132粒目
隣の国へは、山越えをする必要はなく、先の大きな大きな湖を船で渡った向こう側が、通称奥山岳の国なのだと、船に馬車ごと乗り込む順番待ちをしながら、男が教えてくれた。
狸擬き曰く、山に囲まれたこの湖には主はいないと。
大きなお船が行ったり来たりとひっきりなしだ。
荷を運ぶついでに人を乗せるお船は、船内も飾り気もなく、簡易なベンチが並ぶだけ。
甲板へ出ると、久しぶりに、雲に擬態した鯨と蛇を見た。
(のの?)
しかし狸擬きは甲板へ出るなり、頼まれてもいないのにステテテと見回りへ向かい、男は、先に甲板に出ていた旅人らしい年配の男に話し掛けられているため。
(久しいの)
心の中で声を掛けてみるも。
特に反応もなく、我等がやってきた方へ、流れてるように飛んで行く。
ふぬ。
あれの謎も、いつか解ける日が来るのであろうか。
奥山岳の組合は、パッと見は特に変わった所も見られず、ほどほどに年季の入った、石と木で組まれた建物の1つ。
お船から降りた先に立ち並ぶ2階建ての建物が組合だった。
室内の壁には山と湖畔の絵画、それに地図が飾られている。
旅人便りで運ばれる手紙も、所狭しと壁に留められている。
どこの組合ともそう変わらぬけれど、ただ1つ、他の組合と違うのは。
「活動的だな」
そう。
女たちにスカートやワンピース姿の職員が居らず、活動的なシャツとパンツ姿。
赤毛の母親もパンツ姿だったけれど、あれはあまりに仕草も振る舞いも雑で女らしくなかったため、むしろスカートを履かれたら女装かと指摘してしまった気さえする。
組合の女たちは、格好そこ活動的でも、髪だけは長く、しかしその髪も、きちりと結っていたり後ろでお団子に纏めている。
1人、長身のキビキビした女性が、ブーツのヒールをカツカツ鳴らしながらカウンターから出てくると、にこりともせず、こちらへ向かってきた。
そこそこの長身の身でありながらヒールともなれば、我の男と視線も同じくらいになる。
オールバックの髪は薄茶色。
男が軽く会釈をすると我にも銀縁の眼鏡越しの視線が向けられたため、ニッと笑ってやると、
「……っ」
少しばかり怯まれた。
銀縁女は、しかし自分が怯んだ事実に不本意そうに目を細め、男の隣にもさりと立つ狸擬きに、
「……?」
目を瞬かせる。
狸擬きが、無言で尻尾を振って軽く挨拶すると、銀縁女の表情が少し弛んだけれど、すぐに咳払いをし、
「討伐隊の方から連絡は貰っています。私がここの組合の総合責任者を担っている組合長です」
キリリと自己紹介され、男がにこやかに挨拶を返すと、またも毒気を抜かれた顔で、
「……こちらへどうぞ」
と2階へ案内される。
階段へ向かいながらも、他の組合の人間にも、チラリと視線を向けられる。
それは、いつもの好奇心の含まれたものではなく、
(なぞに警戒されておるの)
2階も特に変わった所はなく、一番奥の部屋に通され、開いた窓からも山が見える。
「先日の討伐について知りたいと聞いています」
お間違いないでしょうかと、銀縁女は腰に着けた鞄から煙草を取り出すと、慣れた様子で火を吐ける。
(おやの)
赤毛の母親は、そんな内容の手紙をここに飛ばしていたらしい。
まぁ、あれだけしつこく訊ねれば、察しもするか。
討伐隊が討ち取った熊は、その日のうちに解体され、売れるものは売ったと銀縁女が教えてくれる。
「肉の方は?」
あらかじめ聞くことは決めてあるため、我は素知らぬふりで大人しくしているだけ。
「討伐隊が毒の矢を使っていたので、肉は内臓と共に全て焼却処分しました」
熊の不可解な行動についてどう思っているか男の問いには、
