81粒目
「この街、から?」
栗毛の怪訝な顔はもっともで。
「必要ないならば、幼子の寝言とでも思ってくれればよいの」
「……」
男は伝の我の言葉に、栗毛女は目を伏せると、じっと何か考え始める。
(あれの、我は妙に水に縁があるの)
いつかの池も、水であった。
首を突っ込むつもりはなかったけれど、もし本当に、
「この女の望まない足枷」
ならば。
それを外してやっても、バチは当たらないであろう。
「なー!せんぱーい!もう帰ろー!」
建物の前でおさげがこちらに向かって声を上げている。
挨拶は済んだのだろうか。
「行きましょうか」
男が栗毛を促し。
「は、はい」
(まぁ)
少し早急であったかもしれないけれど、この修道院に来てから、あまりにも栗毛女の「水」が見えすぎるのだ。
そして何より。
絶えず水中で息を吐くような、ゴポゴポとした音がうるさい。
狸擬きも迷惑そうにふるふる身体を振って、ゴポゴポ鳴る泡の音を消そうとしているし。
老シスターに見送られ、行きとは違い、誰も言葉を口にするとこなく、馬車で街の馬舎まで戻ると。
「今日のガイドはここまでで結構です」
心ここにあらずな栗毛と、帰り道はとりわけ不機嫌な空気を隠さないおさげを降ろすと、男が解散を申し出た。
「え、でも……」
栗毛女は、まだ時間が、と躊躇するけれど。
「この子を少し休ませたいだけなので、お気にならさず」
男が我の頭を撫でる。
我も疲れたふりをして男にしがみつけば。
「じゃあ……」
栗毛も納得する。
「えぇ、今日もありがとうございました」
男の作り笑顔に、栗毛女はぺこりと頭を下げ、おさげは仏頂面でそっぽを向いたまま。
普段なら、多分そんなおさげを、栗毛が嗜めるのだろうけれど、今はそれに気付きもしない。
そんな2人と別れると、
「俺たちも何か食べようか」
「の」
少しの距離だけれど歩けたことに満足したのか、ご機嫌な馬たちを再び厩舎の放牧場に放ち。
「どこがよいのかの」
「フーン」
お舟などに乗らずとも、わたくしめが美味しい店を探して見せましょうと、食事となった途端、張り切り狸。
栗毛と別れ、あのゴポゴポとした音が消えたせいもあるのだろう。
じゃあ任せようかと、先導する狸擬きに続き、しばらく水路沿いの歩けば。
「フンフン」
水路の向こう側に、美味しい匂いがしますと狸擬き。
その向かいの店は、テラス席が道の前に並ぶ店。
新しくもなく洒落てもいないけれど、昼を過ぎたこの時間でも、数人の客たちは、楽しげに食事をしている。
小さな橋を渡り、テラスのテーブルを片付けていた女将に声を掛けると、
「あら、珍しいお客さん。どうぞ、うちはね、魚が売りだよ」
おやの。
狸擬きにしては珍しい。
男はメニューを開かずに、
「お任せしても?」
女将に問えば。
「いいよ、任せて、ちょっと待っててね」
女将が建物の中へ消えると、男が改めて我に向き直った。
我は、栗毛の背後に、女を象った水が見えていたことを話すも。
「……」
なぜ俺にそれを伝えなかったと無言の圧をかけてくるため。
そんなもの。
「我等には、何の害もなかったからであるの」
男の、何とも言えない表情。
「それでもの、水の音がうるさくてかなわぬのの」
「水の音?」
「フーン」
うるさかったですと狸擬き。
「コポコポと、水ではなく、空気の音であるかの」
そして。
「あの人魚の像のある建物での、声が聞こえたの」
「どんな?」
栗毛の母親の言葉、それに幼き頃のおさげの言葉をそのまま口にすれば、
「……2人の願いを、水の神が聞き入れたのか?」
男が煙草を取り出したけれど。
「はいはい、まずはビールだよ」
女将がビールを運んできた。
