75粒目
狸擬きが、栗毛女の後ろ姿をチラチラ眺めながら、テテテと後を続く。
(……ふぬ)
栗毛女曰く、ミモザの時期、今の時期から人が増え、街も更に賑やかになると。
国の、大きな港の1つであるこの水の街は、
「実はこの街はですね、海の女神様が守ってくださっているんですよ」
と、大きく両手を広げる。
ほほぅ。
女神様とな。
水路沿いの道は、ミモザの香りがふわりと鼻を掠る。
少し広い水路に出てると橋を渡りながら、栗毛女は橋の下をくぐる舟のおじじに気付くと、手を振っている。
気づいたおじじは、革の鞄に囲まれながら栗毛女に手を振り返し、橋の下を抜けていく。
「あのおじいさんは郵便屋さんなんです」
鳥もいるけれど、ここでも鳥はやはり主に緊急用らしい。
「……の」
「ん?」
我の手を繋ぐ男に、栗毛女に今から言うことを訊ねて欲しい伝えると。
男は我の言葉に、少し戸惑った顔をした後、それでも栗毛女に訊ねてくれた。
「……」
男に問われた栗毛女は、
「……うえっ!?」
あー、えーと、もしかして、姉さんから、何か聞きました?
と、予想以上に驚かれ、いや狼狽された。
ぬぬ?
こちらからは、
「お主は、水の女神の加護か何かを受けているのか」
と訊ねただけなのだけれど。
酷く驚いた栗毛女は、尼寺、いや修道院と言うべきか。
眼鏡女が話していた、海の神様を信仰する、祈りの塔のある修道院で、生まれて育てられたのだと言う。
修道院は、純粋に海の神に身を捧げた者たちだけでなく、不慮の事故などで伴侶を亡くし、頼れる者が周りにいなかったり、
「僕の母親みたいに、父親が誰かわからない人がたまに来る場所なんですよ」
と、歩きながらカラリと笑う。
(……ぬぬ)
この優しき世界。
男も去勢されたかのように皆、穏やかであるけれど。
「母親が底無しの男好きだったみたいで、その時、僕の父親候補が3人いてですね、誰に似た子が生まれても修羅場になりそうだから、修道院に匿って貰ったって聞きました」
ののぅ。
問題は男ではなく、母親の方にあったか。
水辺の風は、まだ冷たい。
橋の上で立ち止まり、石橋に寄りかかった栗毛女は、
「母親は、ほとぼり冷めた頃に僕を置いて修道院から飛び出して、また男漁りに精を出し、今は、もっと遠い、別の国にいるみたいです」
黒子の女版といったところか。
「僕が働きだすまでは、男からもぎ取った、いえ、貢がせたであろうお金や物資を定期的に、かなり送ってくれてました」
ミモザの花が、苦笑いの栗毛女の肩に落ちる。
「僕は僕で、母親代わりの修道院のシスターたちや、姉妹もいたから、そんなに寂しくもなかったです」
たまに預けられる子供が男児だった場合は、幼くして早々と里親に出されていたらしい。
「女の子は、一定の年齢になると選べるんです。里親に引き取られたいか、ここで修道女として暮らすか、もしくは働けるまでここで生活するかって」
栗毛女は、水路からの風に押されるように身体を起こすと、
「こっちです」
また足取り軽やかに歩き出し、今度は建物の間の階段を上がっていく。
年季の入った、陽が入らず、細く薄暗い階段。
「おいで」
男が我を抱き上げてきた。
「僕は、他の両親に引き取られて母さんとの繋がりなくなるのが嫌だったから、高等部までは修道院で過ごして、この街で働き始めました」
街からしても、修道院は大事な海の神様の信仰場であるし、その街も、絶え間無く発展を続けているため、援助や寄付金は潤沢であり。
どうやら、我が想像しているような、具なしのスープが夕食、そんな場所ではないらしい。
栗毛女が先を進む、少しくねった階段は長く、男の息が軽く切れ始めた。
男の腕から降りようかのと告げても、
「平気だ」
男は我を抱く腕に力を込める。
いつかもこんなことがあった。
あれは山道だったか。
「僕が修道院から出た頃から、修道院には、たまに手紙だけが届くようになりました」
僕も、たまにシスターたちに顔を見せるために、修道院に手紙を取りに行ってますと、明るく教えてくれる栗毛女は、息1つ乱さない。
狸擬きは栗毛女よりも先を登り、
