56粒目
河川港にある船たちが場所を空けてくれ、乗っていたお船が臨時港に停まれば。
「ええ?もう、ご出発なされると?」
「えぇ、時間も早いですし、私たちには馬もいますから……」
我等が馬たちは、あの衝撃でも、何か揺れたな程度の認識しかないらしく。
2頭共、
「もう着いたのか」
「また走れるぞ」
と、むしろ嬉しそうにしている。
ざわついた港の空気で、落ち着かない馬たちも珍しくない中、2頭の、その足の太さだけでなく、神経の図太さもより際立っている。
小鳥便も、組合には、
「急ぎではない、飛ばすのは一番最後でいい」
と男が伝え、その送り先は黒子。
あやつがどこにいるか分からないけれど、もしまだ茶の国に居れば、赤の国で赤い宝石高値で売れるから、そちらで適当に買い漁ってから来いと書いた手紙を金筒に忍ばせた。
黒子は祭りで一儲けも二儲けもした後は、金がなくなるまでは飲み明かしているだろうから、まだ茶の国にいる可能性が高い。
茶の国は、黒子好みのキリリとした女が多いから、尚更居座っているはず。
「なぜ?そんなに先を急ぐ旅なのですか?」
父親の困惑した表情に、
「それもありますが……」
我等には、荷台と言う寝床がある。
そして、目的地半ばで停まってしまったお船が、乗客のために手配する馬車は勿論、宿にも限りがある。
宿も馬車もなく、宿無しになる人間が万一にもいるならば、そちらに譲りたいと思うのが、滅法人のいい、お人好しの男の本心。
我は当然、そんな譲り合いの精神みたいなことは欠片も考えておらず、ただ巨大な生き物への好奇心、その一心で移動したいだけであるし。
狸擬きは、
「フーン」
特に何も考えていない。
「ならばせめて、私達の街へ来た時には是非、我が家へお立ち寄り下さい」
街の詳細な地図と、住所が書かれた紙を持たされた。
こちらは特に用はないけれど、
「……」
寂しそうに赤い外套をぎゅっと握る少女と目が合えば。
ぬぅ。
「……そうの」
無下には出来ず。
「道はあるかの」
「ないだろうな」
港で赤の国の一家と別れ、馬車で港街を抜け、来た方向に戻る様に道を進む。
川沿いは徐々に建物も減り、やがて、お船と巨大生物がぶつかったであろう場所に近い山の麓は、轍の道もあやふや。
茶畑すら終わり、ただ、低い山が川沿いに続いていた。
「川底の主は、まだあの場にいるかの?」
『相手もこちらに興味がある様子、川底からじっとこちらの気配を窺っています』
ほう。
「敵意は?」
『全く感じられません、不意打ちで川底に飲まれる様なこともないかと』
「ふぬ」
では。
「行ってくるのの」
山の手前。
狸擬きが斜面を駆け登れそうな場所に馬車を停めて貰い、馬車から降りた狸擬きの背中に飛び乗る。
「……あぁ」
気を付けるんだぞ、と諦めた笑みを浮かべる男に手を振り、山を駆け上がる狸擬きの毛を掴む。
低く小さく連なる山は、狸擬きの足ならば、数字をいくつも数える間もなく天辺に着き。
そのまま川沿いの斜面を降りて行けば。
白い息を3度程吐いた頃。
『……』
ゴポゴポと、また泡が浮いてきた。
「……巨大ナマズかの」
「フーン?」
ナマズとはなんですかと狸擬き。
知らぬらしい。
水面には上がって来ない。
『……』
「はじめましての」
『……』
「フーン」
はじめまして、先程は失礼しましたと言っていますと狸擬き。
「何かあったかの?」
『……』
自分は大きな川を長く長く渡り、旅しています。
ここに着いた頃、徐々に水温が低くなり、冬眠がてら深い深い川底で少し長めに眠っていたのですが、あまりにぐっすり眠り過ぎたせいか、身体が川底から浮いてしまい、そこにタイミング悪く人の船がやってきて、頭がぶつかってしまったと。
たったそれだけで、あれだけ揺れるとは。
「お主、相当に大きいの?」
辿れる川底も限度があるのではないか。
『……』
そうなのです、ですからそのうち、海のほうへ行けるように身体を慣らすつもりですと。
なんとも自由自在。
どうやら、巨大ナマズなどではないらしい。
「お主は、よくお船とは衝突するのの?」
『……』
いえいえ初めてです、川から浮上するのは、山を横断する時か、全く人気のない場所で、ほんのたまに空を眺めるくらいですと。
寝惚けて浮き上がるなんてことも生まれて初めてで、頭にたんこぶができたと笑っているらしい。
ののぅ。
どんな生き物なのだろう。
『……』
