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122粒目

茶屋を後にし、再び街を散策すれば、

「これはまた珍しいの……」

目立つ店先に飾られてるのは、淑女のドレスではなく、殿方用のスーツやアクセサリー。

「ここは、紳士の街だそうだよ」

ほーうほう。

名の通り、茶屋の中だけでなく、街中を歩く男も、やたらと洒落た紳士たちが多い。

通りすがりに見掛けた帽子屋で男のハットを見繕い、男に被らせて店を出ると、なにやら騒がしい。

「?」

大通りの向こう側、元気一杯な、少年が3人。

少年と言えど、背丈からして男児に近い。

何やらパンパンになった鞄を抱えつつ駆け足で、どうやら、何かから逃げている様子。

彼等が走ってきた方へ視線を向ければ、修理屋か何かを営んでいると思われる、油の染みたツナギを着た男が、追いかけて来ている。

3人の少年のうちの、誰かの父親だろうか。

背は低めであり、かなりの肉厚な身体のわりに、足は早い。

それでも、少年たちの身軽さを備えた足の速さには敵わない。

(ふぬ……)

こういう場合、父親に非がある場合は、ほぼ、ない。

余計なお世話かと思ったけれど、大通りには馬車も走って来ており、逃げている少年たちの進路を考えると、

(ふぬ)

