110粒目
「の?」
『こん、こんちに、は……』
ざらついた低い声と共に。
『こ、ことば。言葉は、これで、いいのか?』
のそりのそり、と現れたのは。
その見た目は、ツノの控え目さから言ってカモシカと思えるけれど、なにせ顔と頭以外が、うねった多毛に覆われている。
(……カモシカ擬きの)
そして昨夜、鹿たちに囲まれこちらを遠巻きに眺めていたあの個体と見た。
「よいの。言葉は通じるの」
足場の悪い崖下でも、その割りと巨体でも難なく歩いてくると。
『……近くで見ても、小石の様に、小さい』
じぃっと見下ろされた。
「お主が大きいだけの」
『それもそうか。……』
我の掴んでいる琥珀を気にしている。
「石を少し貰っておるの」
広げて見せれば。
『ここの、山のものは、誰のものでも、ない。価値の解るものが、利用すれば、いい』
心広し。
けれど、その毛むくじゃらの身体から放たれるのは、とかく不穏な空気。
「なんの。余所から来た闖入者に対し、物申しにでも来たのの?」
首を傾げて見せれば。
『れい、を。仲間を代表し、挨拶に、来たんだが』
言葉とは裏腹に、力の入ったままの身体。
「???」
そのちぐはぐさに首を傾げると。
「フーン」
この獣は、この大きな山々の、主に鹿たちのまとめ役です、と狸擬き。
「ふぬ」
未だざわついたままの山の気配にとても過敏になり、無自覚に身体に力が入っているのでしょうと。
「フーン」
なので特に心配はいりません、と狸擬き。
「ならよいけれど」
『……』
多毛のカモシカは、ゆらりと辺りを見上げると、無言で、軽々と崖を上がって行く。
「?」
眺めていると、
『少し、気を付けろ』
と言葉を落としてくる。
「……?」
カモシカは前足を使い、崖の隙間に挟まった大きな琥珀の塊を落としてくれている。
「おやの」
とても有り難い。
狸擬きが琥珀を詰めた鞄を背負い袋を背負うと、また、たたっと駆けて姿を消して行く。
次に戻ってきた時には、男からの、
「荷台の容量もある、あと2~3袋で充分だ」
と書かれたメモ。
カモシカにも、もう大丈夫であるのと声を掛けると、身軽に降りて来る。
背負い袋には、追加のおやつのビスケットが入っていた。
小リスは勿論、蜘蛛もそわそわしているため、我の分も獣たちに分ければ、狸擬きも。
「……」
1枚だけ食べ、残りをじっと眺めてから。
珍しく、本当に珍しく、身体の大きなカモシカに分けてやっている。
明日は槍が降るどころか、山が立て続けに噴火でもするやもしれぬ。
カモシカは、首を傾げつつビスケットを咀嚼すると、
『とても、珍しいものを、食べられた』
と目を瞬かせ。
そして、その物珍しいビスケットが気付け薬にでもなったのか、ふっと不穏な気が抜け。
『……大変に失礼した。どうにも、山の空気と同調してしまうタチなのだ』
と、まるで山の主の様なことを言う。
ただ、その原因を作ったのが我ではあるため。
「山を引っ掻き回して済まなかったの」
謝れば。
『いいや。あのまま自分達が争ったら、被害は昨夜の何十倍にもなり、それはそれは、悲惨なことになっていただろう』
だから改めて感謝すると、カモシカは、そうは言うけれど。
「……それもまた、山の摂理ではないのの?」
山の主も、また新しく代わるのであるし。
カモシカは人のように緩くかぶりを振ると、
『自分は、そんなことで、家族や友達が死んでいくのは見たくない』
と。
我より情があるではないか。
小リスが、崖の上から仲間に呼ばれ、
『すみません、失礼します』
忙しそうに駆け上がっていく。
それを見送ると。
「……の」
『なんだ?』
「この土地は、獣のいる山の方が、人里よりも、力関係でより優位に立っている様に感じるのは、やはり、山からの里への恩恵のための?」
昨夜、やたらと動き回ったお陰で気付いた。
この山の力が、風に乗り、絶えず、森や人里の方へ流れている。
