16粒目
「すまぬの」
谷底にはいい案配で川が深く流れ、お陰で無傷のまま、ただだいぶ流され、浅瀬で俯せになっていたところを、狼が腰の袴を咥えて僅かな岸の合間に降ろしてくれた。
「フーンフーンッ!?」
くるくるその場で回り、焦りのあまり言葉すらなくなっている狸擬きに、
「平気の、なんともないの」
しかしよくここまで来れたの1匹と1頭。
見上げても、大木はもうとうに見えない、山の更に深くの下流まで流されていた。
「フーン」
自分たちは大木を登りきり、ひたすら山の斜面と川に沿って進み、そして主様が流れ着いた場所までは、大きく迂回して降りてきたと。
(さすがに獣よの)
もう我等がいる場所は、いくら山の記憶を辿っても、あの街が、街として発展する前ですら、人の来た記憶はない山の中。
足の指で挟み、流されずに済んでいた草履の鼻緒を取り、そこら辺から垂れていた蔓を千切ると、とりいそぎの鼻緒代わりにする。
しかし、
「あそこまでまた戻るのは億劫であるの」
巫女装束も水を吸って重い。
仕方なし。
「出直しかの」
ため息を吐くと、茶狼が、我を拾い上げた川底を覗いている。
「?」
狸擬きも並び、川底を覗くと、
「フーン」
こちらを見て下さいと。
獣たちと共に川を覗き込めば、
「ののっ?」
キラキラ輝くのは、紫色の石たち。
自然に砕けたものが、どうやらここまで流れているらしい。
「ほうほう、なんともこれは」
転げ落ちた甲斐もあったと言うもの。
草履と水を吸った重い足袋だけでなく、巫女装束に肌着も脱ぐと、ゴロゴロした岩に広げ、裸で川に入り、
「ひんやりの」
川の水に髪を漂わせながら、石を拾う。
「わほー♪」
大量大量と背負い袋に拾うと、やはり遥かにに崖の上、とても上の方から、こちらまで移動してきた灰色狼たちの気配は、またひしひしと感じる。
どうやら縄張りがあるのか、こちらにまでは降りてこようとはしない。
茶狼は、じっと上を眺め、尻尾を緩く揺らしている。
「フーン」
「お主も拾う?のの、お主まで濡れなくてよいの、少し休んでおれの」
その狸擬きは、山の灰色狼たちには全く興味もなさそうで、それはただ、狼の肉が美味しくないからだろう。
赤い背負い袋を紫の大粒な石でいっぱいにすると。
「男が心配するだろうから早々と帰ろうの」
重い巫女装束を再び身に纏うと、
「……♪」
「フーン」
「の?」
茶狼が、その背負い袋は自分が持ちましょうと申し出てくれていると。
「それは助かるの」
ただでさえ水を吸って重くなっている巫女装束である。
狸擬きの負担が減るのは有り難い。
狼の前足に引っ掻けて背中に乗せると、
「フーン」
急ぎます、と狸擬きが斜面を駆け上がり、茶狼もほどほどに重いであろう背負い袋を乗せていても、やはり難なく付いてくる。
「重くないかの?」
「フーン♪」
平気らしい。
逞しい限り。
「……おかえり」
「ただいまの」
ノミやらを使って石を砕く時間は必要なく、かかった時間はそう遅くもないはず。
ただ、びしょぬれのまま抱っこのと両腕を伸ばしてみたものの、両脇を抱えられてぶらりと吊されると、そのまま荷台へ上げられた。
「の?」
「着てるものを脱いでそこの布を巻きなさい」
幌を男が降ろす。
「のん」
巫女装束を脱ぎ、身体に布を巻き付けている間に、外で狸擬きが、毛を乾かされている。
「の」
脱いだのと幌から顔を出すと、男が荷台に飛び乗って来たけれど。
「のぉぉぉぉ……っ?」
我でも不意打ちを食らったらひっくり返る風力で風を向けられる。
「……何をした」
「川に落ちただけの」
「君が……?」
訝しげに眉が上がる。
「鼻緒が千切れたの」
男がちらと、蔦が通された草履に目を向ける。
「……丈夫な紐を買おう」
丈夫。
丈夫かの。
「我は丈夫さよりも可愛らしいものが良。……ぶふっ!?」
顔に風を向けられる。
茶色いワンピースに着替え、男が外に巫女装束を干していると、人がやってくる気配。
話し声、どうやら知り合いらしいのと顔を覗かせると、先のカフェの女店主だった。
我が川に落ちたと話したらしく、
「ええっ!?大変じゃない、うちに来なさいよ」
