62粒目
宿の食事は、馬舎の娘もに聞いていた通り、トナ鹿ではなくサーモンだった。
「ほぉぉ」
「ごめんなさいねぇ、今年は、その、少し不猟なのよ」
女将には謝られたけれど。
全く構わぬ。
我は、魚も大好きなのだ。
しかも、とても大振りなサーモンのソテー。
「美味いな」
「の♪」
赤身と白身の良いとこ取りな美味しさ。
「フンフン♪」
狸擬きもお気に召した様で、しかし与えた酒はカパカパではなく、チビチビと流し込んでる。
宿の主人が、酒の礼を言いに来た。
男は、ただニコニコと気前のいい旅人の振りするだけ。
サーモンがとても美味しいと伝え、明日は洞窟を眺めに行く予定だと。
「……」
そう。
我等は、少し風変わりな、ただの旅人。
「一先ずの我の目標、標的は気狂いトナ鹿のみである。見つけ葬り次第、宿に戻るの」
「……そんなに簡単に見つかるのか?」
「空からの目となり我等を助けてくれる鷹もいるのの。何より、狸擬きの足で走り回るからの。駄目ならば日を改めて、狩人を狙う奴を狙うの」
男は、男自身は宿に待機することを、あっさりと承諾した。
男も、自分が狙われる可能性が高いと判断したのだろう。
夜は早めにベッドに身体を横たえ、明日に備える。
夜明け前。
狸擬きの、
「フーン」
雪が降りだして来ました、の言葉で目を覚ますと。
寝巻きから巫女装束を身に纏い、手の平を数度にぎにぎする。
宿の窓を開くと、ぶわっと雪と潮風が吹き込んで来た。
外に飛び出す狸擬きを追って、窓枠に飛び乗り、狸擬きに股がる様に飛び降りる。
「……気を付けるんだぞ」
男の、その少し思い詰めた様な硬い表情も、また、そそる。
「すぐ戻るの」
まだ暗く、人の目はない。
最短距離で向かいますと、建物の隙間を抜けて行くと、背後から鷹が飛んで来た。
「君、足が早いね!」
と驚かれていると。
そう、我の従獣の足の早さは、本気を出せばあの弾丸鳥にも匹敵するであろう。
「この天気で、視界も少しは遮れるはずだから、上から見てくるよ」
と鷹が高度を上げていく。
『主様』
「の?」
『山の麓、例の天幕が』
「……ぬぬ」
少し近づき気配を探るも、
「無人であるの」
ということは。
『もう山へ入っているのかの』
酔狂な人間もいたものである。
『迂回いたしますか?』
「このままでよい、雪が全てを隠す」
この吹雪と狸擬きの足ならば、先を歩く狩人がいたとしても、何かが通り過ぎた、で終わる。
狸擬きは雪山を駆け上がり、木々をすり抜け、走る、走る、走る。
しかし。
「……人の気配を感じないの」
天幕をそのままに村へ帰ったか。
『もっと奥へいるのかもしれません』
この時間に?
いや。
違うの。
天幕をそのままに、
「山の奥深くで、夜を明かしているのかもしれないの」
天幕は出て行ったばかりの気配もなかった。
『では、人の気配を優先して探します』
「の」
山深く駆け、たまにでもなく、狼の縄張りに入るも。
『……』
狼たちは、我等を遠巻きに眺めるだけ。
天空から降りてきた鷹が我等に並走し、木々を緩やかにすり抜けながら、
「この辺りには姿は見えない、昨日からあまり動いてないのかもしれない」
と、昨日トナ鹿を見掛けたという山の方へ先導してくれる。
雪は更に強さを増し、それでも山の夜明けが始まり、徐々に視界が明るくなってきた頃。
先を飛ぶ鷹が、羽を上下させ、速度を落とした。
『主様』
「……の」
それは。
そこは。
唐突に、パッと視界が開けた山の中腹。
平坦な空間は、しかし一方は唐突に崖となり、一方はほんの小さな洞穴。
その洞穴の近く。
殺傷能力のみに特化した、僅かに頭を下げれば相手を突き刺すことが容易なツノを持った、トナ鹿がいた。
そして、トナ鹿と対面するのは。
(のの……?)