それは人の森や里の土地に馴染み、植物もよく育つし、家畜たちも健康に育つ。
『あぁ。人はそれを山からの恵みとして受け取り、長年、我等のいる山を、讃えてくれている』
カモシカは、そう答えながらべろりと口許を舐める。
ビスケットが美味しかったのだろうか。
「……でも、決して、それだけではないであろうの」
どんなに土地に恵まれていようと、山には山の、こんな風に石もあれば、幾多数多の獣たちもおり、
「山にしかない稀有なもの、人々には大変な価値になるもの」
は、いくらでもある。
それでも、山に入らない。
『……』
カモシカが黙って目を閉じたため、我は、再び落ちた石を拾い始めると。
『……大昔。まだこの山と人の領域である森が、遮られていない頃』
『人と獣がまぐわう禁忌が行われた様子』
『生まれた子は、人とも獣とも言えぬ、肉塊のようなものだったと』
『その日に、地が割れるほどの何かが起き、その人と獣と肉塊は割れた崖下に落ち、また数度続いた揺れで、崖の間で潰された』
地震であるの。
『”人と獣は交わってはいけない”
それがどれ程の禁忌かは、それは、地が割れる程の所業。
長い長い時を経て、それは、どんな人間にも獣にも、より分かりやすく、より端的な、
“互いに干渉しない“
そんな言葉で、山に里に伝り続けた。
だから里の人々は、山の恩恵を与えられると同時に、山への畏怖も、変わらずに強く、植え付けられているのだろう』
『……人は我等より弱く、しかし賢いからな』
「そうの」
この世界の人間は、無尽蔵に子を孕めない。
子孫を残すため、より臆病に、より慎重になり、禁忌にも、安易に触れることもしない。
不思議はまだある。
「なぜ、そこまで詳しく、肉体的にも精神的にも、とみに山に同調するお主が、山の主に選ばれなかったのの?」
他にも色々と知っていそうであるし、体躯、物腰からして、主の風格。
そう問うて振り返れば、カモシカは笑っているのか小さく身体を揺らすと、
『……私は、自分達、同胞のみが大事なのだ。熊や他の獣たちとも仲良くやっている。けれど、何かあった時に、積極的に、仲間以外を助ける気はない。山の主になるには、些か考え方が偏っているのだ』
だからこそ私は選ばれなかったし、それもわかりきっていたことだと、変わらず穏やかな低音。
「ふぬ」
それでも。
「……」
わざわざここまで。
我の許までやってきた。
こやつを慕う、まだ不安がっているであろう仲間の鹿たちを置いて。
得体の知れぬ、我と対峙をするために。
「あれの。きっとお主は、この山の主を支えていく、番頭役となるのであろうの」
カモシカは、小リスがいるであろう、崖の上をじっと見上げると。
『……あぁ。私が生きている間は、山の主の事は、出来る限り支えたいと思っている』
伸びのような動きを見せる。
「それは頼もしいの」
こやつが生きている間に、あの小リスも、多少は山の主として、図太くなるであろうか。
カモシカと、カモシカの背中に乗った蜘蛛が、わざわざ山と森の境の崖の手前まで見送ってくれた。
蜘蛛はともかく、カモシカは仲間や家族が待っているであろうに。
「すまぬの、ありがとうの」
『いいや、気にするな』
『また来てください』
「の」
森を抜けすぐの、馬車の荷台に寄りかかり煙草に火を点ける男の姿に、
「ぬふー♪」
狸擬きの背中から、
「お?」
こちらに気付いた男にポーンッと飛び付けば。
「……おわっ!?」
危ない、と言いつつ、苦笑いで抱き止めてくれる。
ぎゅうとしがみつけば、
「ドレスは乾いたよ」
どうやってか血の染みも落としてくれたらしい。
「では後で着替えるかの」
この街でも、巫女装束は目立つ。
男が煙草を吸い終わるまでしがみついてから、琥珀の入ったずだ袋の積まれた荷台に下ろされると、白いドレスに着替える。
ヘッドドレスを持って荷台から出れば、男が頭に巻いて留めてくれる。
街中へ向かえば、祭りの支度が始まっており、我等は茶屋のテラス席で、
