100粒目
通り雨と聞いたけれど、やまぬ雨の中。
すっかり雑男に懐いた狸擬きは、大昔にソファの名は捨てたであろう、ベンチと名乗れる代物に仰向けになり、雑男に腹を撫でさせている。
男との会話で、
「明日街を出る?」
狸擬きの腹を撫でる手が止まるくらい、驚かれた。
そう言えば、伝えてなかったか。
しかし驚かれた理由は。
「旅支度で忙しくないのか?」
と。
「街を抜けて行くだけですし、店も多くあるので」
街から街へ。
色々買い込む必要もないのだ。
「はー、旅慣れてるなぁ」
そうかもしれない。
そんな雑男の住居に、思ったより長居してしまったのは、雨のせいもあるけれど。
狸擬きが、
「フゴー……フゴー……」
と、ベンチとしか呼べないソファで、無遠慮な寝息を立て始めたため。
そして通訳もおらず、男の膝に股がりべたりと男の胸に頬を押し付けていた我も。
「ぬ……?」
気付けば眠っていた。
男の胸と我の顔にハンカチが挟まれ、どうやら涎まで垂らして眠っていた模様。
「雨がやんだよ」
「ぬぬん」
手で口許を拭っていると、狸擬きもフゴッと目を覚まし。
街の外れは道も石の舗装はなされず、道はとても悪い。
片腕で我を抱っこし、小脇には狸擬きを抱えた男が、水溜まりを避けつつ歩き。
そんな男の背中ごしに我を手を、狸擬きは尻尾を、雑男に向けてそれぞれ振れば。
「……彼は、研師の彼女とは、また違う病なのか?」
男が声を低くして訊ねてきた。
「研師のあれは血、遺伝であるからの」
男は、雑男には雑男の家族のことは何も聞かなかったし、雑男も、ついぞ自身のことは何も話さなかったと。
ただ、随分と長い間1人なのは、部屋を見れば窺えた。
2人は、互いに自分たちのことは話さぬ代わりに、街の話や、男も、ただ辿ってきた国の話をしていたと。
少し買い物をしてから宿に戻れば、今日は少し遅くまでパンを捏ね、菓子を焼き。
簡素で質素。
飾り気などはこの建物を建てた時に置いてきたであろう、それが妙に落ち着く朴訥とした宿の部屋で、この街での、最後の夜を過ごす。
「本当にもう行っちゃうの!?」
「やーだー!」
蛇男の仕事場の建物の前。
男に詰め寄るのは兄で、その場で地団駄を踏むのは弟。
「ごめんなさいね、子供たちが、どうしてもお別れの挨拶がしたいと言って聞かなくて」
夫の仕事場にまで、わざわざ子を連れて我等を見送りに来てくれた嫁が謝りつつ、
「旅には、日持ちするものがいいのよね?」
と蜂蜜と塩を乾燥トマトをくれた。
「ふのの」
これは嬉しい。
「お礼の」
焼いたパンと、パウンドケーキを渡すと、嫁は寂しそうな笑みを浮かべ、
「ありがとう。……また会いに来てね」
握手を求められた。
「の」
またいつか。
蛇男は、
「数日中に仕事を作りそちらまで行くので、それまでどうかお待ちくださいっ!」
これでお別れ、などという気はさらさらないらしい。
母親にしがみついて泣く兄弟に手を振り、にぎやかで、されど穏やかな、蛇男の家族のような街を後にする。
「踵にナイフ?」
「こう、回し蹴りした時にの、出てくれば殺傷力が格段に上がるの」
「フーンッ!!」
素晴らしき発想にございます主様、わたくしの後ろ足にも付けて欲しいと大興奮の狸擬きに対し。
「……えげつないな」
男には、我に対し、気が遠ざかる様な顔をされる。
引かれる、と言うあれである。
「獣にそこまで近付いて戦うことは少ないと思うけれど」
「差し迫った接戦や、剣士ならばあるであろうの」
不意打ちも必要になる。
「んん、その仕込んだ刃物のギミックは、バネになるのか?」
「こう、特定の角度になった時のみ出るのはどうの?」
「それだと、いざという時に出ないと意味がないな」
「ぬぬん、確かにの」
「フンフン」
男が珍しく我の戯言に付き合ってくれ、狸擬きも交え、ああでないこうでないと話していたせいもあり。
少しの休憩と、幾つかの丘を越えるだけで、あっという間に城下町に到着した。
隣街からの道沿いにある、街の入り口とも言える大きな宿は、大きな厩舎も兼ね備えており。
「馬と荷台はこちらでお預かりしますが」
が?