「え?酒は頼んでない?あらやだね、ここに来る客はビールが当たり前なのよっ」
あっはっは!と笑う女将。
確かにおまかせと言ったのはこちらである。
「フーン♪」
そのビールを自分に寄越せ、と男に前足を伸ばすのは狸擬き。
「せっかくなので、頂きます」
男の前に置かれたビールを、男が狸擬きの前に置けば。
「フンフン♪」
当然のようにグラスを受け取り口を開くと、カパーッとビールを流し込む。
「あらま」
いい飲みっぷり、と女将。
「追加で、2杯お願いします」
それを見た男は指を2本立て、女将がはいはいと笑いながら中へ戻るのを見送ると。
男が煙草に火を点け、先を促して来たため。
「先刻もシスター話したけれどの、3色が混ざっているのの」
「多いな」
そうの。
「1つは、母親の身勝手な執着であるの」
男は黙って頷く。
「1つは、あのおさげの願いの」
老シスターが察してはいても、聞きたがらなかった答え。
父親は、水の事故で命を落としたのだろう。
「最後の1つは。水の神の一部、人々の信仰の欠片であるの」
いつから「水」が栗毛に取り憑くようになったのかは、我にもわからない。
ただ、2人の思いに、水の神が応えたのか、あるいは、あまりの強さに、引き摺られたか。
「はい、おつまみの豆だよ」
おかわりのビール、塩で炒った豆が置かれ、狸擬きが豆に前足を伸ばしながらも、毛に覆われた耳だけは、こちらに傾けている。
栗毛とおさげ。
2人の仲は良さげに感じたし、実際仲良しなのであろうけれど、おさげは、無自覚に栗毛女を、縛っている。
続いてイカのフライが運ばれてきた。
「フーン♪」
狸擬きと我は手を伸ばすけれど、男は手を付けず、何かをじっと考えている。
「冷めるの」
男に食べるよう促しても。
「……彼女が」
「ぬ?」
「その水からの解放を願った時、君に危険はないのか?」
男が手を付けないビールを、狸擬きが、そろりそろりと手許に引き寄せている。
ふぬぬ。
そんなことを考えていたのか。
「……お主は、まだ我の力を見くびるのかの?」
にまりと笑って見せれば。
「心配なだけだ」
真顔で全く冗談が通じない。
「あのの」
そもそも。
「あんな人の執着擬き、格下処の騒ぎではないの」
「それだけじゃない、街の人たちの信仰心も含まれているのだろう?」
ぬぬ。
「まぁ、そうの」
水の神は街の人間の信仰の力そのものである。
それでも。
「フーン」
主様を山火事とすれば、あれは1滴の雨粒程度、力の差がありすぎる故、相手にもなりませんと狸擬き。
「彼はなんて?……ん?」
男が掴もうとしていたビールのグラスがないことに気づき、変わりに鼻の頭を泡で濡らしてげっぷをする狸擬きの前に、グラスが3つ。
男は、仕方ないの苦笑いで済ませているけれど。
「お主、夜は酒抜きであるからの」
「フーンッ!?」
そんな殺生な、と狸擬き。
「当たり前の」
男の分までくすねて飲み干しているのだ。
そんないやしんぼに育てた覚えはないのだけれども。
「はいおまたせ。あらま、どうしたの?」
しょんぼり耳を落とす狸擬きに声を掛けた女将が、テーブルに置くのは、薄く切ったパンに鱈のペーストを塗ったものだと。
「ワインが合うよ」
女将の提案に、
「フーン♪」
途端に顔を上げて、尻尾くるくる期待の眼差し狸。
男が、敵わないなと笑い、
「2杯お願いします、彼女にはジュースを」
「はい毎度っ」
鱈のペーストは、
「ほうほう、これは新鮮であるの」
「悪くないな」
我でも作れるだろうか。
更に魚の切り身を軽く蒸したものか運ばれ、締めはアンチョビのスパゲッティ。
「ぬんぬん、アンチョビとやらも美味の」