「あーむぬ」
トマトの水分で焼いたと言う、うっすら赤色の付いた仄かな酸味のあるパンのサンドイッチを頬張っていると。
白いワンピースを纏った親子連れが、ぞろぞろと道を歩いて行き、中には白いシャツにパンツ姿の男児も混ざっている。
皆楽しいそうにしており、男の話では、
「お祭りの時期に子供たちで森に入って、薬草を採る行事があるのだそうだよ」
と教えてくれたけれど。
森には、狼が出たばかりではないか。
薬草を採る場所は違うのだろうけれど、さすがに危機管理が無さすぎるのではないか。
サンドイッチに齧り付き呆れ半分に見送ると、片耳を傾けていた狸擬きが、
「フーン」
山の主様のご加護があるから大丈夫なんだそうですと、甘いカフェオレを飲み干す。
山の主様。
勿論、小リスではなく、
「フーン」
わたくしのことでございますと得意気狸。
「……そうの」
あの時に、我の代わりに、狼たちを牽制(?)したのは間違いなくこやつである。
狸擬きは、肉球をぺろりと舐めると、
「フーン」
山の様子を窺ってきます、と椅子から飛び降りた。
何を言う。
「遊びに行っています」
の間違いであろう。
面倒だからそのまま見送るけれど。
「気を付けるの」
「フーン♪」
テテテ、と道を横切る狸擬きを、街の人間は珍しそうに眺めている。
ここらは、狸擬きだけでなく、獣自体が物珍しものであるしの。
男と向き合えば、
「狼の毛皮はここではだいぶデリケートな品物になる。
他の国で卸して、ここでは君が採ってきてくれた琥珀を少し換えようと思っているよ」
「任せるの」
街には、乾燥したラベンダーを始めとし、生花問わずの薬草が飾られ始める。
テラス席のテーブルにも、知らぬ一輪挿しが活けられている。
(魔除けも兼ねているせいか、いまいち居心地が悪く感じるの)
立ち上がった男に、
「抱っこの」
抱っこをせがみ、ぎゅむりとしがみつきつつ、男が街中を歩けば。
(ふぬん……)
山の方から吹く柔らかな風に混じる山の力で、その若干の心地悪さが緩和される気がする。
店先には。
「のの、薬草酒?」
「少し苦いそうだよ」
「薬草塩もあるの」
調味料か、風呂用か。
宝石でない万能石にも、どうやって加工するのか薬草が練り込まれているものが売っている。
広場では、ダンスの練習をしている若者たち。
旅人の姿もちらほら。
山に入ろうとする旅人や冒険者はいないのだろうか。
「まず、組合が止めるだろうな」
ふぬ。
「あとは、あの崖を渡るには、人には割りと難易度が高い。こっそり行ったとしても、諦めるんじゃないかな」
ふぬぬ。
小リスは、たまに街の人間が眺めに来ていると話していたけれど、それはもしや、こっそり山に挑もうとしている余所者の可能性も出てきた。
狸擬きが宿に帰ってきたのは、炊飯器が音を立て、ぎゅむりぎゅむりと赤飯を握り終えた頃。
陽は暮れ、風が少し湿っている。
「フーン」
狸擬きは裏の庭から入ってきた。
わりに。
「あまり汚れていないのの」
「フンフン」
走り回っただけで転げ回ってはいませんのでと狸擬き。
「どうだったの?」
「フーン」
蜘蛛の糸に吊られ、降参も嫌だし食われるのも嫌だとごねる狼が、山の奥の森に追い払われるのを眺めていましたと。
「いい趣味をしておるの」
濡らした布でフキフキと足を拭いている狸擬きは、
「フーン」
あのカモシカとも少し話をしましたと。
「おや、何か言っておったかの?」
「フーン」
自分達も少し戦う術を覚えようかと、仲間たちで話していたところだったと。
「なんと」
あのカモシカはともかく、鹿たちは立派なツノもあるしの。
「フンフン」
なので、わたくしめからは剣術を伝えておきましたと、鼻を高くする狸。
「ののぅ」
阿保な主には、やはりそれなりの従獣しか付いてこないのか。
夜半に少し雨が降り、山の獣たちも、寝床でじっとしている気配が伝わって来た。