「お城の近くのお宿で、ご予約を承っております」
と、宿屋の人間の控えめな微笑み。
ここでは駄目なのか。
「お客様のご宿泊のご予約が、すでにあちらのお宿で済んでおりますので」
なんと。
鳥便を送ってきた秘書の差し金か。
当然、城に近い程、宿代も比例して上がるであろうに。
「の」
「ん?」
「あの秘書はお金持ちの?」
当然、宿代はあちら持ちなのだろう。
「どうだろうな。あの人が支えている方が、お金持ちなのかもしれない」
ぬぬん。
まだ幾ばかと走っても走っていないと不満そうな馬と荷を預け。
徒歩で、教えられた宿へ向かいつつ、城下街を眺めれば。
「悪い感じはせぬの」
「フーン」
こちらの街も適度に華やかで、場所柄か、気取ったドレスを纏う人間も多い。
道を走る馬車にも装飾がされており、建物も一つ一つが大きく、そしてこちらも、やはりカフェを多く見掛ける。
午後の花曇りの空でも、テラス席は賑わい、珈琲の香りが鼻先を掠め、狸擬きが忙しそうに鼻をスンスンさせている。
昼食は、丘を抜ける途中で、休憩がてらサンドイッチを頬張ってきたため。
お茶は保留にし、そのまままっすぐに、予約がなされているらしいお宿へ向かえば。
「のーぅ」
「おお……」
「フーン」
いつだったか。
あれは城が茶色かったから茶の国だったか。
いつかのその城が、客室のテラスから目の前に見えた宿と同じ様に。
こちらは白い城が目の前に聳える、こう、重厚と言う言葉の似合う、立派なお宿の、そして立派なお部屋に通された。
狸擬きは早速、部屋の散策を始める。
そう。
散策、と言える程に部屋は広く。
我は男に抱っこをせがみ、荷を置いて我を抱き上げた男は、また無駄に広いテラスへ出ると。
「こんな風に城が見えたのは、茶の国の城だったかな」
男も、思い出したらしい。
どっしりと構えていた茶の国の城より、丘の上の城は、細身で、遠目でも造形が逐一細かい。
ツンツンと空に向かって伸びる塔が多いのが特徴であろうか。
見張り塔ではなく、あくまでも見映えを重視したもの。
その瀟洒な城へ向かう、丘を上がる白い馬車を眺めていると。
「フーン」
部屋には異常ありません、と一通り部屋の探索を終えた狸擬きがやってきた。
「ふぬ」
しばらく、それぞれに、ぼんやりと城を眺めつつ、物思いに更けていたけれど。
「そうだ、ティールームを利用できると聞いたよ」
よっと我を抱え直した男が、我の流したままの髪に指を通す。
お茶か。
「フーン」
そう言えば喉が乾きました、と、我よりも先に狸擬きが反応する。
特に異論もなく、従獣の訴えに従い、宿の茶屋へ向かい、やはり城が一望出来るテラス席へ案内されると。
我等の到着は、きちりと、街に到着した時点で伝わっていたらしい。
「大変お待たせいたしました」
我等のテーブルにやってきたのは、あの思ったよりは若そうな執事だった。
今日は執事の格好ではなく、非常に細身な身体に、細身に仕立てたシャツとパンツ姿。
「ご夕食時に私などがお邪魔するのは、ご迷惑になるかと思いまして」
恐縮ながらお茶の時間の一時を頂戴したく、と。
気取らないのはその服装だけ、今も慎ましやかに頭と瞳を伏せているけれど。
一体、こやつ、この執事には、我等は何者だと思われているのか。
男が、自分達はただの旅人ですからと告げても、今日も茶の国で仕立てた三つ揃いの格好では、説得力はあまりない。
そして、空気を読まぬ、そもそもそんなものは存在しない狸擬きが、
「フンフン」
わたくめは喉が乾きましたと、椅子に重ねられたクッションの上に座り、テーブルを肉球でポスポスする。
正確には、茶ではなく、離れたテーブルで他の客が食べているケーキに目を奪われている。
こんな食い意地ばかりが張ったいじましい獣が同行しているのだ。
我等は、
「やんごとなき御一行」
などでは決してない。
しかし。
「他の獣と比べても秀でて知能の高く、人と行動を共にする一部の小鳥や青狼でさえ、人の様にテーブルを囲み、人と共に食事を共にはしません」
と。
ぬぬん。
この若執事は、この飛び抜けて間抜け面の狸擬きにすら、何やら、
「特別感」
を見出だしている。
したらば。
(もう勝手に思い込むが良いの)
我は迷わずティラミスを頼み、
「のの?」
下の方に、おまけの様に記された紅茶を男伝に頼むと、
「紅茶がお好きですか?」
と若執事に問われた。
「好きの」
頷けば、
「偶然にもこの国と同じ、赤の国と呼ばれる遠い国では、紅茶が名産だと小耳に挟んだことがあります」
