84粒目
水は、修道院へ向かうか、栗毛の許へ向かうのか。
どちらも通る橋で待っていたけれど、
「ほうほう、栗毛の許へ向かう様子の」
さすがに水の神の一部がもぎ取られているだけはある。
この街の複雑な水路を凄まじい勢いで進んでいる。
けれど、我を乗せた狸擬きも負けじと劣らず。
「フーンッ」
肉球が削れる勢いで滑りつつ角を曲がり、今は2色になった水に難なく付いていく。
が。
「フンッ」
突如進路を変え。
「の?」
『この先は歩道のない水路です、あれはこの街の水路を熟知しています』
そうの。
長い時を、栗毛と歩き、お舟に乗っていたのだ。
しかし、狸擬きも。
『なので先回りをします』
到底先回りは無理なのではと思える道を進み。
こんな時間に、扉から人が出てきたけれど、暗がりで道を風のように過ぎ去る何かを、そう深くは考えまい。
(……多分)
道とも言えない建物の隙間を抜け、積まれた木箱を踏み台に建物の屋根に乗り、化物同士、追いかけっこ。
夜の街に、飛ぶのは狸。
やがて、中型のお船が2台程度すれ違える、港近くの橋に出た。
狸擬きは我を乗せたまま、大きな橋の柵に飛び乗ると、「何か」が、水路を勢い良く流れて来たけれど、狸擬きと、狸擬きから降りた我の姿に、動きを止めた。
そう。
複雑な街中を追いかけっこしつつ、行き先を予測し、先回りしたのは、我の忠実なる従獣。
「……の」
『……』
「お主は、どこへ行くのの」
『……』
栗毛の許へ帰るのを諦めたこやつは、街を大きく迂回し、修道院の方へ行くのだろうか。
海はともかく、どうやって建物まで向かうのか。
道を這うのか。
崖から這い上がるのか。
あの石像から、どうやってか力を求めるのか。
そうではなく、ただ、自分の許に、信仰の源へ帰ろうとしているのか。
水は、ジリジリと、あれば歯軋りでもしかねん勢いで焦れていたけれど、我も狸擬きも、動くのは微風に揺れる毛先だけ。
ミモザの花が、狸擬きの背にころりと落ちる。
『……』
何か、は、覚悟でも決めたのか、ゆらりと上体を起こしてきた。
(おやの……)
そう、両腕がないまま。
「ののぅ、そこまで『実体』として強く存在するのは感心するの」
我の言葉に、反応したわけではないであろうが、
『……』
突如、何かは魚の下半身をバネに、更に水路の水を自分の力として、
「のの?」
我の首許に食らい付こうと飛んできた。
隣では、微動だにしない狸擬き。
「ほうほう、なんとも、胆力があるの」
我は、再び、今度は親指の腹を噛み皮膚を破くと、我ながら短く小さな手を伸ばし、その大きく開いた、水の口の中に手を飲ませ、血を滲ませながら、念には念を、水の中に、小豆を落としてやる。
『……っ』
水はまた笑える程にビクビクと跳ね、その水の瞳を大きく見開く。
「我の血は、とくと濃いからの」
血は少量ながらも、凄まじい勢いで水の人魚の身体を回り、水は蒸発の様なものを始め、尾から崩れるように、ボチャボチャと水路へ落ちていく。
水はどんなにもがいても、突っ込んだ我の指は、水の中に食い込み続けたまま。
『……』
最後にそこに残るのは、我の掴んだ頭と髪を模したものだけ。
水路に先に落ちたのは、おさげの執着だった。
ふぬ。
「最後に残るのは、やはり、水の神の欠片であるの」
『……』
「お主は、母親とおさげの、2人の願いに釣られたのか、もしくは、自ら飛び込んだのか」
『……』
返事はない。
指先に力を込めると、ボコボコと小さく弾けながら、頭が崩れていく。
『はーぁ、聞いて、また嫌われちゃった』
『あの子ね、彼のことが好きだったんだって。でもね、その彼に、2人で遊びに行こうって誘われたのは、私だったの』
妙に耳に残る、舌足らずな声を放つその唇は、形がよく、白い歯がちらりと覗く。
礼拝堂のベンチに気だるそうに転がる身体は、例えるならば砂時計だろうか。
硝子ではなく、溶けた蝋で出来たような、乳房と臀部の膨らみに対して、これでもかと抉れた胴回り。
『大事なダンスパーティに、誰と行くか悩んでるの。いっそ、誘ってきてくれた全員と一緒に行こうかな?』
うふふっと笑い、両手を頭上に上げて、こちらを見上げてくるのは、蠱惑の眼差し。
いつから女がここに来ていたか、その記憶はない。
女はいつも、何でもない、人のいない日にやってくると、愚痴の様な悩み事のようなものを聞かせてきた。
「敬虔」とは真逆に位置するその女は、時に、まるで薄い膜の様な、薄手のワンピース姿で現れた。
それは、夜の女たちが、薄暗がりの店の中で纏うとっておきのドレス。
