49粒目
運動会が終わった翌日の今日はもう。
(娘の店のお手伝いはいらないはずだからの……)
あふぬと欠伸をして、後ろから我を胸に抱いて眠る男の腕から這い出ると、隣のベッドでポテリと寝ている狸擬きを無感動に眺め、隣の部屋へ向かい、ストーブの、少し焦げた万能石にマッチで火を点ける。
「あふぬ……」
昨夜は大変だった。
屈んだ姿勢のままぶっ倒れる若造を、狸擬きがなんとかクッションになり受け止め、男と三つ編み女が慌てて駆けつけ、どうしたと慌てていると。
ちょうど娘一家と、若造の父親が帰宅し、どうしたどうしたと騒ぎが大きくなり、娘は失神した若造などより、男と一緒にいる三つ編み女をそわそわと気にし。
若造は間も無く目を覚ましたものの、女2人に顔を覗き込まれ、
「おわぁ!?……何!?俺が倒れた?だだだ大丈夫!大丈夫だから!」
と真っ赤になって飛び退いている。
そして、
「ただの立ち眩み!何でもない大丈夫!」
解散解散と叫び。
三つ編み女は男からの、
「彼がとてもポニーに乗りたがっている」
の言葉で、我等が三つ編み女を送ることを受け入れてくれ。
「フンフーン♪」
若造の失神騒ぎで酔いも冷めた狸擬きはご機嫌にポニーに跨がり。
街外れの、三つ編み女と会った森へ向かう道の手前。
すぐ先に、ポツリポツリと家があり、
「更に先に、お店があるんだよ」
と教えてくれ。
送ってもらうのはここまでで大丈夫と三つ編み女。
外灯もあるし本当にすぐだからと言う三つ編み女の言葉に、ならはと我等は引き返すことにし。
「蛇は、明日卸しに来ます」
と荷台にずだ袋を下げたまま、狸擬きはポニーから飛び降りてベンチに飛び乗ると大あくび。
まだまだ静かな街の夜を抜けて、宿へ帰った。
湯を沸かそうか、男はまだ起きて来ないかと迷っていると、すぐにベッドの軋む音と共に、
「あぁ、いた」
男が安堵した溜め息。
「おはようの」
「おはよう」
湯を沸かし、今日はまだ「のんびり」とは行かぬけれど、まだまだ時間はある。
赤飯を炊いていると、炊き上がりの音で狸擬きがもたもたと起きて来た。
「お寝坊さんの」
「フゥン」
お茶とおにぎりで朝ご飯。
外が静かだと思ったら雪が降ってきた。
我は食料箱や冷蔵箱を覗き。
(ふぬふぬ、材料はわりと何でも揃っているの……)
追加で買ってもらったブリキのパウンドケーキ型もある。
材料を量ると、
「ふんふんふん」
卵と砂糖をひたすら掻き混ぜ嵩を増し、粉を震い。
(カステラは新聞紙で型を作れるなんてあったけれど、ここには新聞紙など存在せぬからの……)
蜂蜜や油を滴し、2つのパウンド型に流し込み、
「狸擬き、仕事の」
じっと作業を見ていた狸擬きに。
「フーン?」
「生地の表面が、そうの、お主の毛の色位になったら教えて欲しいの」
「フーン♪」
椅子に座り、オーブンの細い窓に鼻先を寄せる狸擬き。
徐々に部屋に広がるは甘い香り。
馬の様子を見に行っていた男が戻ってくると、
「あぁ、甘くていい香りだ」
と狸擬きの隣でオーブンの窓を覗く。
「雪はどうの?」
「フーン」
昼過ぎまで続きそうですねと狸予報。
「ふぬ」
カステラが少し冷めるのを待ち、包み。
「我等の分は帰ってからの」
「フーン……」
テーブルに置かれた、今は布に包まれたカステラを、ちらちらと未練がましく振り返りながら部屋を出る狸擬き。
雪の中、まだまだ賑やかで人も馬車も多い街を抜けると、古いけれど立派な作りの2階建てが現れ始めた。
「あっ」
先に立つ家から、頭から厚手のストールを被った三つ編み女が出てきて手を振っている。
家の隣にはポニーの小屋と、もう1つ小屋。
これから仕事場へ行こうと思っていた所なんですと娘は言うけれど、雪だけでなく、風まで強くなり。
「フーン」
雪は風と共にもう少しすれば収まります、の狸予報で、
「それなら、少し家で待ちませんか?」
と三つ編み女に家に招かれた。
