68粒目
食事処からの帰り道は、急ぐわけでもないため、男と手を繋いで、我の歩調に合わせて歩いて貰っていたけれど。
宿の前で、
「抱っこの」
「ん?」
腕を伸ばして男に抱っこをせがみ、ぎゅうと男の首にしがみついたけれど。
宿の扉を開けば、我の男に色目を使う受付の女はもうおらず、受付で暇そうにしているのは若い男。
拍子抜けしながら鍵を受け取り、
「じゃあ明日の朝よろしくねー」
と黒子。
そう。
美味しいローストビーフでぽんぽんがいっぱいになった頃。
黒子が、
「今日はお酒だけでなく食事も奢るよ」
と言い出した時。
我等は本気で、何かを覚悟した。
少なくとも我は、明日は槍が降る、どころか、今ここにピンポイントで隕石でも降ってくるのではと思った。
男も狸擬きも、似たようなことは考えたらしく、狸擬きは毛を倍くらいに膨らませ、男は我を抱きかかえるように両手を伸ばしてきたくらいだ。
「なんだようっ、何もないよ!」
僕をなんだと思ってるんだよ!
と憮然とされても。
「君からご馳走すると言われて警戒しない者はいないよ」
男が恐る恐る座り直せば。
「なーっ!?本当に失礼だよ君たちはっ」
フンッと鼻を鳴らすと。
「素直に、赤い石のことを教えてくれたお礼だよ」
と残った酒をグビグビと煽り。
「……あとさぁ」
「?」
「あの『おにぎり』とか言うのがまた食べたいんだよねぇ」
と、拝む仕草で頼まれた。
ふぬ?
おにぎりとな。
「おにぎりなら、まぁ最近は主に朝食であるの」
「あれさ、味も薄いし、慣れない変な食感だけど、なんか癖になるんだよ」
癖になると言うが、お主はまだ一度しか食べていないだろう。
「フーン」
主様のおにぎりの美味しさがようやく解ったか酒飲み、となぜか偉そうなのは狸擬き。
まぁそれくらいならよいの、と頷いたのだけれど。
「では、明日は寝坊するなの」
と伝えると、黒子は1人なために、1人用の個室のある2階へ上がって行く。
「お、結構広い部屋だな」
水場がある宿と言っても、ほんの形だけの小さなものから、オーブンまで備え付けの立派な水場付の宿もある。
ここの宿は後者で、古くとも広く、水場もほどほどに立派。
荷台へ行き、必要な荷を部屋に持ち込み、パンの仕込みだけは済まし、男と順番に風呂に浸かる。
「おやすみ」
「おやすみの」
「フーフン」
外から、馬の寝ぼけた呻き声が聞こえた。
翌朝。
「おや、寝坊せずに来たの」
「寝起きはいいんだ」
あれだけ飲んでいて。
「わはー、朝から豪華だねぇ」
テーブルを眺めた黒子はそう声をあげるけれど、卵焼きに軽めのスープ、おにぎりだけである。
普段はどうしているのかと聞けば、朝昼は合わせて適当か食べない、後は夜に飲むだけだと。
黒い服に包まれるそのしなやかな細身の身体は、遺伝や体質だけでなく、日々の食生活のせいも多大にありそうだ。
席に着いた黒子は、早速おにぎりを手に取り、
「そうそう、これこれ、この変なムチムチ感がいいんだ」
うんうんっと満足そうに咀嚼しているけれど。
変なとは失礼な。
「フーンッ」
代わりに狸擬きが怒る。
「褒めてる褒めてる」
どうだか。
食事をしながら、
「え?氷の島にもう行ったの?」
そう言えば、昨夜は話しそびれていた。
「えぇ。島の人間も、旅行客も案外多いです。トナ鹿も出回り始めるし、もう少し暖かくなったら、興行も需要があるかもしれません」
娯楽の観点で言えば、氷の島の人間がより多く集まりそうであるし。
「へー」
舟いくらした?