大柄な人間の男、我に弓銃を貸してくれた、あの無口な息子。
そして、あれだけ至近距離にいても、男は弓銃を片手にぶら下げるだけで、構えてすらいない。
こちらが風下のお陰か、吹雪のためか、もしくは目の前の格好の獲物に夢中なのか。
駆け寄る我等に気付いていないトナ鹿は、すいっと頭を下げ、無口な息子に狙いを付ける。
一方無口な息子は、まるで金縛りとやらにでもあっているかのように、ピクリとも動かず。
我を乗せた狸擬きが、風の抵抗などを微塵も感じさせず、更に速度を上げて走り出し。
「……お主!!」
それは我も、同じ。
「そこを、動くなの!!」
風も雪も何も、我の力には及ばない。
我の声が届いた男の眼球だけがこちらを向き、吹雪の中で見開かれる。
我は、そう。
ここまでの力は未だかつて、出したことがない。
それくらいに手の平に、指先に力を込めて、
「……」
気狂いトナ鹿の、今にも男の腹を突き刺さそうとしているそのツノに。
「……ふんっ!」
小豆を飛ばした。
(あぁ……)
そして思わず、声なく笑いが漏れる。
狸擬き曰く、我自身の力は、日々、微量に増している。
ならば。
そう、我から溢れる小豆だって、力が増していて当然。
ダイヤモンドとは到底いかぬども、鉛玉程度の硬度の小豆が、我の全力の力で、トナ鹿のツノに当たれば。
「……ッ!!」
ツノがあっさりと砕けると同時に、トナ鹿はぐらりと、大きくよろけ。
目の前の無口な息子は、その場に尻餅をついた。
『お見事です』
「まだの」
しかし今度は狸擬きのお陰で遥かに距離も近い。
それでも力は弛めず、全ての力を指先に込め、バランスを崩してよろめく、気狂い鹿の残りのツノに、たった1粒の小豆をぶち当てれば。
「……ッ!!」
今度はツノは根元から砕け、気狂い鹿は、ぐらりと、脳震盪でも起こしたように、その場で雪の上に、地を揺らす勢いで倒れ込んだ。
我の足である狸擬きは、肉球が擦りきれるのではと思う程、4つ足で踏ん張りながら雪を撒き散らしつつ横滑りし。
『……』
無口な男と、横たわる気狂い鹿の前で止まった。
狸擬きから降りると、旋回していた鷹も降りてきた。
「……こやつが、気狂いトナ鹿で間違いないかの」
狸擬きの背中に着地する鷹に訊ねれば。
狸擬き曰く、間違いないです、と言っていると。
そして。
『……ツノを破壊されてた今でも、主様を見つめる眼球が、正常ではございません』
と狸擬き自身が言葉を放つ。
正常ではない、とは。
通常ならば。
「恐怖であろうけれどの」
『この鹿にあるのは、怒りです』
それはそれは。
気狂いトナ鹿で間違いなさそうである。
「とんだ身の程知らずは、どこにでも存在するからの」
先刻とは、また違う笑いが口許から溢れれば。
吹雪が、空に大きな幕でも覆われたように、しんと収まる。
「……?」
狸擬きも鷹も、不思議そうに空を見上げている。
が。
(……そうの)
目の前の獲物に夢中になり、忘れていた。
「大丈夫かの」
尻餅を着いたままの男に、言葉は通じないけれど、一応は声を掛ける。
「大丈夫だ、……ありがとう」
言葉は通じずとも、言っていることは何となく通じるらしい。
気狂い鹿を指差すと、
「……まんまと、騙された」
まんまと。
「足を引き摺って、俺に助けを求めるように近付いて来たんだ」
何と。
しかもキュウキュウと悲しげで小さな鳴き声を漏らしながらと。
やはり悪知恵だけは、ただの獣とは思えない程ずば抜けている。
息子の姿に、何か足りないと思ったら。
「お主の父親はどうしたのの?」
今日はあの豪快な笑い声もしない。
辺りを見回せば、
「着いた翌日に、山に入り、こいつ怪我をさせられて宿で休んでいる」
おやの。
「ぶつかられて崖から落とされた」
なんと。
よく刺されずに済んだものだ。
2人いたから、不利だと感じたのだろうか。
(いや、違うの)
こやつは、人間を崖に落として「遊ぶ」ことを始めたのだ。
そしてこの息子は、
「1人の方が狙われやすい」
それを逆手に取り、夜から山の小さな洞穴で眠り、朝になるのを待っていたと。
それは、無謀か、果敢か。
ふぬ。
その結果がどうあろうと。
我は、果敢と称えたい。
そんな息子に、立てるかと手を伸ばそうとした時。
『……た』
(た?)