三つ編み女の家は、長年、大事に住んでいる家の人の記憶が、そこかしこに刻まれている。
玄関からすぐの扉の向こうの大きな居間は、厚手のラグが敷かれ、ラグの上には背の低い、ちゃぶ台に似たテーブルが鎮座し、その使い込まれ具合もとてもいい。
壁には、まだ幼い頃の娘と青い狼の描かれた絵や、娘の両親、兄か弟と狼の描かれた絵、染料で染められたグラデーションの美しい布などが所狭しと飾られている。
そして、今は消された暖炉の前に横たわるのは、灰色の狼。
消された暖炉の代わりに、狼のためであろうストーブが置かれ、小さく石が燃えている。
その灰色狼は、主に集団で行動するタイプの、本来ならば山にいる小柄な狼。
我等が部屋に入っても目を開きもせず。
「お邪魔するの」
「フーン」
『……』
声を掛けても全くの無関心。
「昨日は、びっくりしましたね」
とストールを外すのは三つ編み女。
三つ編み女のびっくりは、あの若造の失神騒ぎだろう。
男も苦笑いしている。
「大概の人間は蛇は苦手だと知りなさい」
と、この三つ編み女を送った後、帰路で男に諭されたことを思い出す。
(蛇も革になれば喜んで使うくせに、人間は勝手なものであるの)
壁に飾られた絵を見た、男の問い掛けに、
「両親は二度目の夫婦旅行中でなんですよ。この国では新婚旅行と、もう1回、歳を重ねてから旅行へ行くのが、何となくお約束になっているんです」
ほほぅ。
三つ編み女の両親は、言葉が通じるのが楽だからという理由で、新婚旅行は赤の国へ、今は茶の国へ行っているのだと言う。
そう言えばあの店の娘の両親も、また水の街へ行きたい的なことを話していた。
灰色狼は、ひたすら無言で目を閉じているだけ。
解体の話などを聞いていたら、いつの間にか外の雪も風もやんでいた。
ではそろそろかのと外で出ると。
風は収まったけれど、風向きが変わったらしい。
「ぐぬぬぅ……」
「フーン……」
昨日までは気付かなかった、卸し場からの、数えきれぬ程に解体された獣たちの臭いがここまで届く。
「どうした?」
人には全く分からぬらしい。
男はほんの少し解るけれど、それだけだと。
なるほど、男が頑なに我等を解体場へ連れていかない理由が解った。
眉間に皺と毛を寄せる我と狸擬きに、三つ編み女が、
「どうしたの?」
と不思議そうに訊ねる。
「この子たちは少し臭いに敏感で……」
と、それを生業としている当の本人に言うのは憚られたけれど、男が正直に伝えると、
「いえいえ、慣れないと無理ですよあの臭いは」
とへっちゃらな三つ編み女を初めて尊敬する。
三つ編み女は、
「それならば、うちで待っていればいい」
と。
良いのであろうか。
「うちの子と一緒にいてあげて」
凶暴さとは無縁ですからと三つ編み女。
(ふぬ……)
だからこそ、群れからも外れて、1匹だったのだろうか。
男が三つ編み女を馬車に乗せて卸し場へ向かい、我と狸擬きは、ぬくぬくとした室内で留守番させてもらう。
「もう少し、お邪魔させてもらうの」
『……』
灰色狼は目を開かない。
狸擬きもいつものようにフレンドリーに近付かずこうとはせず、我の隣にいる。
「カースーテーラー1万尺♪」
「おー皿にのーせて♪」
「美味しい紅茶と、さあ食べましょう♪」
「フーン♪」
狸擬きと替え歌で手遊びしていると、
『……これは失礼』
「の……?」
『お客様が来ていることにも気付かず……』
どうやら灰色狼は、無関心無愛想などではなく、ひたすら深く深く眠っていたらしい。
毛艶はそう悪くなく、ぐたりとしているだけで、声もまだまだ若い。
「のの、こちらこそ失礼したの、うるさくして起こしてしまったの」
申し訳ないと謝れば。
『いや、なんとも耳障りのいい、とても可憐な歌声だった』
と耳と尻尾を揺らす。
「ふぬー♪」
灰色狼は、三つ編み女が話していた通り、群れから追い出され、怪我をして弱っていた所を三つ編み女に助けられ、そのままここで世話され住まわせてもらっていると。