「フーン♪」
たまにこちらを振り返っては、楽しそうに尻尾を振ってくる。
小さな踊り場で足を止めると、けれどまたまだ潮の香りが届く。
細い脇道もあるけれど、栗毛女が進むのは、ひたすら登りの階段。
「汗をかいてきた……」
男が顎の汗を拭うと。
「もうすぐですよー」
と栗毛女が厚手のスカートを翻して上がり、それに続けば。
先は建物が途切れ、建物の隙間から陽射しが届き、男の汗が弾けた。
「のの……」
不意に視界が開けたそこは、水の街と海が一望できる、小さな見晴場だった。
大きな船が港へ向かって来ているのが見える。
街は、くすんだ橙色の屋根で、隙間なく埋め尽くされている。
「僕のお気に入りのスポットの1つです」
栗毛女は晴れやかな振り返り。
「ご覧の通り、景色は凄ーくいいんですけど、ここに来る手段が、今登ってきた長い階段しかないので、お客さんを選んで案内してますっ」
我々は、光栄にも、選ばれた客らしい。
主に体力的な意味で。
大きく息を吐く男は苦笑い。
それでも確かに、多少苦労してでも眺める価値はある。
人が全くいないのも、好印象と言える。
しばらくの間、それぞれが物思いに耽るように景色を眺めていたけれど。
「の、お主が生まれた時、何か、例えばそうの、天啓の様なものはなかったかの」
男伝の問いに、
「何か……ですか?」
栗毛女に、きょとんとされる。
も、栗毛女曰く、生まれた時の記憶があるわけでもないし、シスター達からも、何か聞かされたこともないと。
ふーぬ?
「だから、加護とかは特にないですね」
質問の答えが遅くなりました、と栗毛女はえへへと笑うけれど。
そう。
そんな風に、栗毛女は邪気なく笑ってくれてはいるけれど。
「……知らなかったとは言え、初対面で随分と無遠慮な、尚且つ無思慮な問いをしてしまったことを詫びるの」
男を介して謝罪を口にすれば。
「えー?全然ですよ。隠してるわけじゃなかったですし。むしろ、なんで加護があると思ったのか、そっちが気になりますねっ!」
ぐいぐいとくる好奇心の塊の眼差しに。
(ぬぅ……)
お船に乗れない理由を聞いて、そうではないかと思った、と伝えてみれば。
「え?それだけで?」
そうのと頷けば。
「ううーん、それはさすがにこじつけが過ぎますね!」
栗毛女の邪気のない笑い声が、風に乗って街へ流れて行く。
狸擬きが、
「フーン」
チビ助、あれは何だと、他の建物に比べて一際高い鐘の塔に、前足の爪先を向けて、栗毛女に問うている。
「はい、あれはですね!」
栗毛女がガイドとして説明を始めたため、男が、少し離れたベンチに我を座らせ、男も隣に腰掛けた。
そして、煙草を取り出そうとした手を止めると、
「……君は、彼女に、何が見えている?」
声を潜めて訊ねてきた。
(おやの)
我の、もしくは狸擬きの視線に気付いたか。
男に隠すことはない。
「人の女の形を模した水が、栗毛の背後に浮いているのの」
そう悪いものではなく感じるのは、栗毛女の絶えず朗らかな表情だ。
だからこそ、
「憑かれている」
とは安易には口に出せない。
「水……?」
男の訝しげな顔。
「そうの」
茶屋で船に乗れない理由を栗毛女が話し始めた時から、それは、ちらと視え始めた。
栗毛女がよりかかった橋にいる時も。
だから、
「悪いものでなければ、海の神の加護でも受けているのかと思ったのだけれどの」
栗毛女に自覚はないらしい。
「……そうか」
男が、狸擬きと共に街を見下ろす栗毛女に視線を向ける。
男のその身体を巡る、我の唾液と血を意識しながら。
「……」
そう。
今の男ならば、あれくらい分かりやすければ、容易に「視られる」はず。
「……」
けれど。
けれども。
我は。
それがどんな理由でも、他の女に目を向けられるのは、あまり楽しいものではない。
なぜならば。
当然、
(「我の男」であるからの)
我はベンチの上に立ち上がると、首を伸ばし、男の首筋に流れた汗を、ぺろりと舌先で掬った。
「……おわっ!?」
男はビクッと跳ねると、我に舐められた片手で首筋を押さえながら飛び上がった。
「なっ……」
な?