塩辛さがよい塩梅。
日持ちもしそうだ。
我は、伸びてきた男の手で口許を拭かれながら。
道を歩く人々のざわめきに耳を傾ける。
「……」
海のド真ん中ほどではないけれど、若干、不利であるのと、先刻の栗毛の水を思い出す。
それは、信仰心の強さ、などではなく。
栗毛女、と言う人質がいるせいである。
まぁ。
けれど、それも。
そう。
栗毛女が、
「外に出たい」
と言い出せば、の話である。
「また来てよ、可愛いお客さんたち」
店の女将に見送られ、
「の、デザートが食べたいのの」
我を抱き上げる男にねだれば、
「フン」
ほろ酔い狸も、わたくしめも食べたいですと千鳥足で付いてくる。
「何がいい?」
「ふぬ、この街の甘味は何があるのかの」
足取りが若干危うい狸も、今は役に立ちそうもないし、男が誰かに聞こうかと辺りを見回すと、ふと誰かが、橋の方からこちらに向かって手を振っているのに気づいた。
「?」
「こんにちは、こんなところで、奇遇ですねぇ」
我等に貸家を与えてくれた宿の女将が、橋から渡ってくるところだった。
ちょうどいい。
男がこの辺りに甘味がおいしい店はないかと訊ねると、
「それなら、私がご案内しますわ」
親切である。
「いえ、道だけ教えてもらえれば」
と男の遠慮に、
「ご案内するついでに、ご一緒させてください」
お客様たちに、少しご用もありまして、と意味ありげに微笑み。
「?」
我等は顔を見合わせたけれど、とりあえず女将に付いていくことにした。
女将に案内された茶屋は、明るく、我等の様な旅人も多い。
「ミモザの咲くこの時期から寒くなるまで、ジェラートも出してるお店なんですよ」
それがとても美味しいんですと、女将が店の人間を呼び止める。
ジェラート。
我も名は知っている。
運ばれてきたのは、少し深皿に、白い牛の乳と薄茶色した珈琲味と思われる、高く盛られたアイスクリーム。
「ぬふん♪」
「フーン♪」
ほんのりさっぱり目で、大変に美味。
「おかわりの」
「フンフンッ」
渋る男に、
「美味しいものは一期一会ですからねぇ」
女将もニコニコしながら、
「おかわりをお願いします」
と自分の分を含めておかわりをしてくれる。
我と狸擬きの中で女将の株が上がる。
その女将のご用というのは。
「その、うちのハニーがあのパンをとても気に入ってしまって。お宿代を安くするので、レシピを教えてもらえないかしら?」
ハニーとな。
どうやら新婚らしい。
それよりなにより、女将はおいしいジェラートをおかわりを頼んでくれた。それくらい、レシピくらいお安いご用である。
そして、男と話し、宿代ではなく、水の追加を頼むと、
「えぇ、お水でも勿論大丈夫です」
と。
交渉成立。
メモ帳と取り出し、分量を書き出していると、
「まぁまぁ、とってと綺麗な字を書くのねぇ」
感心された。
女将に、お主も修道院の学校へ通ったのかと訊ねると、
「いえ、私はだいぶ内地の出身なんです」
海からも遠い、山の方に住んでいたと。
こちらに来てからはまだ半年程と言うけれど、それでも、この絶えず海風に吹かれる港町で肌や髪の艶が保たれているのは凄い。
発酵の目安、最後に焼き時間を書いたメモを渡すと、
「本当にありがとう。でも、そうね、やっぱりお水だけでは申し訳ないわ」
と、メモを大事そうに鞄にしまうと、悩ましげに首を傾げるため。
ならば。
内地にいたならば知らぬであろうかと思いつつ、男に、水の街で過去にあったはずの、お舟や水難事故のことを訊ねてもらうと。
女将は、その長い睫を不思議そうに瞬かせ。
「水の街は水の神様に守られてるから、水難事故は1つもないと、聞いてます」
(ぬ?)
