109粒目
「チチッ」
「のの?」
リスが木の枝から声を掛けてきた。
『山の主となった同胞の力になってくれて嬉しいと言っております』
「ふぬ」
熊がそそくさと巣穴に逃げていく姿も見えた。
『この山々にいる熊たちはこぞって臆病であり、山の主を慕う穏健派でございます』
熊は戦いがいあるため、ほんの少し残念である。
「の、この深く大きな山々の向こうは、何があるのの?」
『巨大な森、そして更に向こうは再び山が続きます』
ほう。
しかし奥の森は小リスの、山の主の管理下ではなく、
「別の主がいるのの?」
『いえ、不在な様子』
と。
話しながらも駆けてきた狼の頭に、折った太い枝を投げ飛ばせば。
「……ッ」
『昏倒、お見事にございます』
「の」
途中から、どうやら本気で我に挑むものと、力試しのものがいることに気付き。
「……こやつらは、我をなんだと思っているのかの」
『お祭りだと思っている輩もいる様子』
中には、奇を衒い、木の上から降ってきたものもいたけれど。
「ぬっ!?」
たまたま、木の枝を切るために手にしていた男から預かったナイフをふりあげてしまったお陰で、
「……ッ!!」
「のの!!」
「フーンッ!?」
星空の夜に、血の雨が降る。
結局。
「……大惨事であるの」
街中からはだいぶ離れた、深く深くは主不在の、森に近い山の山頂。
『凄いですね』
小リスがやってきた。
「目が覚めたかの」
『目は覚めていたのですが、仲間たちに声を掛けつつ、ここまで走ってくるのに時間がかかりました』
山の主は忙しいの。
しかし。
「すまぬの」
だいぶ殺した。
『……いいえ。死んだものたちは、きっと、死ぬまで納得しなかったでしょう』
「蜘蛛の糸で吊るしたものたちはどうするのの?」
『朝に解放します。それでも逆らうものは、他の獣たちが、この山々から追放するでしょう』
ふぬ。
夜の風が血の匂いを纏わせ、抜けて行く。
『……』
山の主である小リスが、改まった様子で我を見上げると。
『朱に染まった、青のミルラーマの美しき主よ』
『私は、今宵のことは、これから、幾分と長い時を過ごす中でも、決して、忘れることはないでしょう』
それは、幾分かキリリとした声と強い眼差し。
「……とんだ血の祝杯になってしまったの」
可憐な小リスには全く似つかわしくない。
『いいえ。……この血は、山々の、木に草に土に沈み、馴染み、混じり、染まり。
山に住むものは皆、それを忘れることはありません。
“人里へ降りてはいけない”
それがこの地に深く刻まれることで、我等獣の平穏は、続きます』
まだ生まれたての山の主にそう言わしめる程に、山と里は、互いの干渉を望まない。
過去に、大昔も大昔に、一体、何があったのか。
「フーン」
主様、と狸擬き。
「の?」
「フゥン」
あちらの崖の狭間、夜目でもキラキラしたものが御座いますと。
「ぬ?」
目を凝らせば、
「あぁ、あれは琥珀であるの」
暗闇の中、星の光で反射する石たち。
まるで我に見付けてくれと言わんばかりの仄かな輝き。
高い崖の部分は無理でも、紫の石同様に、崖下に落ちていそうである。
蜂蜜の色に似ていますね、とごくりと喉を鳴らす狸。
「の」
『何でしょう?』
『今夜の礼に、あれをもらっても良いかの」
小リスに伺いを立てれば。
『勿論です、お礼になるならば、いくらでも』
とはいえ。
「そろそろ戻らねばの」
『もうお戻りに?』
「連れがいるのの」
狸擬きの背に、小リスも乗せ、街中に近い山の方へ急ぐ。
風向きで、街の方まで血の匂いと山のざわめきは届いているらしく、街中も少しばかり落ち着かない様子。
「フーン」
「の?」
「フーン」
男がこちらへ、崖の手前まで向かって来ておりますと狸擬き。
「おやの」
丁度いい。
「また明日にでも、琥珀を拾いに来るのの」
『お待ちしております』
狸擬きから飛び降りた小リスに手を振り、
「フンッ」
狸擬きが助走を付けて崖を飛び越えると、
「……あぁ、お帰り」
ランタンを片手に、男が木々の間から姿を表し、我の姿に隠さない安堵の表情を浮かべたけれど。
「……うっ」
すぐに、赤黒く染まった我の姿に気付けば。
「……酷いな」
途端に眉を寄せた。
我の血の混じった男の目は、夜の森で、どれくらい見えているのか。
男は、沢で、裸で水浴びをする我の姿を眺めている。
普段は背を向けて、ことのほか紳士なのに。
「……」
視線だけでこうも熱を感じるのは、初めてである。
けれど川から上がれば、男はいつものように背中を向けた。
身体を拭く布と服も肌着も、すでに用意されている。
キャミソールにかぼちゃパンツ。
広げれば我ながら、
(小さいのぅ)
頭から被り、足を通し。
「の、髪を乾かして欲しいの」
「あぁ」
寒くないかと聞かれ、
「平気の」
大型の獣はとんといない人里の森の中。
少し離れた場所から、兎たちがこちらの様子を窺っている程度。
「街はどうであったの?」
男は組合へ向かうと、さすがに少し落ち着かない様子で防具やらを用意していた組合の人間たちが詰めていたため、酒を差し入れがてら話を聞いたと。
「今年は、100年目なんだそうだよ」
100年?