しかし、ぶつかったお船に乗られていたとは、とんだご迷惑をお掛けしましたと。
「平気の、お陰でお主と出会えたしの」
『……♪』
それはこちらも同じ気持ちですと、とても友好的な生き物とみた。
「……」
川を渡り旅をする、大きな生き物。
「の、お主は、川の主、ではないのの?」
『……』
いえ、自分はただただ長生きをしているだけで、どこの主でもないですと。
ほうほう。
とてつもない鈍足で川底を歩き進み、川幅が狭くなれば、山を越えてまた大きな川へ沈むのだと。
「山を、越える?」
『……』
身体は大きいのですが身体が柔らかいため、頭が通れば身体も抜けると。
だから山も越えられると。
(猫の様の……)
地でも鈍足なのか。
その巨体で人には見つからないのか。
話せば話すほど、謎は深まるばかり。
聞きたいことは色々あれど。
この生き物が、少しうとうとしているのを感じる。
「お主は、この川底でまた眠るのかの?」
『……』
えぇ、まだまだ水は冷たく、体温も低いので、この深い川底に潜り、また眠りますと。
「ふぬ」
やっとのことで、ぼんやりと見えるシルエットは、物凄く大きな、オオサンショウウオか。
平たいけれど、小型の船くらいの幅はある。
そしてぶつかった時のあの船の揺れからしても、相当な重量もありそうだけれど。
「何か、我がお主にできることはあるかの?」
『……』
有り難いお言葉、けれど、今は困っていることはありません。
と。
とかく丈夫で強そうであるしの。
『……』
ただ。
「ただ?」
いずれ再会の時には、楽しいお話をする場を設けていただければ幸いです、と。
「そうの。お互い旅をしている身、またそのうちどこかで会えるであろうからの」
お茶菓子をたんまり用意しよう。
『……』
えぇ、えぇ、その日が待ち遠しい限りと。
『……』
とても名残惜しいですが、自分はそろそろ眠りに就きます。
「またいつかの」
あくびのような泡と共に、川底へ落ちるように潜っていく気配。
重量があるはずなのに、水面は恐ろしい程に歪みがない。
重力?いや、水中だと何であろうか、それが全く存在しない。
最早、川の主どころではなく、水そのものに近い存在なのだろうか。
さすれば神に近く、我よりも強い何か、なのかもしれない。
「フーン」
それでも、地であれば主様の方に分がありますと狸擬き。
「そうかの。……しかし、大きかったの」
「フーン」
わたくしめもびっくりしましたと、我を背中に乗せて山を走りながら、木々を擦り抜ける。
川の何か自身も、自分の大きさを自覚し、そろそろ海へ行く算段を付けていたし。
海へ行ったのち、人魚とは会えたかと聞いてみよう。
山を越えて降りると、
「あぁ、お帰り」
早いなとホッと安堵する男が、馬車から降りてくる。
我が川に落ちていないことも、これっぽっちも汚れていないことを。
「偉い」
と、褒められた。
むぅ。
「フーン」
お腹が減りましたと狸擬き。
「ふぬ、そうの」
辺りを見回しても、街からは遠く離れ、畑や横目に通りすぎた紅茶畑もない、辺鄙な山の麓。
「天幕を張ろうか」
と男。
そう、男が考えなしに我の服や靴を買ったせいで、とうとう、荷台は食事はおろか、寝る場所すらギリギリな有り様。
「少し待つの」
天幕を広げてから、狸擬きにはビスケットを数枚与え、大人しく齧っている間に、運んできた食材を広げながら、男に、オオサンショウウオ擬きの話を聞かせる。
山を抜けながら、
「フーン」
薄々と察していらっしゃると思いますが、主様の気配で、あの生き物が寝惚け眼で川底から浮き上がったのだと思います、と狸擬きに言われたことは、男には伝えずに終える。
そして。
「……氷の島へ?」
「の、この赤の国を突っ切って先に行きたいの。どうやら厄介なトナ鹿もいるらしいしの」
「……」
男は手を止めることもなく、ただ軽く眉だけ寄せ、鍋に、切ったスープの具材を落として炒めている。
我は卵焼きの準備。
今日は少し甘くしようか。
「氷の島は」
「の?」
「臨時の組合が置かれ、狩人単体でのトナ鹿狩りは禁止になっていると聞いた」
なんと。
「旅人がトナ鹿に殺されてから、そう決まったらしい」
旅人同士でその場かぎりのタッグを組んだり、村人と共に山に入ることもあると。
ほうほう。
でもまぁこちらは。
「お主に我も狸擬きもいるの」
「子供はカウントされない」
ぬぬ。
仕方なし。
「なら黒子でも呼び出して、氷の島まで引き摺って連れて行けばよいの」