あまりよい予感はしない。

「……」

大通りを挟み、我等との距離はあるものの、3人のうち、真ん中を先頭で走る少年の靴の足の爪先が地面に着く瞬間を狙って小豆を飛ばせば。

「……っ!?」

我ながら感心する適度な強さで足先に当たり。

「……っ!?」

少年は、石畳に躓く様に地面に転がった。

「フーン」

相変わらず素晴らしい御技で御座いますと狸擬き。

1人が転べば、残りの2人は逃げることなく、慌てて立ち止まり、転んだ仲間に駆け寄っている。

身体に擦り傷くらいはこさえるかもだけれど、少年ならば気にしないであろう。

息を切らしてやってきた、その小柄で肉厚な身体の割りに身軽な父親は、片膝を抱え、多分痛いと痛いと言っている息子を、軽々と持ち上げると、荷物のように肩に担いでいる。

「のぅ」

担がれた少年は、しかし下ろせと暴れる元気はあるらしい。

そんな多分息子を担いだ父親は、それでもびくともせずに、のしのしと来た道を戻り始めた。

残りの2人は、顔を見合わせてため息を吐くと、男に続いてトボトボと帰って行く。

近くにいた街の人間たちは、軽い調子で、お父さんは大変だ的な声を掛け、父親は、全くだと言わんばかりに片手を上げたけれど。

「……」

未だ暴れる息子を押さえ込みながらも、ちらと、こちらを振り返った。

「……?」

はてのと、首を傾げてみるものの。

この街ではそうそう浮かない我等の格好はともかく、男も我も狸擬きも、

「異質」

には違わない。

あの父親が、街を彷徨(うろつ)く我等の様な異物を気にしても、別におかしなことではない。

「元気だな」

小さな少年たちの背負い鞄や肩掛け鞄は、こぞって中身が詰められている様で大きく膨らみ。

一体、どこへ行こうとしていたのだろうか。


街中で、平和な一幕を眺めた後。

「そうだ、宿を探さないとな」

男が我を抱き上げて来た。

「の」

国境となる川を越えると、街はすぐ、厩舎と荷の預け場もあり、けれど隣にある小さな宿は、

「宿を営んでいるご夫婦が、旅行中で宿を閉めているそうなんだよ」

と。

街中にも宿はいくつもあるため、そちらを利用して欲しいと言われていた。

土地勘のない街をうろうろするより、組合を探して向かい、適当な宿がないかと男が訊ねてみるも。

このハイカラな紳士の街に、水場のある宿は少ないらしい。

代わりに、水の街の様に、空いた一軒家を借りることになった。

組合が管理しており、掃除をしてくれれば好きにしてくれていいと。

渡された地図を眺めながら、洒落た紳士たちとすれ違い、陽気に挨拶され、手を振り返しつつ大通りを外れ。

「ん?」

「のの?」

たまに道を間違えながら、街を進む。

「あそこで馬車を預けたのは失敗だったな」

「そうの」

大きな街、徒歩では距離がある。

乗り合い馬車も、

「その建物がある場所とは、この馬車は方向が違うね」

と。

変わりに、

「時計塔の反対側だよ」

と教えて貰い、あまり目立たない時計塔を目印に歩くも。

「そもそも時計塔が低いの」

目印になりにくいしすぐに見失う。

「フーン」

狸擬きがジェラートの屋台を見掛けるなり、たたっと駆け寄り、

「歩き疲れました」

と太い尻尾をフリフリ。

「お主、体力は無尽蔵であろうの」

とは言ってみるけれど。

「我も疲れたの」

男を見上げれば。

男は渋るかと思いきや、我等にジェラートを買ってくれつつ、店の人間に地図を見せている。

苺とオレンジのジェラート。

屋台の隣の小さなベンチに座ると、

「ぬふん♪」

「フーン♪」

ひんやりジェラートを堪能する。

他の客たちも、どうしたと男の地図を覗き込み、わいわい話している。

美味しくジェラートを食べ終わる頃。

「……この元の地図が不親切なことが解ったよ」

男が、親切な街の人間たちによってしっかり書き込まれた地図を見せてくれた。

「ののぅ」

地図が正確になれば、

「ここかな」

そう迷うこともなく。

大通りを外れ、4階建て、5階建て程度の建物に囲まれた、見通しの悪い婉曲した小路に入ると。

「……フーン」

狸擬きが、スンとした顔で歩みを止める。

「?」

耳をピクピクさせ、

「フンス」

先で人間の子供が1人、待ち伏せしている様子と。

(おやの)

とは言えこの世界である。

無論、ひったくりなどの類いではなく。

ただの悪戯で、ただこちらを驚かせようとしていると思われますと狸擬き。

ふぬ?

馬車も通れぬ小路。

子供は、やって来るのは、見知った住人だと思っているのであろう。

そのまま、驚かされてもいいけれど。

辺りを見回せば、お(あつら)え向きに、建物と建物の間、人1人なら通れる隙間がある。

「の、こちらに来るのの」

「ん?」

繋いだ男の手を引いて、建物と建物の細い隙間に入ると、同じく隙間に入った狸擬きだけは、そのまま素早く、奥へ消えて行く。

男は、それを見送ると、黙って瞳だけで、

「どうした?」

と訊ねて来たため。

(すぐに解るの)

答えずにいると、少し先から、あっという間に路地を抜け迂回した狸擬きの、

「フーン?」

が聞こえてきた。

「うわっ……!?」

少年の驚く声。

「フン?」

何用か小僧と狸擬きの問いかけに。

「……うわわわわっ!?」

更に続く少年の叫び声。

「?」

何もそこまで驚くこともなかろうと思いつつ。

男と共に隙間から抜けて小路に出て先に進むと、

(おやの)

その赤毛色の少年は、こちらに背中を向け、尻餅まで着いていた。

「な、な、な……」

(な?)

「な、なんだよ、お前……なんだよ……?」

震える声の少年の問いかけに。

「フーン」

人に名を訊ねる前に先に名を名乗れ無礼者、といっぱしに礼儀を説いているものの、少年には伝わらない。

それどころか、

「……っ!!」

少年は、尻餅を着いたまま、後ずさっている。

(ぬ……?)

何をそこまでそんなに怖がるのか。

あんな地味な色合いのずんぐりむっくりでも、案外、若い娘などには、

「やーんなにこれ可愛いぃ」

「もふもふしてるぅ~」

と、好評であるのに。

首を傾げると、

「……人気のない場所で、知らない獣がいたら少し怖いかも知れないな」

なるほど。

狸擬きは、我の知る狸と比べても規格外に大きい。

まだ背丈も低い少年には、その見慣れぬ獣は、それだけで脅威にもなり得る。

少年は、ぼそぼそした我等の話し声に気づき、

「……っ!」

そう、まさに救いを求める顔で振り返り。

「……!?」

しかし、すぐそこに立つのは、見慣れぬ異国の男と色味のおかしな幼女。

青かった顔を、更に真っ青にした男児は。

「……だ、だ、だ」

だ?