と。
「……ぬん?」
気付けばあれよあれよと運ばれ。
「お風呂をお借りした、ちゃんと温まる様に」
女店主のカフェ兼自宅の風呂場の脱衣場に放り込まれた。
(全く)
「大袈裟の」
肌は確かにまだ死体の様に冷たいけれど。
浴槽には湯も溜まってる。
髪と身体を洗い、ほこほこと温まり。
(ぬふん♪)
髪を雑に乾かし、着替えてからポテポテと廊下を抜けると、明かりがほんのりと灯る部屋を見付け向かへば。
暖炉に火が灯り、狸擬きと狼が暖炉の前に陣取りぐでりと横たっている。
茶色い革のソファがローテーブルを囲み、木彫りの小物が棚を所狭しと飾り、居心地がよさそうな部屋だ。
しかし、男がいない。
代わりに外からガタガタ音がしてくる。
「フーン」
これは暖かいですと狸擬きが暖炉の前から顔を上げ、茶狼はともかく、そういえば狸擬きも火をあまり怖がらない。
1匹と1頭の間に挟まれ、暖炉に背を向けて髪を乾かしていると、
「あぁ、ちゃんと温まったか?」
男が戻ってきた。
「の」
ソファに座らせられ、髪を乾かされる。
「庭の片付けの?」
「あぁ、礼と詫びを申し出たら、それなら外のテーブルをしまって欲しいと頼まれた」
茶屋の営業は終わるらしい。
「今年は寒くなるのが早かったから助かったわ」
と女店主が、
「焼いたのが残っちゃってたから、ちょうどよかった」
と、あの茶色のケーキを出してくれた。
恐縮するのは男で、思わぬケーキの出現に、振り返る我と暖炉の前で飛び起きる狸擬きに、女店主は笑いながら、
「紅茶を淹れてくるから待ってて」
と奥へ消えて行く。
「あーむぬ♪」
「フーン♪」
茶狼は塩味のビスケット。
またも前足の爪でビスケットを摘まもうと苦戦している。
店主は、森の様子を見に来ていたのだと言う。
話の流れで男が、遠くの山の天辺は雪が積もっているらしいと話すと、
「本当?じゃあもうすぐだ、あそこに、蒼い山に雪が積もり始めたらが、いい目安になるから」
いいこと聞いたわと、礼の欠片くらいにはなっただろうか。
「今年はリスが増えてしまって、狩って欲しいと頼まれてるんだけどね、弓銃では不便だし、頭がいいから罠にも掛かりにくくて」
と珈琲を啜り、男の差し出す煙草を嬉しそうに引き抜く。
(ほうほう……)
狩りは森に初雪が降ってから、と暗黙の了解があり、この寒さだともうピクニックや森を散策する人間もおらず、ますますリスが増える悪条件になってるとも。
男の口にケーキを運ぶと、
「ん」
目を細めて口を開く男。
女店主には、
「仲良しね」
と言われているらしい。
男に、ここもリスの毛は高く売れるのかと訊ねてもらうと、
「数は必要だけどね、少なくても使い道は沢山あるし、毛は質がいいからとても高く売れるよ」
ただやはり、狩りが厄介だと。
狩りに関しては全く問題ないけれど、雪が降ってから、と言うのが我等のハードルになる。
この女店主含め、なるべく他の狩人と被りたくない。
「例えば、さっきお主が森に入り、リスをたまたま見掛けて数匹捕まえたとして、それはやはり暗黙の了解から外れてる非難されるのかの?」
男伝に訊ねてもらうと、
「リスに関しては、国から特別報酬を出すかって話が出てるくらいだから、問題はないと思う」
と答えてくれつつも、女店主は不思議そうに首を傾げる。
「あむぬ」
茶の森ケーキは、大変に美味。
「私もだけど、他の狩人たちも、ちまちましたリスより大物を狙いたいから、リスを狙え、と言われてもねぇ、あまり乗り気じゃないのよ」
気持ちは解る。
狸擬きがゴクゴク紅茶を飲んでいるため、
「おかわり持ってこようか」
女店主が席を立つ。
「の、の」
恐縮している男の裾を引っ張り、
「お礼の一環に我等でリスを狩るの」
とせがんでも。
「……」
男は当然、渋る。
「川には近付かぬの」
「……」
ぬぅ、何が駄目なのだ。
いっそ狸擬きの様に手足をジタバタさせてみるかと唇を尖らすと、男に、
「おいで」
と固い口調のまま膝に抱え上げられる。
「の?」
胸にきつく抱かれ、
「さっきも、この寒空で頭から濡れた君が帰ってきた時、俺がどれだけ肝を冷やしたか、君にはわかるか?」