声が聞こえた。
無口な息子でも、狸擬きでもない、鷹でもない。
か細い少年?の声。
『助けて……』
こやつか。
なんぞ、我に対する怒りはどこへ行った。
『……助けて……下さい』
「なんの?」
『僕じゃ……ないんです……』
力のない声だけは、演技ではないのだろう。
僕ではない、とはなんぞ。
つい先刻、お主がやろうとしていたことは何だ。
もし。
腰を抜かしている無口な息子に、このトナ鹿の言葉が通じたら。
きっと、
「どういうことだ?」
この気狂いトナ鹿に、まんまと耳を傾けてしまうのだろう。
そして、この気狂いトナ鹿は、この状況でも、我が獣とのみ、意志疎通が出来ると見定め、素早く言語を、ただの命乞いなどではない、こちらの混乱を誘う言葉を放ってきた。
その機転の利かせ方は。
敵ながら目を見張るものがある。
獣でありながら。
「……の、その腑抜けた三文芝居」
それは。
「お主は一体、何者であるのの?」
無論、時間稼ぎも兼ねているのだろう。
「ここらのトナ鹿は、皆、そんなに悪知恵が働くものの?」
『……』
微かに震えているのは、ツノに小豆をぶち当てた衝撃が、骨を伝って未だ頭蓋骨にでも残っているだけのもの。
『……ない……。僕は、特別……』
「そうの」
我ながら愚問。
もしそうであれば、ここはとっくに人ではなくトナ鹿様の島である。
「……こんな優しい世界で、なぜ、お主の様な化物が生まれた」
我のように、どこかから飛ばされて来たのか。
『ホント……違う……助け……』
その瞳は揺れ潤み、小さな、人の子を模した何かを映し。
「の」
その、人を模した何かは、ただ無感情に、唇を開いた。
「我はの」
『……』
「以前、どこかのお山で。
そう、熊に対して、
『殺生する相手とお喋りができたら、殺生しにくくなるから、話せなくてよかったの』
なんて思ったことも、あったのだけれどの」
『……』
「まこと、残念であるの」
本当に。
「我はの、お主に震えながら命乞いをされても尚」
毛の先程も。
我の心には。
「何の感情も、沸かなかったの」
我にはどうやら、人だけでなく、獣の心すら、ない。
『待、て……違う……』
違わない。
そう。
「何も、違わないの」
何より、我より遥かに、
「正しい獣の感性」
を持つ、今も我の隣に佇む狸擬きが、何も言わぬのだ。
であれば。
こやつの振る舞いは、全てが、
「まがいもの」
その、我を遥か上回る知性知能悪知恵の高さだけは、
(心から尊敬するの)
我は、その場に屈むと、変わらずに動けず横たわる気狂い鹿の足を取ると、ボキリと折る。
『……ッ!!』
残りの3本も全て折ると、若干の痛覚はあるのか、汚い鳴き声を上げ、泡を吹いている。
「ふぬ」
そして、どうやっても自力では動くことの出来なくなった気狂い鹿を一瞥し。
立ち上がると、聳える山々に向かい。
我は、大きく冷気を息を吸い込めば。
「今、我の言葉が聞こえる狼たち!」
「ここに、動けぬ鹿がいる!」
「こやつこそ、お主等の山を騒がせていた元凶である!」
「その元凶を、我が今、ここに跪かせた!」
「慈悲深き我は、狼たち!お主等に、この鹿を与えんとする!」
「こやつを生きたまま食らい!骨の髄までしゃぶり!全てをお主等の血とし肉とし糧としろ!」
目一杯、声を張り上げた。
とはいえ、幼子の我の声など、そうそう届かない。
けれど、狸擬きに股がり山を大きく走り回っている間、最低でも3つの群れは見掛けた。
今もこちらを気にして、遠巻きにしているはず。
狸擬きと鷹は、すでに視認しているらしく、我の隣で視線をちらりちらりとそこいらに向けている。
1匹くらいは、言葉も通じているだろう。
「……」
我が声を張り上げたせいか、腰を抜かしていた無口な男が、立ち上がる。
我が引き摺って行くかと思っていたけれど、何とか歩けもしそうだ。
男が、屈まないと入れない小さな洞窟から荷を取り出し背負うのを 待つと、我は狸擬きに股がり、鷹は男の肩に留まる。
「の……?」
歩き出せば、また、途端に吹雪いてきた。
昨夜は、軽く運がいい程度にしか思っていなかったけれど、どうやら本気で、この島の天気は、我に味方をしてくれたらしい。
(ぬ、そうの)
山の中腹から木々の中に向かい、ほんの気持ち、雪を避けられる場所で立ち止まり。
積もった雪に木の枝で、
「ひ み つ」
と書けば。
無口な息子は黙って頷き、
「君は、命の恩人だ、約束は守る」
と我をじっと見下ろしてきた。