「山の主が新しく生まれる年なんだそうだ」
「たった100年かの」
「獣も人にも、100年は長い月日だ」
それもそうか。
狸擬きは、ランタンの灯りのお陰か、夜に舞う蝶をふらふらと追っている。
「節目の年だから、山で何かあってもおかしくない。
けれど、人も街も干渉はしない。
山で何があっても、見守ることしか出来ないそうだよ」
この国のこの街の人間は、どうにもその辺りはきちりきちりと立場を、なんなら少々卑屈なほどに、弁えている。
けれど。
「狼が、人の縄張りの森にまで来たことはどうなっているのの?」
「あぁ、さすがに少し問題にはなりかけたらしい」
らしい?
「襲われそうになった親子が、
『4つ足の獣が庇ってくれた』
『山の主様が助けてくれた』
と話したみたいでな。
そうしたら、
『山の主様が自らが騒ぎを収めにやってきた』
『それなら安心だ、もう大丈夫だ』
と。
あからさまに深入りをしたくないようだったよ」
ぬぬん。
男も、さすがにそれで収めるのは少しおかしいとは思ったけれど、それ以上は訊ねなかったと。
そうの。
我等は所詮、流れ者であり、ここの土地の者ではない。
それでも。
「明日になれば、親子たちが襲われた場所へ、様子を見に行くくらいはするであろう。
人里へ降りてきた狼たちの名残が1つもないのは、不審に思われぬかの」
「あぁ。それも、
『山の主が何かしたんだろう』
で終わりそうだ。
多少おかしなことがあっても、全ては節目の年だから、で済まされそうだ」
「ののぅ」
節目の年、とはなんとも便利なものであるの。
我は明日は、謝礼の代わりに琥珀と思われる石を山へ採りに行くと男に話せば。
「俺も行くのは無理か?」
1滴すら我の血ではないとは言え、顔にドレスに血を浴びて戻った我を心配した男に、同行の許可を問われたけれど。
「よいけれど、山を3つ程越えるの」
無論、男は徒歩になる。
「……う」
ぐ、と詰まる男。
「くふふ。売る時がお主の出番の」
「あぁ……」
諦めた様な溜め息。
髪を乾かされ、夜も遅い、帰ろうと男に抱き上げられると。
「フゥン」
蝶々に逃げられた狸擬きも、欠伸をしながら戻ってきた。
「もう普段ならとっくにねんねの時間であるしの」
「フーン」
けれど。
「お主は戻ったら風呂の」
「フンッ!?」
「お主も返り血を浴びておろうの」
我は、万一にも街や宿の人間と遭遇したら、あの姿では嫌でも騒ぎになるからと、先に沢で血を流したまでである。
「……フーン」
濃い茶色で目立たないものの、所々、血で毛が固まっている。
「馬車はどうするのの?」
「今夜は宿の前に置かせて貰おう」
「の」
少しばかり、長い1日が終わる。
翌朝。
森の手前まで馬車で向かい。
「あーずき洗おか、紅茶を淹れーよか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
「あーずき洗おか、ティーラミース食ーべよか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
ふふん、ふふん♪
ふふん、ふふん♪
小豆を目一杯しゃきしゃきし。
「行ってくるの」
「気を付けて」
「の」
男は沢で、我のドレスの血を落としてくれると言う。
さすがに着たばかりで我の身体には馴染んでおらず、血で赤黒く染まったままである。
狸擬きの背に乗り、昨夜の琥珀の覗く崖まで向かうと。
我でも降りられる緩やかな崖の段差を、滑るように駆け降りれば。
やはり、浅瀬にキラキラした琥珀が塊で落ちている。
「ぬふー♪」
琥珀を拾い、背負い鞄に詰めては、
「では頼むの」
「フーン」
狸擬きに背負わせ、男の許へ。
我は持参した別の鞄に琥珀を詰めていると。
『昨夜ぶりです』
蜘蛛がトコトコと崖を降りてきた。
「おやの、昨夜は助かったの」
『何を仰います』
それはわたくしどもの言葉ですと、挨拶なのか、ひょいと前足を1本あげた蜘蛛は。
『何をなさっているのですか?』
不思議そうに訊ねてきた。
「旅に必要なものをの、お裾分けさせてもらっているのの」
ぽいと鞄に放ると。
『たび?』
「の。遠くへ行くことの」
『それは、あなたのお山へ帰られることですか?』
ふぬ。
「それはまだの」
帰っても良いけれど。
『あなたの山も、大きいのでしょうか?』
「ここよりは小さいの」
主の大きさとは比例しない。
『昨夜ぶりです』
「おやの」
小リスもやってきた。
『もっと早くご挨拶するつもりが。つい朝寝坊をしてしまいまして』
毛に寝癖を付けている。
「昨夜は忙しかったからの」
「フーン」
狸擬きが空の背負い鞄を背負って戻ってきた。
「フンフン」
「?」
鞄は空ではないらしく、背中から外すとごそごそと中を漁り。
「おや、飴の」
男が詰めてくれていた。
子リスと蜘蛛にもお裾分けすると、リスはコリコリと、蜘蛛は器用に削いで粉塵を口にしている。
『木の蜜のような甘さ』
『美味♪』
どちらにもなかなかに高評価。
そう言えば、ここに来るまでの道程。
狸擬きの背に股がり山を駆け抜けている間、山には、まだ吊るされたままの獣もいた。
『えぇ。まだ納得しておらず、放置しているものたちです。生きたまま衰弱、食われるは良しとしないでしょうから、後半日もすれば、大人しく降参するでしょう』
しないものは、他の獣たちが追放すると。
山に住む大半のものたちは、今まで通りの生活を望んでいたため、安堵してるものたちばかりです』
狼たちの中にも、勿論多くいるとも。
(色々であるの)
琥珀拾いを再開していると、
『あー……あ、あー……』
「?」
不意に。
浅瀬の川の先の方から、歌う前に発声を、音程を確かめるような、低い、平坦な声が聞こえてきた。