舌足らずなこの女は、それを昼間から纏い、港街を闊歩して来たのだ。
悠々と、堂々と、まるで舞台を歩く女優のように。
『ね、綺麗でしょ。プレゼントされたの、君は街を泳ぐ人魚だって』
女は、耳に、指に、首に、艶やかだったり、煌びやかな宝石を身に付け、そして見るたびに違うものを着けていた。
爪先も、足の爪先まで、パッと目を惹く赤色。
それは。
どれも。
とても。
女を、より美しく、魅力的に引き立てていた。
『この間知り合った彼ね!遠くから来た旅人なんだって。私、今度こそ、本当に、本当に、人を好きになっちゃったかもしれないの!』
くるくると、両手を広げて、楽しげに、1人踊る。
その時の女は、頭の先から、爪先まで、とてもキラキラしていた。
人は発光するものなのかと、そんなことを思った記憶がある。
なのに。
次に現れた時の女は。
『……私、あの人に付いてこの街から出ていきたい。でも、身体が変なの……。月のものも……止まってるの、どうしよう』
一転。
ベンチで項垂れ、腹を抱える女。
『……』
『……すごく迷ったけど周りの、あの人への風当たりも強くて。私は後で追い付くからって、先に内地へ行ってもらったの』
『……』
『少し久しぶりね。今日は少し体調いいから来てみたの、でも、やっぱり気持ち悪い。今日は、シスターの部屋に泊まらせてもらおうかな』
『……』
『ねぇ見て、お腹。こんなに大きくなったの。あの人の子供、……だと思う』
その、何とも言えない表情ではにかむ女に。
『……』
私には、存在しないはずの、感情と言うものが、揺れた。
それが、喜怒哀楽のどれだったかは、私にも、未だに分からない。
しばらく姿を見せなくなった女は。
しかし、ある日。
シスターたちと共に現れた。
小さな小さな、本当に小さな赤子を抱いて。
『お陰さまで立派な子が生まれました』
シスターたちは祈り、感謝の礼を伝え。
女は、なにも言わず、淡い笑みだけ浮かべ、抱いた赤子の額に頬に、愛おしそうに、唇を当てる。
季節が一巡りした頃。
『あーあ、シスターに怒られちゃった』
うんざりしたように大股でやってきた女は。
『ここにね、毎回、街からの届け物をしてくれる人。元は船乗りなんですって。とっても逞しくて、とっても魅力的な目をしている彼なの』
『別に建物の中じゃないのよ?彼の荷台の中でこっそりしてたのに、荷台が不自然に揺れてて、彼としてることがね、バレバレだったみたい』
堪えきれないように吹き出す、舌足らずな女。
『でも久しぶりに男の人に抱かれたら、私がね、ちゃんと私に戻った気分なの、あぁっ、今は、とっても清々しい気分!』
『……なのに、なのにね。子供のためにちゃんとしなさいって怒られちゃった』
『次に街に降りる時は、他のシスターと行動を共にすること、なんて、厳しい制限掛けられちゃった。勿論日帰りよ』
『……』
『……辛いの』
『……』
『あの子を連れて、この街から出ようかな』
『……』
『あの旅人を、あの子の父親を探す?』
『……』
『ううん、……もう顔も忘れちゃった』
『……』
『……私は病気なんだって。色情症』
『……』
『色んな男の人を永遠に求め続ける、治らない不治の病。その病気は治すことは出来ないから、ここで、修道院で、ずっと、我慢して生きていくしかないって、シスターに言われちゃった
それから、季節はまだ一巡もしない頃。
『私、出て行くことにした。……あの子のことをお願い』
『……』
『あの子を決して嫌いになったけじゃないの……』
『いつか帰ってくるから』
『会いに来るから……』
私は。
その舌足らずで震える言葉を放つ女の瞳から、流れる涙から、目が放せない。
行ってしまう。
行ってしまう。
愛しい彼女が、行ってしまう。
祈りもせず、願いもせず、舌足らずな声で、骨すらも存在しない様に思えるその柔らかな身体を、ベンチに横たえ、時には足を組み、頬杖を付いて。
いつでも気だるそうに、楽しげに話し掛けてきた彼女。
その見た目のせいで、その病気のせいで。
同性の友達は早々と彼女の前からいなくなり、ここで私に話すしか、溢すしかなかった彼女。
ずっと私に語りかけてくれていた彼女が、どこかへ行ってしまう。
私の前から、消えてしまう。
でも。
それでも。
いつか帰ると。
彼女は言う。
いつ。
いつだろう。
それまで、それまで。
彼女が帰ってくる、唯一の「理由」となる彼女の子供を。
私にとっての「希望」となるあの子を、守らなくてはならない。
「身勝手な私を忘れないで」
勿論。
忘れない、忘れない、忘れない。