「何をしているっ!?」
そこまで動揺せずともよかろうに。
そして、視線はまんまと我に向いた。
(ふふぬ♪)
「我は汗を拭っただけの」
ぺろりと唇を舐めてみせれば。
男はしかと渋い顔を作り、
「……外ではやめなさい」
ほうほう。
言うではないか。
ポンッとベンチから飛び降りると、
「何か視えたかの?」
訊ねてみる。
「いや、……」
男が何かを言う前に、栗毛女と狸擬きがこちらへやってきた。
「朝市もあるので、落ち着いたらご案内しますね」
眼鏡女に負けじ劣らず仕事熱心な栗毛女は、
「今日は、港から近いお店通りへ行きましょうか」
と、彼女の帽子を持っていこうとふわりと吹き上がる風に、慌ててベレー帽を押さえている。
再び男が我を抱え、再び長く狭い階段を降りる。
栗毛女の案内で、歩いて来た橋を渡らずに水路沿いの道を歩き出すと、向かいから、ポニーで荷を牽くおばばがやってきた。
小さな荷台でもギリギリの道幅で、栗毛女を真似て道を譲れば、ポニーを牽くおばばはニコニコと会釈して通り過ぎて行く。
水路沿いの道だけでなく、先刻の様な、どこに続いているか分からない階段も頻繁に見掛ける。
「ご覧の通り、街はかなり複雑なので、もしお客様たちだけで歩く場合は、地図があった方がいいかもですね」
「ただ、地図がとても細かく複雑なので、安価で売り出せないのが、街の小さな困りごとでしょうか」
「ガイドの仕事ですか?とにかく一に体力、二に体力です。旅人さん達も同じでは?え?馬車に乗ってばかりでそうでもない?ははぁ、なるほどなるほど」
「うちは名前こそ国ではなく街なんですけど、小さな国と言えるほどには発展してると思います。ただ、昔からの水の街って名前が独り歩きして、まぁ一応街とはなってますけど、とっても大きいので、街って言葉に騙されて、徒歩で移動なんてのは間違ってもしてはいけません」
栗毛女の街の案内を聞きながら、街を歩く。
普段はガイドなど雇うことはないから、新鮮ではある。
栗毛女の案内で道を歩けば、間も無く店が並び始め。
綺麗な水色に染められた布や生地が売られている店で、栗毛女の足を止めさせ、しばし眺め。
「の、研師にこれを送りたいの」
研師は、パッチワークも嗜んでいた。
「あぁ、そうしようか」
同じ港街でも、向こうは店先に並ぶ装飾品も緑のものが多く、こちらは青色や水色が多い。
目新しさで多少は喜ばれるはず。
濃淡になるように生地違いでも何色か選び、自分用にも吟味する。
そして、通り過ぎる人間を眺め、
「フーン」
この街は獣が少ないですと感想を伝えてくる狸擬きの背中に、買った荷をくくりつける。
「確かに少ないの」
何か理由があるのだろうか。
同じ通りに並ぶ店を冷やかしつつ、装飾品の店で、男が熱心に選んでいるのは、我の髪留め。
繊細なレースの刺繍がなされている。
青色と水色のリボンを迷っていたけれど、
「迷った時は両方ですよっ」
栗毛女の無責任な後押しで、男があっさりと2つ共包んで貰っている。
「まだ早いですけど、荷卸しや食材の買い出しもあるでしょうし、先にお宿だけ案内しちゃいましょうか?」
「そうですね……」
どうすると問われ、問題ないのと答えると、店を出るなり、また男に抱き上げられる。
なぜだかいつも以上に過保護であり、もしや、我が水路に落ちるとでも思われているのだろうか。
山で川でと確かに何度か転がり落ちてるため、そうそうないとは言い切れないのが辛いところである。