71粒目
宿では、馬舎の人間たちに心付けを渡してきた。
「元気いっぱいでいい子たちでした」
と、笑顔で受け取ってくれたけれど。
泥浴びされてもそう言えるとは。
体調を崩されるよりは、少しお転婆なくらいが安心らしい。
しかし、馬たちとはそこそこ長く時を共にし、馬たちを自由にさせる時間も多いけれど、あんな風に泥遊びをしてきたことはない。
脳筋馬とは言え、案外人を見て空気を読んでいるらしい。
城の街を抜けて行き、港街まで向かうと、
「あれぇ……?少しお久だねぇー?」
酒屋の女が、またのんびり出迎えてくれた。
「あの時はありがとうねぇ、助かったよぉ」
酒が駄目になっていきたのを狸擬きが見つけたことか。
「フーン」
気にするな、礼は貰ってやってもいいと狸擬き。
「水の街へ行くのですが、手土産にお勧めのものを見繕っていただけたらと」
「いいよぉ、任せてぇ♪」
狸擬きはまたスンスコ鼻を慣らし、異常がないか確かめている。
礼は貰えていないのに、熱心なことだ。
そう広くない店内歩き回り、
「フーン」
今日は特に異常はありませんと狸擬き。
「あとは、これもお願いします」
「あらぁ、随分たくさん買うのねぇ」
1本ずつ布で包み、箱に並べて荷台へ運ぶ。
包まないものも数本買うと、
「はぁい、大したものじゃないけどお礼だよぉ」
狸擬きは、クラッカーの入った袋を貰えた。
「フーン♪」
「また来てねぇ」
荷馬車のベンチに座り、ホクホクと前足で袋を抱える狸擬きが、
「フーン」
今日は海風が少し暖かいです、と目を細める。
暖かくなってまた寒くなって、少しずつ、春が来る。
大きなお船の切符を売る建物の前に荷馬車を停めると、組合を挟んだ、氷の島へ向かう切符を売るおばばが建物から出てきて、こちらに気づいた。
「なんだい、もう出発かい?」
「えぇ、これから切符を買おうと思って」
「あぁ、それなら、その間はこの子等はうちで預かっとくよ」
男は我を見るも、我が黙って頷いたため、
「じゃあすみません、お願いします」
と建物の中へ入っていく。
「おいで、何もないけれどね」
やはりそう広くもない建物は、中も少し塩で傷んでいる。
脚の短い木のテーブルと、ソファではない長椅子を勧められた。
チケットを売り買いする方の椅子は、脚が長いからだろう。
長椅子にはそれでもよじ登ると、向かいによっこいしょと腰を下ろしたおばばに、
「水の街へは何しに行くんだい?」
と聞かれた。
よく見ると翡翠色のネックレスをしている。
何しに?
狸擬きと顔を見合せ、メモ帳を取り出し、
「『水の街』と言われるゆえんを知りに行く」
と書けば、
「難しい言葉を知ってるねぇ」
カラカラ笑われる。
「行ったことはあるのか」
と訊ねれば、
「あるよ、2回行ったね」
ほう。
「向こうで暮らすのもいいねなんて話を、してた時もあったんだけどねぇ」
皺くちゃの指が翡翠のネックレスをなぞる。
「結局、行ったのは、娘夫婦たちだったよ」
おやの。
「良いところだったと、暇があれば聞かせてたからねぇ。今は向こうとこっちを行ったり来たりさ」
ほぅ、行商人か。
そして、おばばの仕事は孫が継いだと。
「子守りで舟に乗せてたんだよ」
英才教育。
「山が大きかった」
と書いて見せれば、
「そうそう、こっちにはだいぶ内地にしかないかね、私も山と言えば氷の島だよ」
山やトナ鹿の絵を描いて見せていると、扉が開くも、男ではなく客らしい。
男2人、格好からして狩人だろうか。
我と狸擬きに気づけばニカリと笑い、
「ばあさんの孫か?」
と訊ねているらしい。
おばばは、預かってる子だよ、うちの孫はあんたたちを乗せる可愛げの欠片もない男1人だよと笑う。
「もうしばらくしたら出る時間だから、早めに荷物を選別しときな」
どうやら常連らしい。
トナ鹿の話もしている。
気狂いトナ鹿を狩った狩人の話、その2人はもう帰ったなど。
「おかしなのがいなくなったからって、山は山だからね、油断はしなさんな」
おばばの忠告も大人しく聞く2人。
狩人たちが我と狸擬きにも手を振って出て行くと、少しして男が戻ってきた。
大人しく椅子に座りお絵描きをしている我と狸擬きを見て、ほっと安堵の表情。
なんぞ、冬の終わりかけの海で泳いでいるとでも思ったのか。
男は、
「助かりました」
と片手に持っていた酒をおばばに渡す。
「こりゃまた、簡単なお守りで随分と割りのいい仕事だねぇ」
おばばの声の"トーン"が上がる。
「お孫さんとでも飲んでください」
男の言葉に、
「あーんな若造に、こんないい酒勿体ないったらありゃしない!」
孫には海水でも飲ましとくよ!