と男に訊ねている。
答える男に、案外安いねとふんふんと頷く黒子は、
「先に青の国か、このまま氷の島、はまだ寒いよねぇ」
「寒いですね」
そもそも年中寒い、夏はまし程度にはなるのだろうか。
「寒さがネックなら、島で大々的に宣伝して、空いた建物を借りるのもありかもしれませんね」
と男。
ふぬ。
今はお祭り騒ぎでもあるし、お捻りも弾みそうである。
「お祭り騒ぎ?」
「トナ鹿の不猟が落ち着いたらしいです」
「へぇ?」
しかし。
そうだ。
「あれの、馬車がお舟に乗らぬの」
「あぁ」
男もそうだったなと笑う。
「へ?何?そんなちっちゃい舟なの?」
「君が用意するベンチは、到底乗りきらないな」
それを聞いた黒子は、あーやめたやめた、青の国へ行くよとあっさり匙を投げ。
「代わりに、氷の島のこと教えてよ」
ネタが欲しいことを隠しもせずに身を乗り出して来た。
男が話を聞かせている間に、昨夜生地を捏ね、冷蔵箱でひんやり発酵させていたパン生地を取り出す。
パウンド型にそれぞれ分けていたけれど、きちんと膨らんでいる。
オーブンをマッチで予熱し、狸擬きに焼き上がりの見張りを頼み、
「ふん、ふん」
我は珈琲の豆をゴリゴリと挽く。
湯を沸かし、珈琲を淹れるのは男に任せ、我は牛の乳を温める。
黒子には、
「……うーん、君たちの背景が全然見えない」
とソファから呟かれるけれど。
そう簡単に見破られては堪らぬ。
「どうぞ」
と、目の前に置かれた珈琲カップには、
「はー、いい香り」
目を閉じて香りを堪能する黒子。
そして、
「珈琲には、ウイスキーだよねぇ」
と恋い焦がれる様な瞳でカップを見つめる。
「フンッ?」
そうなのか?とオーブンの覗き窓からぐりんと首を回す狸擬き。
ぬ。
我の従獣に余計なことを吹き込まないで欲しい。
珈琲の香りに混じり、パンの焼ける匂いが広がる。
「トナ鹿が卸されれば、港街の方も、もう少し賑わい始めると思います」
「もう少ししたら、暖かくもなるもんねぇ」
黒子がパンの匂いに鼻を蠢かす。
狸擬きのそろそろですの報告。
焼けたパンを取り出して冷まし、昨夜持ち帰りように頼んでいたローストビーフやチーズ、野菜の酢漬けなどを挟み。
紙に包み布で覆い。
「ほれ、お裾分けの」
これ持って帰れと渡せば。
「え!?いいのっ!?」
なんだかやけに素直に喜び。
「やったぁ!サンドイッチなら、ビールだよねぇ♪」
夜が楽しみだなぁと、とことんぶれない黒子は、
「朝からご馳走さま、借りは何かしらで返すよ~♪」
とご機嫌で部屋を出て行った。
半分とは言わぬけれど黒子にそこそこ持たせてしまったため、
「ふんすの」
「フーン♪」
「よいしょの」
「フーン♪」
狸擬きとパンを捏ね。
男は、テーブルで少し書き物をしていたけれど、
「少し地図を探してくるよ」
と立ち上がる。
どこかしらの、何かしらの店で、狸擬きを通して我に聞かせなくないことでも聞くのだろうか。
「気をつけの」
「すぐ戻るよ」
男を見送ると、
「チーズのビスケットでも焼こうかの?」
「フゥン……♪」
ワインに合いそうですと狸擬き。
ぬぬ、すっかり黒子に感化されている。
黒子は、青の国へ行った後は、北だったか、寒い土地へ向かうと行っていた。
お船でどれくらいなのか解らぬけれど、そうしたら今度こそ、長い長いお別れになる。
そう、黒子が死ぬまで会わない可能性も低くない。
(あやつは早死にするであろうしの)
酒か、女に刺されてかは知らぬけれど。
生きている間は、せいぜい我等の役に立って欲しいものだ。
パンの発酵具合を見つつ、チーズのビスケットを焼き。
男はどこまで行ったのか、パンが焼けても帰ってこない。
「はーい、お返しぃ♪」
と、男の代わりに、ドアのノックの音と共に現れたのは、男ではなく黒子。
「……早いの」
借りを返すのが。
「借りっぱなしは苦手なんだよ」
と。
「ちなみに赤い石の情報は、あれは君たちの『善意』として受け取っているから」
と投げキッス。
それでよい。
こやつとは途切れかけの浅い縁だけでいい。
重い貸し借りや深い縁など、結びたくもない。
我の思惑など素知らぬ黒子は、
「あーいい香り、また何か作ってんの?」
と水場を見回す。
チーズのビスケットを見せれば、
「ひゃー!これは絶対赤でしょ、軽めの赤でサクッと行きたいよねぇ!」
うっとりと夜の酒に思いを馳せる黒子。
「フゥン……♪」
釣られて涎を垂らしかねんばかりの狸擬き。
我の従獣がまたろくでもないことを覚えてしまうではないか。
「お主、本気で出禁にするの」
眉を寄せ、ドアを指差せば。
「待った待った、ほらほら!お返しお返し!」
と、なにやら重そうな平たい箱を見せられた。
「……のの?」