「誰か、たたた助け……っ」

ガチガチと音が我等にも聞こえるほどに、歯を鳴らし。

「……の?」

男が、少年に声を掛ける前に、

「……と、父さん、父さぁぁぁん!母さぁぁぁぁん!!」

(のっ?)

「助けてぇぇぇぇ……っ!!」

少年の絶叫が、小路に響き渡った。


「馬鹿息子が、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「いえ、とんでもない。こちらこそ、来たばかりの街で、この彼とはぐれてしまい、ちょうど探していたところだったんです。息子さんが見付けて下さって助かりました」

馬鹿息子は、今は、父親の太股にしがみついて顔を埋めている。

これでどちらの悪戯も、相殺であろう。

いや、それでも我等の方が幾分、()が悪いか。

助けを求める絶叫をしたのち、びーびー泣き出した少年を、これは困ったのと男と顔を見合わせていたら。

男児の泣き声を聞きつけた、親子と思われる女2人が建物から出てくると、

「あらなんだ、僕ちゃんじゃない」

「先の修理屋の息子さんですよ」

と教えてもらえた。

女たちは、泣いている少年を見ても仕方なさそうに笑っている。

どうやら、ここでの悪戯の常連らしい。

女たちが、私たちが家まで連れて行きましょうかと申し出てくれたけれど、泣かせたのは我等であるし。

礼だけ伝え、男が、自分達は旅人だ、驚かせて悪かったと、自己紹介と謝罪をしながら、少年の腕を引いて立たせた。

この赤毛少年の家は、我等が入った方とは逆の大通りを結ぶ角にある、馬車の修理屋。

そう。

昼前に、街中を元気一杯に走っている所に我が小豆を飛ばして転がし、今は鼻を啜り上げる少年と、あのツナギ姿の父親の家だった。

「のの……」

何が一体どうなってそうなったのか、馬車の荷台のベンチが抜けた部分を直していた父親が、男に手を繋がれ、泣きべそをかきながら帰ってきた息子に気付くと、慌てて建物から出てきた。

こちらは狸擬きとはぐれたことにして、たまたま少年と鉢合わせたと男がさらりと嘘を吐き。

「彼が、息子さん驚かせてしまったんです」

男が改めて謝ると、

「いやいや、どうせこいつが、彼に飛び付こうとしたり驚かせるようなことでもしたんでしょう」

と大きな溜め息。

半分は当たっている。

父親は、息子にしっかり受け継がれた、その硬そうな赤毛を伸ばし、後ろで1つ結びにしている。

息子の方は、怖がりな癖に好奇心だけは人一倍で、更に悪戯が趣味らしい。

悪戯と言っても、先刻のように、人を驚かせて笑う程度のもの。

(……それは)

ただ純粋に、寂しがりなのではないのだろうか。

あまり当たらぬ勘でしかないけれど。

父親の太ももにしがみついた少年は、髪も肌も着ている服も、洗いざらしではあるものの清潔。

自宅兼修理場の建物も豪奢ではないけれど、細やかな補修はきちんとなされているし、壁に引っ掛かる道具も揃い、貧困の様子はない。

あるのは、女手(おんなて)が不在の香りだけ。

大通りを、乗り合い馬車が通り過ぎて行き。

「……昼前に、茶屋の前にいましたね」

太ももにしがみつく息子の頭をガシガシ撫でながら、父親が口を開いた。

「えぇ。大変そうだなと見守らせてもらっていました」

男がそつなく笑うも、

「元気過ぎてどうしようもない。……今日も、臆病な癖して、森まで行くと聞かなくて。止めた先から、あの有り様です」

と、またも肩で大きなため息を吐く。

(ほほぅ?)