男が、その国を越えて来たと答えれば、若執事は驚きつつも、小さく頷くに留め。
それでも、冬は少し長めであること、人々には赤い服が好まれていたと男が続けて話せば、年相応の若者らしい、隠せない好奇心に目を瞬かせている。
そう待たずして、我と狸擬きの前に運ばれてきたティラミスは、
「ぬふん♪」
間違いなく美味であったけれど。
「……」
紅茶は、
(やはり期待してはいかぬの)
なまじ赤の国、紅茶の国で質の良い茶葉を買い漁り、旅路で、水場のある宿で。
文字通り、
「湯水のように」
飲んでいたため、紅茶に関しては、とんと舌が肥えてしまった。
狸擬きは、その辺りは、食に関してはしかと賢明であり、今も紅茶ではなく、砂糖を落としたカフェオレを美味しそうに啜っている。
(ぬ……)
「紅茶は、やはりお気に召しませんでしたか?」
紅茶のカップを置いた我に、若執事が問うてきた。
決して顔には出さなかったつもりだけれども。
一挙一動、瞬きと呼吸の間合いすら、観察されている。
そう。
男ではなく、我の。
「……珈琲の国で紅茶を求める我が、愚か者なだけの」
かぶりを振り、微苦笑してみせれば。
「城で、もう少し茶葉の育成に力を入れるよう、提議してみたいと思います」
と。
おや。
「お主は、お城で働いているのの?」
「その通りでございます」
では。
「お主の父親は?」
「……家令です」
なるほど。
なぜこんな旅慣れぬ若造が、あんな仕事を請け負っていると不思議に思っていたけれど。
それも、家令である父親の命だと。
息子が自分の立場に付くその日まで、父親は、より多くの仕事と経験を積ませているのだろう。
あのシスター、口寄せ少女のお守りも、無論その一環。
いずれ家令の立場に立つ、その時まで。
より面倒で厄介でけったいな仕事を子に積極的に経験させる、どうやら至極まともな父親な様である。
「……」
そう。
家令からして、この国はどうやら信用が置ける。
「の、我はジェラートも食べたいの」
空になったティラミスの皿を指差し、男にねだれば、
「フーン♪」
食べたいです、と皿を持ち上げる狸擬きの掩護射撃。
「……」
今ティラミスを食べたろうと、男が躊躇している間に、若執事が淀みなく、我と狸擬きの前にメニューを広げてくれた。
ほうほう。
なかなかに「話の解る」人間ではないか。
若執事への好感度が上がる。
狸擬きとメニューを覗き込み、仲良くオレンジのジェラートを頼むと、ジェラートには薄切りにされたオレンジが添えられてきたため、それを少し冷めた紅茶に浮かべて口を付ければ。
(ふぬ)
まぁ少しは飲める。
オレンジが非常に濃いのだ。
「フーン」
半目の狸擬き。
の?
行儀とな?
我は幼子、そんなものは知らぬ。
オレンジのジェラートも美味しく食べ終えると、男が、若執事を部屋に誘った。
若執事の方も、そこは無意味な遠慮や躊躇はせず黙って頷くと、宿の人間に何か言付けをしている。
テラス席も、テーブルの間隔は空いていたけれど、耳に入ってもそう楽しい話でもない。
ぞろりと部屋へ向かいながら、
「こんな立派な宿へ泊まることは滅多にないので、心遣いに感謝しています」
男が恐縮しつつ礼と伝えると、
「そうなのですか?」
男より少し背の低い若執事が男を見上げる。
「荷台で雑魚寝が日常なので」
男の悪戯っぽい笑みに、
「え、え?……あの馬車で、ですか?」
立ち止まって驚いている。
「荷台は兼寝室です」
それに普段はもっとラフな格好をしてますと答えると、
「そう、なのですね……」
歩き出しながらも、何か考えるような沈黙。
部屋へ通すと、間もなくおかわりの珈琲とカフェオレが運ばれ、若執事は、宿の人間にも丁寧に礼を伝えている。
窓際のソファには、狸擬きが真っ先に1人掛けのソファに飛び乗り。
小腹も満たされたせいか、ぐでりとだらけている。
男が勧め、我等の目の前に座る若執事は、姿勢を正すと、我と男を等分に見つめてきた。
男は小さく息を吐くと。
「……送って頂いた鳥便なのですが」
言葉の内容は狸擬き頼りとは言え、我の男は相変わらず美声である。
「はい」
「もう少し、ぼやかした内容が送られてくると思ったので、詳細には、正直、驚きました」
男は煙草を取り出し、火を吐ける。
執事は作り笑いもなく頷くと、
「そうすることも出来たのですが」
ですが?
「あの少女の、彼女の骸骨が完全に沈黙をしまして。その1件もあり、あなた方に詳細を伝えようと、あの出来事を手紙に書き連ねることを、私の一存で決めました」
のの?
骸骨が、沈黙?
