85粒目
曇り空の翌日は、少し寝坊したけれど。
「……」
男は起きない。
「おはようの」
「フーン」
ベッドで四つん這いになり伸びをする狸擬きと下へ降りると、
「紅茶でよいかの?」
「フゥン」
牛の乳を注いだ紅茶を飲み。
おにぎりと、燻製肉を敷いた目玉焼きに、スープ。
扉を開き、空気を入れ換えつつ。
狸擬きが扉の前に陣取ると、昨夜のことが街の人々の間で広まっていないか、噂になっていないかと、街中へ耳をそばだてている。
「ここは人が多いから大変ではないかの?」
「フンフン」
自分で耳を傾けずとも、水路に流れる水を伝い、遠くからの声も流れてきます。後は、昨夜に絞った単語を拾い上げ、耳を向ければいいため、そう難しくもないと。
ほうほう。
やるではないか。
さすが狸「擬き」である。
「フーン」
今のところ、気になる単語などは耳に入りません、と。
例え、もし噂が流れたとしても、我の男の耳に入らねばいいだけの話。
パウンド型でパンを焼きつつ、お絵描きをし、焼いたパンでサンドイッチを作り。
狸擬きは、小分けにしたキャラメルを口に含みながら、休まずに街の方へ耳を傾けている。
「どうの?」
「フゥン♪」
甘くて美味しいですと。
特に問題はなさそうだ。
しかし、午後もとうに過ぎた頃。
「フーン」
夜に何か街中を駆け抜ける者がいたと話している男がいます、と。
「の?大きな噂の?」
「フンフン」
いえ、水の神様が見回りでもしていたのかもしれない、で終わっています、と。
ふぬ。
平和で何より。
狸擬きが、正当な仕事の報酬ですと、キャラメルを欲しがり、逆にキャラメルを与えていれば絶えず大人しいため、口に放り込み。
(旅用のおやつのつもりだったのだけれど)
だいぶ減ってしまった。
追加のために水場へ立つと、宿の女将が、水を届けにやってきた。
男の不在に首を傾げたけれど。
身振り手振りで寝ていると伝えれば。
「あらそう、お昼寝してるの」
嘘は吐いていない。
「パンね、とても美味しく焼けたわ、水分量多くて捏ねるのが少し大変」
丸パンを焼いた感想を伝えてくれ、水を置いて行く。
「夜は何がよいのの?」
「フーン」
おにぎり、と狸擬き。
夕食はおにぎりとお茶だけで軽く済ますと、風呂は入らず、寝巻きに着替えて男の隣に滑り込む。
「起きるの」
と呟いてみても、男は起きない。
「……」
男から小豆の匂いはするのかと嗅いでみても、特に匂わない。
「つまらぬの」
「フゥン」
早く起きればいい。
そう願った男が起きたのは、翌日の昼。
男の身体に股がり、じっと顔を覗き込んでいると、
「んん。……何日寝てた?」
男が目を覚ました。
「丸1日と半分の」
「悪い……」
「血を飲ませたのは我の」
男が我を抱いて階段を降りると、ソファで4足を広げてうつ伏せになり、ぐてりとしていた狸擬きが身体を起こした。
「そろそろ起きるかと思って、昼はこれからの」
「フーン」
お腹が空きましたとやってきたソファから降りた狸擬きは、椅子に飛び乗ると、
「……フン?」
こちらに向かって誰か、あの栗毛が向かって来ているいる模様と。
「おやの」
数分もしないうちに、扉の叩かれる音。
笑顔ではなく、少し気がかりを残した様な顔で、
「いきなりすみません」
と、何だか落ち着かなさげな様子のため、中に招けば。
「今日はおにぎりでなく、サンドイッチであるからの。お主も安心して食べればよいの」
起きた男がたくさん食べられるようにと多めに作って置いたのだ。
「わはぁ、美味しそう。……でも」
でも?
「何だか、その、……毎回すみません」
訪ねる度にと恐縮されるも、今更である。
栗毛は、男と狸擬きと共に、美味しい美味しいと食べてくれてから。
「昨日の事なんですが」
修道院にいるおさげの母親が倒れたと、おさげの仕事場に、鳥での伝書があり。
(それはそれは)
そのおさげが、
「先輩、先輩、どうしよう!!」
と酷く動揺して部屋に押し掛けてきたため、一緒に修道院へ向かったのだと。
「シスター、高熱が出て、寝込んでいて」
大人の病気は、この世界では稀有なもの。
医者には、疲労から来たものだろうと、診断されたとも。
栗毛は、おさげと共に一晩、修道院に泊まり、栗毛だけはシスターに促され、さっき、街に戻って来たばかりだったと。
「でも落ち着かなくて。……なんか気づいたら、ここに来ちゃってて」
と、恐縮されるけれど。
避けられるよりは遥かに良いのではないか。
「その、あとですね」
ふぬ?