森とな。

狸擬きの尻尾もふわりと揺れる。

あれだけ必死に止めていたところからしても、森は危険なのか。

内心でワクワクすると、

「単純に遠いんです。馬車で行くのが当たり前な距離ですから」

この国にも、学舎には春休みと言うものがあるらしく、少年は、無謀にも馬車で行く距離を、徒歩で行こうとしたらしい。

夏に連れて行くと約束しているのに、言うことを聞かないと、太ももにしがみつくのをやめ、今は拗ねたようにその場にしゃがみこむ少年を見て、今度は大きく肩を竦める。

(ふぬん……)

まぁ我よりも阿保そうな子供、しかも少年には、

「夏に」

などと言われても、その夏は遠く、永遠に来ない幻でしかないのだ。

父親は、男が片手に持っている地図に気付くと、

「何かお探しですか」

と、親切に訊ねてくれた。

男が、空き家の宿を探していると見せると。

「あぁ」

それは、今通り過ぎたばかりの小路に立ち並ぶ、建物の一軒だった。


「何かあれば、遠慮なく声を掛けてください」

赤毛の父親は、気さくで尚、気のいい男である。

我も、通じない礼を一応伝えると、立ち上がった赤毛息子は、狸擬きを眺めている。

が、視線をずらし、我と目が合うと、ビクッと跳ね、その場から一歩引いた。

驚きではなく、純粋に我の見た目が薄気味悪いのであろう。

それでも、無駄に愛想など振り撒く気もなく、

「の」

男の手を引けば。

「あぁ、行こうか」

狸擬きは、胸を張って、我の隣を歩いている。

赤毛坊主に怖がられたためか、何やら間違った自信を付けている。

「あぁ、ここだ」

人があまり入っていないため、掃除が必要だと伝えられていたけれど。

どれくらい酷いのかと思いきや、

「そうでもないな」

「そうの」

我等の掃除前の屋敷を比べたら、綺麗なものである。

そして珍しく土足の建物。

「フーン♪」

のこのこと続いて入ってきた狸擬きは、しかし、

「フーンッ!?」

その場で飛び上がり、

「の?」

「フンッ!?」

中に人間の姿が!と、ぼわりと毛を膨らませている。

人間?

「あぁ、絵だな」

入ってすぐの壁に、飾られたままの人物画。

女性が、花を鼻先に寄せた横顔の絵画。

「……フン?」

扉を開いたとこによって光が入り、動いているように見えたのだろう。

「フ、フーン……」

数秒前の自信はどこへやら。

しょんぼり耳を落とすと、更に扉を開けて舞った埃で、

「ブチュッ!ブチュンッ!」

とくしゃみを連発し、

「フーンッ」

建物から飛び出すと、早くなんとかしてくださいと外から助けを求めてきた。

縦に長い3階建ての家は、3階まで上がれど、周りの建物しか見えない。

それでも3階には小路側に小さなテラスもあり、ふわりと吹き込む風が気持ちいい。

上から掃除をするのが道理なのだろうけれど、1階には水場や小さな浴室に雪隠などが纏められているため、先に掃除してしまうことにする。

大変にこじんまりしているお陰で、あっという間に終わる。

さすれば残りは、我は寝室となる3階を、男が居間となる2階を担当し。

狸擬きは、鼻先に巻いてやったハンカチ越しに、

「ムーン」

フゴフゴと何か言いながら、うっすらと足跡を付けながら、建物の中をうろうろしている。

3階まで上がった先の廊下の小窓を、狸擬きの背に乗って開ければ、風通しがよくなったせいか。

「のの」

これまた壁に貼ってあったままの、剥がれかけの紙がふわりと浮き、テラスの方へ飛んで行く。

「フンッ?」

狸擬きが追い掛けて走っても、肝心な紙を咥える口許はハンカチに覆われている。

紙はひらひら風に乗り、テラスの床にも落ちずに、

「のぅ」

柵を越えて、ふわりふわりと、小路に落ちて行ってしまった。

「ぬん」

拾うには、家の階段を降りて行くべきなのだろうけれど、その間にまた風が吹いたら、紙はまた飛んでしまうだろう。

ならば。

「よいしょの」

柵をよじ登ると、

「フンッ?」

主様?

