83粒目
「雨であるの」
昼にはやみますと狸擬きは朝食を食べ終わるなり、また2階へ二度寝しに上がって行き、ジャムを煮ながら刺繍の練習。
男は煙草を吹かしつつ、誰かに手紙を書いている。
ジャムの後は、キャラメルをかき混ぜつつ煮詰めていると、
「フゥン?」
何やら魅惑的な甘い香り、と狸擬きが寝癖を付けて降りてきた。
「キャラメルの、冷めて固まるまで待つの」
「フーン♪」
これも日持ちするだろう。
雨のやんだ午後は、買い物がてら水の街の組合に向かい、南の方まで荷を送りたいと伝えると、陽に焼けた老人、組合長が出てきて、
「支払いは加工前の石でも構わないよ。おぉ、立派なもんだ」
茶の国の茶の森の奥でたんまり拾った紫の石が役に立った。
「石は確かに受け取ったよ。この荷は、水の街の組合が責任を持って、遠い南の港街へ届けよう」
「お願いします」
ついでに内地の方の話を聞くと、
「内地は内地で街ごとに賑やかだ、陸続きで国境があるけれど、特に問題はない」
と。
「の、お主も水の神を信仰しておるのか」
組合長に訊ねてもらうと、
「んん?どうだろうな、わしは7日に一度の挨拶には欠かさず行っているけれど、逆に言えばそれくらいだ」
のぅ、充分である。
買い物をするけれど、狸擬きがお舟を嫌がるため、どこも徒歩移動で時間がかかる。
必要なものは揃い貸家へ戻ると、
「のの?」
貸家の扉の前に座り込んでいるのは、栗毛。
栗毛は、ぼんやりと水路とその向かいの建物を眺めていたけれど、
「あ、お帰りなさい」
と立ち上がり。
今日はもう約束はなかったはすだけれど。
「はい。今日は、プライベートです」
おやの。
「実はもう一つ、案内したい場所がありまして」
仕事場から舟の貸し出し許可も貰ってますと栗毛。
断る理由もない。
荷を置いて歩きながら、眼鏡女はと問えば。
「事務所には居ませんでしたね、二日酔いじゃないですか?」
栗毛は。
「あ、午前中はしんどかったです」
ほうほう。
それでも、わざわざ来たのは。
「旅人さんたちが、いつ出発しちゃうか、分からなかったので」
ミモザが端に溜まった水路。
並ぶ渡場に舟は少なく。
揺れる小舟に、栗毛がまた片足で押さえれば、狸擬きは、今度は自らひょいと舟に乗り込み、栗毛の少しがっかりした顔。
「よいしょっ」
軽くはないオールを掴むと、
「少し狭い水路を抜けて少し内地側へ行きます。自然の川が流れていて、景色が綺麗なんですよ」
川とな。
ザルを持ってくればよかったと後悔する。
栗毛は、舟ですれ違う船乗りだけでなく、水路沿いを歩く住人にも、
「あら、元気?」
「最近ご無沙汰だな、また食べに来てくれよ」
声を掛けられることが多く、
「大きい街ですけど、ずっといるとみんな知り合いになるんですよ」
特に修道院出身の子は、皆が気に掛けてくれて、優しくしてくれると。
「居心地よくて、不満もないんですけどね」
とぽつりと呟く。
建物の間の水路は、もう陽も当たらず少し薄暗い。
「寒くないか?」
「の」
平気の、と頷いても、それでも男が肩を抱いてくれ、すると狸擬きももさりと毛を寄せて寄り添ってくれる。
港から離れれば離れるほど、人の気配も減り店も少なくなる。
住居区が増え、それでもミモザの花は減らず、外灯が点く夕刻までの道を明るく染めている。
建物も減り、徐々に水路は広がり、
「のの……?」
徐々低い低い山々が見え。
「フーン」
久々に見る川へ出た。
川幅は広けれど中型の舟がせいぜいの深さで、先は蛇行し、先の海まで続いているのだろう。
「ちょうど、夕陽の時間ですね」
穏やかに流れる川は、今は鮮やかな橙色に染まっている。
所々に舟を停める渡場があるけれど、人もおらず、舟もいない。
栗毛女はすいすいと渡場の杭の1つに向かうと、
「よいしょ」
縄を引っかけ、
「ここから見る西陽、とても綺麗なんですけど、西陽を長時間見るのはよくないって言われてしまして」
ふぬ。
いつだったか、男にも聞いたことがある。
あれは、草原だったか。
栗毛が渡場に上がると、我等の前に来るように乗り込み、西陽を背にして、でっぱりに腰を降ろす。
「でも綺麗ですよね、この夜の始まりに、僕は、ホッと出来るんです」
栗毛女はそう呟いて振り返り、その横顔は、いつもの人懐っこいものより、だいぶ大人に見える。
そして、我等に視線を戻すと、
「その……」
「……」
「……僕は」
ふぬ。
「この街を、出てみたいです」
じっと、我を見つめてきた。
栗毛の栗毛が夕陽に照らされ、とても美しい。
栗毛の背後の水は、ゆらりと揺れ、その栗毛に、今は頬擦りをしている。
「僕は遠くへ、行きたい」
川に流れる風だけでなく、水も、栗毛を掬う。