「ほら、こういうお高めのって自分用には買いにくいっしょ?」
と言いつつ、あれ、彼がいないねぇ?と今さら気づいた顔。
「男は仕事であるの」
と、街中の方角を指差してから、黒子からのお返しを開けてみれば。
瓶詰めが数本。
「のの♪」
これはこれは。
さくらんぼを煮詰めた瓶詰め、キュウリと思わしき野菜の瓶詰めに、
「こっちはね、黒髪ちゃんにはまだ早いかな」
乾燥果物をブランデーで漬け込んだものだよーと。
「ほほぅ」
フルーツケーキが作れるではないか。
「フーン♪」
しかし、そう小さくもない瓶詰めたち。
黒子の言う通り、そう安くはないはず。
また何か企んでおるのかと、ちらと黒子を見れば、
「んっふふ、お陰でこの店の女の子とデートの約束を取り付けられたからね!」
とんとんだよ!と高らかに笑う黒子。
「の、ののぅ」
「フーン……」
こやつはどんな時でも、転んでもただでは起きない。
電光石火で別の女に目を付けてデートに誘うそのばいたりてぃ。
こやつにトナ鹿のツノをぼったくりで売り付けるかと思ったけれど、女であった。
そして、礼をいだだいた手前、
「紅茶でも飲むかの?」
世辞でカップを見せれば、
「いただこうかな♪」
本当に今日は暇らしい。
宿のこの部屋には、脚の短いテーブルに、年季の入った、布も何度も張り直されたと思われるソファがある。
3人掛けが1台と、向かいに1人掛けが2台。
狸擬きは、自分用、1人用にとても拘るため、黒子と並んで座る。
我が紅茶を淹れている間、狸擬きが、
「フーン、フーン」
自分はやはり、剣を持ち、嵐に立ち向かい、悪と対峙し、勝利をおさめる物語が好きだ、と身振り手振り、いや足振りで黒子に訴え。
「うんうん、解る、いいよね」
黒子は、当然、狸擬きの言葉が通じないし聞き流している。
けれど、きっと聞き流すのは、言葉の通じない狸擬きだけでなく、人に対しても同様だ。
黒子は、相手が相槌を求めているのか、同意を求めているのか、意見を求めているのか、それを言葉ではなく相手の表情、声の音色で判断し、
「こう、どーんっと派手なやつとかもいいよね」
と、1つも内容のない返答をする。
「フーン♪」
それでも、それだけで最大限に相手を喜ばせて、満足させている。
「ほれの」
我が紅茶を運べば、
「この国の紅茶は美味しいよね、さすが赤の国」
相手の求める会話をすかさず拾い、放ってくるくらいには。
「……」
凄まじい才能。
しかと空気の読めない我は、この目の前の女の能力が、非常に羨ましい。
先刻の大学への訪問でも、この黒子の特性があれば、もう少しあの教授自身が考える持論なども聞けたのではないかと思うのだ。
「紅茶、美味しいねぇ」
「フーン♪」
主様の淹れたものですから、と狸擬き。
「うんうん、そうだねぇ」
(ぬぬ……)
観察だけではない、天性の勘と、放つ言葉の確かな見極め。
一方、向かいのソファに座る、今の我にあるのは、ちんまい手に宿る力だけ。
他者を、他獣を羨む愚考など、とんと無駄なもの、と解っていても。
人の生活を模している今、考えが人へ寄っていくのもまた然り。
「……」
黒子の一部でも食べれば、多少は身に付くのであろうか。
無駄な肉はなさそうだから、噛み付くならば内臓辺りだろうか。
下らぬことを考えつつ紅茶を啜っていると、その黒子がおもむろに立ち上がり、テーブルを迂回し、こちらににじりよってきた。
「?」
我の座る3人掛けのソファの隣に座ると、
「彼さ、浮いた話ないの?」
と、にんまりと瞳を三日月にして、こそりと訊ねてきた。
意外でも何でもなく、下世話な好奇心はたんまりと持ち合わせている様子。
聞くならば、男が不在の今がチャンスと思ったのだろう。
(ふぬ)
しかし。
残念ながら。
「我の男は、我に夢中であるの」
と胸を叩けば。
黒子は、きょとんと呆けた顔をした後。
「あぁなるほど、コブが邪魔と」
うんうんと深刻そうに頷かれ。
「ぬぬっ!?」
何を言うか。
頬を膨らますと、
「冗談、冗談!」
カラカラもさもおかしそうに笑った黒子は、ふっと息を吐くと。
「……ねぇ」
声が低くなった。
「……」
視線だけを合わせれば。
「……君はさ、お人形、なのかな?」
と、背凭れに頬杖を付いて、黒子も我を見つめてくる。
「……」
「僕はね、多少の観察力は持ってるつもりなんだ」
膨らませた頬の空気を抜いた我同様、黒子の顔にも、微塵も笑みは浮かんでいない。
「子供の成長は著しい」
そうの。
「成長が遅い子も勿論いる」
人それぞれの。
「でも君は、そういうレベルじゃない」
そうであろうか。
「君は、何も変わっていないんだ」
「……」
「初めて僕が君と会った日から、君は、砂の1粒すらも、何も変わっていない」