「僕、あの日、すっかり忘れてたんです。あの、
『あれ』
のお礼を、どうしたらいいのかと……」
あれか、水の除霊擬きか。
あれに関しては。
「あれは、あれが見えた我等が勝手にやったことであるし、お主が本当にこの街から出られるのかの確証もないしの。気にしなくてよいの」
そう男伝に伝えて貰えば。
「そうっそれなんですがっ!」
ぐいと迫られる。
のぅ?
「僕、姉さんの出発に合わせて、赤の国へ行こうかと思っているですっ」
なんと。
あの眼鏡とか。
「もうすぐ姉さん、赤の国へ戻るんです。船の中で言葉を教わって、向こうで、少しお世話になろうかなと」
ほうほうほうの急展開。
眼鏡女からは、もう承諾を得ていると。
その眼鏡女は、帰りは特に仕事がないため、あの豪華な客船ではなく、主に仕事で乗る者たちが使うお船で帰るらしい。
そのため、あの豪華なお船はそろそろ出港になるも、眼鏡女の乗るお船は、出発までの猶予があるのだと。
栗毛は、その間に荷造りと、部屋を引き払う準備をしていたらしい。
一晩、修道院へ泊まり、足止めを食らったけれど。
「あんまり物を持たない方なのでもうすぐ終わります」
ぬぬ、それは見習いたい。
そして、栗毛の用件も聞き終え、承諾もしたけれど。
「……」
いつか、娘に会いに来るであろう。
「……母親はよいのの?」
その問いかけには。
「はい。お互い、この街に戻った時に、たまたま会えたら、それでいいです」
カラリとした笑顔。
「仕事はどうされるんですか?」
珈琲を淹れる男の問いかけには。
「あ、辞めます」
のーぅ。
また思い切りがよいの。
「今のところ、ガイドの予定もないので迷惑も掛けずに済みますから」
とは言えど。
職場も青天の霹靂であろう。
少々、思いきりがよすぎはしないかと思ったけれど。
珈琲を運んできたこの男も。
(結構な数の仕事相手がいたにも関わらず、我の旅に付き合うためだけに、簡単に仕事を放ったしの)
この世界では、そういうものなのかもしれない。
「それでですね」
ぬ?
まだ何かあるのか。
「4日後に、出発するんです」
ふぬ。
「度々のお願いがありまして」
なんの。
「……僕を、見送って欲しいんです」
栗毛の、笑っていない、真剣な顔。
「……」
「そうの」
男と顔を見合わせてから頷けば。
「我等は暇であるからの」
それくらいなら、お安い御用であるし、この僕っ娘が、本当に旅立てるのか、そこまで見届けるべきだろう。
「ありがとう」
栗毛は、ホッと安堵した笑みを見せると、
「後は、僕もお世話になったシスター、後輩のお母さんだけが少し気がかりなんですが……」
今は、待つしかない。
「ですよね」
と栗毛は頷き、おかわりの珈琲を飲み干すと、
「急いで部屋の片付けと、残りの荷物纏めてきます」
我等を訪ねて来た時とは違い、元気一杯に帰っていく。
それを見送り、
「……あの後輩の母親は、今回の事と、何か関係があるのか?」
男に問われたけれど。
「の。純粋な心労だと思うのの」
少なくとも、我は何も感じなかった。
そして我等は我等で、食後のデザートを求めて、街中のジェラート屋へ向かい。
「ぬふん♪」
「フンフン♪」
どこの店も美味しいですねと狸擬き。
珈琲と煙草の男の口に、味見するのとジェラートを運びながら、今日も賑やかな街の通りを眺める。
「俺たちも、彼女を見送ったら、そのまま出発しようか」
「の」
内地の方へ向かうには、一度荷馬車を積んだ船で、大回りをして内地の方へ向かうのだと。
美味しいジェラートを食べ終え、青空の下、街をプラプラと散策。
食器屋の愛らしい硝子のグラスに足が止まるも。
「ぬー……」
どこか、家を持つまでは、その前に荷台の荷を減らすまでは我慢であると名残惜しく店先から立ち去り。
「さっき食べただろう?」
「おかわりはしていないのの」
「フーンッ」
新しいジェラート屋を見掛け、狸擬きとその場でしゃがみこみ、
「食べ比べのっ」
「フーンッ」
おかわりを所望する!と狸擬き共々、声を上げてみるも。
「まだ早い」
我も狸擬きも、男にそれぞれの腕にさらりと抱えられ、男はさっさとその場から歩き出す。
「ぬーっ!降ろすの!」
「フーンッ!」
降ろせ男と狸擬き。
「……」
それには答えない早歩きの男に、