あやつは口は回るけれども、決してその口は軽そうではない。
「あの人は、その、……女性だろう」
見た目はあれだけれど、と男。
何をいうか。
「我も女の子であるの」
見た目も、少なくとも身体も。
「……」
『……』
なんぞ、その視線は。
「黒子には、お主と共に少しの間だけ、雪山で待っていて貰うだけで、狩りなどはさせるつもりはないの」
「……」
男が何か言いたげに口を開くも、聞こえるのは大きな溜め息だけ。
やがて。
「……なら形だけでも、狩猟道具を買わないと駄目だな」
港に抜ける街の詳細な地図を手に入れようと呟き。
「ふぬ♪」
今日の男は、随分と話が解るではないか。
ーーー
赤の国での片田舎。
中途半端な時間の食事のあと。
「フーン♪」
今日も主様のおにぎりがとても美味しかったのです、と満腹狸は、
「フンフン」
時はまだ夕刻、散歩へ行きたい。
川沿いの山々を散策したいです、と尻尾を振る。
「よいの、気をつけの」
「フーン」
天幕の隙間からするりと出ていく狸擬きを見送ると、天幕を包むのは、静かな冬の空気のみ。
川で水を汲んでくるように頼めばよかったのと皿を重ねていると、
「……日々」
「?」
「不甲斐ないとは思っている」
男が、そう、食後の煙草に火を点けずに、我を見つめてきた。
「……の?」
そう言えば食事中も口数少なく、てっきり、氷の島へ行く算段でも考えているものだと思ったけれど。
何の話であるか。
「君の魔法の手懸かりを、掴めていないことは」
「ぬぬ……?」
別に我は、自棄になって氷の島へ突撃するわけでもなく、我の考えた事も、きちんと話したつもりなのだけれど。
「解ってるよ、それでもだ」
それでもか。
どうやら男も、我に伝えぬだけで、
「火や風魔法を持っていない人間が、その魔法を取得する方法」
を、訊ねたりはしているらしい。
「それに特化して研究をしている大学も、この赤の国にはあるらしい」
ほほぅ、そうなのか。
「ただ」
ただ?
「君は、
『今、この時代に、自分に魔法を付与することを、"この世界"が成し遂げることは、到底無理だ』
と君は感じているんだろう?」
「……そうの」
なんせ、人が優しすぎる。
人や獣、はたまた自然を犠牲にしてまで、便利になろうとは思わぬ世界。
ならば技術の発展がとみに遅いのも、致し方なし。
そんな世界を、我は嫌いではない。
男が、人差し指で膝を叩き、風が天幕を揺らす。
どうにも、言葉で伝えても、授けたいその熱量と受け取るこちらの器のちぐはぐさは拭えない。
「我はの」
「……」
「我はお主の『サポート』役としては、それなりに仕事が出来そうであるから、しばらくはそれで良いのと思ったまでの」
「サポート?」
「1つは、あの火柱の」
男の指を握った時に、立った火柱。
「あれ、か……」
思い出したのか、天井が焦げなくて良かったと小さく笑う男。
「そうの」
四つん這いでテーブルを迂回し男の許へ向かい、男の膝の中に収まれば。
「別に我は匙を投げた訳ではなく『お主の役に立つ』には、十分な成果を感じているであるの」
「……あぁ」
男のふっと吐く、その吐息は今度は軽く。
そう。
目的は、日々変わる。
あとは。
「純粋に、早く狩りを楽しみたいだけの」
と、男の膝の上で跳ねれば。
「……それは、もろ手を挙げて歓迎はしにくい」
大袈裟に顔をしかめられる。
歓迎はしにくくとも、そこは諦めて貰うしかない。
それに。
「例のトナ鹿、奴はきっと、また同じことをやるのの」
技術の発展が遅いが故、とにかく情報も遅い。
島の話ならば、尚更こちらには伝わっていないだけで、もうくだんのトナ鹿の、人狩り遊戯は行われている可能性は高い。
「……なぜ解る?」
それは簡単。
「我も、獣の端くれだからの」
「……」
深く深く寄るのは、男の眉間の皺。
「くふふ、駄目であるの」
そんな顔をしてみせても。
「……何がだ」
何が?
それは。
「お主も、我と同じ、なりかけ、であるからの」
人ではない、獣でもない、何者かに。
「あぁ……」
男は大きく息を吐き、
「……そうだな」
そうだった、と我の頭を抱き寄せる。
そう。
そして、今日もまた。
「お主はまた少し、人でなくなるの」
人差し指を咥えて唾液をまぶせば、その濡れた音に、男は喉を鳴らし。
「……」
我の男は、口許にはもう隠しきれない笑みを浮かべて、我の指を掬うように、その長い舌を伸ばした。