「過去にない事例なので何とも言えません」
「第二、第三と、似たような熊が現れる可能性は?」
「……そちらに付きましても、何とも言えません」
もともと硬い声が、更に硬くなる。
席に付くなり煙草を咥える銀縁女と違い、男は煙草を咥えない。
銀縁女は落としていた視線を上げ、
「こちらに来られるまでに、随分と時間が掛かりましたね」
そんな事を聞かれた。
男が、立ちよった村で、この彼が羊の誘導に失敗し、羊たちが柵を薙ぎ倒したため、その柵を直す作業に追われていたと話せば。
「……そ、そうなのですね」
訊ねて来たくせに、反応に困った顔をしている。
何をしているのだと、呆れたのかもしれない。
それについては、こちらとしても本当に何をしているのであろうのと、認めるしかない。
「討伐隊は、組合ではなく、国から依頼をされたと聞きました」
銀縁女は、咥えた煙草を短く吸い吐き出すと、
「えぇ、私たちで対処しようとした矢先にです」
口許に作った笑みを浮かべて見せる。
おやの。
珍しく、国と組合に確執でもあるのだろうか。
「私たちは、もう少し様子を見たかったのですけど、ちょうど討伐隊の方が来ていたので、国の方が依頼してしまったのです」
様子見とな。
随分と呑気な。
「山から降りてきた熊は、人を襲うような素振りは見せていないと、村人からも話を聞きましたので」
なんと。
襲われてからでは遅いであろう。
あくまでも奇跡的に襲われなかっただけであるであろうに、なぜか野兎が人里に迷い込んで来たかのような物言い。
男も同じことを思ったのか、
「被害が出てからでないと、動けないと言うことですか?」
首を傾げる。
その割に、国の方が痺れを切らして動いた様に思える。
銀縁女は、男だけでなく、我の視線にも露骨に不快そうな顔をし、
「全ての獣が人を襲うわけではありません」
灰皿に煙草を押し付けた。
なんと。
(これはあれの)
あの青の国の、一部の歪んだ獣愛護の過激派の思想に近いの。
不意に、赤毛の母親の、
「優秀だよ!」
の言葉が頭に浮かぶ。
(ぬぬん)
あれは、あの笑顔は。
こやつらに対しての、とてつもない、盛大な嫌味だったのか。
とかく真っ直ぐに物を言う女だったからこそ、今になって痛烈な皮肉を、我等がこの組合の者と対峙した時に気付くように、まるで時限爆弾の様に効かせていたらしい。
我等が街を出るのを見計らって組合へ寄れとわざわざ手紙を飛ばしたのも、口約束よりも我等が組合へ顔を覗かせる確率は高く、実際、我等は今ここで組合長と対峙している。
なるほどの。
あんなのでも、他国でも認められている討伐隊の一員だけはある。
あの母親、いや、あの女には、
(まんまと、してやられたの)
したり顔が目に浮かぶ。
そして、我等がこの建物に入った時の、妙な視線。
赤毛の母親は、我等のことをどんな風に伝えているのであろうか。
この目の前の銀縁女の態度からしても、大層ろくでもない伝え方をされていることだけは解る。
男も同様に母親の言葉を思い出したらしい。
作り笑いに拍車が掛かっている。
に、しても。
赤毛の母親は、なぜ我等を、わざわざこの組合へ送り込んだのであろう。
この国の組合の人間のお花畑っぷりを一緒に笑うためか。
あの母親なら、本気でそれをやりかねぬから困る。
この目の前の女がこの街の組合長であり、この女の考えが、組合の総意と考えてよいのであろう。
であれば。
組合は山の獣を。
国は、国民である村人を守ろうとした。
ふぬ。
(どうやら国の方は極めてまともであるの)