おさげの父親は、水の事故で亡くなったのではないのか。
確かに水以外の事故なども、そこいら中に転がっているであろうけれど。
それでも。
水難事故が1つもないとは。
水の神の力は、それほどなのか。
女将に促され茶屋を出ると、
「……その」
「?」
女将はすっと男に顔を寄せ、
「水難事故と片付けられた、……自殺があったことは、聞いたことがあります」
しんとした声に、狸擬きの耳がピクリと揺れた。
自殺。
なんと。
この優しき世界でも存在したとは。
思えば、あの黒子みたいな、どうしようもない異分子がいることで、自殺だってあっておかしくないのだけれど。
女将の案内で、人の少ない民家の道を抜けながら、女将が淡々と話してくれる。
「街を走る、一番小さな舟で、夜に、海へ、向かったんだそうです」
たまたま海沿いに住んでいる誰かが見ていたらしい。
「初めは、舟の練習のためじゃないかって言われてたみたいなんですけど」
「その方は、舟に乗る仕事でもなかったらしくて」
その時は、大きなお船がひっくり返るより街には大きな衝撃的な出来事だったらしい。
結局。
「……舟だけが、離れた岸に戻って来たそうです」
だから。
(未だに、おさげの父親の墓の中は空と……)
謎が解けた。
「お水は後で運びますね」
貸家の前で女将と別れると。
「少し疲れたな」
「の」
「フーン」
眠いですと狸擬き。
二階へ向かい、狸擬きはそのままベッドに転がり、我はワンピースを脱いでキャミソールとかぼちゃパンツになると、男にベッドに上げてもらう。
男も上着だけ脱ぐと、我の隣に横たわり、自分の腕を枕にして、片手で、我のぽんぽんを優しくぽんぽんしてくる。
「……」
おさげが、ほんの少しひねている理由が少し解った。
おさげが、栗毛に無自覚に執着する理由も。
事故と聞かされていたのに、父親の死んだ本当の理由は自殺。
しかも、ほどほどの年になってから、知ったであろう父親の死因。
それをいつ、どうやって知ったのか。
その時、おさげはどんな気持ちだったのか。
母親が娘と共にあっさりと修道院に戻った理由も、納得出来る。
街の人は皆優しかっただろうけれど、母親に娘にどう接すればいいか、周りが戸惑ったのは確かだ。
おさげは、身近な人を失いたくないと神に祈った。
修道院で暮らしながら、父親が自殺だと知った後、母親との関係も捻れて来たのか。
水の神は、助けてくれなかったわけではない。
父親が自ら海へ飛び込んだのだ。
その時おさげは何を感じ、水の神に、再び、何を願ったのだろう。
それでも、助けて欲しかったと、逆恨みをしたのだろう。
おさげに、街を出ないのかと訊ねた時。
おさげは、呆けた顔をして、
「街を出る」
そんな考え自体を、そもそも欠落させていた。
人1人の対価に、人1人は妥当。
栗毛女をこの街から出さないために、おさげもこの街から出られない。
ふぬ。
(あり得るの……)
そして。
自分の病的な男好きをやめることはせず、父親は誰とも知れず、片親であるからこそ、簡単には断ち切れない「情」で娘につけ込む母親。
きっと手紙には、
「必ず帰るからね」
と、耳障りのいい一言を添えているのだろう。
それでも。
おさげも母親もどちらも。
ただまっすぐな希望や願いではなく、捻れ歪み、執着の混ざった願いだからこそ、水の神の目を耳を惹いたのか。
「……」
信仰の塊で出来たはずの神。
その街の水の神とやらも、大概に俗物である。
唇に笑みが浮かぶ。
山の主と言われる我も、森の主であると狸擬きも我も、大概に俗物で、享楽主義であるしの。
我の腹に乗る、男の手が止まっている。
我を寝かし付けるつもりが、先に眠ってしまったらしい。
隣のベッドで、ゴロンゴロンと転がっている狸擬きに、
「信仰と言うものは、凄いものの」
「フーン?」
我も、近隣の村人に、山の神として信仰されれば、また力が増したのだろうか。
「……」
(いや、ないの)
水の神。
俗物であれど、あれは、まさに信仰から作り上げられた神であり、人々を守っている。
我は、信仰されてもそんな力は持てぬ。
神様にも、出来ること出来ないこと、向き不向きがある。
狸擬きも転がるのをやめたと思ったら、小さな寝息を漏らし始め。
(……我も眠るの)
暗い、水の底へ沈んでいく様に、落ちていく。