、栗毛の母親の言葉だ。
(……ぬぬん)
ストンと府に落ちた。
あの老シスターは「男嫌い」であれど、「女嫌い」ではない。
そして、栗毛の母親。
あれは、人の男はもちろん、水の神を魅了するくらいなのだ。
人の女をも魅了しても、何らおかしくはない。
無論、好意を抱いていた男を盗られたと逆恨みする女は幾多数多といただろうけれど、栗毛の母親に、密かに憧れる女たちも少なからずいたはずだ。
当の本人、栗毛の母親は、異性にしか興味がなかった様だけれど。
『ここで、修道院で生きろとシスターに言われちゃった』
栗毛の母親にそう諭したシスターは、多分でなく、あの老シスター、あの女なのだろう。
「……」
栗毛の母親からの手紙を待っていたのは、栗毛の母親の帰りを待っていたのは、栗毛だけでなく、あの老シスターもだったのかもしれない。
あれが、目に見える大事な繋がりの1つ。
しかし、栗毛の背後から突如水は消えた。
その原因は。
その変化が起こる前後に訪れた旅人が、水の視えた我等が、
「何かしらをした」
それも、容易に察したのだろう。
自身の密かな想い人が、いつかここに再び戻る、帰ってくる可能性を、突然現れた得体の知れない旅人たちが、壊したのだ。
恐ろしいと言いながらも、我へ向けられる視線は「怒り」だった。
シスターと言えど、所詮、人は人でしかない。
(まだまだであるの)
馬車を降り、馬と厩舎の人間と、荷台預かり場のおじじにも礼を伝え。
「色々迷惑かけて世話もかけて、すみませんでした」
おさげの住むアパルトメントの前。
おさげが改めて頭を下げて来たけれど。
「いえ、あなたは飾らないから、こちらも気取らずに済むのでとても楽ですよ」
お気にならさずと笑う男に。
「あっはっ、全然、隙がないよね」
おさげはおかしそうに笑うと、
「先輩と一緒に、また改めてお礼言わせてください」
と我にも、狸擬きにも小さく手を振り、アパルトメントの共同の扉を開いて中へ消えて行く。
我等も帰ろうと小道を抜けて広い水路に通りに出ると、大きな橋では、男女が仲睦まじく話している。
それを横目に橋を渡ると、男が帰路とは違う道を歩き、
「夕食の代わりだ」
「のの?」
「フーン♪」
夜でもやっている飲み屋ではなく茶屋へ入ると、ジェラートを頼んでくれた。