と狸擬き。

「このくらいなら平気の」

下の小路に向かってテラスから飛び降りれば。

「フーンッ!?」

狸擬きの悲鳴のような鳴き声。

落ちれば一瞬。

我は軽いから衝撃も音も少ない。

それでも音を殺すために落ちる瞬間に屈めば、音などあってないようなもの。

落ちた紙も、大人しく石畳に佇んでいる。

「よい子であるの」

何が書かれているのだろう。

拾って目を凝らして見れば。

何か、詩のようなもの。

少し文字に癖があり読みにくい。

(おっとの……)

それどころではなかった。

「掃除をせねばの」

踵を返すと。

「……」

「……の」

紙袋を胸に抱えた赤毛坊主が、あんぐりと口を開き、固まっていた。



「あれ?いつの間に外に出ていた?」

男を呼ぶと、男は不思議そうに外に出て来たけれど、赤毛息子の姿に、

「さっきはすまなかったな」

と謝りながら、用件を訊ねれば。

少年はかぶりを振り、父親に野菜を持ってけと頼まれたと。

さすがにもう、何かしら、我等をからかってやろうなどと思う気は消えたらしい。

「あぁ、ありがとう、とても助かるよ」

カゴの中身はトマトや檸檬。

荷台にあらかた置いてきてしまったため、食材が乏しいのだ。

「フーン」

従獣の寿命が縮む行動は慎んで下さいと狸擬きがやってきたけれど。

「お主に寿命はないであろうの」

男が、扉の近くにおいてある鞄から、

「大したものでなくて悪いな」

とジャムの挟まったビスケットの入った小袋を渡すと、

「……貰っていいの?」

喜ばれるより、訝しがられる。

「?」

あれか、見知らぬ他人から、物を安易に受け取ってはいけぬと教わっておるのか。

「旅人は、甘いものは特に貴重だって聞いたから……」

おやの。

父親からだろうか。

男は、こんな大きな街に来られた今なら全く問題ないと答えると、

「じゃあもらう。……あんがと」

と、男に寄り添う我を見て、更に我の足許を見てから、

「……あ。そうだ、父さんが、よかったら馬車を見るから、伝えてくれって言ってた」

と言伝てを貰えた。

「ああ、何かあったら頼むよ」

赤毛が、小走りで家へ帰りながらも、小首を傾げている。

夢でも見たと思うだろう。

掃除も、ほどなく終わり。

「フーン」

空腹でありますと狸擬き。

「そうの」

男が、近くに店があったから何か買ってくると出て行き、我等はお留守番。

「はて、どうしようかの」

「フーン」

狸擬きの要望で、3階の小さなテラスに出ると、長椅子でうつ伏せになった従獣の背中の毛を梳かしてやる。

こやつはどこへ行くにも、男の鞄に自分用の櫛を投げ込むことを忘れない。

「……フーン♪……フーン♪」

しばらくご機嫌に鼻を鳴らしていた狸擬きは、

「……フー……♪……フゥン……」

陽気も相まって心地好いのか、間も無く、小さな寝息を立て始めた。

梳かす代わりに背中を撫でてやると、ますます力が抜けていく。

(ふぬ……)

我は、その従獣の柔らかな毛を撫でながら、少し雲の多い空を眺める。

(地と違い、空はどこも変わらぬの)

「……」

この世界に来てから、もう少しで春夏秋冬を丸々二巡りする。

こやつと遭遇し、男と出会い、一度は別れ。

こちらの世界に来てから、我は、とみに、

「思い出す」

ことが多くなった。

こちらに来てからのことを。

特に、狸擬きや男と旅をするようになってからの出来事を。

それは。

(そう)

とかく愛おしいものを、慈しむ様な感覚。

宝物の詰まった箱をそっと開いては、眺めるような。

(……何も)

何もかも。

(忘れたくないの……)

元いた世界のことなど、全て忘れてもいいから。

この世界の記憶は、ビスケットの一欠片程も、忘れたくない。

小さな手の平を広げ、しばらく見つめていたけれど、

「……」

なんとなしに隣の狸擬きに身体を預ければ。

(ぬぬ……)

どうやら近くで様子を窺っていた睡魔たちが、ふぅと、息を吹き掛けてきた。


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