改めて銀縁女に視線を向ければ、その活動的なパンツ姿も、所詮見せ掛けにしか思えない。
高いヒールもそれを物語っている。
男の、
「討伐隊の1人は狼に襲われたと聞き及びました」
責めるそれではなく、秋の葡萄の収穫量でも訊ねるようなさらりとした問いかけには、
「それは、討伐隊に油断があったとも言えますから」
と、大きくかぶりを振られ。
(ののん)
何とも、全くお話にならぬ。
討伐隊は、自分たちの命を賭けていると言うのに。
討伐隊にも、大事な家族や友人もいる。
それらを、この銀縁女は、鑑みていない。
なんなら、獣にも家族はいるくらい言うであろう。
滅法人がいい人間で溢れた世界だからこそ、こういうアホが時折、上にのしあがってしまうのだ。
こやつらは討伐隊が山へ入った時に、麓で待機していたと言うけれど、もしや隙あらば討伐の邪魔でもしようとしていたのではないか。
外見も中身も子供な我と違い、外見も中身も大人である男は、穏やかな表情を崩さず、
「そうですね」
と頷き、
「村の方に、宿はありますか?」
早々と切り上げる姿勢を見せれば、
「夏の避暑地として利用されているためいくつかあります。ただ、街中の方が色々と便利だと思います」
あからさまに安堵の表情。
「彼を山で遊ばせたいので」
大人しく座る狸擬きに、銀縁眼鏡は、
「可愛いですね」
ぽつりと言葉を漏らす。
男が我を抱き上げると、
「討伐隊の治療をした診療所の住所です」
胸ポケットから折り畳んだ紙を渡された。
赤毛の母親から、我等に教えろと伝えてあったのだろう。
我が受け取り、何となく追い出されるような心地で組合を後にした。
「フーン」
馬車に乗り込めば、喉が乾きましたと狸擬き。
「そうの」
水すら出されなかったからの。
「茶屋でも探そうか」
男が馬車を出すと、湖畔沿いではなく、街中へ進み。
それにしても。
「ここらの組合は、どこも癖が強いの」
へっぽこに思想強めといい。
こちらに比べれば、へっぽこな組合など可愛いものである。
「色々だな、……と」
男が、道沿いの屋台を見掛け、ジュースを買ってきてくれた。
器は木をくり貫いて作ったもの。
「フーン♪」
「ありがとうの」
液体は少し白っぽく、
「フン?」
ほんのり檸檬を感じる。
そこに蜂蜜の甘さ。
「酸味はホエイだそうだよ」
ホエイ、乳清だったか。
「フゥン♪」
美味しいですと尻尾ふりふり狸。
「の、美味の♪」
男は立ったまま馬車に寄りかかり、煙草を吹かす。
街中は、赤毛一家の住んでいた街のような、洒落た格好をした男たちもいれば、畑からそのままやってきたような出で立ちの男も珍しくない。
女たちは、狸擬きが柵を薙ぎ倒した村の、あの小さな妹が着ていたような、厚手のブラウスに、くすんだ色のスカートには点々と小さな刺繍がされているをものを身に付けている割合が高い。
襟にも刺繍がなされており、刺繍は主に花の形。
腰に巻かれたエプロンにも、小花がちりばめられている。
頭に巻かれた三角巾の先にも花の刺繍。
素朴な可憐さがある。
すぐ先の道沿いにある、小さな布屋で刺繍済みの三角巾が売っているのを見掛け立ち寄ってみたけれど。
「今の我の服では合わぬの」
素朴な麻の生地と刺繍は、クラシックな赤いドレスとは色といい、とんと合わない。
代わりに狸擬きの頭に三角巾を巻いてやると、
「のの、妙に似合うの」
「フゥン♪」
満更でもなさげに鼻を鳴らす。
店の人間の話だと、刺繍の技術もこの国の名産の1つらしい。
ほほう。
繊細な知らぬ花が刺繍された布地を眺めていると、
「あのぅ」
「?」
格好からして旅人らしい若い男に、声を掛けられた。