「我を放って寝ていたくせに」
抗議してみるも。
「ぐ。……あれは、不可抗力だ」
一瞬詰まった男は、それでもスタスタと歩いて行く。
「むーっ」
「フーンッ」
結局。
男が、あの臭い車輪用の錆止めを買うまでお荷物抱っこから降ろして貰えず。
そう。
荷を抱えるような抱っこからやっと降ろされたのは、港近くの、金具工具、主に舟用の品物が取り揃えられた店が並び、華やかさの欠片もない並びの店の前。
歩く客も、無骨な船乗りの様な男ばかり。
男が店主と、内地なら、いや海側にも行くならばとあれやこれやと話している間。
「あれの、男が寝ている間にジェラートを食べに行ってしまえば良かったの」
「フーン」
全くです、あの男に義理立てして部屋に居なくても良かったのです、と水路を覗き込みながら、愚痴を言い合えば。
覗き込む水路はどこも美しく、わりと深くまで透き通っている。
水の神の欠片たちは、もう海の方へ流れたのだろうか。
まだ、水路の水底を漂っているのだろうか。
「……」
何か感じるだろうかと、更に水面を覗くと、
「こら、危ない」
後ろからひょいと抱えられた。
男の買った、錆止めが詰められたバケツを、我等が荷馬車の荷台へ置きに向かうと、
「お……」
「おやの」
修道院から街に戻る相乗りの馬車から、おさげが降りてくるのが見えた。
「……あ」
向こうもこちらに気付き、雑に頭をさげてきたため、男が、
「お母様の具合はいかがですか?」
と訊ねると、少し驚いた後。
栗毛にでも聞いたのかと察したのか、小さく頷くと、
「一応、熱は下がったっぽい」
と。
それは何より。
それで街に戻ってきたのかと思ったら、
「いや、その、なんか。街の珈琲屋が出してる店のスコーンが食べたいとか、その、いきなり頼まれて……」
そう嫌そうでもない、面倒そうでもない、あくまでもそう見せているだけのおさげは。
「まだ少し熱あるのにさ、治ったら食べたいからって、変にワガママ言い出して」
仕方なさそうに、満更でもなさそうに笑う。
今日、また向かうのかと訊ねると、
「もう馬車は終わるから、明日」
と。
スコーンだけはこれから買いに行くと。
ほうほう。
スコーンとな。
男のシャツをくいくい引っ張ると、
「よかったら、ご一緒させて貰えませんか?」
「……え?うん、まぁ、いいけど」
おさげは、少し怪訝そうな顔をしたけれど、我がぶんぶん足を振り、狸擬きもゆるりと尻尾を振っている姿に、
「あぁ、あんたたちもスコーン好きなんだ?」
スコーン目当てかと合点がいったらしい。
「えぇ。人が作ったものを食べるのも参考になるからと」
「あ、そうそう、聞いた聞いた。あんたじゃなくて、おチビが料理するんでしょ?……なんで出来るの?」
なんでと言われてもの。
「フーン♪」
主様は素晴らしいのですと狸擬き。
ややこしくなるからお主は黙っておれ。
とは言えども。
「お主等も、修道院で色々と生きる術を教わって来たであろうの」
生ぬるい南風が吹く。
「まぁね。でも、うちは集団生活だったからさ。適当な年になると、自分が好きだったり適性ある仕事、家畜の世話だったり、編み物だったり、あたしは料理は得意じゃなくて、ハーブの世話が多かったな」
それは意外。
「ハーブはさ、年がら年中、加工もするんだよ。家畜より楽かと思ってたけど、全然、手を抜けなくて大変だった」
大きく溜め息を吐くけれど、そこには懐かしそうな笑みが浮かんでいる。
「温室もあるんだ、直接の収入源になるからさ、あんまり客を入れることは出来ないんだけどね」
楽しそうに話すとこからしても、きっと、おさげは植物を育てることが好きなのだろう。
「ハーブティの美味しい飲み方はあるか」
と訊ねてみると、店はこっちと指を差して小路に入ったおさげは、
「え?そのままで美味しいじゃん」
と、怪訝な顔をされた。
美味しい?
あれは雑草を食んだ味しかしない。
我の眉を寄せた顔に、
「あっはっ!しっかりしてんなーって思ってたけど、そこはちゃんとお子ちゃま舌なんだ」
なぜかおかしそうに笑い、
「蜂蜜入れるといいよ。あーでも、ラベンダーは、飲むのはあたしも少し苦手だな」
そう言っておさげが足を止めた小路の先の、小さな看板の置かれた店が、目的地の珈琲屋だった。