悲しそうに、引き留めるように。
「……お主に憑いた何かはの、きっと、ずっとお主を守ってきた」
「……はい」
「その守護もなくなるのの」
「……今まで守ってくれただけで、充分です」
決意は固く。
「の」
我は立ち上がる。
男の気掛かりな空気。
男にも、もう目を凝らさなくても視えるのであろう、人の、人魚の姿をした水。
栗毛に憑いた水は、存在を隠すことをやめ、栗毛の身体に巻き付くように栗毛を包み、
「え……」
栗毛女も、さすがに、
「何……?」
身体を締め付けられる様な感覚は分かるらしい。
「我は魔法は、さっぱりであるがの」
「……」
「妙な力は、ほんの少しばかりあるの」
身体に、力は入れない。
むしろ、身体の力を抜く。
さすれば。
視界の端でぶわりと狸擬きの毛が膨れ、我の髪すらも、風に吹かれるのとは違い、ただふわりと揺れ、栗毛の瞳が見開かれる。
いつかの自称湖の主の様に、手許に引き寄せるかと思ったけれど、
「のの……?」
(ほうほう……)
さすがに我に何かを感じたのか、栗毛を庇うように、我の前にするりと揺蕩う人魚を象った水は、しかし。
ゆるりと伸びた水の腕は、指先まで美しく人の指を模倣した手先は、我の首を目指し、伸びてきた。
(……所詮は、醜い執着と後ろめたさの塊であるかの)
栗毛に、男と狸擬きもギクリと身体を強張らせるけれど。
こんなもの。
「微風にも感じぬの」
水の腕を片手で払うと、
『……!!』
あっさり、鋭利な刃物が通ったように肘辺りからボタリボタリと水の腕は落ちた。
水は、なまじ無駄に力があるため、水の癖に融通が効かないらしい。
水の腕は戻ることも、かといって再生もできず。
「ほれの」
代わりに両手を伸ばして首を絞めてやれば。
『……!!』
「はは、凄いの、まるで人のように苦しんでおるの」
魚を象った下半身がビチビチ跳ね、何とも、滑稽極まりない。
その姿は、目の前の栗毛にもはっきり見えているらしい。
その瞳に浮かぶ驚愕と恐怖は、自分に憑いていたこの水に対してか、薄汚い笑みを浮かべて、水の首を捻る我に対してか。
あぁ。
きっと、
(どちらもであろうの)
水なのに肉のような奇妙な感覚。
このままくびり落とすかと思ったけれど。
栗毛女が、歪めた顔のまま、いやいやする様にかぶりを振り。
(ふぬ……)
我は、首を持ったまま、
「ふんっ」
川に放り投げた。
さすれば、じゃぼりと水に落ちる音がするのだから凄いものである。
二の腕も、ポイポイと放れば。
「……ぁ」
栗毛女は、無意識か、川に片手を伸ばしかけたけれど。
「……の?」
ぐらりと身体を揺らすと、そのまま、こちらに倒れ込んできた。
「のの?」
しかし、すかさず狸擬きが我との間に滑り込み、
「フンッ」
身体で支えている。
「す、すみません」
と言葉を放ったと思ったら、そのまま狸擬きに凭れる様に昏倒した。
「お疲れ」
男の言葉に、
「の」
振り返れば、男は、ひたすら我を気遣う、静かな笑みを浮かべており。
「抱っこの」
「おいで」
よっと抱き上げられる。
栗毛は狸擬きが枕になり、栗毛が目を覚ますまで、夕陽が沈んでいくのを、じっと眺めていた。
「ん……?」
目を覚ました栗毛は、
「あ、すみません……」
動揺はなく、
「ふかふか」
枕になっていた狸擬きに嬉しそうに笑い掛け、身体の異常はないかと訊ねたけれど、
「んん、特に何も」
と自分の身体を見下ろし、身体の重さ軽さも変わらないと。
早く戻らないとですねと、元気よく立ち上がる。
我のことは気味悪く思わぬのかと振り向いて訊ねたけれど。
「とんでもない、……ヒーローですよ」
んふっと笑われ。
おやの。
男が眉を寄せる。
陽が落ちると、お船も格段に減る。
街灯はあれど、夜のお舟の移動はあまり推奨はされないらしい。
水のことは、これっぽっちも気づかなかったの方問えば。
「全然です。一度だけ、シスターに、何か言われた気がする、程度ですね」
カラリとしている。
「今は、仕事場でも、特に街の外へ行く話はないんですけど、あったら、手をあげたいです」
ふぬ。
きっと行けるであろう。
お舟で指定の渡場まで戻ると、今日は念のため早めに休めと、名残惜しそうな栗毛をアパルトメントまで送り。
我等は、貸家へ帰り。
「あれの、お主等は優しかったのの」
夕食は、おにぎりとオムレツと、クラムチャウダー。
「ん?」
「フーン?」
「不思議そうな顔をしつつも、赤飯おにぎりを美味しいと言って食べてくれたからの」
おにぎりを食べた栗毛の、あの何とも言えない不可思議な顔。
「いや、俺は本当に美味しいと思ったよ」
ふぬ。
「フーンフン」
と狸擬き。
のの?