「はい。川辺でのあの一幕の後。しばらくして、彼女が目を覚ました後からでしょうか。
わりと雄弁な骸骨が一言も話さなくなったと、夜になって少女とシスターが訴えて来たのです」
それはそれは。
狸擬きの一撃が効いたか。
「……あの少女は、悲しんでいたのの?」
偽とはいえ母親代わりだったのだ。
「いえ、彼女は彼女なりに別の拠り所を見つけていたため、そこまでショックは大きくなかった様子です」
別の拠り所。
「そうでした。伝え忘れていましたが、彼女は、あなた様からのプレゼントを、とても喜んでいました」
若執事の作り物でない笑みが浮かび。
「到着した翌日に儀式が行われ、バタバタと落ち着かない中でもあったのですが」
少女は、ワンピースに付けたブローチを見てはニコニコし、褒められると、尚更嬉しそうにしていたと。
それはそれは。
こちらもプレゼントした甲斐があったというもの。
にしても。
聞きたいことは山程あれど。
「老シスターの言葉は、また随分と『ショッキング』なものであったの」
「……はい。数多くのシスターたちだけでなく、街の人々からも崇敬されていたシスターから、あのような言葉が放たれるとは、誰も、夢にも思わず」
そうの。
「……別の人間が、彼女の身体に憑依したのかと、疑う声が上がった程でした」
溜め息と共に緩くかぶりを振る執事だけれど。
嗚呼。
あれはまごうことなき、あの老シスター自身の言葉である。
「くふふっ」
我の、さぞや下世話であろう笑みと、堪えきれずに漏らした含み笑いに。
「……あなた様方ならば、何かご存知なのではと、事の詳細をお送りした次第です」
おや。
またも生真面目な顔で、随分と我等を買い被るの。
若執事の、膝の上で絡ませた指先から、目許へ視線を向けるも。
いや。
(そもそもの前提が違うの)
少女が我にゲロを浴びせた詫びとして、口寄せの詳細を教えろとせがんだのは我等であった。
我の男は、目を合わせた我の頷きに、曖昧さも誤魔化すこともなく。
肉体から魂が解放された老シスターが漏らした言葉通り、彼女には、長年、秘めた想いを寄せる想い人がいた。
その人は若くして街を出て、老シスターは、その彼女の帰りを、長い月日、死んでこそ尚、待ち続けていたことを伝えた。
「……それは」
「それは?」
「あのシスターが、あなたたちに話したのですか?」
怪訝さを隠さず、眉を寄せる若執事。
一方。
澄ました横顔の男は。
「いえ。どちらかと言うと、思わぬ形で、彼女の望みの糸を断ち切ってしまい、恨まれていた、と言うべきでしょうか」
我のいる方角とは真逆を向き、紫煙を吐き出す。
水の神の捻れた願いで、水の街に囚われていた、
「想い人の1人娘」
を、海の先へ向かわせたのは、我等である。
「恨まれていた、……ですか」
この平和な世界。
恨み辛みの言葉そのものが、稀であろう。
執事も、そうそう口にすることのないその言葉を、少し物珍しげに、そして控え目に放ち。
「そうの。だから我等は、しかと低俗な好奇心で、シスターが最期も最期に放つ言葉を、知りたかったのの」
苦笑いを含めた男伝の我の返答に、
「そう、ですか……」
それでも、目の前の若い執事は。
更なる詳細を知りたいと、目は確かに忙しく揺らぐも、唇はきつく閉じられ、己の欲をも、閉じ込める。
仕事柄か、その若さで、自己の欲求をすぐさま飲み込む自己抑制が強い性格には、好感が持てる。
しかし。
「儀式の後が大変であったろうの?」
そんな不足の事態が起きれば。
「多少。ですが、わたくしたちはあくまでも依頼された部外者であったことと、何より、もう1人、とてもしっかりしたシスターがいらしてくれたのです。
儀式には参加しなかったものの、その方がテキパキと、その後の指示を出してくれたお陰で、それ以降は滞りなく、葬儀が執り行われました」
老シスターの言葉も、代弁は、すぐに用意されたと。
ほう。
「もしやあれの、髪を低い位置で団子にしていた眼鏡のシスターかの」
「あぁ、そうです」
やはり。
おさげの母親であったか。
母親としては、少々娘に向ける愛情表現が下手くそで、若干厳しくもあったかもしれないけれど、ああいう場で、大勢を取りまとめるには、適任な性格であったのだろう。
そして、これもただの推測でしかないけれど。
おさげの母親は、もしかしたら、何かしら、予測をしていたのかもしれない。
長年側にいれば、感じるものも、察するものも、あるであろう。
話を聞くだけでも、あまりにおさげの母親の立ち回りには、隙がない。
その真相は、我等にもついぞ解らぬままだけれど。