と豪快に笑い。
「切符は取れたのかい?」
「えぇ、1つ空きが出たそうで、午後に乗れるのなら、その席を埋めて欲しいと頼まれまして」
「午後?また急だね?」
おばば同様、我も少し驚いた。
早くて明日以降だと思っていたのだけれど。
いつでも出発できるように準備はしてあるから、男も承諾したのだろう。
男が椅子に座る我を抱き上げて来た。
「ガイドも雇えたかい?」
「えぇ、たまたま空いていた方がいまして」
ガイド。
あぁ、お船で水の街の言葉を教わるのか。
「午後ならそんなにのんびりしていられないね」
と、おばばは、外まで出て来てくれた。
男と握手し、あんたは孫と同世代のせいかね、妙な親近感があるんだよと握手した手に手を重ねる。
男に抱っこされた我を見上げてきたため、黙って手を振ると、
「ばばあは、まだまだ長生きするつもりだからね、帰ってきたら、ちゃあんと顔見せな」
ニッと皺くちゃ笑顔を見せる。
「の」
馬車に乗り、人を馬車とすれ違い大きなお船の停泊する方へ向かえば。
「あれだよ」
南の方から乗ったお船の大きさと比べると、2/3程度だろうか。
それでも、大層見映えが良く、
「立派であるの」
「人の数を絞っているから、不自由はないと言われたよ」
ふぬ。
「の」
「ん?」
「前の客は、なぜお船に乗るのを止めたのの?」
我を抱っこする男がぴくりと固まる。
「?」
「……新婚旅行のはずが、喧嘩して直前で取り止めたと聞いたよ」
今日の出発なのに、今日の朝一でやめると女が駆け込んできたらしい。
「ののぅ」
「フーン……」
新婚の2人に、一体何があったのか。
「切手売場では感謝された」
急であるし、縁起の点についても最悪であるからの。
少し買い物し、先に船に乗せる荷馬車を預けて、男が我と狸擬きをそれぞれ抱えて渡り橋を上がる。
甲板には若い男女が多く、港の見送りの人間に手を振っている。
我等を見送る人間はいないため、早々と、やはりこのお船も狭い廊下の客室に案内されれば。
「フーン?」
「ぬの?」
「おぉ……」
ほどほどの広さの客室の大きなベッドには花束が置かれ、更に花弁が綺麗に散らされていた。
丸い窓も飾り付けられ、テーブルには船長からの多分祝いのメッセージカード、シャンパンと思われる酒瓶とグラス。
「フーン♪」
我々はとても歓迎されている様ですと狸擬き。
先刻、新婚カップルのまんま埋め合わせだと聞かされたばかりであろう。
案内してくれた船員も、
「夜に、バーでスペシャルカクテルのご用意がございますので、どうぞご利用ください、ませ……?」
急すぎて引き継ぎが間に合ってない模様。
男が説明する前に、狭い廊下を足早に進む足音が聞こえてきた。
足音は1人分、軽い。
少し息を切らせた若い女。
こちらに気付くと、たたっと駆けてきた。
「申し訳ございません、ご挨拶するつもりが、準備に手間取り遅れてしまいました」
長い髪を頭の上でお団子にし、紺色のセーターに同じく紺色のスカート。
多分これが彼女なりの制服なのだろう。
綺麗な卵形の顔に、繊細な金縁の眼鏡がよく似合っている。
はみ出た書類や本の詰まっていそうな大きな布袋を肩に掛け、片手には大きな鞄。
我等を案内してくれた船員とも顔見知りらしく、
「ご予約のお二人様が急なキャンセルで、この方たちが滑り込みで入って下さったんです」
船員は、あぁと合点が言ったように頷くと、
「この船は、特に新婚旅行で利用してくださるお客様が多いのです」
どうにもそのようであるの。
「各オプションはそのまま全てご利用可能ですので、どうぞ、船の旅をお楽しみください」
船内の案内はお任せしますと眼鏡女に伝えると、船員は他の客の案内のために戻って行く。
眼鏡女は大きく息を吐き呼吸を整えると
「では、船内のご案内の前に、自己紹介含め、お客様のお部屋でご説明を」
と開いたままのドアから客室に掌を返すを向けた女は。
花びら散るベッドで今にも何か始まりそうな勢いの部屋に、
「……重ね重ね失礼いたしました。船内のカフェで、詳しくご説明いたします」
苦笑いで、よっと重そうな布袋を肩にかけ直した。
狭い廊下を抜けると眼鏡女は、
「そろそろ船が出港いたしますが、港の見える甲板へは行かなくて大丈夫ですか?」
と振り返る。
「見送りはいないので」
男が断ると、
「旅人さんでしたものね」
迷いなく船内を歩き、
「お腹は空いてます?」