「彼は、なんて言ってる?」
「『あの女には、水がとても強く干渉していたため、主様の一部である豆の存在を警戒し、無意識に避けようとした結果、味覚に現れたのでしょう』
と言っておるの」
男はなるほど、と頷き、
「君が川に放ったあれは、どうなった?」
「ぬ?どうにもならぬ。海へ流れて終わりの」
「そうか」
男の安堵の表情。
それぞれ風呂を済ませ、狸擬きは、濡れた布で拭くだけで済ませてやる。
「最近、血を与えておらぬの」
ベッドに横たわる男の身体に股がり。
正確には、股がれる足の長さはなく、男の身体に乗っかれば。
「……唐突だな」
戸惑う表情を浮かべつつも、ちらと眉を上げる。
「先日、お主の汗を舐めた時に、血が薄まっている気がしたのの」
唇を尖らせれば、
「……そう、なのか?」
いつだって我の血が欲しい男は、我のその言葉が、どんなに突飛であろうと、傾かない、乗らないわけがなく。
男は、ちらと隣のベッドを見るけれど、狸擬きはまだ下のソファでひっくり返っている。
「正直なことを言うとの」
「……」
「夕刻に変なものと対峙したお陰で、我は今、血が滾っておる」
「……」
「少し血を抜きたいのの」
そこまでお膳立てしても尚。
男は。
「……何度も言うけれど、俺は君の身体を傷付けたくない」
そこだけは強情。
「我は、この小さき身体故、月のものは起きぬからの」
勝手に血の流れる身体ではない。
それに。
「我は痛みにも滅法鈍いの」
自分の犬歯で指の腹を破くくらい、掠り傷より痛みはない。
男の躊躇は、聞かず知らぬ見ぬことにする。
でなければ埒もあかない。
「あむぬ」
人差し指を噛み、男には見えぬように深く抉り、男の口に運んでやれば。
「……ああ」
もうそこには、躊躇いなどなく。
手首を掴まれ、大きな吐息と共に、男の口の中に指を含まれる。
「……んんっ」
この時ばかりは、男は容赦せず、我の傷口に触れるし抉る。
そう。
(それでよい)
いつでもどこでも、こやつは遠慮ばかりであるからの。
唾液と共に、数度、喉を鳴らし我の血を飲み込み、荒い吐息と共に、唇にも我の血を付けた男は。
「……はっ」
(おやの……)
耐性が付いてきたのか、すぐには気を失わない。
変わりに、手首を掴まない片手で、我の頬を包むと、
「……」
しかし。
そのまま、手は落ちて行き、瞼は閉じられ。
間も無く、一定の呼吸を始めた。
「……起きるの」
頬をつついても、耳許で囁いても、男は目を覚まさない。
「ふぬ」
(すまぬの)
男の中で、我の血が薄まっているのは、嘘。
血が滾っているのも、嘘。
男の中で、我の血は薄まることなどなく、しっかりと交わっているし、あんなものと対峙したくらいで、我の血は滾ることはない。
「……すぐに戻るの」
男の唇に付いた血を舐め取り、男の身体から、ベッドからも飛び降りる。
他のワンピースと共に畳んでおいた巫女装束を身に纏い、階段を降りれば。
「フーン」
すでに、狸擬きが扉の前で待っていた。
「頼むの」
お主の足頼りである。
「フーン」
お任せくださいと、狸擬きは鼻を鳴らす。
水の腕を落とし、首を絞めた時。
苦しがったのは、3色のうち、主に1色。
他の2色が1色を犠牲にしたのかは分からない。
ただ、そのお陰で1色はほぼ消えた。
勿論、あのまま、水を切り刻むか何かをして、残りの2色、執着も何も潰すつもりだったけれど。
栗毛が、かぶりを振り、酷く怯えていたし、あそこでは水がどうでるか見当も付かず、川に投げた。
しかし、あれだけのもの、さすがに川に投げただけで、消えはしない。
むしろ、水の中。
今も、水路を伝って、こちらに向かっているであろう。
ーーー
夜は丑三つ時。
石橋の手摺の上を歩くのは、1人の幼子。
隣には、もさりとしたシルエットの4足の獣。
見慣れぬドレスを纏い、腰まである長い黒髪を風に流している。
幼子は、不意に片手を伸ばし、手の平を下に向けれは。
水路の流れに沿ってやってくる「それ」に気づくと、手の平から、パラパラと「何か」を落とす。
「それ」は、その「何か」をとても嫌がり、進路を変え、水路の流れに逆らい速度を上げる。
石橋の手摺に立っていた幼子は、いつの間にか隣の獣の背に乗り、彼女を乗せた獣は、たっと橋の柵から降り、「それ」を、追い掛け始める。