この家のことを訊ねて見る。
灰色狼曰く、普段はこの家には両親と三つ編み女がいる。
仕事場は両親と、すでに結婚して近くに住む弟とその嫁、それにあの三つ編み女、更に数人の雇い手で回していること。
三つ編み女は、染料はただの趣味と言っていたけれど、最近は個人的な依頼なども来ていて日々忙しく過ごしているとも教えてくれた。
それは凄い。
「そんな中で、あの三つ編み女は、よく森の蛇のことまで気が回るの……」
この世界にも多く存在する、他人にばかり気が回る人間の1人か。
『染料の素材のためによく森へ入るから、気になったのでしょう』
森もしばらくは安泰そうだと、狼は小さく笑う。
「の?分かるのの?」
三つ編み女から、聞いたのだろうか。
『いや、あなたから、凄まじい数の毒蛇の死臭がしている』
なんと。
手は洗ったし風呂にも浸かったのだけれど。
『いや、ただの残滓だと思われる』
すぐに消えますと、狼は自分の腕に頭を乗せる。
「……お主は、言葉は随分はっきりしておるの」
『えぇ、言葉だけは』
狼を蝕む病はなんであろうか。
病の名など我はこれっぽっちも知らぬし、獣の病など尚更。
狼は腕を枕にしたまま、
『何やら甘い香り』
と微かに鼻を蠢かせる。
「のの、そうの」
忘れていた。
「土産にカステラを焼いてきたの」
『カステラ……?』
「小麦の焼き菓子の、あの娘と一緒に食べるとよいの」
『それはそれは、とても楽しみです』
と呟くと、
『……』
「……の」
「フーン」
寝てしまいましたねと狸擬き。
ふぬ。
近付いて、触れてみる。
尻尾をゆらりと揺らしながら、灰色狼の口許や毛、尻の方も熱心に嗅ぐ狸擬きは、
「……フーン」
弱っている原因は1つではありませんと。
「よく解るの」
医狸か。
「フーン」
三つ編み女に助けられた時から、治り切らずの傷、群れから外れ、1匹の時に飢えを凌いでいた時に食べていたものにでも、厄介な虫や何かが、体内に入り込んだのではないかと推測狸。
「ぬぬ、それはまだ身体にいるのの?」
「フーン」
そこまでは解りませんと言うけれど、
「フン」
「の?」
昨日散々嗅いだ臭いの名残を仄かに感じますが、これは昨日の記憶と混合しているだけの可能性もありますと。
「お主が言うのなら、多分、毒蛇に噛まれたか擦ったかしたのだろうの」
治療は、そこまで適切には行われず、いまだに弱った狼の中で毒は消えず、チリチリと燻っているのだろう。
それでもこうして生き延びているのは、この狼が強いのか、毒が弱いのか。
そして狸擬き曰く虫や何か。
以前。
南から乗った大きなお船で遭遇したあの鳥たちは、残念ながら何か、寄生虫か何かに脳みそを乗っ取られていたようだけれど、この狼は、また違う何かが、腹にでもいるのだろうか。
「フーン」
症状の一つ一つは軽いものの、複数の合わせ技で弱っている様子、教えてくれながらも。
狸擬きは、じっと我を見つめてくる。
「……なんの」
「フーン」
フーンではない。
確かに、我の何かしらを少しでも与えれば、もしかしたら少しは違うのかもしれないけれど。
「なにより」
この灰色狼は、人様の家の大事な一員なのだ。
勝手に何かしらを与えるのはご法度であろう。
「フーン」
あの三つ編みを含め、この家の者は当分戻ってきませんと。
それはそうだけれど。
「勝手に与える」
そこが問題なのだ。
そこいらの山をうろつく適当な獣にやるとのは訳が違う。
耳を澄まし、じっと先の気配を窺ってみる。
2人がしばらく戻ってくる様子もなく、まぁあの蛇の量ならば、卸すだけでも相当に時間はかかる。
戻った三つ編み女を男が説得して、効くかも分からぬ赤飯おにぎりを食わせるかをし、もしそれで治らなければ無駄に期待させ、落胆させるだけになり。
治れば治ったで口止めと、もしその後にこの狼に何かあった時、再び何か期待されても、我はすぐにここに駆けつけられる場所にはいない。