と階段を上がった所で立ち止まる。
「フーン」
空いた、と狸擬き。
男が頷き、
「彼も自分達と同じものを食べる」
と男が伝えると、
「では、食事系が充実しているカフェの方に行きましょうか」
開放的な、まだ客のいないカフェへ案内され腰を下ろすと、狸擬きもぽんと椅子に座りメニューを広げる姿に、
「珍しいですね」
金縁眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。
「フーン」
その瞳にあるのは純粋な好奇心。
「このボリューム、今は冬毛なのですか?」
と聞かれたけれど。
「こやつは一年中これの」
「ということは、寒いのが苦手な個体なのでしょうか?」
「どうの?」
訊ねれば。
「フーン」
わたくしめが森の主になった時、まだ寒かった気がします、それからずっと毛量は変わらずですと狸擬き。
そうか、成長を止めているから、毛もそのままと。
男が、
「少し苦手みたいです」
と当たり障りのない答えを返す。
我もメニューを手に取ると、1つのメニューに2つの文字が並ぶ。
1つは、水の街の文字だろう。
(ほほぅ……)
まじまじと眺めていると、女が、
「イチオシはこちらですね」
おすすめを教えてくれるため、注文は女に任せていると、出発の合図と共に、船が動き始めた。
頼んだものが運ばれてくる間、
「赤の国で、美味しいものや記憶に残ったことはありました?」
女の問いかけに、男が、パンケーキの違いに驚いたことなどを如才なく答えている。
女は、私は実は珈琲派で、あの国では少し肩身が狭いですと笑い、南の方は珈琲が主流な国があったと男が話せば、
「そんな夢のような国があるんですね」
思った以上に珈琲党らしい。
紅茶の種類に比べて珈琲の種類の少なさに日々嘆いていると、茶目っ気たっぷりに話をしてくれる。
男が煙草を見せれば、
「1本だけ」
と、仕事を初めてからたまに吸うようになったと。
美味そうに眼鏡越しの目を細める。
「煙草を吸っていると、あの茶畑たちが、煙草の葉だったと思いません?」
女の軽口に、
「少しだけ」
男もおかしそうに肩を揺らして笑う。
2人が灰皿に煙草を押し付けた頃、テーブルに運ばれてきたのは。
長方形のパイ生地に、ソーセージの中身がみっちりと詰められたものだと教えてもらう。
オーブンで焼かれ、今は紙に包まれている。
「そのまま手掴みで、がぶりといっちゃって下さい」
女に言われた通り、
「あーむぬ」
かぶりつけば、サクサクのパイ生地に、溢れる肉汁。
「……ぬふん♪」
不味いわけがない。
「フーン♪」
美味しいですと狸擬きも熱さもなんのその、ハグハグ噛みついている。
女は一口齧った後に、
「これ、ビールが合うんですよ」
とにんまりと口許を弛め。
それにいち早く反応したのは、男よりも狸擬き。
「フーン!?」
ビール、ビール、と珍獣がうるさいけれど無視する。
「フーンッ」
しつこいの。
「昼酒など廃人の始まりの」
あの黒いろくでなしのようになるのと諌めても。
「……」
眉間に毛寄せ狸は、
「……フーン、フーン」
「あら、どうしたの?」
今度は女に、スンスンと悲しげに鼻を鳴らしてみせてから、グラスを持ち、一気飲みする仕草をしてみせる。
「えぇ、えぇ、なるほど」
ジェスチャーが大変にお上手ですねと狸擬きを褒めた女は、
「私はあなたの主様ではないので、許可を出せる立場にはないのです」
と残念そうにかぶりを振る。
ほうほう。
この女は、どうやら信用がおけそうだ。
ガーンッとしょんぼり頭を垂れ狸。
けれど、
「確かに、これはビールが合いそうだな」
珍しく男が、パイの欠片の付いた指を舐めながら呟くものだから。
「フーンッ!!」
そうです、先刻も土産の酒ばかり買って、自分には1つもなかったのです!
と、ここぞとばかりに、自分も酒が欲しかった欲しかったと騒ぎ始め、どうにも飲ませるまで収まりが付かなそうだ。
「……1杯だけであるの」
「フッ!?……フーン♪」
途端にウキウキ狸。
「あなたも良ければ」
男が誘えば、女は、いえいえ仕事中ですからと断ったけれど。
「これからしばらく世話になりますし、1杯くらい御馳走させてください」
の言葉に。
「では、その、お言葉に甘えて」
おかわりのソーセージパイと、ビール、そした芋を揚げたものも運ばれてきた。
「フーン♪」
水の街への出発は、乾杯で始まった。