それが、例え、私でなく、自分の娘に放った言葉だったとしても。
水の神と呼ばれる私の一部と、彼女の流した涙が、ゆっくりと混ざる。
なぜならば、私は、彼女の娘を、守らなければならないから。
いくつもの季節が巡った頃。
それは、季節外れの大雨の日。
ふと目が覚めた時。
目の前には、若い女がいた。
『パパ、……事故じゃなかった、パパ、自分から死にに行ってた』
『……あたしがいたから?ママがいたから?』
『なんで、なんで、なんで?』
『もうなんでもいい、もうなんでもいいから』
『なんでもいいの。お願い、誰も、もうあたしの前からいなくならないで』
『いなくならないようにして!』
私の目が久しく覚めたのは、父親を亡くした若い女が、その真実を知り、その心の酷い戸惑いと、揺れ方に共鳴したため。
『……』
無論。
それだけではない。
若い女が開きっぱなしにした、雨が忍び込む扉から、私の一部と、あの彼女の涙が混じったものを肩に乗せた、すくすくと成長しているあの娘の娘が、
『……どうしたの?』
二度、父親を失った娘に、声を掛けたから。
『お姉ちゃん……』
そう、彼女は、父親を失った娘にとっても、とても大事な、
「お姉ちゃん」
いつも自分を気に掛けてくれる、優しい姉。
血など繋がっていなくても。
私にとっても、彼女にとっても。
どちらにも。
大事な、大事な、大事な。
『お願い、お姉ちゃんは、あたしの前から、いなくならないで』
あぁ。
この父親を失った娘も、彼女の娘が「ここ」にいることを望んでいる。
強く、とても強く。
私は、それに共鳴する。
そして、彼女の娘が、
「いなくならないよ」
と頷けば。
言霊として約束は結ばれる。
父親を亡くした娘の、肌に張り付いた涙と汗と雨粒の混じった「それ」
は、私の一部に、そう、
「大事な娘」
の肩越しにやってきた。
その大事な娘の成長に合わせ、私達も成長をした。
それは、勿論。
舌足らずなあの娘の娘を守るため。
いつか、自分の娘に会うために、帰ってくるあの娘のために。
大事なお姉ちゃんが、どこにもどこにも行かないように。
ゴポッ……
『主様』
「……の」
ふと「今」に戻される。
「……ぬぬ、こやつは欠片も残らぬの」
自称湖の主は、透明な石を残したけれど、こやつらは何も残さず、跡形もなく水路に落ち、今度こそ、消えた。
「なんの、ケチであるの」
『変なものを食べるとお腹を壊します』
「ぬぅ」
帰りは、水の街をトコトコと歩いて帰りながらも。
栗毛の母親とやらは。
水の神すら魅了する、人の女。
それは、どうにも凄まじい力である。
信仰心ではなく、まるで友のように接していたのも、水の神が惹かれた理由だろうか。
それでも、水の神を通して見た我ですら、ただの人の女なのに、妙な魅力があるのは感じた。
栗毛や老シスターから話を聞く限り、自由気儘、身勝手な女だと思っていたけれど、色情症とは。
街から出て行ったのは、自分が消えることで自分の娘を守る、そんな意味もあったのだろう。
どんなに人がいいこの世界でも、限度も限界もある。
幸運にも、娘には「病気」は遺伝していないようだし、娘は、街でも大層皆に慕われている。
『修道院とやらへは行かれますか?』
「ぬ?」
あの水の元凶か。
「ふぬぬ」
あくまでも、奇跡的に練り上げられた混ざりものが、長い年月を掛けて栗毛に執着していただけであるし。
「よい、帰るの」
とうにおねむの時間である。
貸家へ戻り、男が寝ていることを確かめ、巫女装束を脱ぎ畳み、寝巻きに着替えると。
狸擬きがベッドに腰掛け、足を拭いて欲しい、と甘えん坊になっている。
「ほい、ゴシゴシの」
「フーン♪」
薄暗い部屋で眠っている男の隣に寄り添い、薄い布団を被ると、
(いつ起きるかの……)
朝はもう栗毛が迎えに来ることもない。
これなら、男を安心して、寝かせられる。
そう。
血を与えたのは、男を寝かせるためだった。
それは確かで。
それでも。
あの日。
高台へ上がった時、男の汗を舐めた時。
我は、柄にもなく、少しばかりの焦りを感じた。
男が、栗毛を、見ることに。
あの栗毛は、少なくとも半分は、幾多数多の男たちを、神をも魅了する女の血が流れているのだ。
我が男に血を与えたのは、あくまでも、あの水と決着を付けるため、男を寝かせるためだと言い聞かせながらも。
その実。
我は、我の男を、より、我のものにしたかった。
「……」
心も何も、血では縛れないと、解っていながらも。
(我も大概、この男に、執着しておるの……)
水の神を、笑えぬ程度には。