そう。
我は「責任」とやらを持てない。
「……」
「フーン」
ただ。
この狼の現状と、何となしな症状を知ってしまった手前、知らなかったふりをする、そこまでの薄情さも、今の我は、持ち合わせてはおらず。
狸擬きがスンスンと鳴いて身体を擦り寄せてくる。
我も、短くも、この目の前の灰色狼と言葉も交わしてしまったし。
「フーン……」
仕方なし。
三つ編み女が知らなければ、それはそもそもなかったことに、我等は何もしていないことになる。
そう、我等は何もしていない。
ただ、色々と詰まった荷台も今はないため。
「鍋を借りようの。鍋を勝手に借りたことは、後で謝ればよいであろうの」
「フンフン♪」
一緒に謝りますと狸擬き。
水場へ向かうと、小鍋を拝借し、水を汲む。
そこに小豆を落とし、
「んしょの」
ストーブに置く。
後は待つだけ。
狸擬きがコテリと横たわり、我も狸擬きの腹に頭を乗せて、少し微睡む。
部屋に小豆の香りが広がり、狸擬きが眠りながらも、鼻をスンスン蠢かしている。
しばらくして、
「そろそろよいかの」
深めの器に小豆汁注ぎ、やわこくなった小豆と分ける。
テーブルの木の鍋敷きに置いて、どちらも冷ましていると。
『……不思議な匂い』
狼が目を覚ました。
「効くか分からぬ薬の匂いの」
『薬……?』
「こやつがお主を助けたいと言って聞かなくての、駄目元であれど、試さないよりましだろうと思ったの」
狸擬きはゆっくりと尻尾を振る。
『それは……』
「飲むも飲まぬもお主の勝手の、飲まねども、こやつが嬉々として飲み干すから心配はいらぬの」
ぬるくなった小豆汁をよいしょのと狼の前まで運べば。
『……』
狼は億劫そうに身体を起こすと、けれど、躊躇なく鼻先を寄せると。
(おやの)
器用に舌で掬いながら全て飲み干した。
そして、
『そちらも頂けますか?』
「よいの」
茹で小豆をスプーンで掬って食べさせてやれば、隣で狸擬きが少し羨ましそうな顔をしている。
狼は小豆も全て食べ尽くすと、
『不思議な味と不思議な食感、珍しい体験をできました』
と、意外にも楽しそうな感想を漏らした。
味の感想を漏らす余裕はあるらしい。
「変化はあるかの?」
『……体内が熱いですね』
と不思議そうに振り返って自分の身体を眺める。
「ぬ、気分は悪くないのの?」
『全く。清々しい気分です』
ふぬ。
少しは効いたらしい。
この狼が群れから追い出された経緯を訊ねれば、
『ありがちでかつお恥ずかしい話ですが。……1匹のメスに私ともう1匹のオスが惚れてしまい、群れの中でも、私ともう1匹は、強さで言うと一番と二番でありまして、互いに引くに引けず。
結果、私は負け、群れからも追放されたのです』
ほうほう。
例え二番手であろうと、果敢に挑んだのだろう。
三つ編み女に助けられた時の怪我は、
『大きな傷は1匹でいる時に、毒蛇にやられたものでした。私たちは1匹になると、ご存じの通り、とても弱い。なので、あなた様を見た時、あなたから漂う大量の毒蛇の残滓を感じ、それは胸のすく思いでした』
ふぬぬ。
思わぬ敵討ちになっていたらしい。
ただの偶然とは言え、毒蛇狩りに精を出した甲斐があると言うもの。
そしてやはり毒蛇。
狸擬きの鼻の精度の高さにも改めて驚く。
隣で胸を張る狸擬きを見てふと思い付き、更に狼に訊ねてみる。
『この方と同じ獣を見たことはあるかと?』
「の」
人の勝手な分類では、青の国のものとなる、深い深い、人は全く立ち入ることも不可能な山の奥深くにも、
『いえ、同じフォルムの方は、一度もお見掛けしたことがありませんね』
と、かぶりを振られ、やはりここにも狸擬きはいないらしい。
『お仲間を探しておられるのですか?』
と聞かれ、
「のの、ただあまりいないなと思っての」
鍋と皿を洗っていると、馴染みのある荷馬車の音が聞こえてきた。