「……」
全くわからぬ。
我の丈夫さはもうとうに知っているはず。
それに。
「狩りの楽しさを、我に教えたのは、他ならぬお主の」
ミルラーマの青熊、あれらはあやつらの方から果敢に向かってきただけだから、全く違う。
「ぐ……」
女店主が戻ってきたけれど、
「あら、お転婆だけでなく甘えん坊さんなのね」
と笑いながらおかわりの紅茶を置かれた。
男には珈琲。
まぁ甘えん坊なのは、否定しない。
きっとそうなのだろう。
男の膝の上で向きを変えて紅茶を飲むと、コツコツと大きめのノックの音。
女店主が、
「あら?ちょっとまってて」
と言うように出て行き、狸擬きはソファに凭れてまったりとおかわりの紅茶を啜っている。
茶狼はまた暖炉の前に横たわり、うとうと微睡んでいる。
「狸擬き、お主はどう思う?」
「フン?」
我の問いかけに、
「フーン……」
と考える様に紅茶に視線を落とした後、
「フンフン」
リスが多いのは森に入る人の怠慢ですね、と湯気に目を細める。
本来リスを狩る獲物を狩ってしまっているので、と。
「ふぬん」
「フンフン」
ただ罠を掛けられると、自分たちのような小型の獣も罠にかかり、大変に不快です。
「だそうであるの」
「うーん……」
男が、長考を始めると手紙を片手に女店主が戻ってきた。
「タイムリーな話題よ、狩りをする人たちに、今年は多くリスを狩ってくれって」
おや。
「の、狩りと言うのは申し出が必要なのかの」
訊ねれば。
「そうね、街の組合には届け出が必要ね」
のぅ。
「でも、茶の森は人気があって、この時期になると他の国からわざわざ狩りに来る人もいるのよ、そういう人のために、組合で臨時発行してるわ」
組合。
ベレー帽の少年の顔が思い浮かぶ。
「あなたも狩りをするの?」
と興味深げに男にまじまじと視線を向ける女店主。
「いや、その。……この子のいた国で、小物に強い罠の張り方を知ってるらしくて……」
男の無理矢理作った笑みと、捻り出した言い訳は、流れ的に我のリスの狩りを許可したようなもの。
あらと女店主の顔も期待の笑みが浮かび。
(ふふぬ♪)
今日は唾液を多めに与えて上げようの、と男の膝の上で、
「♪」
足を小さく揺らした。
風の強い夜。
狸擬きは今夜は狼と一緒に寝たい、おじじの部屋でお泊まりをしたいと言い。
茶狼と、今日のエキサイティングな体験を語り合いたいのだと。
(主の川流れを楽しい催し物のように語るのはあまり歓迎したくないのだけれども)
おじじは、
「あぁ、いいよ、預かるよ」
と尻尾を振る狸擬きを見て笑う。
茶狼も嬉しそうに狸擬きに尻尾を振っている。
あの後、結局夕食まで女店主の家でご馳走になってしまった。
「1人が好きなんだけどね、たまに寂しくなるのよ」
「そんな日は外に食事に行ったり誰か誘うんだけど」
「今日はちょうどいいお客さんたちがいてタイミング良かったわ」
と。
魚の酢漬け、豆を煮込んだスープや蒸かされた芋。
娘とカフェで食べたあの甘くないパンケーキがたんまり。
幼子の我のために、固いパンではなくわざわざ焼いてくれたらしい。
「フーン♪」
狸擬きも温かく柔らかなパンケーキの方が好きだと。
茶狼は、狸擬きが美味しそうに食べる酢漬けの魚に鼻を寄せ、
「……!!」
刺激臭に頭を仰け反らせていた。
女店主は男の話に声を上げて笑い、楽しかったよと見送られて帰路へ。
「夜でも街灯があるのは、しみじみと有り難いの」
暗くても宿へ帰れる。
「そうだな」
男の背中を拭き、薄暗くした部屋で、
「……何、どうした?」
仰向けに横たわる男の胸に股がれば。
男が身体を硬くする。
「今日の礼と褒美の」
直接、口に垂らしたやるつもりだ。
しかと喜ぶかと思ったけれど、
「……」
男の複雑極まりない顔。
「?」
「……これに応えたら、この先、もっと君の危険を許容しなくてはならない気がする」
ふぬ。
「では、いらぬの?」
諦めた様な笑みで、男に片手で頬を包まれる。
「君は、俺がいらないと言えると思うのか?」
「くふふ」
そうの。
口を開いて、唾液をまぶした舌を伸ばした。